◆8◆
 森は背の低い木々が密生していた。おそらく小さな頃は小さすぎて下を潜り抜けていたのだろうけれど、成長した今、横に伸びる枝やら垂れ下がっている蔓やらが、ちょうど顔の位置にくる。鬱陶しいことこの上ない。
 先導している汀がいくらか払ってくれてはいるが、それでもさばききれなかった枝がピシピシ当たってくる。梢子は両手を駆使して枝を押しのけ、蔓を払い飛ばしながら汀の後を追った。
「荒事じゃないからって、着替えてこなかったのは失敗だったかな」
 前を歩く汀が独り言のようにこぼした。
「例の、戦闘服?」
「そ。昨日は街中だったから無理だったけど、ここなら、人に見られる心配もないしね」
 半首つけてればオサに怒られることもなかったな、と汀が苦笑混じりに言う。額から頬を覆う鉄の防具は、なるほど確かに額の傷がある箇所を完全に覆っている。
 今の汀は季節に合った長袖の軽装。棍は持っているが、それ以外のものは手にない。腰にはポーチ。梢子も同じ程度の身軽な格好である。誰かが見たら、十中八九、ハイキングに来て道に迷った女子高生だと思うだろう。
 梢子の手のひらにはいくつもの小さな切り傷ができている。そういえば汀の両手はグローブだ。なんとなくずるい。
「こんなになるまでほっとかれたら、神様が拗ねるのも無理ないわね」
「拗ねるって、なんか、小さいわね……」
「わりとあるのよこれが。神様なんて妬み嫉みのかたまりみたいなもんなんだから」
「そういうのを奉ってるわけか……」
「そういうのだから奉ってる、のかもね」
 ないがしろにしていると、今回のようなことが起こるから。
 災いを起こさないために、どうか怒らないでくださいと神に祈るのか。
 なんだか不毛だ。
 少々げんなりしている梢子を、汀が横に広げた左手で止めた。
「汀?」
「来た」
 端的な説明。しかし梢子にはそれだけで伝わる。
 ただの人である梢子に鬼を見る力はないが、これだけの気配、そしていくつもの赤い目。現身の鬼。
 目は何対あるのか判らない。「魍魎……?」「じゃないのよね」記憶を頼りに導いた推測を、汀があっさり否定した。
 現れたのは人の形をした鬼だった。スーツ姿、学生服、今風のルーズな服装、様々だったがすべて人と同じ形だった。
 汀が棍を腰に構える。
「どこかの誰かの父親、母親。息子、娘。そういう人の成れの果て。鬼に成り果てた、人。こういうのを切るのが鬼切り部」
 恐い? 汀が訊いた。
 人形。人であったモノ。誰かの肉親や友人や知人であったモノ。それを切る己を恐いと思うか。
 いいえ。梢子が首を振る。
「私も……切ったもの」
 言われて汀は少しだけ目を見開いた。
「ああ、そうか……。そうだった」
 寂寥に似た表情で、彼女は応えた。
 「なら、遠慮することないかな」棍から刃を解き放って、傀儡の群れに正対する。
 群れは二人に近づいては来ず、一定の距離を保ったまま取り囲んでいる。
 ひとよ。鬼の一匹が言った。
 あるじのちからのいちぶをもったひとのこよ。別の鬼が言った。
 おまえはそれをあるじにささげるか。別の鬼が。
 それをあるじにささげてまつるか。
 そうであれば、ここをとおそう。
 そうでなければ、おまえたちをあるじにささげよう。
 鬼たちの言葉に汀が逡巡する。ちらりとこちらを見た。
「……あたしたちは、あんたらの主がいる社にこれを供えるために来たわ」
 そうか。ならばおまえたちをとおそう。鬼が応える。
「汀」
 思わず梢子は口を挟んだ。宝玉は捧げる。しかしその後封印すると言っていなかったか?
