カスパーの見る夢 03


 顧問のご高説を聞きながらバスにゆらりゆられる。後輩の秋田百子が茶々とも旺盛な向上心ともつかぬ質問をはさんだりしつつ、概ね車内はの空気はのんびりとしていた。
「オサ先輩、姫先輩、おひとつどうぞ」
 ひとつ後ろの席から百子がチョコレートを差し出してきた。人数の関係で二人がけのシートを独り占めしている百子は、これ幸いと空いた一席にお菓子を広げている。
 チョコレートを受け取って口に入れると、すぅと疲れが抜けるような感覚を覚えた。座りっぱなしというのも疲れるものだ。
 視線を移す。隣の綾代を越えて、窓の外を眺めると、遠くに海が見えた。同行しているコーチの言によれば幼い頃に一度訪れたことがあるらしいが、何分ずっと前の話だから覚えていない。その時は祖母の死を受け入れられなくて随分とわがままを言ったらしい。未だに話の種として話題に出されるので、恥ずかしさのために記憶を封印しているのかもしれない。
 バスが目的地に到着した。後方から一陣の風が通り抜ける。「いっちばーん!」すたっとバスから飛び降りた百子が高らかに宣言。「こら、百子!」落ち着きのない後輩を追いかけて梢子もバスを降りる。
「百子ちゃん、荷物忘れてるわよ」
 剣道部のコーチであり、梢子の親戚でもある鳴海夏夜が、百子の荷物を持ってきてくれた。
 荷物を受け取った百子がばつの悪そうな顔をする。
「うう、まさか鳴海コーチにうっかりを指摘されるとは……」
「……私、百子ちゃんにどういう目で見られているのかしら……」
「何を仰いますか、ものすごく強い剣士で教え方の上手い、素晴らしいコーチだという目で見ていますとも」
 かなり気を遣ったフォローだったので夏夜は余計に落ち込んだ。
 夏夜は以前警察官を務めていたが、事情により退官して今は様々な道場のコーチを請け負っている。
 詳しい事情を、梢子は聞いていない。ただ『罪を犯した』のだと、祖父から聞いた。どういった罪であるのか、それは自分が忘れてしまったこの地で犯したものであるのか(帰ってからすぐに退官したそうだから)、気にはなっているけれど、改まって尋ねたことはない。きっと彼女も知られたくないだろう。
 年齢を重ねたことによる衰えは見えず、逆に以前よりも頑なさが薄れて柔和になった彼女は、いつでも、これからも、梢子の大好きな『夏ちゃん』であり、尊敬すべき『夏姉さん』だ。
 まあうっかりについては言を濁したいところではあるが。その辺も、年齢による改善は見えない。
 長い長い階段の先には、歴史あるというか、趣のあるというか、なんとも侘び寂びに溢れた古寺が建っている。
 それを眺めながら、梢子はふと、呟いていた。
「祇園精舎の鐘の声――――」
「諸行無常の響あり」
 朗々と『平家物語』をそらんじる耳慣れない声に振り向くと、驚くほど容色の整った少女が佇んでいた。
 訝る梢子と剣道部員の面々へ、喜屋武汀と名乗った彼女は飄々とした風情で手で自身を示す。
 なんとなく苦手なタイプだ。
 ナンパ目的の不審者ではないと自己申告していたけれど、そこはかとなくナンパされそうな予感を覚えていた。
 ……いや、難破したんだったか? え、いつどこで? 溺れた記憶などないが。
「なに?」
 不躾にジロジロ見ていたら、汀が逆にこちらを覗きこんできた。素早い。思わず身を引くと、彼女は面白そうに笑った。
「あなたに、見覚えがあるような気がして……」
「初対面だと思うけど?」
「そう、よね……」
「あ、もしかして一目惚れ? むしろそっちがナンパ?」
 ふざけたことを言ってきやがった汀へ、今度は鋭い一瞥を投げつける。彼女は「おっと、ジョークジョーク」両手を胸まで上げて白旗を示した。
 「でも」手を下ろした汀が、一瞬だけ眼差しを緩めて。
「あんたはあたしを好きになる気がする」
 やっぱりふざけたことを言った。
「ありえない」
「わあ即答……」
 ちょっとショックを受けたっぽい汀だった。
 梢子が即答したのには理由がある。
 図星だったからだ。
