リンケージ 02


 その後も夕飯を作ってやる約束は守られ(しかし映画鑑賞は刺激の少ないものに限定された)、五日間が過ぎ去る。
 ぶきっちょな手つきでサラダに使うレタスを剥いているレンを眺めつつ、リンはミクとルカがやってくるのを待っていた。ルカは己がリビングに入った頃にはもう起きてマスタにコーヒーを淹れたりしていたのだが、お寝坊なミクを起こしに行ってまだ戻ってこない。
 今日は何を作ろうかなあ。姉が起きてくるまでのわずかな時間、リンは今晩の献立を考え始める。
 健康のためには和食が良いそうなので、リンの勉強もそちらへ傾いている。がくぽが和食好きだったのも好都合だった。
 実際問題、自分たちにとって栄養素は関係ないから、あまりそういった部分を考慮したことがなかったのだ。もしかしてマスタのおなかがポニョッとしてきたのは、おいしいからとフライドポテト(冷凍食品)やらハンバーグ(レトルト)やらばかり作っていたせいだろうか。
 リンはデータベースを探り、ヘルシー料理コーナを順にメモリ上で眺めて行く。ああ、これなんか良さそうだ。ナスの煮びたし。ナスは油をよく吸うから、こういった調理法にするとカロリーを抑えられるらしい。今日はこれに挑戦してみよう。
 などとやっている間にレンの朝食作りは完了する。皿に乗ったトーストが各人の席に置かれて、テーブルの中央にでんとサラダが乗った。
「ミク姉たち、遅いね」
 テーブルに頬杖をつきながらリン。ミクがお寝坊なのはいつものことだけれど、それにしたって遅い。
 マスタが片眉を上げて時計を見遣った。「十時にはクライアントから連絡があるから、それまでに準備しておきたいんだけどなぁ」
 独白を聞き止めたリンが立ち上がり、「ちょっと見てくるね」二人へ告げてミクの部屋へ向かった。
 二階はシーンとしていた。まさかルカまで二度寝してしまったんじゃ、と呆れまじりに推測しながら、ドアの前に到着する。
 ドアはリンの頭一つ分くらい開いていた。その隙間から見える様子では二人とも起き上がっていた。なんだ、起きているんじゃないか。二人ともなにしてるんだか。
 嘆息しかけたリンが停止する。
 いや、本当に、なにをしているんだか。
 リンの内部でシグナルが鳴り響き、ランプが激しく明滅する。リンリンと鳴るシグナル、そしてピンク色のランプ。ええとこの色はどういう意味だっけ? あれ、そもそもピンク色のランプなんてあったっけ?
 ルカにしなだれかかるような姿勢のミクは、リンが見たことのない表情をしていた。
 つと、その視線が上がる。シグナルが警告のために速くなったが間に合わない。しっかり目が合ってしまった。ミクを捉えたリンのレンズアイは、彼女のそれがこちらを捉えたことも同時に察知する。
 わずかにミクの目が細められた。顔を上げて、こちらへ合図を送ってくる。
 リンはほうほうのていで地雷原を逆戻り。のほほんと「何してたの、ミク姉たち」とか聞いてくるレンにぶんぶん首を振りながらなんでもなかったと答え、これ以上一言も喋るものかと口を閉ざす。レンは不思議そうに首を傾げて、トーストにかじりついた。
 キッチンでミクと少し会話をした。彼女の言葉のひとつとして、リンには理解できなかった。特別な『好き』をリンはまだ持ってなくて、「そういうこと」とか言われたって判らない。
 いつか自分もあんなふうになる日が来るのだろうか。あんな幸せそうな顔で、あんなことを……。
「っ!?」
 咄嗟に処理をキャンセル、浮かんできた映像を消去する。プロテクトをかけてしまいたかったけれど、管理者権限までブロックしたら物理的に破壊されない限り二度とそのデータには触れなくなる。それはちょっとまずい気がした。仕方なく、暫定対策としてファイルインデックスだけ外してアクセス順序を最低に設定する。
 もう、犬に噛まれたと思って忘れよう。犬に噛まれたらけっこうなトラウマになるような気がするけれど、慣用句として登録されていたのでリンはそのように思考する。
「リンー、ゲームしないなら俺が使っていい?」
