カスパーの見る夢 01


 長い階段を登ると山門が見えてくる。あの頃からさらに老朽化が進んでいるように思えた。相変わらず、修繕に費やすための費用にはこと欠いているらしい。とはいえ、今日明日で崩れ落ちるわけでもないだろうし、おそらくこの夏、嵐は来ない。当面問題はないのだろう。
 喜屋武汀は一年ぶりにその山門をくぐった。目的は一年前と同じく自然療養。相手は剣鬼ではなかったし、得物も殺傷力などない竹刀だったが。
 平和的な大会で負ったものだった。平和的だからといって、安全だとは限らない。拮抗した両者の実力がもたらした不運な事故だ。高校剣道の枠に収まる程度の人間なら到底避けられない速度で打ち込まれた一閃に、汀は反応できた。できてしまった。あまつさえ、つい避けるのではなく踏み込んでしまったのである。刃物は通常、先端より根元の方が鈍い。
 全身を使って放たれた片手面は意志の力で止められなかった。
 そんなこんなが重なって、竹刀は小手に守られていない肘を直撃した。骨に異常はなかったがひどい打撲を負ってしまって、試合は棄権する羽目になるし全治数週間と診断されるしで踏んだり蹴ったりな汀だった。あのまま仕合っていたら七割程度の確率で勝てたと推測している。いずれきちんと決着をつけたいものだ。
 郷里に帰る前に、懐かしの地で湯治をしようと飛行機のチケットを変更した。単なる思い付きである。強烈に嫌な思い出と、そこそこ良い思い出のある土地だが、汀はどちらにも縛られていない。単純に温泉が恋しくなっただけだった。
「ごめんくださーいっと」
 インタフォンなんてないので自身の声で訪問を告げる。しばらく待っていると人の気配が近づいてきた。静々としていて軽い。
 現れた白髪の少女は茫洋とした瞳で汀を一瞥した。「こんにちは。久しぶり」汀の挨拶にどこかきょとんとしつつ、ナミはこちらへ手を伸ばしてくる。
 手を掴まれて引っ張られるまま汀は寺の中へ入っていった。周辺に他の気配はない。ナミの保護者である佑快はどこかへ出かけているようだ。
「ナミー、和尚は? 買い物にでも行ってるの?」
「…………、……」
「相変わらず喋れないわけだ。ま、いいか。連絡はしてるし」
 主はいないがナミだってここの子だ。彼女が許したのだから不法侵入にはなるまい。
 汀が連れられたのは必要最低限の家具が設置された一室だった。見るからに客間ではない。おそらくナミには客を迎え入れる時の作法が身についていないのだろう。遊んでもらおうとでも思ったのか、ただ単に最も慣れているからか、自室に引き入れたようだ。
「一年ぶりだっていうのに成長してないわね。やはり人外、か……」
 あれから衣服も増えたようで(佑快が作成したのだろうか?)、あの頃の豪奢な着物姿ではなく簡素化された和装でいたので、体型が判りやすい。身長も伸びておらず、顔立ちにも変化はなく、発育の証である手足のしなやかさも現れてはいない。彼女くらいの年頃であれば、一年も経てば劇的に変化するものだ。それが何もない。
 汀はひとつ息をつく。今のところ無害そうだしあまり気にする必要はないのかもしれない。
「………………」
「ん? なーに?」
 かすかにナミの唇が動いているのに気づいた汀が、彼女へ顔を寄せた。そうしたところで聞こえてくるのは無意味な吐息ばかり。何を伝えたがっているのだろうかと、汀は視覚から情報を得ようと彼女を注視する。
「………………………………」
 吐息は止まらない。
「………………………………………………………………」
 汀の眉がわずかにひそめられた。
 おかしい。
 一年前だって、ナミが何かを伝えようと声なき声を発することはあったが、こんなに長い『言葉』はなかった。
 そこまで発達した思考能力を、彼女は持っていなかった。少なくとも持っている様子は窺えなかった。
「ナミー? なに? あんたは何をあたしに伝えたいの?
