リンケージ 01


 大きな手で頭を撫でられるのが好きだ。慣れていなくて手加減しすぎな優しさが時々物足りないけれど、ごつごつした指が髪の隙間に潜り込む感触が心地良い。
 無精ひげのまばらに生えた顎に触るのが好きだ。面倒臭がりだから放っておくと四、五日はひげを剃らない。しゃらしゃらとした手触りを面白がると、恥ずかしがって翌日には髭剃りを当ててしまうのが少し残念である。
 彼の膝の上はずっと特等席だったのだけれど、いつだったかレンに馬鹿にされてから座らなくなってしまった。
 それが鏡音リンの『好き』だった。それ以外にはなかった。
 
 
 
 傾けられたグラスに少しずつ金色がそそがれていく。リンは慎重に手元を調整しながらグラスへビールを移している。淵からこぼれる寸前で止めると、マスタがそれと同時にグラスを水平に戻した。
 泡の高さは三センチ、半円を描くそれをマスタの口が吸い込む。そのままぐいっとグラスをあおったマスタは喉を二度鳴らした。
「ぷはっ。うん、うまい。リンのお酌が一番上手だなぁ」
「へへー」
 得意げにリンは笑うが、実のところこんなふうに酌をしてくれるのはリンの他にいないので、マスタの言う「一番」はナンバーワンではなくオンリーワンの意味である。
 ピーナツをつまみながらのんびりとビールを飲む。隣に座るリンの前にはオレンジジュースが置かれていた。
 頻度は高くないが、仕事が一段落したタイミングなど、マスタの気が向いた時にはこうしてささやかに打ち上げをすることがある。ミクはすでに飽きてしまってあまり付き合ってくれないし、レンは最初から面倒臭がって、リンがマスタにはりついているのをこれ幸いとゲームに興じている。ルカは、まあ割合としては半々。ミクに引っ張り出されればそちらを選ぶ。
 そんな調子だからここ数回はリンと二人きりの打ち上げが続いている。大黒柱だというのにあまり優遇されていないマスタである。
 ほのかに赤らんだ笑顔をリンに向けて、柔らかく金色の髪を撫でると、リンは嬉しそうにくしゃりと顔を崩した。
「このところリンのレコーディングが続いてたし、明日はお休みにしようか。ああ、そういえば商店街の方でお祭りがあるみたいだよ。ミクたちと行ってみたら?」
「マスターは?」
「僕の仕事はまだ溜まってるんだよねぇ」
 小さく肩をすくめてごめんねと眉を下げる。リンはちょっと残念だったが、ここで我侭を言うほど我が強いわけでもなかったので、「じゃあ、みんなに聞いてみる」素直に頷いた。
 打ち上げを終えてから手始めにレンの意見を尋ねてみようと、自室のドアを開けた。二人は同室なのでリビングにいなければレンはだいたいここで漫画を読んだり携帯ゲームで遊んだりしている。
「ねえレンー。明日……」
「わわっ」
 なぜか妙に慌てた様子のレンが、腹部に何かを隠した。「なにしてんの?」訝しげに眉を寄せて隠された物を覗き込む。レンはさらに身体を丸めて抱え込んだものを覆い隠した。
「なんでもない、なんでもないから!」
 そんなふうに言われると気になるに決まっている。とうっと飛びかかってそれを奪い取ろうとすると、レンはこれを奪われたら世界が滅亡するとばかりに必死の抵抗を見せた。
 ゴロゴロと部屋中を転げまわり、あるいは伸びてくる腕を払い、あるいは見事な体捌きで避ける。両腕がふさがっている状態なのでレンの方が不利だが、そこは身体機能の性能差でカバー、たとえ腕を掴まれても力ずくで振り払える。
 ならば、とリンが背後に回りこんだ。振り返る前にレンの脇腹をくすぐる。
「おぅあ!」
 隙をつかれて腕の力が緩んだ一瞬を見逃さず、抱えられていたものを抜き取った。
「あっ」
「なにこれ?」
 薄めの雑誌だった。裏表紙が向いていたそれをひっくり返す。
 時が止まった。
「なっ……」
 非常に、なんというか、露出度の高いお姉さんがギリギリのポージングで微笑んでいた。
 すぐさまレンが取り返したけれど、リンの映像インタフェースが捉えたそれはしっかりメモリに記憶されている。人間のように「よく見えなかった」ということはありえない。もちろん、メモリから引き出せば細部まで確認することが可能である。
