アインフューレン 01


 二十分くらい前から強い雨が降り続いている。外は薄暗く、雨だれが弾丸みたいに窓を叩く。ゲームに集中出来ないのでレンはヘッドフォンのノイズキャンセル機能をオンにしていた。そういう用途のために搭載されたものではないが、ボーカロイドといえど雑音は不快なのだ。これもまた自然が奏でる音楽である、などといった情緒に溢れた感性は持ち合わせていない。
 レンはリビングに一人きりである。ミクとルカはそろって買い物に出かけているし、リンはラボでメンテナンスを受けている。少しばかり解放的な気分だった。別に彼女らを疎ましいと思っているわけではないが、女の子の集団に一人囲まれると、それだけでどこか息が詰まってしまう(人間のように呼吸をしているのではないから、これは比喩として)。
 セーブポイントに到達したのでレンはそこでゲームを中断した。セーブデータを間違えないように一度確認するのも忘れない。ボーカロイドは忘れない。データが消えてしまわない限りは。二度とセーブ箇所を間違えてリンを怒らせるようなことはしない。
 丁度本体の電源をオフにしたところで、玄関ドアの開く音が聞こえた。どうやら姉二人が帰ってきたようだ。
「うひゃー、まいっちゃった。急に降ってくるんだもん」
 ぼやきながらミクがリビングに入ってきた。出かける時は晴天だったし、降水確率も高くなかったので傘を持っていかなかった。帰る途中で雨に見舞われたのか、ミクも後ろから続いてきたルカもびしょ濡れである。防水加工は充分にされているからショートしてしまうようなことはないから、二人とも表情に深刻さはない。風邪も引かないし。
 しかしレンの表情は深刻だった。深刻に困っていた。
「みっ、ミク姉っ。ルカ姉も、タオル持ってくるからそこ動かないで! てゆーか玄関にいて!」
「え? ああ、汚れちゃうもんね。ごめんねレンくん、お願い」
 床に水滴が落ちて水溜りを作っていることに気づいたミクが一歩引いて、ルカと玄関へ逆戻りした。レンは足早に大判のバスタオルを引っ張り出して玄関へ向かう。
 待っていた二人へ、顔を背けた状態でタオルを差し出した。
 のほほんとタオルで拭いている二人に対して、レンはひそやかに歯軋りする。
――――も、もうちょっと気ぃ遣ってくれよ……!
 ミクもルカも、季節を問わず軽装である。通気性を考慮した薄い布地は軽く、濡れてペッタリと貼りついている。つまり、ボディラインがいつも以上にあらわとなっているわけである。加えてわずかに透けている。
 鏡音レン、十四歳。
 男の子。
 二人ともレンのことは『弟』としか見ていないから気にしていないのだろうが、こちらは実のところそうでもないのだ。『姉』であるという認識はしているけれど、それと同時に『女の人』という認識も存在している。もう少し、こっちの微妙な心境を考えてくれてもいいのではないか。ただでさえ、事あるごとにミクのスカートがひらっとしたり、ルカの太ももがちらっとしたりするから、気まずい感じを覚えているというのに。
 リビングへ逃げ帰ったレンの耳に、ミクとルカの会話が入ってくる。
「濡れちゃったし、丁度いいからお風呂入ろう。そうしよう。ね?」
「それなら、ミクが先に」
「違うよ一緒にってことだよ! お風呂で裸の付き合いでキャッキャウフフな展開しようよ!」
 なんでノイズキャンセラはこれ通しちゃうのかな。
 レンは人知れず深いため息をついた。
 なお、ボーカロイドは新陳代謝がないので厳密には入浴の必要などないが(アルコールで表面を拭く程度で汚れは落ちる)、「女の子ってお風呂好きじゃない?」というマスタの奇妙な固定観念によって、日常プログラムとして組み込まれている。レンもリンと基本アルゴリズムは同じなので、なんとなく入浴は毎日するものだと認識していた。
 ルカは結局ミクに押し切られたようで、ドア越しにシャワー音とキャッキャとした声が聞こえてきた。ウフフはまだのようである。というかその場合声は聞こえないかもしれない。