 思ったよりソファでぼうっとしていた時間が長かったらしく、漫画を読んでいたレンが声をかけてきた。「いいよ」ゲームで遊びたい気分じゃなかったので、順番をレンに譲ってやる。彼は珍しいなという表情をした後、いそいそとゲーム機の電源を入れた。
 コントローラを握るレンの後ろ姿を捉える。別になんということもなかった。
 彼が自分にとって特別なのは間違いないのだけれど、それとはもっと違う特別では、なかった。
 
 がくぽははてと首を捻っている。
「リン殿?」
「な、なに?」
「なぜそのように、離れた位置へ座っておられるのだろうか」
 先日から恒例となった食後の映画鑑賞の段である。がくぽの手にはまんまるおなかの女の子が主人公の有名なアニメ映画。
 いつもより身体三つ分は彼から距離を置いたところへ腰を下ろしたリンは、目を合わせないまま応えた。
「別に意味とかないけど。今日は恐い映画じゃないし」
「はぁ……、リン殿がそこが良いのであれば、拙者も構わぬが……」
 がくぽはなんとなく腑に落ちない顔をしながらも頷く。
 いつもは彼の膝に乗って観ていたのだ。ホラー映画でなくても、そこが居心地良かったせいである。マスタにするのと同じ意味でリンは彼に甘えていた。
 しかし今日は駄目だ。膝の上で抱っこをしてもらうというその行為は、どうしても今朝の情景をメモリから呼び起こしてしまう。ごくごく表面的な連想である。別に自分たちはただの友人だからあんなことにはならないが、薄っぺらい理由により恥ずかしさが沸く。
 映画がスタートして、リンはそちらへ意識を集中した。非常に展開の速い物語だ。子供向けのような作画とは裏腹に、懇切丁寧な説明や判りやすい起承転結がない、理解しようとすれば深い海溝に陥りそうな作品だった。
 ので、リンは素直に雰囲気だけ楽しむことにする。
「この歌、耳に残るねー……」
「うむ、マスターもよく鼻歌でうたっておられた。拙者まで曲データを入力されてな、一緒に歌えるようにされてしまったでござる」
 やや頬を赤らめつつ嘆息する。外見とも内面とも、歌のイメージは一致しない。揃って合唱している映像をメモリ上に合成してみたら面白すぎた。クスクスと忍び笑いを洩らす。
「あたしもマスターにデータ入れてもらおうかな。そしたらがっくんと一緒に歌えるよ」
「ふむ……。いや、拙者あの歌は少々苦手で……」
 口ごもりながら控えめな辞退を申し出るがくぽだった。「面白そうなのにー」わざと口を尖らせると、彼は弱りきった表情で「うぅむ」とか「しかし」とかもごもご言った。
 まあ、こんなことで突っかかってもしょうがない。そんな子どもっぽいことはしない鏡音リン十四歳である。
 映画を観終わってからもまだ少しだけ時間があったので、休憩がてら茶を淹れる。
 キッチンに並び立って準備をしている中、がくぽがゆるりと笑った。
「こうしていると、なにやら新婚家庭のようでござるな」
「へっ!?」
「うん? いかがされた?」
 いきなり何を言い出すんだろう彼は。目を丸くしながらがくぽを凝視するが、向こうは頭上にクエスチョンマークを浮かべてリンを見返していた。特に深い意味があって口にしたわけではないらしい。
「あ、あたしとがっくんはただの友達じゃんっ」
「それはそうであるが。ああ、拙者とリン殿では釣り合いが取れぬか。それにリン殿にはレン殿がおられたのだったな」
 これは失敬、と快活に笑う。そう謝られたらそれはそれでなんか面白くない。
「子どもだと思って馬鹿にすんなっ。大体、レンは家族だもん。そんなんじゃないし」
「幼さもまた、可愛らしさであろう。拙者はリン殿のそういった部分も含めて好いておるが」
「好……っ」
 いや待て、これは違う。彼が言っているのはリンがマスタたちを好きだと言うのと同じ意味だ。特別なものじゃない。ミクとルカの間にあるような意味ではない。
「で、でもみんな、大人の方がいいんでしょ? 男の人っておっぱい大きい女の人好きじゃん」
「それは……個々の好みの問題であると思うが……」
「がっくんはどうなのさ?」