 苦手なタイプだし性格的には絶対に合わないだろうが、何故か自分はそのうち彼女を好きになるだろうという予感があった。
 どうしてだろう。判らないけれど。
「ま、いいや。とにかく、ようこそ咲森寺へ」
 くるりと腕をめぐらせて歓迎のご挨拶。少々呆気に取られているみんなを手招いて案内する。
「喜屋武さんは、お寺の人なんですか?」
「んーん。ここ、温泉があるんだけど、何度か湯治に来ててね。で、今回も来てみたら、たまたまあんたらのスケジュールとバッティングしたわけ」
 百子の問いに答えて、ひょいひょい階段を登る汀の背中を見ながら、梢子は意識が過去へ引き戻されるのを感じていた。
 長い階段。その頂上にある山門と奥の寺。そして、咲き誇る白い花。
「……なんとなく、覚えがあるような……」
「それはそうでしょう。私と二人でここにお邪魔したことがあるもの」
 隣の夏夜が独り言を聞き止めて声をかけてきた。卯奈咲に訪れたことがあるだけでなく、咲森寺にまで来たことがあるらしい。それならまあ、見覚えがあっても不思議ではない。
「野良猫がいてね。梢ちゃんが随分その子を気に入ってしまって」
「そう……だっけ」
「うちに連れて帰るって駄々を捏ねて大変だったのよ」
「…………そういうことは、早く忘れて」
 誰しも、幼い頃の話はちょっと恥ずかしいものだ。
「そういえばあの猫、いつの間にかどこかへ行ってしまったけれど、ちゃんとなわばりに戻れたのかしら」
「大丈夫じゃない?」
 答えたのは梢子ではなく汀だった。先行していた彼女を見上げると、どこか確信めいた表情で、汀は笑っていた。
「在るべきものは在るべきところに。さだめはすべてを包み込んでいるものだから」
「そうね。きっとあの子も、自分の居場所に戻って生きているわね」
「そういうこと」
 山門の向こうでは、少女がパタパタと来客を向かえる準備に奔走していた。緩いウェイブのかかった髪をたなびかせ、あっちの部屋に入ったかと思えばこっちの部屋の戸から出てきて、かと思うと向こうの廊下からほうきを持って駆けてくる。
「おおっ!? 分身の術ですか!?」
 百子が驚きに声を上げると、それに気づいた少女が足を止めて、
「あ、もう来ちゃったんだ。お姉ちゃん、和尚さん、青城のみなさんがいらっしゃいましたー!」
 寺の奥へ向かって声を張り上げた。
 応じるように出てきたのは、身の丈二メートルに届こうかと思えるほど大きな身体をした坊主と、その横でちょこんと佇む少女。彼女は自分たちに気づいた少女と瓜二つである。
「なんだ、分身じゃなくて双子でしたか」
 タネを明かされた百子が少しだけつまらなそうな呟きを落とす。「当たり前でしょう」梢子は呆れ混じりに言った。
 巨躯が一歩前に出てくる。高い位置から、深みのある声が柔らかに落ちた。
「ここの住職をしております、鈴木佑快と申します」
 厳しい顔つきは柔和にほぐれていて、近寄りがたい雰囲気はない。「お久しぶりです、和尚」夏夜が懐かしさを滲ませながら礼をした。
「おお、鳴海さんですか。お久しぶりですな。お変わりないようでなにより」
 「そんなことはありませんよ。けれど、ありがとうございます」佑快の言葉をマナーの一環と受け止めた夏夜は微笑みと共に応じて、梢子を手招くとその肩に手を置いた。
「この子は、変わりなくというわけにはいきませんね」
 指し示された梢子を見下ろす佑快は、寸時の間記憶を探るような表情を浮かべる。やがて「ほう」と半ば感心したような息をついた。
「あの時の妹さんですか。なるほど、ずいぶん大きくなられましたな」
「はあ……。お久しぶりです」
 なにぶん梢子自身は覚えていないものだから、少し緊張しながらの挨拶になってしまった。気分的には「初めまして」なのだ。
 佑快は気に留めていない風情で頷き、挨拶を返すと引率である花子のもとへ歩み去っていった。去り際の「花子さんもお好きですからな。楽しみじゃわい」という呟きが耳に留まる。彼女の好きなものといえば伝承とアルコールだ。寺の住職という立場を考えれば前者にも造詣が深そうではあるけれど、あの表情はどう見てもそんな高尚なものを期待したものではない。