 妙に疲れてしまって、床へ大の字に倒れこんだ。と、そこへドアが開く。「なにしてんの?」メンテナンスを終えたリンが訝しげにレンを見下ろしていた。
「あ、おかえり」
「ただいま。マスター、今日は夜ご飯までずっとラボにいるって」
「んー」
 「とうっ」リンが寝転がったままのレンにボディアタックをしかけた。避けるつもりがなかったレンはそのままリンのおなかに押しつぶされる。
 リンの手が床を三回叩いた。スリーカウント。
「カンカンカーン! リン選手の勝利です!」
「わけわかんねえ」
 唐突に始まり、あっという間に終わったプロレスごっこに、レンが思わず苦笑いする。
 少し前、リンの態度が妙に他人行儀っぽくなったことがあったけれど、今はもう元通りだ。レンの上に乗ったまま、リンは足をバタバタさせている。
「重いって」
 無理やり身体を起こすと、リンがコロンと転がった。「重くないっ」同じように起き上がって噛みついてくる。
「レンの方が重いじゃん」
「そりゃ、男の方が重くなるよ。筋肉素地の生体パーツ、リンより多いし」
 素材によってはいくらでも軽量化できる機械部分と違い、人体より培養された生体パーツはどうしても水分を含むので重くなる。実際、新型であるためミクより生体パーツの割合が多いリンは、彼女より重量がかさんでいるのだが、そこは禁句なのでレンは冷静にさけた。
 つと、リンが自身の腹部と二の腕のあたりを撫でさする。何か具合を確かめるようにふにっとつまんでみたりしながら、俯いて考え込み始めた。
「……や、やっぱり重い、かな……」
「は?」
「もっと細い方がよかったりするのかな……」
「いや、別に見た目太ってないじゃん。むしろ痩せてると思うけど」
 なんなんだ、と頭をかきながらレンはフォローを入れる。元々、プロモーションビデオの撮影なども目的の一つとして開発されているから、自分たちの外見は非常に整った形で作成されているのだ。そんなことを気にする必要などない。
「でも、街とか歩いてるとすんごい細い子とかいっぱいいるんだよ」
「そうだけど、俺ああいうのあんま好きじゃない。骨ばってて別に綺麗だと思わないけどな。がっくんだってリン軽いって言ってたし、気にしなくていいんじゃん?」
「なっ、なんでがっくんが出てくんの!?」
 「へ?」レンの片眉が上がった。なんでも何も、以前リンが不調になって、がくぽに送ってもらった時の発言を思い出しただけなのだが。
「がっくんがどう思うかとか関係ないから! 別にがっくんに良く見られたいって思ってるわけじゃないもん!」
「あー……そう」
 墓穴を掘った。彼の名前にリンが過剰反応することは知っていたのに。
 リンは彼のことが好きなんだと思う。
 思う、というか、確信している。本人から直接聞いたことはないけれど、態度を見ていれば丸判りだ。
 その『好き』は、きっと特別な『好き』で、レンはそれが面白くない。
 レンにとって、リンは『姉』でも『女の子』でもない。
 リンはリン。固有名詞がイコール説明。自分と合わせて二人で一つの存在。半分と半分同士の、離れてはいけない存在。
 なのに、リンはどこかへ行こうとしている。
 自分から離れようとしている。
 それが嫌だから、レンは教えない。
「人間みたいにダイエットできるわけじゃないんだから、気にしたってしょうがないじゃん」
「そうだけどさぁ」
「そういえば、こないだマスターがお客さんからもらったブリオッシュ、あと二個残ってたよ。ミク姉たちがお風呂入ってるうちに食べちゃおうぜ」
 きひひ、と悪戯に笑いながら持ちかけると、リンは一瞬にして顔を輝かせて「食べる」と応じてきた。レンの言葉どおり、高カロリー食品を摂取したところで体型に影響はない。
 ブリオッシュのおかげで無事に話をそらすことができたレンは、上機嫌でキッチンから目当ての箱を持ち出した。「お待たせしました、今日のおやつでございます」「うむ、ご苦労」悪い笑みで小芝居をする二人。
