◆4◆
 夕食をとってから3時間ほど。すっかり日は落ちている。階層の高い部屋には、風に巻き上げられた喧騒が届けられている。平和な声だ。自分たちが守っている声だ。守るべき声だ。
 汀は棍の入った袋だけを持ってホテルを出る。ホテルマンは数瞬、長い袋に目を奪われていたが、何も聞いてはこなかった。よく教育されている。
 車が走っている。人が歩いている。一人、二人、そして群れ。汀はその中に溶け込む。溶け込んで、同じように溶け込んでいる鬼を探す。暗闇の匂いを嗅いで、影の音を聞いて、暗黒の手触りを探る。
――――いた。
 少ない。一匹、多くて二匹。鬼は群れない。重畳。影のさらに影、人が本能的に忌避する瘴気溜まりまで誘いこむ。
――――ほらほら、ここにあんたらの大好物があるわよ。
 封印は厳重にされていたが、汀は意図的にその一部を外す。後でかけなおせる程度に外す。鬼が気付く程度に、外す。
 一気に気配が渦を巻く。錯覚だが、突風さえ起こった気がした。空気ではなくエネルギィの流れだ。力が噴出したせいで、他の力が押し流されたのだ。
「……あら?」
 汀の口元が引きつる。この力。一匹から出ている。
 予想外に、強い。
「いきなりそれ? そのへんの雑魚かと思ってたら」
 卯奈咲では雑魚ばかり釣れていたというのに、なるほど今回は、ツキが向いている。この時ばかりは、悪い方にツキが向いている。
「今さら逃げるってのも無理だし。やるしかないか」
 強いといっても、なに、クロウクルウよりは全然弱い。足元どころか冥王星とマントルくらいの幅がある。自分がマントルに近いということだけを考えなければ、まったくもって勝算だらけだ。
 しゅるりと袋を解いて、朱塗りの棍を取り出す。もう人目はない。赤い鬼の目だけがこちらを見つめている。汀は青光りする右目でそれを見返す。
 それは、と鬼が言う。それは、あるじのいちぶだ。
 汀は瞬時に理解する。目の前が鬼がなにであるかを判別する。
「なるほど、こいつの手下……手足ってわけね。ちょっとは頭も使えるみたいだし、これはミギーさん、本気出さないとやばいかも」
 鬼は、かえせ、と言う。
「そりゃこっちの台詞。あんたのご主人、ウチに返してもらうわよ」
 鬼は、かえせ、と再度言う。
 汀はもう応えず、棍から鞘を取り払って刃をさらした。
 刃がゆらめく。同じように汀の姿もゆらめいている。一瞬で間合いを詰めた汀が下方から斜め上へ切りかかった。鬼は振り上げた腕で刃を弾く。それに汀の身体も持っていかれた。飛ばされた身体が地面と接して擦れ合う。
「さすがに……っ」
 一撃で倒せるとは思っていなかったが、防がれるとも思っていなかった。体勢を立て直して仕込み刀を構えなおす。突撃から今度は足を狙って横薙ぎに。引ききれなかった分を裂いたが、傷は浅い。崩せない。
 かえせ、かえせ、かえせ。
「うるさい!」
 向かってくる拳をすんでのところで避けるがかすって額を切るものの怯まず牽制に刃を振るうと鬼はそれに突っ込んだ。気も身も入っていない刃は固い肉体の半ばで止まる。
「肉を切らせて骨を断つって? 人間みたいなことしてくれる……!」
 ならばとあっさり刀を捨てて、視認出来ないほど細いワイヤーを引っ張り出す。伸ばす。伸ばす。伸ばす伸ばす編む編む編む張り巡らせる。
 ワイヤーが鬼を捕らえた。汀はそれを一気に引き寄せる。鬼は。
 右腕を振るった。
 その手には、逆の腕に食い込んでいた刀が握られていた。
「ちょっと……反則じゃないの、それ」
 刃が網を一刀に切り裂いて鬼は自由を取り戻す。かえせかえせかえせ。鬼が刀を捨てる。汀の手はそれに届かない。鬼の手が開かれている。その手には鋭い爪が五本。迫る。眼前に迫る。迫ると汀は予知する。冷静に予知する。避けられないと予見する。
――――汀!
 それは幻聴だった。
 衝撃。汀の身体が吹き飛ぶ。しかしそれは鋭い爪によるものではない。もっと柔らかな、そしてか弱いものがぶつかってきた。汀はそれが何であるかを一拍ののちに理解する。
「まさか……!」
 そんなはずがない。ここは瘴気の溜まり、どれだけ鈍感な人間でも本能的に避ける暗闇だ。そんな場所に入ってこれるはずが……。
「とか言ってる場合じゃないって!」
 柔らかいものはまだ汀に覆いかぶさっている。その向こうには鬼がいる。鬼が右手をかざしている。到達点はここ。己と、その上にある柔らかいもの。
 めまぐるしく汀は計算する。打算する。鬼の爪は鋭いが長くはない。上に乗っているものは邪魔だがこれがあれば爪は己の身体を貫かない。その後にこれをどかせて距離を置けたら。
「ああぁぁ!」
 やけくそ気味に汀は叫ぶ。鬼が死なないということは百人が死ぬということだ。千人が死ぬということだ。ここで一人を見捨てて鬼を切れば、百人が死なず千人が死なない。それが鬼切り部の基本理念だ。そして汀はそれを忠実に、従順に守ってきた。
 だが、さっきの忌々しい幻聴!