あたしに、何をさせたがっているの?」
 はっはっは、と意味を持たない呼気だけがそれに応える。尋常ではない様子に(いつだって尋常ではなかったけれど、もっと別方向の特異に)、汀の表情が真剣みを帯びた。
「………………、………………」
 ナミの手が、汀の右目を撫で回す。それは子どもが見慣れないものを理解するために、触覚を通じて情報を得ようとしているようにも見えたけれど、汀は彼女の行動に指向性を見出した。
 彼女が触れている箇所が、他のどこでもない、右目であるということ。
「あんた、『視ろ』って言ってるの?」
 今、この寺には汀とナミの二人だけのはずだ。
 しかし、そうではないとしたら?
 ここに『汀でもナミでもない誰か』がいたとしたら?
 それは汀の右目だけが視ることのできる存在だとしたら?
「面倒なことになりそうな予感がするけど、面倒ごとに首突っ込むのは嫌いじゃないわけ、ミギーさんは」
 鬼切りとして不敵に笑って、鬼切りとして不適に笑って、汀は右目を青く光らせた。
 
 少女がいた。
 
 ナミと重なるように、ナミとは似ていない、ナミと半分くらい『同じ』少女がそこに立っていた。
 汀は少女に見覚えがない。ただ浮かんでいる表情が、『あの時の彼女』と同じだったから、そこはかとない親近感を覚えた。
 さようならと告げた彼女の、涙を伴わない泣き顔とそっくりだった。
「――――あんたは……?」
『わたしはこの身に宿る残滓。うたかたのように浮かび、消える者』
「憑き物? あー、あたし薀蓄語るのは好きだけど、憑き物落としは得意じゃないのよ。実力行使の方が多いし」
 少女がちらりと笑った。苦笑だったのだろう。
『わたしのお願いを聞き入れていただければ、実力行使の必要もなく落とせると思いますよ』
「どういうこと?」
『この子に宿るわたしは半分にすぎません。けれど完全に分かたれたわけでもない。だからこそ、この子とあの子は出会ったのですけれど』
「あの子?」
『わたしのもう半分を有する少女。あなたの腕……右肘のあたりに微かな気配を感じます。あなたともえにしが結ばれているようですね』
 汀は半ば無意識に言われた箇所へ目を移す。忘れたくても忘れられない、現在進行形で疼く傷がそこにある。この傷をつけた人物の顔が脳裏をよぎった。
「って、まさか、オサ? あんたとオサになんの関係があるの?」
 ナミは……ナミに宿る少女は、蒼い瞳を伏せて感情を揺らした。
『あの子は、幼い頃に一度、こちらを訪れています。その時に命を落としかけ、わたしが自分自身の魄を与えることで救いました』
 結果を先に示してから、少女は事の次第をつまびらかに語った。情報量はさほど多くないが、興味深い内容ではあった。
「ふぅん……。オサが《剣》に耐性持ってたのはそのせいか。文句なしに《剣》を扱える資格の、その半分を持っているなら、あれだけ振り回せたのも納得だけど」
『あなたにお願いしたいのは、あの子を救うこと。あの子は……ずっと悲しんでいます』
「……剣鬼。夏夜のこと、か」
『ええ。わずかにつながっているわたしへと、あの子の嘆き哀しみが伝わってきます。毎日毎日、止むことなく』
「そう言われても、死んだ人間は生き返らないし。皮肉な言い方だけどね」
 二度目の生に終止符を打った張本人は、小さく眉を歪めて言った。
 死んだ『人間』は戻らない。戻ってきたならそれは鬼だ。
「ないとは思うけど、夏夜を鬼として甦らせろって話ならお断りよ? やろうとしてもできないし。あたしは精々、『視る』と『切る』くらいしかできない」
 だから彼女を切ったことを後悔していない。己のできる手段をすべて使って、最善の手を打った。結末はあれしかなかった。あれが最上だった。鬼は切るしかなかった。あの場にいた全員が受け入れた、最高の結論だった。そう、切られる当人でさえも。
 『ええ』頷いて、少女は口元で苦く笑んだ。
『そのような頼みごとをするつもりはありません。切ることでしか救えない命もあるのでしょう』
「じゃ、なに?」
『廻るさだめを、断ち切っていただきたいのです』
 意味が理解できなかった。探るような目で少女を見つめると、彼女はナミの小さな手を延ばし、汀の額に向けて手のひらをかざした。
『……届きません』
