アインフューレン 02


 ラボの壁に腰をつけ、膝を抱えた格好で、レンは座り込んでいる。作業台にはリンが寝かされていて、マスタがその脇に立って修復作業をしていた。
「……マスター」
「ん?」
「リン、助かる?」
 マスタは小さく苦笑を浮かべた。「心配なのは判るけど、もう少し僕を信用してほしいな」
「大丈夫だよ。緊急停止機能が働いたおかげで重要な回路がショートする前に停まったし、記憶データもさっき無事に吸い出した」
 工具片手に作業を続けながら、安心させるように殊更穏やかな口調で答える。
 その返答を受けてなお、レンの表情は晴れなかった。
 生まれて初めて、リンと『離れた』。スリープ状態であっても同調機能は連動している。だからたとえ眠っていてもリンと一緒にいる実感があった。二人で一つの、まさに一本の緒でつながっているという感覚。
 それが今は、どこにもない。
 だから、不安で仕方ない。
 リンが何を考えているのか、どういう状態なのか、何も判らないこの状況が怖い。
「……もしリンが治らなかったら、俺も壊してよ」
「ふざけたこと言うと怒るよ」
「本気だ。リンがいないのなんて耐えられない」
 ますます強く膝を抱えて、そこへ顔をうずめる。
 リンと一緒じゃなければ嫌だ。どんな意味であれリンが『いなくなってしまう』のが嫌だ。それは二がすなわち一である自分たちの崩壊だ。
「あのね、リンは治るし、君もそんなことにはしない。馬鹿なことを言うんじゃない」
 溜め息をついたマスタがやや硬質な声で言ってくる。珍しく苛立っているのだと判ったけれど、だからこそ、レンはますます意固地になっていった。
「いいじゃんか。俺たちを廃棄したってまた新しいボーカロイド作れば同じことだろ。どうせ人間じゃないんだから」
 マスタは川に浸されて駄目になったパーツを取り出す手を止めてレンへ目を遣った。その眼差しはどこか無表情で、ともすれば哀れみすら存在していそうな眼だった。
 作業台の隅に工具を置くと、ポケットから個包装された飴玉を取り出してレンへ放る。コツ、と音を立てて飴玉はレンの腕に当たり、床に転がった。
「それでも食べて少し落ち着きなさい。誰かにそんなことを言われたんだね?」
 マスタはすぐに作業を再開した。レンは転がった飴玉を拾い上げて、カリリとそれを噛む。
「俺たちはロボットだから川に落ちたって死なないし、壊れたって修理すればいいだけなんだって」
「ま、それはそうだね」
「…………」
 世間話のようにマスタが応じ、作業の手を休めないまま続ける。
「君たちは人間じゃない。当たり前だよそんなの。僕が作ったんだから」
「……じゃあ、マスターも俺たちを人間の代わりだって思ってんだ。人間の代わりに歌わせて、人間の代わりに危ないことさせて。それなら、壊れたら用無しだろ。リンももうほっといて捨てちまえよ! 人間じゃないんだから!!」
 力任せに壁を殴りつけて怒鳴ると、マスタは唇を真一文字に引き結んでレンを直視した。その視線に気圧されてレンの方が目を逸らしてしまう。
「僕はね」
 パーツの交換を終えたのか、一旦リンから離れてパソコンを操作し始める。いくつかデータをチェックしながら声はレンに向けて発していた。
「僕と関わりのない人とレンが崖から落ちそうになっていたらレンを助けるよ」
「え……」
「人間じゃないからなんだっていうの? どうしてそんなことで価値の軽重を決めなきゃいけないのさ」
「だ、だって、人間は死んだら生き返らないじゃん……」
「そうだね。僕だって死んだらそれまでだ。だからできるだけ長く君たちといるために君たちを助ける。僕の知らない人がどうなろうと知ったことじゃないよ。文字通りにね」
 気圧されて、呆気に取られて、レンはずるりと崩れ落ちた。
 それは。
 それは、おかしい。
 人間は利己的で身勝手だけれど、困っている人に手を差し伸べたり、危機に陥っている人を助けようとしたり、そういうものだろう?
