カスパーの見る夢 02


 目を覚ますと暑かった。はて暑さには強いはずだがと訝りつつ、汀は身体を起こす。
 低かった。
 視線が、である。それも座っているとか子どもだとかのレベルではない。地面からほんの十数センチ、それが汀の見ている景色。
 自分が立ち上がっているという自覚は確かにある。これは、どういうことだろう。そもそも、ここはどこだ。
 首をめぐらせれば随分高い位置に見覚えのあるような鐘つき堂があった。そこから更に視線を回していく。
――――咲森寺……の、中庭?
 その通り、何日か世話になったこともある、古寺の一角だった。沙羅の木が作る陰の下で眠っていたらしい。暑さを逃れるために木陰へ逃げ込んだのだろうか。そんな記憶はないのだけれど。
 なんでこんなところに寝転がっていたんだろう。汀は頭を掻こうとして上手く出来ずにバランスを崩して転がった。
 そこまで来て、汀はようやく事態を受け入れる心構えをした。出来ることなら目をそらしたままにしておきたかった。ああしかし現実はいつだって厳しい。逃げちゃ駄目だ。
 まず、視線を下に。ふわふわの毛に覆われた脚が見えた。右手を上げてみる。ふわふわの前足が持ち上がった。てっちてっちと歩いて木陰から出ると、地面に己の影が現れた。
 全体的に横長なシルエット。頭頂部からぴょこんと飛び出た三角形。腰の辺りから伸びている長い影。
 猫だった。
 どう考えても猫だった。
――――ちょっ、なんで猫!? 猫っぽいとは言われるけど本物の猫になってどうすんの!
 動揺のあまりそこいらへんをウロウロしながら喚く。
 にゃーにゃー鳴いてる迷子猫の出来上がりだった。
――――いや待て、落ち着け、落ち着いて考えよう喜屋武汀。
 とりあえず前足で顔を洗ってみた。
 ちょっと落ち着いた。
――――あの子はあたしの魂を送るって言ってたから、当然身体はここにはない。いやあるけど、地元で暢気に遊んでる小学生だ、一人でこっちまでは来られないから依代を別の身体にしたのか。知性のある生き物だと依るのも大変だし。
 うんうんと一人で納得。
 理屈を見つけたところで、何か事態が好転するわけでもない。
――――それにしたってなんで猫! もっとこう、犬とかの方が強いじゃん!
 これから汀は、武器を持った二人の死闘を止めなければならない。この小さな身体とそれに追随した牙と爪しか持たない身体で、どうしろというんだ。
 頭をかきむしりたい気分だったが、肉体の構成上できなかったのでその場でゴロゴロもんどりうった。どうせ猫の身体だ、汚れたところで構うまい。
 そしてその行動、傍目には日向ぼっこしている猫が、なーなー鳴きながらぽてぽてと転がって遊んでいるようにしか見えない。
 牧歌的な光景だった。
「猫ちゃん?」
 幼い声が聞こえて、汀は身体を止める。視線を向けると少し離れた位置から子どもがこちらを覗いていた。
――――あ。
 もちろん当時の姿など知らないけれど一瞥しただけで判った。
 かなりの割合で面影を残した(いや、汀の知っている『彼女』に、面影が残っているのだろうけど)少女は、こちらが逃げてしまわないようにという配慮か、寺とはいえ他人の敷地に勝手に入るのは良くないと思っているのか、沙羅が作る塀の外から動かず、じっと窺っていた。
「ねえ夏ちゃん、猫ちゃんがいるよ」
 沙羅に隠れていた人物が声に呼ばれて身を乗り出してくる。
――――あ。
 汀は再度、胸中で呟いた。
 面影などという程度ではない。瓜二つどころか、そのままだ。当たり前だ。汀の知っている『彼女』の姿は、この時の彼女のものだったから。
――――鳴海、夏夜。
 そう呼ぶことに抵抗を覚えない、本来の彼女。
「今日は天気が良いから、あそこでお昼寝でもしていたのかしらね」
 のんびりと穏やかに応える夏夜は浄眼で見る必要もないくらい、完全無欠に人間だった。
 とんでもなく嫌な気分だ。自分が切った人間と(切ることになる人間と、か?)こんなにも平和で牧歌的な光景の中で見詰め合うなど。ジョークにしてはブラックすぎる。
「このお寺で飼ってるのかな」
「首輪はしていないようだけれど……どうなのかしら」
「お願いしたら、抱っこさせてもらえるかなぁ?」
 うずうずと微かに足踏みをしながら梢子が夏夜に問う。「聞いてみましょうか」二人は連れ立って境内へ足を踏み入れた。
 梢子は猫が逃げてしまわないか心配なようで、何度もこちらへ視線を送ってきた。熱烈と言って良い。こんなにも熱い視線を彼女から送られたのは初めてだ。全然うれしくない。
「ごめんください」
 夏夜が奥へ声をかけると、遠くから応答があって、巨体が姿を現した。
「どなた様ですかな?」