「…………」
 沈黙しやがった。
「……大人の女性が、皆大きいとも限らぬわけであることだしな」
 論点をすり替えやがった。
「やっぱりがっくんもそうなんじゃんっ。サイッテー。ほんとはルカ姉とかが来た方が、がっくん嬉しかったんじゃないの」
 淹れられた茶はすっかりぬるくなっていたけれど、二人ともそれには構わなかった。
 がくぽが困惑気味に眉を下げる。
「そのようなことはござらん。リン殿が来てくれて、拙者はまことに嬉しいでござるよ。妹がもう一人できたような気になれた」
 あれ、なんだろう。
 ちょっと悲しくなった。
 感情制御プログラムが誤作動でも起こしたのだろうか。ここで悲しみを生成するロジックなんて通るはずがないのに。
 なんだろう。
 今、あまり彼のそばにいたくない。
 
 
 
 ミクとルカが『起きて』こないのを口実として、それから三日はがくぽの家に行かなかった。それと同時に撮影へ出かけていた彼のマスタたちも帰ってきて(マスタがお土産をもらっていた)、リンは御役御免、日常へと戻る。
 とはいえ、完全に戻ったわけではないのだけれど。リンが食事当番の日はやたらと内容が豪華になった。今まではけっこう豪快だったので、マスタは随分と喜んだものだ。
 そんなマスタの喜ぶ顔が目に浮かぶ今日、リンは食事の材料を揃えるために買出しへと向かっていた。レパートリィも増えたので、食材だけでなく調味料のたぐいも消費が激しい。みりんと料理酒が切れかけていたので購入。重い。
 両手に袋を提げて歩く道すがら、異様に目立つ姿を見つけた。
 相変わらず派手な見た目だ。こんなに遠くにいるのに見分けがついてしまう。袋が重くて心持ち視線が下がっていたにも関わらず、である。
 せめてあの鬱陶しい長髪を切ってみてはどうか、などとじっと見つめながら考えていたら、視線をキャッチしたのかがくぽがこちらへ目を向けた。「おお」と口が動いて、歩み寄ってくる。
「お久しぶりでござる。買い物中でござったか?」
「もう終わって帰るとこ。がっくんは?」
「マスターの命で郵便局へ行った帰りでござる」
 数日間のブランクのせいか、がくぽが隣にいてもあの妙な心境にはならなかった。途中までは同じ道筋なので、成り行きで連れ立つかたちになる。
「重そうでござるな。拙者が持とう」
 リンから袋を受け取ろうと差し出された手に、少しだけ躊躇した。
 ごつごつした大きな手だ。マスタのそれとは受ける印象が全然違う。
「大丈夫、いつもこれくらい自分で持ってるし」
「女性に荷物を持たせて己は手ぶらというのは、男にとって恥なのでござるよ。拙者を助けると思って預けてくだされ」
「そんなもんなの?」
 マスタは平気で買い物を頼んでくるし、レンだって持ってくれても途中でへばってかわりばんことか言い出してくる。彼らが軟弱なだけなのか、それは青年期層だけが持つ矜持なのか。
 「じゃ、お言葉に甘えて」袋を差し出すと、彼は軽々とそれを持ち上げた。
 商店街を抜ければ住宅街に入るので、人通りは多くない。平日の昼間となればなおさらだ。もう少しすれば学校を終えた小中学生などがやって来る時間帯だが、今はまだ犬の散歩をしている人とたまにすれ違うくらい。
「先日は助かった。礼を言うでござる」
「んーん。あたしもけっこう楽しかったし。最後はミク姉のせいでグダグダになっちゃったけど」
「故障では仕方あるまい。修理に三日もかかるとなれば、よほど大きな損傷であったのだろう」
 本当のことはあまりにも恥ずかしい顛末なので、がくぽにはミクとルカが揃って故障し、レンだけでは対応しきれないから家にいなければならなくなった、と説明していた。どれくらい感情プログラムが単純なら、バカップルが部屋でイチャイチャしてて出てこないとばっちりを食いました、などと言えるというのだ。
 つと、ビルのガラス面に映った自分の姿が目に止まった。
 低い身長と短い手足、幼い顔立ちにそれを誇張する大きなリボン。
 ショートパンツから伸びる素足と、上着の裾から覗く腹部。
「…………、……?」
 ん?