 胸の大きなお姉さんが誘うように(なにを?)微笑んでいる表紙を思いだして、リンの感情アルゴリズムは混迷、暴走した思考は悲鳴としてアウトプットされる。
「ななな、なんてもの見てんの!? ばっかじゃないのヘンタイ!」
「ヘンタイって、こ、これマスターのだぞ、俺が買ったんじゃないんだからな!」
「うるさいうるさい!」
 言い訳なんて気持ち悪い。マスタがあんなもの見るわけがないじゃないか。マスタは優しくて奥手で自分たちに分け隔てなく接してくれて、そんな欲求なんてあるはずがないのだ。
 祭りについて聞く気も失せたリンは、レンのみぞおちを一発殴ってから部屋を飛び出した。頭部を狙わなかったのは、ルカが口をすっぱくして注意し続けた賜物である。
 そんなふうにルカのことが脳裏をよぎったせいか、そのままルカの部屋へ向かった。しかし中は無人だったので、足を返してミクの部屋へ。
「ミク姉、ルカ姉、いる?」
「ん、どうぞー」
 二人は床に向かい合って座り、歌詞の書かれた紙を覗き込んでいた。確かデュエット曲の注文をマスタが受けていたから、それについて軽く打ち合わせをしていたのだろう。
 ミクたちと線で結べば三角形を作る位置に座り込んで、視線を軽く落とす。
「どうしたの?」
「…………」
 レンについての不満をぶちまけようかと思ったが、彼は自分の片割れであり、あるいは自分自身である。レンの恥はリンの恥。ここで言ってしまうのはどうか。あまりにも情けない内容だし、なんだかんだでレンのことを嫌いになったわけでもないから、彼の恥をさらしてしまうのは可哀想な気もする。
 こっそり息をついて一度思考をアイドル状態に。混迷していた思考を切り替える。
「明日ね、お祭りがあるんだって。ミク姉たち一緒に行ってくれないかな」
「お祭り? いいね。お姉ちゃんも行こうよ」
 ルカににじり寄ってその腕を取ったミクが、彼女へしなだれかかった。「ミクが行きたいのなら」微笑みを返しながら、ルカが頷く。
「あ、ごめん。やっぱいいや。二人で行ってきなよ」
 すっと手のひらを差し出して前言撤回するリンである。二人は意味が判らずきょとんとした。
 考えてみれば、この二人と出かけたら自分がおみそになるのは目に見えているのだった。進んでお邪魔虫になることもないだろう。気を遣って楽しめないに決まっているし。
 仕方がない、明日は一人で行くとしよう。
 
 
 
 商店街は人でごった返していた。高くぶら下げられた提灯の明かりと、賑やかしいざわめきと、甘い匂いとしょっぱい匂いと、何よりも人いきれ。これこそという感じの祭りの雰囲気だ。
 小さな身体を持っていかれそうになりながら、屋台やら大道芸やらを覗いて行く。
 ちなみにミクとルカは人込みの中より部屋で二人きりの方を選んだらしく、リンが出る時も自宅に残っていた。
「んー……」
 来てみたはいいが、やはり一人ではあまり楽しくない。この雰囲気、無条件で腹の底をざわざわさせるものだと思っていたが、そういうわけでもないらしい。
 昨日のことは水に流してレンを誘えばよかっただろうか。こういうお祭り騒ぎが好きな性分だし、喧嘩もよくするけれど基本的にリンには甘いから、断りはしないだろう。
 とはいえ、今から引き返してまた来るのも億劫だ。
 もやもやした気分を抱えつつ足を進めていると、やたらと目立つ後ろ姿が目に入った。
 周囲より一際高い長身と、なびく紫色の髪。高い位置でくくられたそれが人込みの上で揺れている。リンは足を速めてそこを目指した。
「がっくん」
 屋台の前で焼きそばを買おうかどうか迷っていた神威がくぽが、リンの声に振り向き、少し視線をさまよわせた。小さいから見つけられなかったのだ。服の裾を引っ張ると、ようやくリンを見つけてくれた。
「おお、リン殿。こんばんは」
「こんばんは。がっくんもお祭り見に来たの?」
 うむ、と頷く。
「一人?」
「マスターとグミは一昨日から撮影のために遠方へ出かけていてな。来週いっぱいまでは拙者一人なのでござるよ」