 巨体に驚いたのか、梢子が夏夜の背中に隠れる。わりと失礼な行動だったので、夏夜は注意しようかどうか迷って、しかし目の前の住職が気にしていないようだったのでそのままにした。
「こちらの住職様でしょうか」
「左様。鈴木佑快と申します。あなたがたは……はて、檀家の方ではないようですが。このようなボロ寺に、どういった御用ですかな?」
 夏夜は自分も名乗り、梢子を妹として紹介すると、汀の方へ顔を向けてきた。
「梢ちゃ……この子があの猫を触らせてほしいと。こちらで飼われているのならお願いしたいのですが」
「ん? いや、うちで飼っているわけではありませんよ。野良が涼を求めて入り込んできたのでしょう。なにせこの暑さですからな、わしのような毛の少ない人間でも堪えるのじゃから、毛皮に覆われた猫はさらに大変でしょう。鐘に悪戯さえせずにいてくだされば、庭は自由に歩いていただいて構いませぬよ」
「そうですか。ありがとうございます」
 「ほら、梢ちゃん」夏夜に促されて、会話を聞いていた梢子は恐い人物ではないと判断したか、隠していた姿を見せると丁寧に礼をした。
「ありがとうございます」
「なに、見ての通りの侘び寺ですからな、お客様は大歓迎じゃよ」
 何か作業の途中だったのか、佑快は「それではごゆっくり」と会釈をしてから奥へ戻っていった。
 梢子がそうっとそうっと近づいてくる。汀は逃げ出してがっかりさせてやりたい欲求と闘いながら待っていた。
 慎重に差し出された指先。何かを考える間もなく頬のあたりを擦りつけていた。何度かぐにぐにしてから思考が意味を持つ。恐ろしい、これが動物の本能というものか!
「わ、人懐こい」
「近所の人たちに可愛がられているのかもしれないわね」
 梢子の指先が、軽く喉を撫でてくる。
 あ、そこ、もうちょっと強めで。
 喉を鳴らしながらぐでんぐでんになっていると、もう逃げないと判断したらしい梢子が「よいしょっ」汀を小さな手で抱き上げた。ああ、そんな、おなかをそんなふうにもふもふって、もふもふって。
「お前、可愛いね。もっと一緒にいたいなぁ」
 それはできればもっと違うシチュエーション(というか姿)で言われたかった。いや、嘘だけど。そんなこと思ってないけど。
 喉とか首とか、とにかく手当たり次第に撫でられて、だんだん思考が麻痺してきた。なんということだ、眉間をこしょこしょされるのがこんなに気持ち良いとは!
「ねえ夏ちゃん、この子も連れてっちゃ駄目? おばあちゃんもきっと可愛がってくれると思う」
 無邪気に請われて、夏夜は困ったように表情をくもらせた。祖母に会えると信じている無邪気と、生物に対する責任を知らない無邪気、どちらも大人としては対応に困るものだろう。
「猫はなわばりがあって、そこから出てしまうと家に帰れなくなるの。それに、あそこは海を渡らなければいけないでしょう? 猫は泳げないから、連れて行ってもし溺れてしまったら大変よ」
 そう、その通り。溺れたら大変なのである。
 猫は泳げないから。
 ん? 猫だから泳げないのだったか?
 もう気持ち良いやら眠いやらであらゆることがどうでもよくなっているせいか、考えるのが億劫になってきた。
 そんな汀の状態など露知らず、梢子は腕の中の猫をぎゅっと抱きしめて(苦しい、眠いのに)夏夜に懇願する。
「大丈夫だよ。ちゃんと抱っこしてるもん。だからこの子も卯良島に連れて行こうよ!」
 はぅあ!!
 『卯良島』というクリティカルな単語で汀の思考がフルドライブする。慌てて梢子の腕から抜け出して距離を取った。あのまま抱かれていたら、また気持ち良くなってしまう。(なんだか妙な表現だが性的な意味ではない。)
 危ない危ない、本能に負けて本来の目的を忘れるところだった。小山内梢子、手ごわい相手である。
 「あっ」汀が逃げてしまうと思ったのか、梢子が捕まえようと手を延ばしてきた。それをするりと避けてその場に丸くなる。寝たふりをすると梢子が安心したように息をついた。
 その様子を見ていた夏夜は軽く苦笑をして眼差しを緩めた。
「ずいぶんその子を気に入ってしまったわね」
「だって可愛いもの。うちに連れて帰りたいくらい」
「……連れて帰るかは後で考えるとして、卯良島には一緒に行きましょうか。水を恐がって暴れたりするかもしれないから私が抱いていくわね」
「えっ、やだっ。私が抱っこしていくっ」
 いやはや本当に、えらく気に入られたものだ。そんなに猫が好きなのだろうか。
 それとも、魂を結ぶえにしの影響か。
 とりあえずもっと撫でれ。
 前足でちょいちょい梢子の顎を引っかきつつ、にゃあと鳴く。
「ほら、この子も私のこと好きだって」
「仕方ないわね……」
 結局夏夜が根負けして、猫は梢子と同道することになった。
 