 どういうわけか見慣れているその姿を仔細に分析した途端、内部を循環している冷却液がその速度を増した。それでも間に合わない、体表にコーティングされた熱放射用の特殊塗料が、熱で化学反応を起こして朱色に変化する。
「? リン殿、いかがした? おなかが痛いでござるか?」
 空いていた両手で自身の腹部を覆ったリンに、がくぽが心配そうな声で問いかけた。「な、なんでもない……」か細く答え、リンは俯きがちに歩き出す。
 もう少し胸が大きかったらいいなあとか、もっとスラッとした身体だったらよかったのになあとか思ったことはある。それはつまり、今の自分にそういったアピールポイントがないと判断していたせいだ。ぺたんこの胸とか、詰まった手足だとか、くびれのないウェストだとか。
 だから風で服がめくれようとなんだろうと構ったことはなかった。見られたところでどうせ幼児体型だ。それに熱暴走を防ぐためには熱をこもらせる洋服の面積など少ない方がいいに決まっている。そういう合理的な理由だってあるのだ、このあらわになった手足や腹部には。
 なのに、今、この瞬間。
 どうしようもなく、『恥ずかしく』なった。
「調子が悪いのであれば、どこかで少し休んだ方がいいのではないか? リン殿のマスターをお呼びいたすか?」
「ほ、ほんとに大丈夫。うちすぐだし、早く帰ろうよ」
 おろおろするがくぽへやっとのことで返事をすると、リンは足早に家路を急いだ。がくぽはまだ心配そうな顔をしていたが、ひとまず続いて歩き出す。
 と、そこへ。
 バウン!と大型犬の吠え声が聞こえてきたかと思うと、前方から黒い影が猛スピードで迫ってきた。瞬時にがくぽの目が鋭くなり、リンの前へ立ちはだかろうとするが影の方が速い。
「ぴゃあああぁぁ!?」
「リン殿!」
 小さくジャンプをして飛びかかってきた犬に、リンはなす術もなく尻餅をつく。肩を前脚に押さえられて身動きが取れない。唾液に濡れた犬の牙が眼前で鋭く光っている。
 もう悲鳴も出なかった。声帯パーツは微動を繰り返すばかりで声を発しない。メモリには犬に襲われた時の対処法などインプットされていない。リンの思考は適切な処理を見つけ出せずに停止する。
 がくぽが袋を投げ捨てて犬へ掴みかかろうとした。
 べろん。
「ぴゃっ!?」
 犬はリンを捕らえたまま、その顔をべろべろ舐めまわし始めた。わふんわふんと嬉しそうに尻尾も振っている。
 じゃれていた。
「こら、ジェバンニ!」
 犬の後方から飼い主らしき女性が懸命に駆けてくる。「うぉう?」飼い主の声に反応したか、犬がリンを舐めるのをやめて振り返った。
 女性がリンからジェバンニを引き剥がして、首輪にリードを取り付ける。リンはまだ呆けた表情で座り込んだままだ。
「ごめんなさい、リードが外れたとたん走り出しちゃって……」
「あ、だ、大丈夫です……」
「元々人懐っこい子なんですけど、ここまでって初めて見ました。よっぽどあなたを気に入ったんですね」
 申し訳なさそうに、しかしわずかに苦笑を覗かせながら女性は言った。
「本当にごめんなさい。お兄さんも、お騒がせしました」
「う、うむ、以後気をつけられよ」
 何度も頭を下げながら女性が去り、後にはへたりこんだリンと呆然としているがくぽが残された。ジェバンニは名残惜しそうにリンへ首を向けていたが、飼い主に引っ張られて寂しそうに遠ざかる。
「……災難であったな」
「死ぬかと思った……」
 投げ出した袋を取り上げたがくぽが中をあらためる。幸い、割れたり破れたりしたものはなかった。
「まあ、大事なくて良かったでござる」