 視線で言いたいことが伝わったのか、汀がにやりと意地の悪い笑みを浮かべた。
「嘘は言ってないし?」
 ああ、そういえば彼女の得意技は口八丁手八丁だった。
 鬼がぞろぞろ道を開ける。ぞっとしない光景だ。
 二人はその中を進む。鬼が作った壁の中を。
「行きはよいよい、帰りは恐い、にならないといいけどね」
「やめてよ、縁起でもない……」
「どうなるかは、あたしとオサの演技力次第」
 鬼の作る壁が、そのまま道となっていた。肉で作られた通路は時にうねり、時にねじれ、時に途切れながら続いていた。
 二人は数え切れない赤い目に晒されながら進む。
 そうして三十分ほども歩いただろうか。二人の前に、半分どころか九割ほど朽ちた社が現れた。
 すでに社の形は成していない。屋根は落ち、柱は一本が崩れ落ちている。床と三本の柱。それだけだ。
 床の中央に台があった。それは朽ちていない。どころか、まったく傷んでいなかった。きっと、そこに祀られている青い珠、その中に居る神の拠り所なのだろう。
 汀がポーチから丸められた護符を取り出した。丸いのは丸いものを包んでいるからだ。それほど大きくはない。台座にあるものより二回りほど小さかった。汀は護符を丁寧に解いて中身を取り出す。同じ青をした珠だった。
「はいはい、あんたらは離れて離れて。清浄なこれは、あんたらには毒よ」
 珠を手のひらに乗せた姿勢で、逆の手を「しっしっ」と振る。鬼はそれを受けて二人と社から離れた。
「オサ、ちょっとこれ、台座のとこに持ってってくれる?」
「私が?」
「あたしはちょっとやることがあるから」
 珠を渡す際、汀が梢子に耳打ちをする。
「できるだけゆっくり向かって。で、台座に珠を置いたら全力で逃げて。このまま仮の封印をする」
 それと同時に、腹部へ何か押し付けられた。薄い。護符。梢子は珠を受け取るのに紛れてそれも手の内へ収める。
「汀は、どうするの?」
「役なしの下っ端っていっても、一応あたしも鬼切よ? この程度ならどうとでもなるって」
「……本当、よね?」
「ミギーさん嘘つかない」
「すごく説得力がないんだけど」
 不安に駆られる梢子の頭を、汀がくしゃりと撫でた。
「この倍でも切り抜ける自信があるわね。大丈夫、信じていいわよ」
 鬼がざわめきだす。「ほら、オサ」後ろに回りこんだ汀が梢子の背中を押す。
 梢子は言われたとおり、できるだけゆっくりと台座を目指した。
 後方でヒュンヒュンと風が鳴っている。どこか聞き覚えのある音だ。
 ワイヤー。と梢子は思い当たる。梢子の後ろで、汀がワイヤーを操っている。風きり音は鬼にまで届いていない。そして高速で奔るワイヤーは鬼の目に映らない。
 ヒュン、と最後に一声鳴いて、ワイヤーが止まった。
 それを待っていた梢子が更に歩を進め、台座へ宝玉を静かに置いた。
「オサ、走れ!!」
 その声に弾かれて、きびすを返すと持てる力のすべてを以って走り出す。気付いた鬼が梢子に迫る。その動きが、止まった。
「細金!」
 トラップが発動する。鬼が蜘蛛の巣に絡め取られる。あるモノは身動きを封じられる。あるモノは切り刻まれる。あるモノは首が落ちる。
 はかったな。
 たばかったな。
 口々に鬼が言う。神が言う。鬼と成りかけた神が呪詛を吐く。
 呪詛は汀を襲う。
 ワイヤーを捨てた汀が刃を剥く。
 鬼切が刃を向ける相手は鬼ではなかった。まだ鬼ではない。鬼と成り果ててはいない。鬼と成りかけている、神だ。
 鬼切は、神を切れない。
「汀!」
 見えたわけではない。梢子が振り向いたその時、神の姿を視認してはいない。崩れ落ちる汀の姿、それが、あの時と、《剣》の瘴気に当てられて倒れる姿と一致した。
 だから戻った。
「馬鹿……オサ……! 戻ってくるな!」
「だって、汀!」
 汀がポケットから携帯電話を取り出して梢子へ放り投げた。
「逃げて……守天に連絡を……」
 梢子が携帯電話を拾い上げる。しかし逃げない。そのまま汀へと向かう。
 神に憑かれた汀が倒れ伏す。
「汀!!」
 呼び声は、汀に届かない。
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