 お坊さんが酒を飲んでも良いのだろうか、などとぼんやり考えていると、今度はさっきの双子が寄ってきた。
 少女たちは並び立つと(見れば見るほどそっくりだった)、揃って丁寧に頭を下げる。
「相沢維巳です」
「相沢保巳です」
 ようこそいらっしゃいました、と笑いかけてくる二人に、何故か百子が喉を詰まらせた。
「百子?」
「いえ、なんでしょう……よく判りませんが、妙に感動したというか、喜ばしいというか」
「あの子たちを知っているの?」
「全然知りません。こんなところに来たのも初めてですし。でもあの保巳ちゃん、ですか? あの子を見てるとなんだかきゅーっと胸が苦しくなるような」
 それは恋だね。
 と、梢子を除いた全員が思ったが、会話に割って入る人間はいなかった。その前に百子が保巳のもとへダッシュしてその手を取り、「第一印象から決めてました」とは言わなかったが、自己紹介と携帯電話の番号を聞きだすことに成功していたからである。
 保巳は突然の猛アタックに目を白黒させていたが、百子に悪意はないのだと見て取るや、ひどく親しげに応じていた。まあ、自分より体格の小さな女の子に身の危険を感じろというのも無理な話だけれど。
 百子が保巳を占領してしまったので、その不躾さについての謝罪と挨拶のために、梢子が部員を代表して維巳へ視軸を合わせる。後方では和尚が顧問とコーチを相手にして、会話に花を咲かせていた。
「部長の小山内梢子です。これからしばらく、よろしくお願いします」
「はい。大したおもてなしはできませんが、ごゆっくりお過ごしください」
 保巳は元気の良い子のようだが、対して維巳の方はどこかおっとりとした、儚げな印象のある子だった。双子といっても中身はあまり似ていないようだ。
「相沢さん……じゃ混ざっちゃうか。維巳さんはこちらの娘さんですか? 確か、住職は鈴木さんでしたよね」
「いえ、わたしとすみちゃんはこの近くに住んでいるんです。小さい頃はここから少し離れた島にいたんですけど、わたしたちの中学卒業を機に引っ越して。みなさんがいらっしゃるということで、和尚さん一人で大変ですからお手伝いに来たんです」
 それから、敬語でなくても構いませんよと言い置いて、
「……というか、気づきませんか?」
「え?」
 きょとんとする梢子に、維巳はどこか拗ねたように唇を尖らせる。けれどけして表情は本心を物語らない。どちらかといえば、親しい友人へのささやかなアピールという風情だ。
「ずっと待っていたんですよ、梢子ちゃん」
 その、初対面ではありえない距離の近さは。
 待っていたと、彼女は言った。
 梢子の脳裏に閃光が走り、いつかの光景がフラッシュバックする。
 また来ると梢子は言い、待っていると彼女は言った。
「あ……、もしかしてナミちゃん!?」
「はい。こんなに近くで見ても気づかないなんて、ひどいです、梢子ちゃん」
 苦笑を浮かべながら頷く彼女を、思わずまじまじと見つめてしまう。
 気づかないといっても、十年近く前で記憶が曖昧だし、一度会ったきりの相手をずっと覚えていろというのも難しいだろう。それに彼女は成長して、姿かたちもずいぶん変わった。
 というようなことをもごもごと言い訳しつつ、梢子はもう一つ気づいて「それに」と言葉を続けた。
「確かナミちゃんの苗字って、相沢じゃなかったと思うんだけれど……」
「ええ。父が亡くなって、母が籍を抜いてしまったので。どうしてかは、わたしも知りませんけれど。でもきっと……あの家に縛られているのが嫌だったのでしょうね」
 なにか複雑な事情があるようだ。他人の家の事柄について踏み込むのも失礼かと、梢子は「そう」と相槌を打つだけで、深くは聞かなかった。
「立ち話もなんですから、みなさんこちらへどうぞ」
 揃いも揃ってすっかり話し込んでしまっていることに気づいた維巳が、とりなすように周囲へ声をかける。部員たちは口に出せないながらも早く休みたいと思っていたようで、維巳の言葉に救われたような表情をして先導する彼女の後をついていった。