 そんなの、ゲームでだって描かれている。
「なら……もしマスターの大好きな人と俺が、死にそうになってたらどうするの?」
「状況によるね。より助けられる可能性が高い方を助ける」
 損傷箇所を確認してまた作業台へ。
「君たちは人間の代わりじゃなくて『ボーカロイド』という確立された存在だよ。生きてない、壊れたら直せる、データがあれば新しいボディに移して復帰させられる、だからなんだっていうの。冷蔵庫やパソコンは壊れたら買い換えるけど、それは僕にとってそれらがその程度の価値しかないからだ。君たちはそうじゃないよ。君の記憶、身体、心は今そこにいる『君』のものだ。僕はレンが大事だからそれを守りたいと思う」
「……でも、きっとみんなそんなふうには思ってない。俺たちは人間の代わりで」
「堂々巡りだなぁ」
 ぷかりと困り笑いになったマスタがいよいよ作業の手を止めてレンへ歩み寄る。軽く頭を叩かれてレンは顔を上げた。
「レンはリンのことが大事だよね?」
「うん」
 即答すると、彼は静かに眼差しを軟化させた。
「良いお返事だ。それは、リンが自分と同じボーカロイドだから?」
「違うよっ。ボーカロイドとかそういうことじゃなくて、リンはリンだから……」
 レンの目がハッと見開かれた。「うん。それと同じことだよ」口元を緩めたマスタが頷く。
 価値基準をどこに置くかという問題への答えは、それぞれで違うのだろう。存在のあり方に重きを置く者、それ以外の何かを重視する者、あるいは単純な好き嫌いであったりもするのだろう。どれが正しいとか間違っているとか、一概に言えるものではない。
 レンがリンを大切だと思うように、マスタは自分たちを大切にしている。
 それだけだ。
「でもマスター、やっぱり人と俺たちだったら、人を助けた方がいいと思う」
「そうだねぇ。まあさっきのは、机上の空論ってところかな」
 うん?と訝しげに眉を上げるレンへ、マスタは胸を張りながら言った。
「だって僕、高所恐怖症だもん。崖になんか近づかないよ。そもそも出歩くこと自体ほとんどないし」
「……なんだよそれ」
「証明する方法がない仮定ならなんでも言えるってことだよ。本音ではあるけどね」
 さてもうひとふん張り。袖を捲り上げてマスタは作業へ戻った。
 レンは予備の椅子に腰かけてその背中を見ていた。
 彼は何がなんでもリンを助けるだろう。そう思った。
「あ、お客さんはどうしたの?」
「ぶっちぎってる。いやー、怒られるだろうなぁ」
「……いいのかよ、それ?」
「全然良くないけど、リンの方が大事だからねぇ」
 破損していた脇腹の表面樹脂を貼り直してコーティングをほどこす。見た目はすっかり元通りだ。まだ目は閉じたままだし、同調もされてはいないが、先ほどの痛ましい姿よりはずっと安心感がある。
 本体の修理が終わったのでマスタはデスクに陣取ってキーボードを叩き始めた。自分たちを構成するものではあるけれど、そのすべてを理解できるわけでもない(人は己の内臓がどのような仕組みで活動しているかということを知悉しているだろうか?)。意味の判らないアルファベットと数字、時々記号の羅列をレンはマスタの背後から覗き込む。
「どんな感じ?」
「さてはて」
 曖昧な返答だった。マスタの手が何度か同じキーを叩いている。画面下部に表示されたウィンドウがエラーメッセージを吐き出していた。気色ばんだレンが身を乗り出した。
「ちょっ、なんかエラーって出てるじゃん!」
「いや、データ破損とかの致命的なものじゃない。どうも……うーん。リン自身がロックをかけちゃってるわけでもなさそうだ。それなら僕の権限で通るはずだし。リンの思考プログラムがマッチングエラーを起こしてるっぽいね」
「どういうこと?」
「リンの中に、リンの知らないことがある」
 意味が判らない。自分たちの持つデータはつまり、自分自身の経験だ。経験は知識となる。レンがセーブデータを間違えなくなったように、経験を解析して最適解を覚える、それが自分たちにとっての成長である。見識、見て識ることが基本なのだから、『見たのに識らない』というケースがあるとは思えないのだが。