 退屈しのぎに来てみたら、偶然祭りに行き当たったということらしい。
「良い機会なので、久しぶりに食事でもしてみようかと思ってな」
「食べてないの?」
「一人で食事をしてもつまらぬし、我々にとってどうしても必要というものでもない。それに拙者、料理は苦手なのでござるよ」
 腕組みをして少々情けない表情をする。いつもはマスタか妹分が作ってくれるのだが、二人ともいないからなおざりにしてしまうようだ。
 リンにとって、『一人きり』は馴染みが薄い。生まれた時から今までずっと、一人ではなかったからだ。マスタがいたし、ミクもいたし、なにより自分自身と密接不可分な片割れがいる。
「……寂しい?」
「そういうわけでもござらんよ。マスターは家を空けることも多いゆえ、グミがやって来るまで一人で過ごすことは何度もあった。留守番を心細がるほど幼くもない」
 「しかし、お気遣いは感謝する」がくぽが目を細めて言った。
 せっかく行き会えたことだし、とリンは一緒に見て回らないかと彼を誘う。一人はつまらないし、家を出る前、夜一人で出歩くなんて危ないとマスタが気を揉んでいたので、途中からだけれどがくぽが一緒だったと伝えれば安心させることもできるだろう。
「ふむ、こういった場は誰かと見た方が楽しいものであるしな」
 がくぽが快諾し、「では、はぐれぬように」右手を差し出してきた。リンがその手を取って歩き出す。身長差があるのでぶら下がっているような姿勢になって、それがなんだか面白かった。リンはロープ遊びのようにがくぽの手を振り回す。「これこれリン殿、人にぶつかってしまう。暴れてはいかん」苦笑まじりにたしなめながら、がくぽがリンの手を引き留めた。
「あ、がっくん射的があるよ。やってみていい?」
「構わぬよ」
 射的屋のおじさんからライフル銃を受け取ってコルク玉を銃口に詰め込む。戦利品はマスタたちへのお土産にするつもりだ。
 ほとんど台に乗り上げるようなかたちで身体を伸ばし、まずは簡単そうなキャラメルを狙う。片目を閉じて映像インタフェースの精度をアップ、発射角とコルク玉の速度を計算して慎重に狙いを定めると、リンは勢いよく引き金を引いた。
 弾丸は見事に命中したが、ほんの少し後退しただけで箱は倒れてくれなかった。
「もう一回!」
 ずずいっとさらに身を乗り出す。なんだか背中の辺りがスースーするが気にしない。
「……リン殿、その体勢、少々はしたないのではないか……?」
「がっくんは黙ってて!」
 再度、同じ的をめがけて弾を発射する、まだ落ちない。「なんのぉ!」発射角は正確だ、弾もちゃんと狙い済ました位置へ飛んでいる。それなのに落ちない。リンは原因を正しく把握していた。弾の速度が遅すぎる。コルク玉という空気抵抗の大きな弾丸は、発射から的へ届くまでの減速が著しいのだ。
 結局、持ち玉の五発すべて使ってようやく一つ落ちてくれた。
「……むー! これわざと弱く出るようになってんじゃないの!?」
「お嬢ちゃん、いいがかりはよしてくれよ」
 じたばたと台の上で足をばたつかせながら抗議すると、そういう文句には慣れているのか、射的屋のおじさんは薄笑いでいなしてきた。
 二度目のチャレンジをしようと台を飛び降りた横から、がくぽがスイと小銭を射的屋の前へ置いた。
「では次は拙者がやってみよう」
「毎度」
 リンと同じように弾を込め、リンとは違ってその場に立ち構える。腕を真っ直ぐに伸ばす。照準を定めて引き金を引くと小箱に入ったチョコレートがぽとりと落ちた。
 そこからは独壇場である。がくぽの銃は次々と獲物を撃ち落していき、五発すべてが戦果を上げた。「お見事だねえ」駄菓子を袋にまとめて入れながら、射的屋が肩をすくめる。
「良かったじゃないか、お嬢ちゃん。お兄ちゃんがかたきを討ってくれたな」
 リンがぶすっと頬を膨らませる。
「あたしだってがっくんくらい腕が長かったら落とせたもん。てゆーか別にお兄ちゃんじゃないしっ」