 差し伸べられた手を、リンは掴まない。「リン殿?」停止したままのリンへ、戸惑いがちな問いかけが投げられる。
「……えっと、ね」
「いかがした?」
「つまり、あたしのハード制御用機能がさっきのショックでフリーズしちゃったというか、神経回路伝達に支障が出てるっていうか」
「ああ、腰が抜けたのでござるな!」
 ぽんと手を打ってがくぽ。はっきり言いやがった。
 なんて失態だ。噛まれてもいないのにトラウマになりそうだ。マスタに頼んでさっきの記憶データを消去してほしい。彼の場合、「それも経験だよ」とか言って消してくれないだろうけど。
 がくぽは袋を片手にまとめると、リンに背を向けて腰を落とした。
「では拙者がおぶさっていこう。リン殿、どうぞ」
 いやどうぞとか言われても。
「少し休んでれば回復するから!」
「しかし、このような往来で座り込んでいては危険でござる。自動車が通らぬとも限らん」
 確かに彼の言葉どおりなのだが、だからといってこの年になって外でおんぶされるなどプライドが許さない。赤ん坊じゃあるまいし、そんな恥ずかしいことができようか。
 さっさと自動修復機能が仕事を全うしてくれないかと願うものの、いまだエラーチェックすら終わっていない。衝撃が大きすぎたせいで完全スキャンをかけているようだ。このままでは少なくとも数十分、ここで腰を抜かしていなければならないだろう。
 道端に涙目で座り込んでいる少女と、その傍らでぼけっと突っ立っている青年。怪しすぎる。悪くすればがくぽが警察のお世話になってしまうかもしれない。そろそろ往来に小中学生が現れ始める時間だ。
 「うう……」リンは小さく唸ると、仕方なく彼の背に腕を伸ばした。
 手には袋を、背にはリンを抱えたがくぽが立ち上がる。視点が高くなって、リンは彼の肩越しにその光景を眺めた。
「それでは、しっかり掴まっていてくだされ」
 安定した足取りで歩き始める。ゆらゆらする景色をリンは無感動に眺めている。
 運悪く、下校中の中学生の集団と鉢合わせた。無遠慮に見てくる視線に、リンが眉をしかめる。
「ロリ?」
「誘拐?」
 失礼な言い草が届く。ギッと睨んだら彼らは気まずそうに目をそらして足早に去っていった。
 誰がロリだ。何が誘拐だ。
 やっぱり、もっと大人の姿が良かった。そうしたらあんなことを言われずに済んだのに。
「気にせぬ方が良い。彼らも悪気があったわけではないだろう」
 軽くリンを揺すってバランスを持ち直しながらがくぽがとりなしてくる。
「悪気がないなら余計悪いよ」
「はは、そうかもしれぬな。彼らももう少し成長すれば気遣いもできるようになるのであろう」
 成長、か。
 リンはがくぽから手を離すと、両腕をいっぱいに伸ばしてみた。「危ないでござるよ」崩れかけたバランスをがくぽが咄嗟に引き戻す。
 エラーチェックが全然終わらない。ある一点で、解析不能データを検出しているせいだ。そこでやり直しになってしまって、先に進めないのだ。
 肩越しに見えるこめかみから顎にかけてのラインはつるりとしている。アフタシェイブの香りなどしない。掴まっている首筋にも、他のどんな部分にも余計なたるみなどない硬い身体。低くて落ち着いた声。目立つばかりの、どう頑張っても目に入ってしまう色鮮やかな長髪。
 リンの大好きなマスタとは全然違う。
 リンは解析不能データを強制スキップする。
 十五分ほどで自宅へ到着し、インタフォン越しに事情を説明するとレンが玄関を開けてくれた。
 まだ機能が回復していないリンをレンが受け止めつつ、がくぽへ視軸を合わせる。
「なんかごめん、リンが迷惑かけたみたいで」