 
 
 暴れるなど冗談ではない。
 四方を海に囲まれた岩道の上、汀は梢子の肩に全力で爪を立ててしがみついていた。痛がっていたが構ってられない、落ちたら即バッドエンドな即死フラグに全方位を包囲されているのだ。何が何でもこの手は離さない。
「ひゃっ」
「梢ちゃん!」
 ミズゴケに足を滑らせかけた梢子を夏夜の腕が抱え込む。
――――こらー! もっと慎重に進めバカオサ!
 怒鳴ったつもりだったが、汀の喉から出てきたのは「ふなぁ……」という、か細い悲鳴だった。全身が激しく震えている。硬直して動けない。
 硬直していたから梢子の妨げにならなかったのか、それからは特に危険な場面もなく島へとたどり着いた。海を離れてからもしばらくは爪を引っ込められなくて、汀は梢子にしがみついたままでいた。
 燃え盛る椿が林立するあたりへ到達するにいたり、汀はようやく梢子の胸から地面へ降り立つ。サクサクと地面を鳴らしながら進んでいく。早朝のせいだろう、人の気配はない。
「おばあちゃん、どこにいるのかなぁ」
「……そうね。もう少し探してみましょうか」
 おそらく夏夜は、梢子が諦めるまで待つつもりだろう。祖母はもうどこにもいないのだと、もう会えないのだと理解する(あるいは認める)まで、この地に留まって宝のない宝探しに付き合うつもりなのだ。
 あるいは夏夜がこの時点で帰ろうと梢子に言っていたら展開は変わったのかもしれない。「判ったでしょう、秋子さんは死んでしまってもういないの」と現実を突きつけて、梢子を打ちのめすことができたら。
 このまま誰とも出会うことなく卯奈咲へ引き返していたら。
 すべてが優しさによって引き起こされた悲劇。同道することによって他人事だったそれが意味を変えて、汀は無邪気な女の子と優しき女性にやるせなさを覚える。
 同道によって、同情する。
 しかし今の汀では、説得して帰らせることも、力ずくで追い払うことも不可能だ。機を見るしかない。どうにかして根方宗次を退けなければならない。
 終わらせてみせる。
 否……この平穏を、続かせてみせる。
 そのために自らを終わらない循環へ投じたのだ。
 
 
 
 梢子は女の子に出逢う。
 時に物静かで、時に活発な、不思議な女の子に出逢う。
 同じ年頃であった二人は意気投合する。
 急速に親しくなった二人は未来を夢見る。
 
 膝に乗せた汀の喉を撫でながら、梢子は楽しそうに言う。
「また遊びに来るね。今度はもっといられるように、夏ちゃんにお願いしてみる」
「うん。待ってる」
 女の子は仄かに笑って頷いた。
 汀はこの二人がもう会えないことを知っている。
 
 
 