 なんだあの腕の長さ。伸ばしたらもう、的までの距離が数十センチしかないではないか。あれなら弾丸の速度は初速からほとんど落ちることなく的へと届く。
 まったく、なぜマスタは自分の身体をこんなふうに作ったのだろう。がくぽほど大きいのも困るが、せめてルカくらいにはあっても良かったんじゃないか。身長とか、他の部分とか。
 そうしたらきっと兄妹に間違われることだってなかった。己と彼はれっきとした対等な友人同士なのだ、こちらの方が下だと見られるのは面白くない。
 屋台を離れてからも、リンは肩を怒らせていた。
「失礼しちゃうよね。まるであたしの射的が下手だったみたいじゃん。がっくんはリーチがあるんだからズルしたようなもんだよ」
「そう言われても、この身はマスターが作られたものであるのでなぁ」
 困り笑顔でなだめてくるがくぽ。その情けない顔にほだされて、「ま、いっけどぉ」仕方ないから許してやるというポーズで言った。
「ならば、お詫びにこれはリン殿へ差し上げよう」
 先ほどの戦利品を眼前へ持ってこられて、リンが小さく目を丸くした。
「え、いいよ。がっくんが取ったやつだし」
「リン殿があまりに熱中しておられるのが楽しそうに見えたのでやってみたのだが、拙者甘いものは得意ではないのでござるよ。リン殿のところは家族が多いのだし、皆で食べてはくれぬか」
「ん……じゃあ。ありがと」
「なに」
 袋を受け取って自分の分と一緒にする。まあ、確かにキャラメル一つよりは格好がつくので、助かったと言えば助かった。
 右手でがくぽの手を握り、逆の手に駄菓子の袋をぶら下げて、他の出店も色々と見て回る。とはいえ地域の小規模な祭りだ、すぐに終点まで来てしまって、二人はどん詰まりの広場で端の縁石へ腰を下ろした。目の前ではカラオケ大会が行われている。少々うるさい。
 途中で買い求めたたこ焼きを頬張りながらその様子を見物する。真剣勝負な参加者は少なく、誰でも知っている映画のテーマ曲だとか、有名なアニメの主題歌などが大半である。中にはわざと笑いを誘うような歌い方をしている人もいた。こういった場では熱唱したところで盛り上がるとは限らない。空気を呼んだ正しい選択と言える。
 少し離れた場所で時に笑い合い、時に自分だったらどんなふうに歌うかなど話し合う。なかなか新鮮な体験だった。マスタやミク、ルカとは話し合うというより教わると言った方が正しいやり取りしかしていないし、レンとは話し合うまでもなく息を合わせられるのでそういったものをしたことがなかった。
 これぞ対等、レンと揃って子ども扱いをされることが多いので、気分が良い。
「しかし、たこ焼きというものはかくも美味いものであったか」
 不意にがくぽがしみじみと呟いた。
「へ? たこ焼き食べたことなかったの?」
「そういうわけではないのだがな。たこ焼きがというより、リン殿とする食事が美味いのかもしれぬ」
「ふーん?」
 確かに、己も今の時間が楽しい。マスタもみんなで食べるのが良いと言っていたし(だからどれだけ忙しい日でも食事は全員で摂る)、そういった『人の価値観』をプログラムされているのかもしれない。
「じゃあ、がっくん家の人たちが帰ってくるまで、あたしががっくんにご飯作ってあげようか? 朝と昼はレコーディングとかあるからちょっと難しいかもだけど」
 必要ないから一人では食事をしないと言っていた。けれど自分がいれば楽しいから食事をしてくれるようだ。楽しい時間は多い方が良い。それに、こちらはこちらで最近料理の勉強中なのだ。いつも簡単なつまみしかない打ち上げに彩を添えるためである。
 言い方は悪いががくぽに味見役になってもらって、次の打ち上げでは手の込んだ料理をマスタに供したらきっと喜んでくれるに違いない。
「それはありがたいが……迷惑ではござらんか? そちらでは皆が揃っての食事が通例なのであろう?」
「平気だって。五人もいるんだから一人くらいそっちに移っても賑やかさは変わんないし」
「そうか……? では、よろしくお願いいたす」
「うんっ」
 ニカッと笑ってリンは握手の手を求めた。
 
 
 
「がくぽさんのところに?」
