◆5◆
 梢子の毎日は規則正しい。今日もいつもとほぼ同じ時間に床についていた。
 いつもと違ったのは、月明かりすら隔てた暗い部屋に、唐突に明かりが広がったこと、その直後に梢子が飛び起きたこと。
 驚いたのはもちろんだが、それよりなにより予感があった。虫の知らせ? いや、それは縁起が悪い。予感だ。ただの。
 そして予感は的中する。
 携帯電話をひったくるように取り上げて通話ボタンを押した。
「汀!」
『わわっ、いきなり大きな声出さないでよ。そんな叫ばなくても聞こえるって』
「私寝てたんだけど!」
 よりによって名前を呼んだ次の一声が文句だ。しかもまだ叫ぶ。
『あー、ごめんごめん。特に用があったわけじゃないから、邪魔したなら切るわ』
「……なんで切るのよ」
『いや、オサ寝てたんでしょ?』
 清々しいほどに噛み合わなかった。「ここは私が」「いえいえ私が」という、日本の様式美にも通じるものがある噛み合わせの悪さだった。
 「いいわよ、目、冴えちゃったから」言い訳がましい梢子の言葉への反駁はなく、代わりに軽薄な苦笑が聞こえた。
『なら、もう少し話しましょうか』
 つながった。彼女と己の間にある、断絶していた何かがつながった感覚があった。
 危うく自分で切ってしまうところだった。この直情径行は短所だな、と今さらのように思う。
 ある程度冷静になれば、スピーカ越しに聞こえる彼女の声が、なんとなくざらついていることに気付く。ノイズのせいではない、そのざらつきが妙に気になった。
「……汀、なんか元気ない?」
 落ち込んでいるわけでも、沈んでいるわけでもなさそうだったが、それでもいつもの覇気が薄れていた。へばっている、というのが一番近いだろうか。
『あー、さっきまで身体動かしてたからね。ちょっと疲れてるかも』
「なら早めに寝て身体休ませた方がいいんじゃないの? いくら明日は休みだっていっても、あまり夜更かしするのも良くないわよ?」
『そういう、普通のこと言われてもねー。オサ、あたしの立場忘れてない?』
 釘を刺されてその痛みで思い出す。そうか、彼女は『普通の』少女ではなかったのだった。寝ぼけている。そういう彼女だから気にかけていたというのに。それがあるから気にしていたのに。そうに決まっているのに。
 そんなふうに言うのなら、彼女は今、なにか任務を受けているのだと推測が立つ。電話をしてきたのは暇つぶしだろうか。携帯電話を持ちながら、釣り糸でも垂れているのかもしれない。
「なに、してるの?」
『はじめてのおつかい。実は今、近くに来ててね。それで、なんとなく』
「近くって、どのへん?」
 詳しい場所を聞いてみれば、梢子の感覚からすればそれほど近くはないが、彼女の郷里と比べればご近所と言っていいほど近かった。
 我知らず、期待が沸く。
 それなら。
 そんなに近くにいるのなら、任務が終わってからでも。
「いやいやいや!」
『オサ?』
「あ、ごめん、なんでもない」
『変なオサー。なーに、それなら愛しのミギーに逢えるかも。きゃ。とか思っちゃった?』
「思ってないから!」
 しまった声が強すぎた。
 汀が笑いをかみ殺しているのを、電波が正確に伝えてくれる。
 送話口を押さえて、ひとつ深呼吸。相手に見えないのをいいことに手のひらで顔は冷やさない。
「と、とにかく。……それって、いつくらいまでかかるの?」
『うーん、それが見通したってないのよねー。一週間か二週間か』
「そんなに強いの?」
『いやいや、お使いだって言ったでしょ? 別にいつも《剣》の件みたいなことやってるわけじゃないわよ。むしろあっちが例外中の例外』
 話を聞けば、森の奥にある社に宝玉を祀るのが目的なのだという。
 長い長い間、人が忘れてしまうに充分な時を過ごしたその社は、今はもうすっかり寂れて、廃れて、参る人間もおらず、それによって神は鬼と成りかけたのだと。信仰もされず、訪れるものもなく、孤独に苛まれた神は、慰みを鬼に求めた。
 鬼を集めて己を崇めろと、己を敬えと、薄情な人間の血で己に力を、と。