「大したことはござらん。リン殿は小さくて軽いゆえ、ここまで来るのも苦ではなかったしな」
「ふぅん……」
 少しだけ不満げに、レンは相槌を打った。
「リン、一人で立てる?」
「まだ無理……。ちょっと支えてて」
「うん」
 体格がそう変わらない二人だが、そこは男の子、レンはしっかりとリンの背中を支えてやる。
 そうしてもらいながらリンががくぽを見上げた。というか睨みつけた。
「が、がっくんの馬鹿!」
「うおっ!? り、リン殿?」
「もうがっくんとなんか遊ばないんだから! あたしに触らないで近づかないで顔見せないでっ」
 言うだけ言って、激しくドアを閉める。
 ドアの外側でがくぽは茫然自失していた。
「……拙者、なにかリン殿の不興を買うようなことをしてしまったのだろうか……」
 くるりときびすを返し、とぼとぼ家路に着く神威がくぽだった。
 そしてドアの内側でも同じように、レンが茫然自失していた。
「リン……今の、なに?」
「なんでもない!」
「がっくんと喧嘩したの?」
「してないよそんなの!」
 さあ訳が判らない。どういうわけか喧嘩もしてないのに一人で怒っているらしいリンを引きずってリビングまで連れて行くと、ソファに座らせた。
「ねえリン、何があったのさ?」
「なんでもないってば。もー、レンもどっか行って。一人にしといて」
「でも……」
「でないとマスターにあのことバラすよ」
 なんともひどすぎる脅迫だ。あのことって、あのことだろう、他にない。ぐぅっと唸ったレンは、おとなしく引き下がった。
 一人きりになったリンは、回復するまでグルグルする解析不能データに振り回されていた。
 なんだかがくぽのことがすごく嫌だ。触りたくないし声も聴きたくないしそばにいたくない。
 ああ、それは。
 ミクが言っていたことと、まったくの正反対だ。
 
 ルカの視界は青に染まっている。ここ数日間、毎晩そうだった。これからもそうなのかもしれない。
 目を閉じてと微笑みかけられてそれに従う。唇が触れ合い、ルカのメモリは初音ミクに翻弄される。
 いっそ繋がってしまいたい。
 うなじから指をもぐりこませて青い髪を撫で梳くと、彼女は少しだけ笑んだ。
「ねえミク、たまには自分の部屋で寝たほうが」
「やだ」
「……どうせスリープ状態になったらデータなど増えないのだから、同じことでしょう」
 「違うよぅ」眠る時には外されるヘッドフォン、あらわになっている耳朶へ噛みついて、そのままあご先まで唇を這わせてくる。
「たとえデータにならなくたって、お姉ちゃんと一緒だったっていう事実はあるもん。お姉ちゃん、世の中はデータだけで構成されてるわけじゃないんだよ」
 データの塊とは思えない言い草だったが、そういうアバウトさを疎んじるほど、ルカも冷酷ではない。
 ポーズばかりの渋面を作りつつ、両腕は彼女の背に。唇から侵略される。髪をかき回してくる手のひらにすら、暴君の気配が漂う。
「ルカ姉ー……と、ミク姉もどうせいるんでしょ? ちょっといい?」
 ドアの向こうから届いた呼び声に、ルカが一瞬硬直した。「ん?」ミクは平気の平左、顔を上げてドアを見遣る。
 ルカに襲いかかっていた上体を起こすと、「どうしたのー? 入っておいで」リンへ声をかけた。
 おずおずとドアを開けたリンは枕を抱えていた。彼女ご愛用の品である。
「……今日、一緒に寝てもいい?」
 ミクとルカが顔を見合わせる。この姉思いな可愛い妹、今までは邪魔をしてはいけないと夜は絶対に近づいてこなかったのに(違う可能性も考えられるけれどここは良い解釈をしておく)、今日に限ってどうしたことだろう。