「いつかは判らないけど、リンの奴、どこかで解析をスキップしたな。それがジャンクになっちゃって不具合を引き起こしてるんだ」
 これは困った、とマスタが弱り顔になった。管理者権限を行使して無理やり該当データを消してしまうことは可能だけれど、それはリンの記憶をいじることに他ならない。良いものでも悪いものでも、出来る限り記憶にはタッチしない信条のマスタとしては悩ましいところである。
 腕組みをして考え込み始めたマスタの後ろで、レンも同様に腕組みをした。
 知っているのに知らない。あるのに判らない。
 『芽生えているのに、自覚がない』。
 思い当たる節はひとつだけ。
 レンは瞑目して思考を巡らせた。
 消すのが良いのか、それとも。
 消えるのが、良いのか。
 細く息を吐く。
 いつだって二人で一つで、それがずっと続くと思っていた。マスタがいて、ミクとルカがいて、自分たち。そういうくくりですべて片がつく、そう信じていた。
 レンにとって、一番大切な存在はリンだから。
 だから。
「ねえ、今の状態でも起動はできる?」
「起動だけなら問題ないけど、いかんせん思考部分が走らないからスリープとほとんど変わらないところまでしかいかないよ」
「それでいいよ。起動さえすれば同調も使えるから」
 首を傾げるマスタへ向けて、レンはどこか照れくさそうな、寂しそうな笑みを浮かべた。
「最大幅でシンクロして、ちょっとリンたたき起こしてくる」
 マスタもレンの言いたいことが判って微妙に口の端を上げた。こちらは特に寂しそうではない。
「なるほど。じゃあよろしく頼むよ」
「うん」
 マスタがホストマシンからリンの起動命令を発行する。レンは作業台の脇に座り込んでリンの起動を待ち、それから手馴れた様子で同調を始めた。コール、コール、コール……レスポンスオーケイ。
 ケーブルという媒体を使わなくても、自分たちはつながる。
 レンはリンの中にダイブした。
 
 『そこ』を精神世界と言ってしまって良いものか。
 マスタやミクなどは自分たちに心があると言うけれど、それはあくまで便宜上の表現であって正しくはない。あるのは思考プログラムと感情プログラム、それから各種の制御・管理機能だ。マスタにしてみれば、「人間の思考だって脳みそから出てる電気信号なんだから違わないよ」ということらしいが。
 とにかくレンはリンの情緒制御野に降り立った。実際には同調機能と自身の思考プログラムが組み立てたイメージオブジェクトを認識しているだけなので、そこには電気信号しかない。しかしレンはそこを『部屋』だと見る。
 人であれば目が痛くなるような真っ白い壁に四方を囲まれた部屋には、いくつかのオブジェクトが散財していた。ある物は床に置かれ、ある物は宙に浮き、ある物は壁や天井に貼りついている。どういう規則性があるのかは判らなかった。規則性などないのかもしれない。
 オブジェクトのいくつかはレンにも見覚えがあるものだ。アイコン化されたマスタたちがいる(ある?)し、ゲームのキャラクターがぬいぐるみの形を取って置かれているし、それ以外にもさまざまなオブジェクトが存在している。
 アイコンは沢山あった。どうやら人物、あるいはリンがヒトと捉えている相手をアイコン形式で表示しているようだ。マスタが一際大きく、次いでミクとルカ。そこから多少の差はあれどアイコンは小さくなっていった。おそらくリンの好意の大きさが反映されているのだろう。
 そんな中でレンを表すようなものはない。当たり前だった。リンはレンでありレンはリンなのである。自分自身の姿を客観的に見れないのと同じように、リンは半ばレンをレンとして認識しない。
 部屋の中央ではリンがロードローラの玩具を走らせて遊んでいた。片手に持てるサイズのコントローラを操って、部屋中を縦横無尽に走らせている。
 と、ロードローラが停まった。リンの指はボタンを押しっぱなしにしている。そこには黒いオブジェクトがそびえ立っていた。古い映画に出てくるモノリスに似ている。それをどうしても突破できなくて、リンは諦めてロードローラを迂回させた。
「リン」
「……レン?」
 呼び声に気づいたリンは、こちらを振り向くとちょっと驚いたように目を瞠った。コントローラを置いてレンに向き直る。