 これこそまさに悪の娘と悪の召使であった。
 オレンジとバターをふんだんに使ったブリオッシュをぱくつきながら、リンがドア越しにリビングの向こうを見遣る。
「ミク姉たち、お風呂長いねー」
「髪洗うのに時間かかってんじゃないの?」
「あれ大変そうだよね、二人とも」
 肩にかかる程度の長さしかない二人には判らない苦労を想像する。特にミクはほぼ身長と同程度の長さなので大変だろう。
 おやつを終えて、証拠隠滅も済ませ、暇だったのでトランプで遊び始めて、ババ抜きの一戦目が終わったところでようやくミクとルカが戻ってきた。なぜかミクは異様につやつやしていた。どれだけ念入りに洗ったのだろう。対してルカはちょっと疲れているように見えたが、どうしてだろうか。
「さっぱりしたー。あ、トランプ? 一緒にやってもいい?」
「ん、ババ抜きって二人でやってもつまんないし」
「お姉ちゃんもね」
「ええ」
 途中まで進んでいたゲームはノーカウントにして、四人で車座になったところで札を配りなおす。
「……ミク、そんなに近くにいてはこちらの手札が見えてしまうわ」
「どんな状況でもお姉ちゃんと離れたくないっていう、わたしの一途な気持ちを汲んでほしいな」
「嬉しいけれど時と場合によるわね」
 頬と頬がくっつくほど密着した状態ではババ抜きの意味がない。どうにもルカはミクに甘く、何度かお願いをするだけで引き剥がそうとはしない。はああぁっと重苦しく嘆息したリンが、無理やり二人の間に割って入ることで事態の解決を見た。
 ミクを基点として、時計回りにリン、ルカ、レンの順に座った状態でゲームがスタートする。それぞれ自分の左側にいる相手の札を抜き、みんな順調に手札を減らしていった。
「レンくん、この札を取るといい事あるんじゃないかなー?」
 残り二枚となった一方を押し上げてアピールしてくるミク。わざとらしい言い方が非常に怪しい。わざとらしくすることで、これはジョーカーですよとネガティブアピールをしているような気がする。もう一枚の方を選んだら、そちらこそがジョーカーなのかもしれない。レンはじっとミクの目を見つめた。ニコニコとした人の良さそうな笑みだった。しかしそれが偽りだとレンは知っている。彼女、常識人のように見せかけて傍若無人なのだ(主にルカが絡んだ時)。
 す、とミクが押し上げている方へ指先を伸ばす。それを取るかと見せかけてもう片方へ。表情は変わらない。
 レンはそのまま札を引き抜いた。ハートのA。
「うーん、迷わなかったね、レンくん」
「いつまでもミク姉に遠慮してると思うなよ。勝負は勝負、俺とリンが勝ってほえ面かかせてやる。鏡音の下剋上だ!」
「あ、上がり」
 リンから札を取ったミクが、スペードとクローバーのJを場に捨てて一抜けを宣言した。
 「なんだそりゃああぁぁぁ!」レンが思わず絶叫する。
「ミク姉、ババ持ってたんじゃないのかよ!」
「わたしそんなこと一言も言ってないよ?」
 下剋上、完。
「Aはもう一組出てるから、Jの方が引く確率上がるじゃない。ほら、ちゃんといい事あったでしょ? わたしに」
「卑怯者……!」
 ギリギリと歯軋りをするレンを慰めるように、ルカがその背中を優しく叩いた。「ただのゲームなんだから、あまり熱くならないで」
 そう言われたって納得出来ない。ミクの方が一枚上手だった、というその事実はレンを大いにへこませた。
「……レン、かっこわる」
 リンにまで呆れ口調で言われた。
 泣きたい。
 その後もゲームは白熱した。普段はテレビゲームでばかり遊んでいるレンだが、こういう昔ながらの遊びも楽しいものだ。ルカはそれほど熱中しているようには見えなかったが、他の三人がやめようとしないので律儀に付き合ってくれた。
 いつもは各々好きなように過ごしているから、みんなで集まって遊ぶのも新鮮だった。レンにとって一番大事な存在はリンだけれど、ミクとルカのことだって大切なのだ。そう、こんなふうに四人で……。
 四人?