 おやつの期間限定黒糖ポッキーをくわえたミクが、どこかきょとんとした口調で問い返した。
「まあ、夜だけなら食事当番代わってもいいけど」
「ありがとっ。マスター、いい?」
 自分も黒糖ポッキーを一本つまみながら、コーヒーブレイク中のマスタへ視線を向ける。彼はマグカップをテーブルに置いて顔を上げた。
「それほど遠いわけでもないし、あまり帰りが遅くならなければ構わないよ。がくぽくんに迷惑をかけないようにね」
「判ってるって」
「毎晩ご飯作りに彼の家へ、かぁ。それってなんか通いづ」
「おおっとミク、それ以上はイエローカードだよ。ていうかどこで覚えたんだい、そんな言葉……」
 どうして唐突にマスタが慌てたのか理解できない鏡音リン十四歳だった。通い詰め? 毎日赴くつもりだから、別に間違えてはいないと思うけれど。
 「ミク、今のはちょっと……」何故かルカまで忠言していた。通い詰めという言葉のなにがまずいのだろう。
「ほんの冗談なのにー」
 拗ねたような表情でポッキーを一口に食べ終え、新しい一本を取り出す。
「ところでお姉ちゃん、ここにポッキーがあるということは、今はポッキーゲームをするべき場面だよ」
「そんな場面はいりません!」
 ルカが反応する前にマスタの悲痛な叫びが上がった。通い詰めのまずさは判らないけれど、ポッキーゲームのまずさは判る。マスタが止めてくれてよかった。そうでなければリンは出来る限りの速度でポッキーをすべて口に入れなければならないところだった。
 胡乱な目でマスタを見遣ったミクだが、ハッと何かに気づいたような顔をしたかと思うと、顎に手を当てて考え込み始めた。
「そうだよね、わたしが間違ってた」
 判ってくれたかとマスタがホッとしたのも束の間、
「考えてみればポッキーゲームってポッキーが邪魔だよね。じゃあ、ポッキーなしでポッキーゲームをしよう」
 それはもうゲームでもなんでもない。
「……ルカ、ちょっと部屋でミクを落ち着かせてきて」
「はい」
 頭を抱えたマスタの搾り出すような懇願に、ルカが「申し訳ありません」と表情で伝えながら頷く。二人がリビングを出た後、「ほんとに思考プログラム書き換えてやろうかな……」まるで呪詛のようにマスタが重々しく呟いた。
 こんなふうに時々困ることはあるけれど、あの二人は幸せそうだ。恋というものをしているせいだとは知っている。知っているけれど、多分、理解できてはいない。
 ミクが今までと違うから、マスタや自分たちのことは好きじゃないのかと尋ねたことがある。そんなことないよと彼女は否定した。それなら何故、ルカが生まれる前と今はあんなにも違うのだろう。表情から声音まで、彼女の何もかもが少しだけ変わって、つまり全体的にはがらりと変わったということだ。
 恋というものをたくさん歌にはしたけれど、自分自身は何も変わらない。
 『それ』は、マスタやレンを好きな気持ちとどう違うのだろう。
「マスター」
「ん?」
 テーブルを回り込んで、ソファ上のマスタへ抱きつく。今朝ひげを剃ったばかりの顎から、アフタシェイブの硬質な香りがかすかに漂ってきた。
「おっ、なんだい急に。最近はめっきり甘えてこなくなってたのに」
「へへー」
 ミクがよくルカに抱きついているから、その真似だ。こうしていると変われるのかもしれない。ちょうどレンもいないし、久しぶりにマスタの膝が恋しくなった。
 うっすらと剃り跡の残った顎先が頭上にあって、運動不足のせいかちょっと脂肪の乗った腹部の感触が面白い。学生時代から頭脳労働一辺倒で、力仕事をしたことのない手は男性にしてはしなやかだ。その手が髪を撫でてくる。マスタの腰にまとわりつきながら、リンはしばらく手のひらの感触を味わった。
 
 材料を買い込んでがくぽの自宅を訪れると、きっちりと整理整頓されたリビングへ通された。一歩間違えば神経質にも見える几帳面さだ。いつもこうというわけではなく、することがないから何度も掃除をしてしまった結果だという。
