◆3◆
「さて」
目的の最寄、といってもここから更に電車で数時間だが、とにかく一番近い空港に降り立った汀は両手を腰だめにしてひとつ息をつく。
まずは宿だ。出発前に予約は入れてある。量はそれほどでもないが、材質的、そして構造的に飛行機へ乗せられない荷物は、事前に宅配便で送っておいた。今の汀は身軽だ。
空港にはタクシー乗り場がある。当然、そこには何十台、それ以上のタクシーが列をなしている。素晴らしきかな文明社会。過去への敬意は忘れていないが(むしろ年齢不相応に深く深く愛している。その愛情の欠片がふとしたきっかけで口をついて出てしまうくらいに)、それとこれとは話が別だ。
身軽な汀はひょいと身軽に、「どうぞどうぞ、さあどうぞ! このドアはあなたを迎えるために開け放っておいたのですよ!」と熱烈にアピールしてくる金属の箱へ乗り込んだ。
金属とは対照的に生身の人間は物静かだった。ありがたい。今日は運が向いているのかもしれない。ツキに見放されているどこかの誰かとは大違いだ。
物静かな運転手と、彼が操る熱烈なタクシーは、しかしどちらも忠実に仕事をこなした。ちょっとしたシンパシーを覚えるくらいに忠実で従順だった。首と手足だ。良い形だ。首が命令して手足がその通りに動く。
タクシーを降りた場所は、人通りがそれなりに多かった。
どんな場所にも森は存在する。敬われるか忘れられるかはそれぞれだが、社会的な位置と信仰は反比例する。汀が向かうのは忘れられた方だ。
そんなところに人を迎えるための宿はできない。
だから仕方なく、目的地からやや離れた、都市部に近い位置に宿を取った。丸印を現実につけるまでは面倒くさい作業がついてまわりそうだ。つまり、そこへ行くまでの道のりが。
「下っ端ってつらいわよねー」
少々うんざりした口調。ぶちぶち文句を言っても状況が改善されるわけでもないので、汀は即座に気持ちを切り替えてホテルへ向かい、さっさとチェックインを済ませて部屋へ入る。荷物はすでに届いて部屋に置かれていた。長い袋が最初に目に入る。それの存在が少しだけ汀の気を緩める。もちろん、中身は釣竿ではない。
ポケットから携帯電話を取り出して、慣れた手つきで操作する。応じはわりとすぐだった。
「汀です。とりあえず現地に着きました。……はい。いえ、今のところは何も。……大丈夫ですよ。ちゃんと肌身離さず。……ええ、その予定です。はい」
ひとまずの連絡を終える。そのまま携帯をポケットに戻した。
固い椅子へ腰かけて、天井を見上げるように背筋を伸ばす。目を閉じるとその分の感覚を鋭敏にした。
「……くっさ」
わざとらしく鼻をひくつかせる。本当に匂いを嗅いでいるわけではない。気配を感じているだけだ。
ただ、その気配を言葉で表すなら、彼女の「臭い」という表現が最も似合う。
人ではない、獣でもない、鬼の匂い。それが、強い。
「でかいチカラに酔って、寄ってきたか。それとも浮かれて生まれてるのか」
鬼は人に紛れる。獣のように山へ潜んだりはしない。
街は厄介だ。紛れるほど人がいるし、光源がいくつもあるから、同じだけ影もできる。影は鬼の領域である。
「この『お使い』と、無関係ってわけでもない。が」
おそらくここを守っている党が影に陰に、文字通り暗躍しているだろう。ならば己が駆って回って、鬼を狩って回る必要もない。
「とはいえ、あんまり動かないのもまずいのよねー」
ふむ、と口をへの字に曲げて、決める。
「ま、いい釣り餌にはなるか」
まだ宵に入ってはいない。行動は夜だ。自分も、鬼も。
腹が減ってはなんとやら、汀は跳ねるように椅子から立ち上がる。
「夕食はなにかしら。って言っても、あんまり期待出来ないけど。やすみんのご飯食べてからこっち、妙に舌が肥えちゃって駄目よね」
一年といくらか前の記憶がよみがえる。懐かしい。彼女はきっと良いお嫁さんになるだろう。
「……元気にしてんのかね」
呟きは誰にも届かない。
誰に対しての言葉でも、届かない。
携帯電話は鳴らさない。