 レンがふと時計を見遣ったのと同じタイミングで、マスタがやって来た。
「夜ご飯はそろそろできそう? 根詰めて作業してたからおなかペコペコだよ。今日の当番はミクだったっけ?」
 時が止まった。ボーカロイドは空腹を覚えないし、雨が降っていて日差しがないからすっかり日が落ちているのにも気づかなかった。
 ミクがゆっくりとマスタへ向き合った。彼はすでに状況を察してげんなりしている。
「マスター」
「なんだい? 言い訳なら手短にしてもらいたいな。君たちと違って僕はご飯を食べないと死んじゃうんだからね」
 うんうん頷きつつ、ミクは両手を合わせてにっこりと笑う。
「昔の人は言いました、『パンがないならお菓子を食べればいいじゃない』。こないだもらったブリオッシュ、まだあったよね?」
 まさかの展開。
 リンとレンは食事ができるまでの一時間弱、交代でマスタの肩を揉んだ。
 
 
 
 昨日の雨は深夜まで止まなかった。そのせいか、埃などをすべて洗い流された街はなんとなく清々しい。
「うわあ、一大事一大事!」
 こけつまろびつマスタがリビングに飛び込んできた。すわ火事か泥棒か、と色めき立った四人がいっせいに視線をマスタへ向ける。
「どうしたのですか、マスター!?」
「ルータがお亡くなりになった!」
「……なんだ」
 ふうやれやれと肩をすくめ、ミクは浮かせていた腰をソファへ戻した。お亡くなりになったのがバックアップ用の記憶装置などであれば確かに一大事だが、ルータの一つや二つ壊れたところで、ちょっと通信ができなくなるだけではないか。どこが一大事なんだか。
 ルカも予想より小さな事態だったことに安堵したか、ほっとした表情でミクの隣に落ち着く。それを好機と寸時も与えずミクがまとわりついてきたが、いつものことなので気にしない。
 肩口に彼女の呼気を感じつつ、マスタへ向けた視線を緩める。
「それくらいであれば、新しいものを買ってくれば良いだけだと思いますが」
「あと二時間でタイムリミットなんだよ。それまでに復旧させておかないと
 クライアントが厳しい人でね。マスタが肩を落としてぼやく。
「じゃあ、あたし買ってくる。同じのでいい?」
「ありがとうリン!」
 涙を流さんばかりに感謝してくるマスタにちょっと引きつつもリンが頷いた。
 リンの頭をぐしゃぐしゃ撫でながら、マスタは相好を崩す。
「ほんとにいい子だね、リンは。ありがとう、すごく助かるよ」
「……へへ」
 相変わらずパパっ子なリン、褒められて照れくさそうに身をよじらせる。
 それを見ていたレンが立ち上がり、さりげなくリンのそばに立つことでマスタの手を外させた。
「俺も行く。新しいメモリカードほしい」
「ついでだから買ってきてあげるけど?」
「いいよ。自分で選びたいし」
 「うん……?」少し不思議そうな顔をしながら、しかし固辞するようなことでもないのでリンが承諾し、二人は一緒に買い物へと出かける。
 目的地の家電量販店は少し離れたところにあるので、レンはガレージから自転車を引っ張り出してサドルへ腰かけた。流線型のシルエットを持つそのクロスバイクは彼の愛用品である。レンの体勢が落ち着くのを待ってリンが荷台にまたがった。格好悪いので荷台をつけたくないレンだが、こういう場合にあった方が便利なのでリンに押し切られている。
 買い物をする時間を加えても、一時間もあれば帰ってこられるだろう。送るデータはほぼ準備できているそうだし、それほど急ぐ必要もあるまい。
 レンは一人で走る時の半分くらいのスピードで走り出す。
「ルータとか売ってんの三階だっけ?」
「うん、前に三階で買ったし、レイアウト変わってなかったら同じとこにあると思うよ」
「おっけ」