 調理器具の場所や使い方を簡単に教わってから、早速仕度にかかる。とはいえ、まだ料理本と首っ引きで作業するような状態なので、手際よくとはいかない。加えて使い慣れない器具なものだから、予想より一時間も余計にかかってしまった。最初のあたりで作ったものなどはとうに冷めている。ああ、渾身の卵とじが。
「ごめんね、待たせちゃって」
「一向構わん。リン殿が頑張って料理をされている姿を見ているのも楽しいものであった」
 あたふたしている姿を見られていたかと思うと、ちょっと恥ずかしい。それはまあ、何度も手伝おうかと進言されるのも致し方ない。料理の腕を上げるためなので頑として断ったけれど。
「では、いただきます」
 がくぽが高野豆腐へ箸を伸ばす。思わずじっと行く末を見守るリンである。ぱくり一口。表情は変わらない。
 何度か咀嚼して飲み込んだがくぽは、かすかに息をついて「うまい」感の入った一言を洩らした。
「ほ、ほんと?」
「うむ。ご家族も喜ばれているのではないかな?」
「ま、まあ、みんなおいしいって言ってくれるけどさ。それは家族だもん、ちょっと失敗しても食べてくれるし……」
 そもそも、いつもはここまで手間隙かけたものなど作っていない。
 自分でも食べてみる。あ、なんていうか、わりと大丈夫だった。もちろん味見はしていたけれど、冷めてしまったのが心配だったのだ。温かかったらもっとおいしかったんじゃないかな、と思わせる味だったから、明日はリベンジを果たそうと思う。
「そういえばさ、がっくん家ってビデオディスクいっぱいあるんだね」
 食事をしながら、リビングで見たディスクラックを思い出して話題に上らせた。リンの背丈より高く、リンが両手を広げた幅より広いラックに、ぎっしりとパッケージが詰め込まれていた。映画作品がほとんどだったように見えた。
 がくぽがつられたようにダイニングと繋がっているリビングへ目をやって、
「拙者もグミもまだまだ製作から日が浅いゆえ、映画で仮想体験することでデータを増やそうというマスターの発案でな。情操教育のようなものだとマスターは仰られておったが、さて、身についているかどうかは怪しいところでござるな」
「ふーん。後で見せてもらっていい?」
「もちろんでござる。何か観たいものがあればここで観ていっても良いし、でなければお貸ししても良いが」
「うん。ありがと」
 マスタの意向により、リンの家のテレビはリビングの一台きりで、日に一度ならず争奪戦が行われる(主にリンとレンにより)。映画なら少なくとも二時間はかかる。それだけの時間、誰もテレビを必要としないというケースは想定しにくい。
 あまり遅くなるなと言われているけれど、映画を一本観るくらいなら大丈夫だろう。
 食事と後片付けを終えてから、リンは早速映画を物色し始める。自宅にもある程度の枚数が揃っているけれど、こちらと比べたら足元にも及ばない。左上から順繰りにラックをなめていく。
「恐いのとかもあるんだ」
「そちらはマスターの趣味が色濃いな」
「うちにあんまりないんだよね。こっちのマスターはこういうの好きじゃないみたい」
 ひょい、と三作ほどシリーズの続いているらしい一枚を取り出した。ホラー映画らしい、表も裏も薄暗い画像が並んでいる。
「それが良いか?」
「うん。ほとんど見たことないからどんなもんか見てみたいかも」
 がくぽがプレーヤを操作してディスクをソーサへセットする。「こういった物は部屋を暗くせねばならんらしい」マスタの言いつけをきっちり守って部屋の明かりを落とすがくぽ。液晶画面のほの青い光だけが室内を照らしている。なるほど、それっぽくてなんだかワクワクしてきた。
 横並びに腰を下ろして映画の開始を待つ。
 リンがワクワク出来ていたのはここまでだった。
 
「ぴゃあああぁぁぁ!!」
「だ、大丈夫でござる! あれはただの殺人鬼ゆえ!」
 殺人鬼は概ねただものじゃない。
 射的と違って的を外しすぎたがくぽの言葉で落ち着けるはずもなく、リンは隣の彼の腕に力いっぱいしがみつきながら悲鳴を上げた。しかし視線は画面からそらせない。だってここで目を背けて、画面を抜け出てきた殺人鬼が襲い掛かってきたらどうする!