「いいけど、どうして急に?」
「なんか……レンと寝るのやだったから」
「レンくんと何かあったの?」
「別に、何もないけど」
 レンも男だもん。小さく小さく呟かれたそれを、高性能センサはこともなげにキャッチする。
 「も」ということはレン自身になにか問題があるわけではないのだろう。彼を除いた男性といえばマスタだが、夕食時の様子を見る限りでは、マスタに対して妙な態度を取ったりはしていなかった。どちらかといえばいつもより甘えていたくらいだ。なんというのだろう、トラップばかりのダンジョンで安全地帯を見つけたというような。
 あと、リンと親しい人の中で男性というと……。
 二人は同時に思い至る。
 即座にミクが近距離プライベート通信の要求を送った。ルカも回線を開けてそれに応じる。
――――お姉ちゃん、これはひょっとしてアレかなっ。
――――だと思うけれど、ミク、あまり面白がらないように。
 少女たるミクへ忠告も忘れないルカだった。
――――そっかー、リンちゃんもとうとう……。これは明日はお赤飯だね。
――――だから、面白がらないでと言っているでしょう。
――――ここは姉として親身に相談に乗ってあげないといけないよねっ。
――――…………はあ。
 わざわざ通信上で判るように溜め息をつくルカだった。
 二人の真ん中へリンをいざない、ベッドへ三人で川の字になる。
「で、どうしたのかな? お姉ちゃんたちに言ってごらん?」
 ものすごく楽しそうなミクに怪訝そうな顔をしたものの、リンは小さく吐息をつくと、おもむろに口を開いた。
「あたし……がっくん嫌いなのかも」
「……え?」
 予想と逆の告白に、ミクとルカが目を丸くする。
 リンが毛布を口元まで引き上げて軽く目を閉じた。
「だって、がっくんといるとなんか苛々するんだもん。がっくんの顔見ると変に処理速度落ちるしさ、おかげで負荷かかっちゃって内部温度も上がるし」
「……あー、えーと」
 ミクがずるりと崩れ落ち、ルカはどう言ったものかと額を押さえた。
――――どうしよう?
――――おそらく、私たちが説明してもリンは判ってくれないんじゃないかしら。
――――だよねえ……。
 ミクはこっそり嘆息すると、リンのぷにぷにほっぺを指先でつついた。「なにすんだよぅ」リンが顔をしかめてルカの方に逃げた。
「あっ、駄目だよリンちゃん! お姉ちゃんにくっついていいのはわたしだけなんだからっ」
「そんなことで対抗心を燃やさないで」
 やれやれとミクを諌めつつ、ルカがリンを抱き寄せた。見る間にミクが涙目になる。ええ、これくらいで? リンの両目が驚愕に見開かれた。
 ルカの右手がミクの頬へと伸ばされた。柔らかく撫でてから、指先が目元へすべる。
「私が好きなのはあなたなのだから」
「……そうだけどぉ」
 ぷんと頬を膨らませたミクは、頬を撫でる手を取ってその指先に噛みついた。ちょっとした抗議行動であるそれはリンの目をそらさせるに充分で、彼女は頭まで毛布にもぐりこんだ。
「人がいるところでイチャイチャすんなよぅ……」
 呟きは毛布に阻まれて二人に聞こえない。
 「ま、とにかく」毛布をめくってリンを引っ張り出し、ミクは軽く苦笑する。
「それ、がくぽさんが悪いんじゃないんだからね? あんまり冷たくしちゃ駄目だよ」
「……だって。なんか、やだ」
 何が嫌なのか判らないまま、リンはただ感情プログラムの生成する感覚だけを言葉に変える。
「リンは優しい子だから大丈夫よ。いつかきっと、正しいものが見えてくるでしょう」
「正しいもの?」
「ええ。あなたが嫌だと思っているものが、本当はなんなのか」
「本当って、なに?」