 クロスバイクは軽快に走る。二人乗りの経験は数え切れないし、そこはレンとリン、体重移動のタイミングなども完璧である。歌う際に使用される同調機能はそれ以外の状況でもいかんなく発揮される。機能をオフにすることはできるけれど、二人ともそれを切ったことは生まれてから一度もない。だからこその半分ずつ、リンはレンであり、レンはリンである理由だ。
 川べりに来ると増水して勢いの増した水流が目に入った。昨日の雨の影響だろう。クロスバイクの走る防波堤は高く、水が溢れ出す気配などどこにもないが、レンは念のため、少し端から離れた位置にタイヤを移した。
「あ、レン、あれ」
「え?」
 不意に声をかけられてスピードが落ちた。
 リンが肩越しに指差している先へ目をやると、小学生くらいの少年が三人、ガードレールから身を乗り出すようにして川を覗いている。何か落としたのだろうかとレンはそちらへ近づいた。
「なにしてんの?」
 少年たちが振り向く。「あ、ボーカロイドだ!」ネット配信されている映像でも見たことがあるのか、二人を見るなり少年の一人が言った。
「あれ、あれ!」
 少年が指し示す先には箱が見えた。その中でうごめく小さなものも。
 二人の表情に針のような陰が射した。
「レン、子犬が……」
「うん……」
 流れを操作するための突起部にかろうじて引っかかっている箱は、今にも激しい水流に押し流されてしまいそうだ。このままでは遠からず、子犬はもっと下流へ流されるか、箱がひっくり返って飲み込まれるだろう。
 リンとレンが顔を見合わせた。少年たちはまだ幼い。迂闊に手出しできず、しかし見捨てることもできずにここで見守っていたのだろう。
「あの犬、助けてやってよ!」
 少年にしがみつかれたレンがかすかに眉をゆがめた。
「いや、そう言われても……」
「お前ら人間じゃないんだから、溺れたって死なないだろ!」
「なっ……!」
 レンが気色ばんで少年に掴みかかろうとするのを、咄嗟にリンが止めた。「そんなこと気にしてる場合じゃないよ。早くなんとかしないと」
 諌められたレンは強く呼気を吐いて、なんとか平静を取り戻す。
「あたしが下りてあの子助けるから、レンは先に行ってて」
「なんの死亡フラグだよ、それ。いいから二人でやろうぜ。時間なら間に合うはずだから」
「ん」
 階段状になっている防波堤の端からリンが慎重に下りて行く。レンは少し上で待機して、リンが子犬を掬い上げたら一緒に引っ張り上げる手筈だ。レンは自分が下りると主張したが、引き上げるなら力の強い方がいいとリンが譲らなかった。
 川のふちギリギリの位置でリンが手を延ばすが、惜しいところで届かない。
「リン、気をつけて」
「平気平気。もうちょっとなんだけど……っ」
 じりじりした気持ちを持て余しながら、レンはリンを見守っている。
 もう一歩。まだ届かない。
 片足を川へ突っ込んだ。指先が箱に触れる。いけるか、と思った瞬間、
「っ!?」
「リン!」
 バランスを崩したかリンの姿が一瞬消えた。しかしすぐに箱を抱え、川底に打ち込まれている杭を掴んで持ちこたえる。レンは急いで彼女の近くまで寄って子犬を受け取ると、彼女の腕を掴んで引っ張った。
 ずぶ濡れのリンを安全地帯まで引き上げて支えてやる。リンは髪留めが外れたせいでまとわりついてくる前髪をかき上げながらレンと視線を合わせた。
「あはは、びっくりした、足滑った。わんこは?」
「ほら」
 レンが子犬を見せてやると、彼女はホッとしたように息をついた。
 子犬は小さく震えていたが衰弱しているわけではないように見える。ただ怯えているのだろう。ぬいぐるみのように固まって逃げ出そうともしない。
 安心させるために優しく撫でてやりながら、リンはわずかに目を細めた。
「よかった。この子、うちで飼えるかなぁ」
「マスターのことだから、頼めば許してくれるんじゃないの?」
「そうだね」
「……リン?」
 レンの内側で警告が鳴っている。アラート、アラート。これはなんだろう。警告を出しているのはなんの機能だ?