 義に篤い、誠実なあいつ!
「ぬああぁぁ!」
 無理やり上に乗っているものを押しのけて半身を返す。そこから精一杯に腕を伸ばして転がっていた刀を掴んだ。目測もなく振り上げる。運が良ければ腕一本。そうでなければ首ひとつ。大丈夫、今日の己はツキが向いてる。
 それは、本当にその通りだった。
 ずるりと、首が落ちた。
 汀のではなく、鬼の首が落ちた。
 落ちた向こうにツキがいた。
 鬼の首を取ったのに、得意げな顔ひとつせず、怒りに眉を寄せた、漆黒がいた。
「え……?」
 一瞬、汀はそれを剣鬼と見間違える。しかし違う。よくよく見れば、顔かたちのどこも似ていない。ただ同じように漆黒なだけだ。
「桂さん!」
 漆黒は汀ではない名を呼んだ。ならば桂というのは横に転がって「あいたた……」とか言っているこれの名か。
 金色の刀を鞘に収めた漆黒が桂に駆け寄る。鬼はすでに霧散している。あの刀。あれは……。
 桂は漆黒に手を借りて、ようやく起き上がっていた。
「ありがと烏月さん。助かったよ」
「お願いだから、こういうことはしないでほしい。あなたは特別なのだから」
 溜め息を混ぜた懇願は真剣で、それを受けた桂がわずかに頭を垂れる。
「判ってるよぅ。私の血は特別だから、鬼に見つかっちゃ駄目って言うんでしょ? でもね、危ない目に遭ってる人を見つけて知らん振りなんてできないよ」
「そうではないよ」
 やれやれ、とでも言いたげな表情で、烏月と呼ばれた漆黒が首を振った。
 そっと桂の手を取って、愛しさを溢れさせた視線と声を放つ。
「私にとって、あなたが特別だという意味だ」
「烏月さん……」
 熱っぽく名前を呼んだ桂が、やはり熱っぽく烏月を見つめた。
 すっかり忘れ去られているのだが、汀は打撲と擦過傷だらけで座り込んでいる。
「……えーと、そろそろお邪魔していい?」
 片手を挙げながら問うと、二人は汀のことを思い出してくれたらしく、取り合っていた手を離して汀に向き直った。烏月は何度か咳払いをした。
「とりあえず、助けてくれたお礼は言っとく。ありがと」
「良かったですねー。ありがとう烏月さん」
「いえ……」
 何かを含んだ表情で、烏月は小さく首を振った。
「あんたも鬼切り部でしょ? あたしは守天党の鬼切、喜屋武汀」
「千羽党が鬼切り役、千羽烏月。守天党といえば、もっと南の方でしょう。守天の鬼切が、どうしてこんなところへ?」
「わ、その年で役付き? そういえばかなり短いスパンで代替わりした党があるとか聞いたっけ。へえ、あんたが」
「私の問いに答えていただきたいのだが」
 烏月の視線が険を含む。よく判らないが、何か触れて欲しくない部分に触れてしまったか。
 千羽党はひょっとしたら世襲制なのかもしれない。ならば、代替わりはイコール、彼女の血縁が命を落としたという意味になる。そんなところかと当たりをつけて、汀は素直にその話題から離れた。
「ま、ちょっとお使いでね。宝玉をひとつ、こっちにお届けにあがったわけ」
「ああ、ではあなたが……」
 合点がいったらしく、烏月の表情に納得が広がる。
「依頼したのは千羽党だ。あれのせいで、わずかな期間に鬼が爆発的に増えた。千羽党はそちらの対処に追われていてね」
「そのへんの話は聞いてる。あたしもこんな目にまた遭うのはごめんだから、できるだけ早くお役目御免になれるように努力するわ。ていうか」
「なにかな?」
「ここにどう見ても鬼切り部じゃない人がいるんだけど、こんなペラペラ喋ってていいの?」
 桂を指差して尋ねたものの、まあ、今までの会話を聞いていても平然としているのだから、心配はないのだろうと思っていた。
 烏月の答えは、やはりそういう感じだった。
「桂さんは知っているよ。鬼も鬼切も。まあ、少々こちらにも関わりのある人でね」
「へえ……」
 言われて桂を観察する。ぽやんぽやんとした、飴でも与えたらほいほいついてきそうな、なんというか、鬼とか鬼切とかには相応しくない雰囲気の少女だ。特別だと言うが、外見からそういう雰囲気は読み取れない。術士策士のたぐいでもなさそうだ。それならさっきのように、後先考えず飛び込んできたりはしないだろう。
「知ってても、鬼に対する力があるわけでもないんでしょ? こんな時期にこんなとこ出歩かせるのはどうかと思うんだけど」
「それは……確かにそうなんだけれど。こちらも切羽詰っていてね」
 うん?と視線で続きを促すと、烏月は桂から携帯電話を借り受けて、そのストラップを汀に見せてきた。
「判るかい?」
「力が込められてるわね。けど……薄い?」