 梢子も荷物を抱えなおしてそれに続く。と、するり、音もなく汀が隣に並んできた。
 一瞬、梢子は幻覚を見る。足元に猫がじゃれついてくる幻。
 すくむように足を止めた梢子を、汀が訝しげに見やった。
「ん? どうしたの?」
「な、なんでもない」
 汀が近寄ってくると、どうも調子が狂う。何か妙な磁場でも発しているのじゃないだろうか。
「綺麗なお姉さんに近づかれてドキドキしちゃった?」
「してません」
 つんと顔を背けたら、「にゃあ」汀が鳴いた。
「……なに?」
「べっつにー?」
 なんなんだ。
 汀はとらえどころのない笑みで前方を向いている。本当に気まぐれな猫みたいだ。無視してさっさと進めばいいのだろうが、何故か構ってやらないといけない気になる梢子である。
 とろとろとした空気の中、二人は並んで歩いている。
「オサはあたしを好きになるよ」
「それって予言? お寺だからってオカルトな話題に乗る気はないんだけれど」
「ただの予感かな。けっこう当たるんだわ、これが」
 予感。それは多分、己の内にあるそれと同じものだ。
 どうしてだろう。
 どうして彼女と話していると、胸に温かいものを抱いているような、切なく安らいだ気分になるのだろう。
 内側からこみ上げてくる何かを悟られまいと、梢子は歩を速めた。
 タイミングよく百子がこちらへ手を振ってきている。急かされて足早になったのだと思ってくれるだろう。
「オサ先輩、急いでくださいよー。今日はざわっちが腕によりをかけて手料理をご馳走してくれるそうなんで、代表してオサ先輩が手伝ってあげてください。遺憾ながら、あたしでは役に立ちませんので」
 くっと悔しそうに唇を噛む百子だった。
「ざわっち?」
 はて、そんな愛称の部員はいないが。
 梢子が訝ったのに気づいた百子が、くいっと立てた親指で保巳を示した。知り合ってからのわずかな時間で、もうニックネームで呼ぶほど親しくなったらしい。おそらく相沢の『ざわ』を引いたものだろうと推測は立つけれど、それでは維巳も『ざわっち』になってしまうのではないか?
「ナミーは庭掃除担当だそうですんで、あたしはそっち手伝いますねー」
「わたしはすみちゃんほど料理が得意ではないので……」
 と申し訳なさそうにはにかむ維巳は維巳で、やはり愛称がついていた。ふむ、『ヤスー』では言いにくいし可愛くない。百子、苦肉の策といったところか。腐っても鯛がごとく、苦くても肉。百子はおいしくいただけるのだろう。
 合流して詳しく話を聞くと、保巳は母親の食事を用意しなくてはならないから夜には帰るが(百子がとても残念がっていた)、維巳の方は寺に一泊して和尚の手伝いをするそうだ。すでに遊びの算段を付け始める百子と、何故か一緒になって計画を練る汀だった。肝試しがどうとか言っていたが、この二人、ろくでもないことをしそうなので、梢子はこっそり綾代にお目付け役を頼んでおいた。
 保巳を手伝う合間を縫って(彼女は驚くほど手際が良く、あまりすることがなかった)、庭掃除をしている部員の様子を見に行くと、割合みんな真面目に作業していた。遊んでいるかと思っていた百子も例外ではない。綾代が目を光らせてくれているからか。
 そんな中で、汀は沙羅の樹の根元に座り込んで昼寝をしていた。ちょっとは手伝えと薄腹を立てる梢子だが、相沢姉妹への手助けはこちらが自発的に行っていることで義務ではない。薄情だと怒るのも筋違いだと言うこともできる。
 それに、汀はそうしているのが似合うような、それが汀という存在を確立するような、不可思議な感覚もあった。
 一つ嘆息して、梢子は些々と笑う。
 これだけ良い天気だ、木陰で昼寝の一つもしたくなるというもの。
 保巳の話では、ここ数年この時期は晴天が続いているのだという。天気予報でもそう報じていたそうだし、合宿中は雨に見舞われる心配はないだろう。
 梢子の胸には、再会の喜びと、出逢いの戸惑いと、くすぐったいような小さな予感。
 楽しい五日間になりそうだった。
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