『今回は、倒すんじゃなくて鎮めるのが目的ね。神様の分霊が封じられてるこの宝玉で、とりあえず理性取り戻してもらって、それから本格的に社の整備とか、封印と清めの儀式とかするんだけど』
「そうなの」
『鬼はかなり広範囲から集まってるみたいね。多分オサの住んでるとこも"通り道"になってる。気付かなかった?』
「あ……そういえば」
 まさに今日の帰り道、ぼやんと霞む人影を見た。あれは人影ではなく鬼影だったのかもしれない。
『一党総出で大掃除よ。犠牲が出る前になんとかしないといけないんだけど、でもその社の正確な場所が判らなくて困ってるわけ』
 一通り説明を聞き終えた梢子は、無意識に首筋をかきながら相槌を打った。
「そう……」
『というわけで、残念ながらオサには逢えそうにないわ。積もる話……は、特にないけど。大会以来会ってないし、ゆっくりお茶でもといきたいところだけどね』
 なんだろう。なにかが引っかかっている。さっきから引っかいている辺りに、何かがある。
 今度は、森の詳しい場所を聞いた。それから特徴になりそうなものや、そこまでの道筋を。
 引っかかりが。
 かかった。
「ねえ汀、会えるかも。というか、会った方がいいと思う」
『へ?』
「秋子さん……私のおばあちゃん、旅行が趣味でお寺とか神社とかよく巡ってたって、話したことあるっけ?」
『あー、聞いたことあるような……』
「多分だけど、私、おばあちゃんとそこに行ったことある。ボロボロで半分朽ちたような社があって……お花を摘んで、供えて……お参り、した」
『……嘘。あたしに逢いたいからって口からでまかせ言ってるなら怒るよ?』
「そんなことで嘘つかないわよ」
 自信過剰なのもいい加減にしろと言いたい。いくらなんでも、そんな一歩間違えば遭難しそうな嘘などつくものか。そもそも自分は嘘が下手なのだ。
 もう十年以上前のことだから、正確な場所は覚えていないが、祖父に聞くか祖母の残した記録を探れば、何か見つかるかもしれない。おぼろげになら往き道も記憶がある。少なくとも航空写真だけを頼りにするよりはマシだろう。
 幸い明日は休日である。なにか予定があったわけでもない。余裕で日帰りができる距離だし、梢子が汀のもとへ行くのになんの問題もなかった。さて、これはどちらのツキの賜物だったのか。
 そこからの話は速かった。待ち合わせの時間と場所を決めて、では明日、で終了だ。
『んじゃ、よろしくねオサー』
「ん……。汀」
『なになに?』
「元気、出してね」
 一瞬だけ間があって、かみ殺すどころか大口開けて笑っているだろう笑声が届いた。
「な、なによ、人が心配してるっていうのに!」
『あはは、ありがと。そうね、明日オサがキスしてくれたら元気出るかも』
「は!? ば、馬鹿!」
 いきなり何を言い出しやがるのだこいつは。
『いいじゃない、したことないわけじゃないし』
「そういう問題じゃないでしょ。大体あれはじん……」
 いや違った。翌日の一件を思い出して頭を抱える。あれは、あの出来事だけは釈明できない。今の今まで忘れていた。辛すぎる出来事は忘れるようにできているのだ、人の記憶中枢は。
『してくれたら一発で元気になるんだけど。滋養強壮、栄養補給。疲れた身体にこの一本ってね』
「私は栄養ドリンクか。ふざけてないで、ちゃんと休んで回復しなさい」
『ねえねえオサ』
「なによ?」
『さっきから一度も"嫌だ"って言ってないの、自分で気付いてる?』
 虚を突かれた。そんなはずはない。はっきりと意思表示を、意思表示を……。
「そ、それは、言わなくても当たり前だからで……」
『相変わらず嘘つくの下手よねー、オサって』
 なんだろう、数時間前にも同じことを言われた気がする。
 あれは思い出したくないほど辛いアクシデントだった。卯奈咲に置いてきた悪夢なのだ。
 その、はずだ。
『ま、いいけど。それじゃおやすみ』
「おやすみ……」
 電話を切って布団に潜っても、なぜだかなかなか寝付けなかった。
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