「そう。事情があって、桂さんはこれに込められた力が薄まると、大変危険な状況に置かれることになる。だから私が定期的に力を込め直しているんだが、今回の件で私がここから動けなくてね。桂さんにご足労いただいたというわけだ」
 そして合流し、もっと安全なところで儀式を行おうとしていた矢先、桂が汀を見つけてしまったという顛末らしい。
 「しまった」ってなんだ、と思いはしたが、役付きに無為な喧嘩は売らない喜屋武汀だった。
「ふぅん。ま、そのおかげであたしは助かったし」
「私は心労が増えたよ……」
「うー、烏月さん、ごめんなさい……」
 きゅ、と烏月の服の裾を掴んで、上目遣いに謝る桂。
 なるほど、桂とやらは天然だ。
「いや、怒ってるわけではないんだ。桂さんのおかげで私も仲間を失わずに済んだことだしね」
「ほんと?」
「ああ、本当だ。ありがとう、桂さん」
「よかったぁ」
 ほやんと笑う桂に烏月が優しく微笑み返す。
 なるほど、この二人どちらも天然だ。
 天然で他人の存在を忘れる。
「はいはいはーい。ラブるのはあたしが帰ってからにしてねー」
 手を叩くと、二人は催眠術から覚めたように顔を上げ、同時に「ああ」と言った。
 気配を探っても、もう鬼の匂いはない。もとからいなかったか、鬼切り役に恐れをなしたか、他の鬼切が始末したか。
 これ以上ここに留まっても意味はないだろう。釣り餌として役目は果たせたし、傷も痛むし、なによりこの二人といたくないのでもう帰りたい。
 揃って路地を抜ける途中、不意に烏月が汀に「ありがとう」と告げた。
「桂さんをかばってくれて」
「……ま、あのままだと夢見が悪くなりそうだったからね」
 めまぐるしく展開した打算計算は、もちろん口に出さない。
「桂さんはあの通り、優しい上に無鉄砲でね。私としては時々、生きた心地がしない」
 憂いて言った後、「それが桂さんの良いところでもあるんだけれど」烏月はくすりと笑う。汀は笑わない。表面的なタイプは正反対だが、よく似た質を持った人間を一人、知っている。あの忌々しいほど優しくて無鉄砲な、あいつ。
「けど。あんたは鬼切り部で、しかも役付きでしょ。鬼と成ったら親でも切るのが鬼切り部。そういう人間が、『特別な存在』なんて作っていいと思ってるの?」
 彼女が鬼になったらどうする。彼女の肉親や友人が鬼になったらどうする。それらを切るか。切れるのか。
 言外にそういった詰問を込めて、汀は言った。
 動揺するかと思っていた烏月は存外冷静で、穏やかとも言える微笑を浮かべた。
「私も以前は、桂さんと出会う前はそう思っていた。友人の友人を切ったことも、自分のごく近しい人を切ったこともあるからね」
 だったらなぜ群れる。なぜ人をそばに置く。
 群れるのは弱いからだ。ならば、群れたら弱くなるだろう。
 人をそばに置けば弱くなる。汀はこれ以上弱くはなりたくなかった。
 だから。だから、己は。
「桂さんや桂さんの近しい人が鬼に成らなければいい」
「いや、そんな……」
「鬼に成る前に、私が助ければいいだけの話さ」
 迷いもなく烏月は宣言し、それが答えだと言いきった。
「そんなのは……それは、あんたが強いから言えることよ。あたしが手も足も出なかった鬼を一刀に伏せる、役付きのあんただから」
「大切な人を守るのに、役が必要かい?」
「少なくとも、力は必要でしょ」
「それもそうだろうけれど。大切な人がいるから得られる力もあるだろう? 窮時に浮かぶ誰かの顔や声などは良い例だ。その人のために、自分は死ねないと思えば、普段以上の力を発揮できる。大切な人の顔を見れば、声を聞けば、それを守ろうと強く思える」
「…………」
 先ほど、窮時に声が聞こえて、命を落としかけたのだが。
 けれど彼女の言うことが、理解出来ないわけではなかった。
「一人だけ、出逢ってみるといい。もし心当たりがいるのなら、少しだけ近づいてみるのもいいだろうと思うよ。常に気を張り詰めていなければならないのが鬼切り部だけれど、それでも少しは柔らかくいてもいいのではないかな」
「それでふにゃふにゃになったのがあんたか。柔弱は侵略されるってほんとね」
「剛強だけでは滅びるとも、孔明は言っているよ」
 話しこんでいたせいで、桂が先行してしまっている。彼女は立ち止まっている。烏月を待っている。「烏月さーん、お話まだー?」「ああ、もう終わりだよ」それじゃあ、と烏月は足を速めて汀から離れた。
 桂のそばへ、向かった。
 汀は一人で立っている。
 一人で立つようになってから、もう随分と経っている。
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