 内緒、と二人の姉は同時に答えて、寝かしつけるようにリンを両側から包み込んだ。
 納得いかない表情をしていたものの、柔らかな愛情に包まれたリンは次第にまぶたが重くなってきてしまい、スリープ準備が始まる。
 すべての処理が落ちる直前、ぬくもりに何かを思い出した。とても大きくて、硬質で、優しい何か。
 リンはそれをマスタだと判断する。
 シュン、と小さく音を立ててリンがスリープ状態に入ったのを確認したミクが、その髪をそっと撫でる。
「リンちゃんには、まだちょっと早いのかな」
「そうね。ここまで意識しておいて気づかないのもすごいと思うけれど」
「でもがくぽさんかー。確かに最近仲良かったもんね。女の子はお父さんに似てる人を好きになるって言うし、リンちゃんパパっ子だから、大人の人が良かったのかな」
 外見はまったく違うけれど、穏やかな雰囲気とかはなんとなく近いような気もする。
 彼がリンをそういう対象として見られるかどうか、という点はともかくとして、リンがそういう感情を覚えられるのならそれは喜ばしいことだ。いつ気づくのかは判らないが、幸い自分たちにはいくらでも時間がある。ちょっとくらい回り道したっていいだろう。
 ルカも一緒にリンの寝顔を眺めながら、「それなら」どこか悪戯に言い出す。
「私もミクも、マスターに似ているということになるけれど」
「ええ? 全然似てないよ。お姉ちゃんとマスターが被るとこなんて一個もないってば」
 ルカはクスクスと笑い、
「ミクとマスターはけっこう似ていると思うわ」
 「……うえぇ」ミクが本気で嫌そうな顔をした。
「嫌なの?」
「おぢさんに似てるって言われて喜ぶ女の子はあんまりいないと思う」
 丸まった背中とぼさぼさの髪を思い出す。どこかぼんやりした顔立ちと変なノリ。どこが似ていると言うんだ。
「喋り方とか、少し思い込みが激しいところとか」
「……似てるかなぁ」
「自分では判らないかもしれないわね」
 第一作だから、マスタの内面が反映されているということだろうか。十六歳の少女としては複雑な心境にならざるをえない。
 リンの寝顔へ視線を落としつつ、眠っている彼女へ「似てる?」と問いかける。当然ながら返答はない。
 安らかな寝姿に口元がほころんだ。単に機能のほとんどをダウンさせているだけだけれど、ミクはその姿を「眠っている」と解釈する。
 ボーカロイドはスリープ中にその日のデータを最適化する。その処理過程で時折、内部で映像や音声が再生されることがある。その現象を便宜的に夢と言い表しているのだけれど、分断されたデータを再構築する際に複数のデータが組み合わされて体験していないことを夢として見る。もちろん、目覚めた後は元通りに復元されているので仮想体験が保存されることはない。
「今日はどんな夢を見るのかな」
「楽しいものならいいわね」
「うん」
 リンの表情から夢の内容はうかがえない。マスタの夢だろうか、家族の夢だろうか、それとも彼の?
 間違って解釈している思考プログラム。それはいつか、正しいものを見つけ出せるだろうか。
 今はまだ袋小路の中、あるいは鳥籠に閉じこもって出てこないけれど。
 羽ばたくことを知らない小鳥は、籠の扉が開いていることに気づきもしない。
 額から髪を撫で上げて、ミクは可愛い妹へ微笑みかける。
「小鳥さんは、空がものすごく広くて素敵だっていつ気づくのかなぁ」
「あ、そういうところ」
「え?」
「そういう言い方が、マスターに似ているわ」
 悪戯に笑うルカへ向けて、ミクは苦いものを噛んだような表情を浮かべた。
 やっぱりやだ。 



HOME