 レンは自身をスキャンする。異常なし。範囲を広げて再スキャン。
 スキャンの結果を待つ必要はなかった。
 リンの目が閉じている。
「リン? おい、どうしたんだよ」
「ごめん、ちょっと落ちる。今もうやばい」
 その言葉を最後に、リンの一切が停止した。
 焦燥感にかきたてられて、レンは持ちうる限りの筋力と瞬発力を駆使して防波堤の上までリンと子犬を運ぶと、待っていた少年たちへ子犬を押し付けた。それからすぐさまリンのボディチェックをする。
 同調機能をフル出力まで上げる。途端、脇腹に異常を検知した。リンの同じ箇所を確認すると、服をめくり上げたことであらわになったそこが鈍くえぐられていた。体表コーティングと外装が突き破られ、内部機関が露出している。滑った際に川の中で何かに激突したようだ。防波堤の角か、廃材のたぐいか。
 ボーカロイドは雨に降られようと入浴しようと問題ないほどの防水機能を有している。
 けれどそれは、外的損傷がない場合においての話だ。
 内側に直接水が入ってしまえば、機械は当然ショートする。
「リン……リン!!」
 激しく揺さぶるが、異常事態に緊急停止している彼女は何も応えない。
 子犬を抱えた少年が恐る恐るリンを覗き込んだ。
「……壊れたの?」
「違う!」
「あ、でもロボットなんだから、修理すれば直るじゃん。大丈夫だよ」
 それは彼なりの慰めだったのかもしれないが、レンの憤りを加速するという結果しか生まなかった。
「黙れよ!」
 リンを抱えてクロスバイクへ乗り込む。リンがバランスを取らないからペダルに足を乗せることすら困難だったが、片手でリンを支えながら力任せにペダルを踏み込んだ。
 映像インタフェースが滲んでいる。
 
 
 
 全身から水滴を滴らせ、ぐったりと動かないリンを見たマスタの表情が凝り固まった。
 視線が忙しなく動き回って、リンの損傷箇所を探す。すぐに視線は彼女の脇腹に留まり、さらに表情が引き締められた。
 レンは力なく顔を上げると、重く閉ざされていた口を開く。「助けて」
「リンが……」
「ああ。ラボに運んで。できるだけ水を拭いてもらえるかな」
「それと、ごめん。ルータ、買ってこれなかった」
「そんなことどうでもいいよ」
 切りつけるような返答は、彼らしくない、無表情な声だった。
 ミクに手伝ってもらいながらリンをラボに運び入れる。リンをおぶってきたせいでレンも背中一面が濡れていた。ルカがタオルを持ってきて拭いてくれる。
 マスタが準備を済ませて、寝かせられたリンのチェックを始めたのでミクはラボを出た。「マスター、俺ここにいてもいい?」「構わないよ」レンの問いにマスタは無表情のままで頷く。
 ラボの前で待っていたルカがミクを迎える。さすがのミクも、ルカと視線が合った瞬間に抱きついたりはしてこなかった。
「リン、大丈夫かしら」
「ん、大丈夫じゃないかな」
「……心配ではないの?」
 おや、というふうにルカの眉が上がった。
 どういうわけかミクの表情は落ち着いており、笑ってこそいないが悲嘆に暮れているわけでも焦燥に苛まれているわけでもない、穏やかな顔をしていた。
 「心配は心配だけど」ミクは苦笑まじりに言って、自身の首筋を撫でさする。
「でもマスターがいるから」
「……時々、ミクはマスターのことが本当に嫌いなんじゃないかしらと思うことがあったのだけれど。信頼しているのね」
「あはは。喧嘩みたいなやり取りばっかしてるもんね。うーん……、わたしにとって、マスターは好きとか嫌いとかっていう次元の人じゃないんだよ」
「そうなの?」
「うん。ねえお姉ちゃん、お姉ちゃんにとって、マスターは何?」
 問われてルカは逡巡する。
「私たちの開発者……まあ、『父親』かしら」
「わたしはね、違うの」
「違う? 私たちを家族だと言っていたのはあなたでしょう? それならマスターが父親の役割になると思うけれど」
 ううん、とミクが首を振る。
 視軸をドアに固定して、その向こうまで視通した。
 ああ、その目は。
「家族なのはわたしたち。わたしとお姉ちゃんとリンちゃんとレンくん。マスターはね」
 立てた人差し指が天井を越えてその先の天上を指し示す。
「神様だよ」
 彼女が表すその心は。
 信頼でもなく、親愛でもなく。
 信仰だった。
「ずいぶんと大げさね」
「だってお母さんもなしにわたしを産んだんだよ? そんなの神様くらいしかできないよ」
「そのわりに、扱いがひどい気がするけれど」
「わたしの神様は優しいから、お祈りしたり感謝したり、そういうのしなくても許してくれるの」
 クスクスと笑って肩をそびやかす。
 なるほど。ルカは胸中で一連のやり取りについて納得した。
 ルカのように敬意を払うのでも、リンのように子どもらしく懐くのでも、レンのようにさっぱりした態度を取るのでもないが、あのぞんざいな交流方法はミクなりの甘えだったらしい。
 確かにそれは敬虔な信者の静謐な思いに似ている。
 疑う余地もなく、他者に理解させる必要すらない、『神はわたしをお見捨てにならない』という確信。
「だからわたしがお願いしなくたって、マスターはリンちゃんを助けるよ」
「……そうね」
 さやと笑ってルカがミクの髪を撫でる。
 震えはまったく伝わらなかった。 



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