 祭壇に寝かされているのは梢子だった。その前で、壮年の男性と夏夜が向き合っている。双方ともに手には日本刀。じりじりとした焦燥感が夏夜のおもてに浮かんでいる。
「……なかなか強い」
「あなたも……いえ、『なかなか』などではありませんね、根方さん。あなたは、とても強い」
「ならばお判りでしょう。君は私には勝てない」
「しかし、勝たなければならない!」
 刀を振りかぶり、夏夜が宗次めがけて突進する。速いし鋭いが、宗次はそれを上回る速度と鋭さで夏夜の刃をかわしてみせた。
 二人の攻防を、汀は祭壇の隅で傍観者めいた姿勢で見ている。猫一匹に誰も構わない。
 けれどそれで良い。誰も注意を払わないからこそ、汀はじっくりと期をうかがうことができる。
「はぁっ!」
「ふん!」
 宗次は防戦一方に見えるがその実、夏夜の剣をすべて無効化していた。夏夜の焦燥感は時間が経つごとに増していく。それが彼の狙いだろう。焦りで剣筋がぶれるのを待っている。
 汀もそれを待っていた。夏夜の刃が鈍り、宗次が好機を見出す一瞬。それは鉄壁の守りを崩すということだ。通常であればそれでも宗次へ一太刀浴びせることなど叶わないだろうが、この小さな身体、この人を殺める力のない身体が、逆にそれを可能にしてくれる。
「梢ちゃんは傷つけさせない。あの子は私が守る!」
「君が彼女を守りたいように、私にも守るべきものがある」
 同じで相容れない願い。それはどちらも譲ることができないものだ。
 「おおおぉぉ!」夏夜が吠えた。それは裂帛の気合ではない。ただの感情の発露だ。剣道において心技体がひとつにならなければ一本は取れない。そういう意味で夏夜の刃は相手を打ち負かす力のないものとなった。
 振り下ろされた刃を半歩引いてかわした宗次が刀を振り上げた。夏夜の反応は間に合わない。そのまま刀を振れば、彼女の肩から胸にかけてが切り裂かれるだろう。確実に致命傷となりうる未来が眼前に迫っている。
 汀が全身の筋肉を使って駆け出した。
 猫は小さくて弱いが、その分速い。人はどうしようもなく、猫より遅い。
 飛び上がり、宗次の腰を中継点として頭上へ躍り出る。「ぬっ」宗次が低く唸る。反射的に左腕で払おうとしてくるが、汀は中空で身体をしなやかに捻ることでそれを避けた。
 時間稼ぎをするつもりはない。
 宗次を仕留めるつもりで、汀は狙いを定める。
 彼は確かに強かった。彼より強い人間はそうそういまい。
 だが、『相手を狩る気で襲い掛かってくる猫』に襲われた経験など、彼にはなかった。
 人よりも圧倒的に速く、人よりも圧倒的に鋭い爪が、宗次に襲い掛かる。目標はまぶた。犬や虎であれば喉笛を噛み千切れもしただろうが、猫の身では無理な話だ。
 宗次の回避行動も防御行動も間に合わなかった。汀の爪は寸分たがわず右の眉下から下まぶたまでの肉を切り裂いて、その内側にある眼球の表面さえ傷つける。
「……くっ!」
 左手が右目を押さえ込んだ。片目を潰されて、さらに逆手で止血を試みるという不自然な姿になる。なああぁぁうぅぅぅぅ! 汀が夏夜に向かって鋭く鳴いた。
 汀の声を合図として夏夜が宗次へ斬りかかった。刃はなんとか手にした刀で受けたものの、そこから反撃に転じることが出来ない宗次の身体を、夏夜がつばぜり合いをしたまま身を翻して肩口から突っ込む。不自然な姿勢で軸を失っていた宗次はタックルを受けてバランスを崩し、後方へと倒れこんだ。
 彼の落ちていく先には、水があった。
 水しかなかった。
「っ、根方さん!」
 一瞬前まで死闘を繰り広げていた相手へ、夏夜は腕を延ばす。宗次は右手に持った刀を離さず、また、左手も右目を押さえたまま動かさなかった。
 夏夜の手は、彼のどこにも届かなかった。
「君のせいではない」
 まっすぐに夏夜を見据えて、はっきりと告げる。
「……維巳……保巳……」
 水路に落ちる直前の呟きは、おそらく汀にしか聞こえなかっただろう。それほどかすかな声だった。
 ひどく穏やかな、愛情に満ちた声だった。
 水音と共に消えた宗次の姿を追うように、夏夜はどこか呆然と水路を見つめていた。
 なぁう。汀が呼びかけると弾かれたように自我を取り戻し、祭壇に寝かされたままの梢子へ駆け寄る。
「梢ちゃん、梢ちゃん!」
 揺さぶり、頬を軽く叩いて覚醒を促した。「んん……」小さく唸った梢子が起き上がって寝惚け眼を擦る。
「あれ、ここ、なぁに……? なんでこんなところにいるの?」
「梢ちゃん……良かった」
 ホッと息をついた夏夜が梢子を抱きしめた。汀も梢子の膝へ飛び乗って、伸び上がり頬を舐める。「な、なに? どうしたの二人とも」訳が判らずあわあわする梢子に、夏夜が笑った。
 
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