◆10◆
梢子を激情が襲った。
「汀あああぁぁぁ!!」
刃が汀の首に当たっている。最後に彼女は笑った。
まだだ。まだ間に合う。あの刃が引かれる前に、自分は彼女へたどり着ける。
梢子は走る。奔る。疾る。「汀! 汀! 汀!!」それ以外の言葉を忘れたように、彼女の名前を呼び続けながら駆ける。
掴まえる。刃を握った腕を掴んで引き寄せる。始めに勢いで数センチ上がって、それからは憑いている神の力か、汀の腕はびくともしない。
「汀! 汀!!」
どうすればいい。ギリギリと少しずつ、刃は首へ近づいていく。力比べは確実に勝てない。人は神に勝てない。
刃を握った手のひらから血が滴り落ちて、汀の顔を汚している。首はまだ切れていないのに切った後のように血みどろだ。
嫌だ。
そんなのは、嫌だ。
汀の笑みは安らかだ。こんなのは嫌だ。あの軽薄な笑みでなければ嫌だ。汀は何も言わない。こんなのは嫌だ。あの軽口がなければ嫌だ。汀の目は閉じている。こんなのは嫌だ。あの嫌味たらしく細めた隙間から、碧い目が覗いていなければ嫌だ。
大切な人を失うのは、もう御免だ。
「汀あぁぁ……!」
どうしたらいい。憑いている神をなんとかしなければ。
憑かれている汀をなんとかしなければ。
憑かれている、汀を。
「……汀、あなた嘘つかないんだったわよね!?」
だったら。
それなら!
首の皮膚まであと数ミリという刃を押し込んでしまわないように、斜めの位置から汀にキスをした。
柔らかい感触。血の味がする。
どちらも覚えがあるものだ。
これは汀のだ。汀のものだ。
神だろうが鬼だろうが、やらない。
汀は、汀のものだ。