 かざしたのではなく触ろうとしていたらしい。
 何をしようとしているのか判らなくて不気味だったが、ひとまず、汀は膝を曲げて頭の位置を下げてやった。
 ナミの指先が汀の額に触れる。軽く撫で始めた。
『始まりより前の始まり、すべての糸と意図を』
「ナミー? ……じゃなかった。ちょっと、何するつもり?」
『あなたの魂を過去へ送ります。そこであの子を……哀れにも犠牲となってしまったあの人を、救っていただきたいのです』
「過去へって、そんな無茶な。第一よしんばそんなことが出来たとしても、タイムパラドクス問題が出てくるでしょ」
『鯛ですか?』
「タイムパラドクス。時間矛盾かな。あたしが過去に飛んで夏夜を助けたら、『今』のあんたはオサを助ける必要がなくなるから、あたしを過去に送ることもないでしょ」
『ああ、そういうことですか』
 ふむとひとつ頷いた少女が穏やかに笑った。
『どうなるかは判りませんが、えにしはすべてを包み込んでいます。おそらく"あなたが過去へ戻らない今"と"あなたが過去へ戻る今"をどちらも内包した"今"が存在するのではないでしょうか』
「エントロピー増大の法則ガン無視な希望的観測だなぁ……」
 しかし時間を逆行してもエントロピーは増大する。さらに言えば人類は未だかつて、『ある時間は一つの時間軸上から連続して到達した時間である』という証明ができていない。『時間が一方向にのみ進むと考えれば最も矛盾が少ない』からそう仮定しているだけである。人間は時間の逆行を観測出来ない。現在が二つ以上の過去を経由した現在であるという記憶は誰も持てないのだ。
「ま、それはおいとくとして」
 額を撫でられたまま、もう一つの問題をあげる。
「その場合、えにしってどうなるのかしらね」
『どういう意味でしょう?』
 首を傾げる少女に汀は初めて好意のない視線を向けた。
「あんたがオサを可哀想だからって助けて、夏夜の死なない未来が生まれたとして……。どこにどう影響するのかなって話」
 『今』が『内包される今』であるなら、『もう一つ(あるいはそれ以上)を内包した今』は状況が違うのだろう。死ぬはずの誰かが生きていたり、そこにいないはずの人間がいたり。
 出会うはずの二人が、出会わなかったり。
 少女は幼い仕草で首を傾げて汀の視線を受け止める。
『あの子に出会えなくなるのが嫌なのですか?』
「そうは言ってない」
『そう言っているように聞こえましたが……』
「言ってない」
『そうですか』
 優しき老婆がかんしゃくを起こした孫を宥めるような口調で汀を肯定し、少女は微笑む。
『大丈夫ですよ。えにしはそう簡単には切れませんから。一度出会えたのなら、違う"今"でもまた、出会えるでしょう。出会う場所や時間、その先の関わり方などは違っているのかもしれませんが。
いえ、あなたとあの子のえにしが深いものならば、同じ時、同じ場所で出会うことも出来るかもしれません』
「別にオサと関わらなくても、あたしは困らない。
けど、ま、ものは試しでやってみますか。ちょっと面白そうだしね」
 右手にはまだ、あの感覚が残っている。
 嫌な感触だった。人と変わらない鬼を切ったのは初めてではなかったのに、その感触をどうしようもなく嫌悪した。
 否……嫌悪したのは、自分自身であったのかもしれない。
 自己嫌悪した時、誰しも思う。
 『もう一度、やり直せるのなら』と。
 あの嫌悪感を忘れることが出来るなら……あの嫌悪感を味わわずに済む自分がどこかに生まれるのなら。
 右肘が痛んだ。
「じゃ、さっさと始めちゃってちょうだい」
『良いのですか? あなたを内包した"あなたではないあなた"はこの先も存在し続けるでしょうが、"今、ここにいるあなた"はおそらく、廻る時に囚われてしまいますよ』
「判ってる。構わない」
 汀が事態を理解したうえで承諾したのだと納得したか、少女はそれ以上言葉を重ねることなく、額に触れていた指に少しだけ力を込めた。
 汀が目を閉じる。
 首の後ろ辺りからゼリー状の何かが抜け出るような感覚があって、それが今ここに存在する喜屋武汀の、最後に知覚したものだった。

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