◆2◆
 携帯電話を眺めることは、日課にはなっていない。
 しかし、数日に一度の頻度で無意味に開いてみることはあった。
「オサ先輩、電話ですか?」
 その数日に一度が、今このタイミングで起こってしまったのは不運だった。いや、不注意と言ったほうが正しいかもしれない。
 梢子は気忙しく携帯を閉じる。「なんでもないの。ちょっと時間をね」尋ねてきた百子に答えるが、彼女は「へぇ〜?」と嫌味たらしい笑みで応えてきた。
「オサ先輩ってば、いつまで経っても嘘つくの下手ですね〜。部活中に電話が来てないか確認でもしたんですか? 誰からの電話を待ってるんですか〜?」
 まったく、百子は剣道の勘も良いが、こういうことの勘も鋭い。
 やはり運が悪かったのだ。部活動を終えて制服に着替える段になって、ロッカーから携帯電話が滑り落ちそうになったのを咄嗟に押さえたのは身体能力の賜物だし、押さえた拍子にロッカーへ強めに打ちつける形になったので、壊れていないか確かめようとしたのは当然の行動だ。ロッカーを向いていたからみんなには背を向けていた。待ち受け画面を見ていた時間だってわずかなものだ。ああしかし、たまたま、偶然にもすぐ横に百子がいたのだ。そしておそらく彼女だけが、口から思わず洩れた微かな嘆息に気付いたのだ。
 運が悪かった。すぐ横に人がいて、それが百子だったという不運だ。
 嘆息は脇へ追いやる。
「なんでもないって言ってるでしょう。百子もさっさと着替えなさい」
「はーい。ミギーさんから電話来るといいですね〜」
「なっ、別に、汀のことなんて何も……」
「……オサ先輩、そろそろ嘘つく練習でもした方がいいですよ。ここにざわっちがいないのはラッキーですかね」
 彼女はこちらの運でも吸い取っているのか。その場合、吸運鬼とでも呼べば良いのだろうか?
「そんなに気にするなら、自分からかけたらいいじゃないですか。なーんてことは言いませんけど。あたしはざわっちの味方ですからね」
「なんで保美が出てくるのよ」
「オサ先輩には教えてあげません」
「……なんなの?」
 『ぷいっ』という擬音が似合いそうな表情と仕草でそっぽを向く百子に首をかしげながら、梢子は閉じたままの携帯へ目を落とす。開きはしない。
 一年ぶりに再会してから数ヶ月が経っているにもかかわらず、登録された『喜屋武汀』の番号へ発信したことはない。
 理由は簡単、用事がないからだ。住んでいる場所も違うし、趣味が合うわけでもないし、恋人でもあるまいし、「あなたの声が聞きたかったの」などと薄ら寒い台詞が吐けるわけもない。
 汀の番号にかける理由はない。ただ、彼女を気にかけているだけだ。
 百子は(なんとなくだけれど、もしかしたら、保美も)自分たちの間になにか甘ったるい感じのものがあると勘繰っているようだが、そんなことはない。
 そうではない。梢子が知っていることがあって、百子たちの知らないことがある。それだけの違いだ。
 彼女が命をかけていると、自分は知っていて彼女たちは知らない。そういうことだ。
「……まあ、いいんだけどね。別に」
 強がりか負け惜しみのような口調になったのが、自分でも驚きだった。
 どういうわけか今日は電話があるような気がしたのに。
 丁度同じくらいの時間に、高度数千メートルで汀が同じような呟きを洩らしていたのだが、双方そんなことは知るはずもない。
「それじゃ、オサせんぱーい。失礼します。お疲れ様でしたー」
「ああ、うん。お疲れ」
 いつの間にかしんがりになっていた。百子へ声を返してから、中途半端にしていた着替えを手早く済ませる。
 ネクタイを締めながら、「別に……ねえ?」とわざわざ声に出した。
 「ねえ?」とか言っても誰も聞いていない。
 だから、別にそういうのではないのだ。汀の身を案じているから気になるだけだ。
 首を振っていると、扉が軽くノックされた。
「失礼します」
 遠慮がちな一声があって、保美が更衣室に入ってきた。
「さっき百ちゃんが、梢子先輩で最後だって教えてくれたんで、鍵を」
「ああ、ごめんね待たせちゃって。すぐ終わるから」
 仕上げにバッグを肩に引っかけて保美へ向き直る。なぜか保美は微妙に視線をそらした。どうしたのだろう。特に睨んだりはしていないのに。むしろ待たせたことに対する申し訳なさが顔に出ていたはずなのに。西日がまぶしくて目を細めていたのが悪かったのだろうか。
「じゃ、帰りましょうか。百子は先に帰ったの?」
「あ、好きなバンドのCDが今日発売とかで、それを買いに行きました」
「そう。なら二人で行きましょうか」
「は、はい……」
 いつもは鍵番である保美を百子が待っていて、その二人とか、時々梢子を入れた三人とかで校門まで連れ立って歩く。そういえば、保美と二人でというのはあまりないかもしれない。
 連れだって歩く間、保美は一度も梢子と目を合わせなかった。梢子の方も特に意識して保美を見たりはしなかった。
 人は五感のうち、八割程度を視覚に頼っているのだという。目を合わせない、相手を見ないということは、情報の八割を入れないということに等しい。
 インプットがないから、梢子は少々ぼんやりしていた。会話はしていたが、それでも五割といったところだ。
 残り五割のさらに九割くらいで、梢子は汀を気にしていた。
 ああ、罪なるかな。罪なるかな。
 ルートを通り終えた二人は、校門の手前で別れた。梢子は自宅へ、保美は寮へ向かうために。
「お疲れ様でした」
「お疲れ様」
 校門を出るころには景色がオレンジ色だった。最近は日が短い。とはいえ、まだ「彼の人は誰だ?」と思うような時間帯でもない。ない、はずだ。
「……え?」
 離れた場所で人影がぼやけたような気がした。部活動の疲れが出たのかと目をこする。視線を戻すと、人影は消えていた。きっと角を曲がったとか、見えない位置まで進んだのだろう。
 疲れが溜まっているのか。おじいちゃんに針でも打ってもらおうか、とぼんやり思う。
 梢子は家路をまっすぐ進む。携帯電話は取り出さなかった。
 携帯電話は、鳴らなかった。
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