 幸い、画面から出てくる気配はないが、その中では今まさに主人公が絶体絶命、血みどろでぐしゃぐしゃのスプラッタがすぐそこに迫っている。
「がっくん後ろ見て後ろ! なんかいない!? 誰か来てない!?」
 なんとなく、死角から誰かが迫ってきているような気がして、半ば涙声で叫んだ。
 律儀にリンの背後を確認したがくぽは、小さく首を横に振ってリンの背中をぽんぽん叩いた。
「心配いらぬ。ここにはリン殿と拙者の二人きり、他には誰もおらん」
「ほんとに? さっきから背中がぞわぞわしてるんだけぴゃああぁ!!」
 斧が斧が斧が。男の人の頭に、なんか飛んだ赤いのだけじゃなくてもっと色んなものが飛び散った。
 混乱した思考プログラムがデータ管理経路を間違える。映像データを正確に伝達してくれず、頭をカチ割られた人物の顔が白人男性ではなく自分自身になっている。嫌だ嫌だ恐い後ろから誰かが斧で斧を振りかぶってほらもうすぐ!
「リン殿、落ち着いてくだされ。……では、背後が不安ならばこうしよう」
 大声で泣き出さんばかりになっているリンを、がくぽの腕が力強く抱き上げた。「ぴゃっ?」悲鳴の途中だったので妙に間の抜けた動揺が口から飛び出た。
 背に固い感触。心持ち斜めに座るような姿勢で、リンはがくぽにすっぽりと包み込まれる。
「これで背後から誰かが襲ってきても安心でござる」
「……う、うん」
 ちょうど主人公が危機を脱したことも相まって、混乱が少しだけ治まった。それに、そうされてみると確かに安心感が先ほどとは桁違いだ。
 ヒートした内部を冷やすために奮闘していた排気機能がわずかに静まる。悲鳴と一緒に絶え間なく吐き出されていた呼気も止まり、リンは手近にあったがくぽの服をぎゅっと掴みながら映画の続きを観始めた。彼の腕はリンを守るようにまわされて両手を軽く組んでいる。
 これが最後の命綱、とばかりに裾を握り締めつつ、横目に画面を注視する。背中が暖かくて不安が軽減されている。
 それから、「ひうっ」とか悲鳴のなりそこないみたいなものは出てきたものの、序盤ほど喚き続けることはなくなり、無事に最後まで鑑賞することができた。主人公がなんとか脱出できたのは良いが、倒されたかと思われた殺人鬼がラストのラストで起き上がったのはいただけない。まあ、シリーズで続いているので仕方ないのだろうけれど。というように理論的な思考を出来る程度には落ち着いていた。
 それでも恐怖の余韻は確かに残っており、リンはしばらくがくぽに抱きかかえられたまま硬直していた。
 カチコチのリンが解凍されるのを待っていたがくぽが、少々申し訳なさそうに頭を垂れた。
「……もう少し平和なものの方が良かったようでござるな。浅慮であった、すまぬ」
「へ、平気だよこれくらい。それに、観たいって言ったのあたしだもん。がっくんは悪くないよ」
 どうにか自分の力だけで動けるようになったリンが長い両腕から抜け出す。
「ありがと、面白かった」
 強がりである。かなり精巧に作られているはずの表情制御機能がうまく働いていない。奇妙に引きつった笑みを向けられたがくぽは「うむ」と微苦笑で応えた。
「遅くなるとマスターが心配するから、そろそろ帰るね」
「ああ、今日はかたじけなかった」
「……でね」
「なんでござろう?」
「……できれば、送ってってほしいんだけど……」
 がくぽが苦笑を深くする。「もちろんでござる」立ち上がってリンの斜め後ろ、背後を守る位置へと身体を移す。
 自宅まで送ってもらう間、リンはがくぽの手をしっかり握って離さなかった。



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