「なんでレンがここにいんの?」
「今、シンクロ率百パーセントだから。俺とリンがリンの中に同時にいる感じ」
 「ふぅん」リンはさして興味を持たないような素振りで相槌を打った。
「てゆーかお前、いつまで寝てんだよ。さっさと起きないとマスターたち心配してるぞ」
「うん。マスターに呼ばれてるの聞こえてるから、起きようとしてるんだけど。あれが邪魔してるんだよね」
 リンが指差したのは先ほどロードローラが吶喊を仕掛けたモノリスだった。レンは首を伸ばしてモノリスの向こう側を覗く。ドアのオブジェクトが見えた。
「なんなんだろうね、あれ。壊せないし消せないし、動かすのも無理」
「へえ」
 それはきっと、リン自身が壊したくなくて消したくなくて動かしたくないからだ。
 リンの隣に腰を落ち着けて、立てた膝にダラリと両腕を乗せる。
 視線だけを巡らせて方々に散らばるオブジェクトを一つずつ確認した。
 思ったとおりのものがないのを確認してから、レンは目線をリンへ向ける。
「あれ、がっくんだよ」
 薄っぺらいけれど巨大なモノリス。大きさはマスタと同等か、あるいはそれ以上だった。
 リンが新種の動物でも見るような目をよこしてきた。レンは斜めにそれを受け止める。「ちょっと嫌だけど、リンがこのままの方が嫌だから」溜め息を混じらせながら言って彼女のリボンをいじる。
「教えてあげることにした」
「なにを? あれががっくんって、レン何言ってんの?」
「判るんだ。だって俺、リンの半分だもん。リンが嬉しかったり悲しかったりするの、俺、判っちゃうから」
 だからリンの中で通らないプロセスがあることも知っている。
 ある条件下で、リンの無意識が避けるルートがあることを、リンであってリンではないレンだけが気づける。
 頭上にクエスチョンマークを浮かべつつ、それでもどこか不安そうな表情をしているリンへ、ほのかに笑いかける。
 ずっと一緒が良かったなぁ。そんなふうに笑って、レンはゆるりと彼女のヘッドフォンを撫でた。
 肉体と同じように、心もずっと変わらないまま過ごしたかった。増えても構わないけれど、今いる家族みんなが揃っていて、そういうくくりがあって、その中で日々を送りたかった。
 あのモノリスを破壊してしまえばそうできた。口を閉ざしてマスタに願って、そうすれば彼女の想いは跡形もなく消えて、うたかたのように消えて、元通りになるはずだった。
 レンはリンのことが大事だからそうしたかったし、リンのことが大事だからそうできなかった。
「リンはさ、がっくんが好きなんだよ」
 告げられた半分が停止する。一瞬後、首から上を紅く染めながら両腕を振り回した。
「な、そ、そんなことあるわけないじゃん! がっくんのことなんてなんとも思ってないし! てゆーかどっちかっていうと嫌いだし!」
「ホントに? お前、ホントにがっくん嫌いなの? だからあんなふうに真っ黒くガードして見ないようにしてんの?」
「…………」
 がくぽは折を見て連絡をしてくる。直接訪ねてきたことも一度や二度ではない。リンを怒らせてしまったと誤解して、謝罪をしたいと申し出ているのだ。彼女はそのすべてから逃げていた。
 そんな時のリンの心境も、レンには伝わってしまう。
 そしてレンは客観的にその心境を分析できてしまうのだ。
 本当に嫌いなら、逃げ続ける必要などない。「許すつもりはないから二度と近づくな」と、そう言えばいいだけのことだ。
 足を伸ばして遠くを見つめる。
「特別な好きって、そういうこともあるんだって。恥ずかしくって顔見れなかったり、簡単に触ったりできなくなったり。別にみんながみんな、ミク姉みたいになるわけじゃないと思うよ」
 正直なところ、彼女の方こそレアケースなのではないだろうかとレンは踏んでいる。
 リンはいつの間にかこちらににじり寄ってきていて、二人の肩が触れていた。彼女の視線は下に落ちている。唇が少々尖っているのは不機嫌なせいではなく、迷っているからだ。傍らに転がっていたロードローラを手で押して遊びながら、レンはぽこんと泡のような息を吐いた。
「リンはがっくんのことが好きだよ。俺が言うんだから間違いない」
 ミクとルカはリンが自分で気づくまで待っていたかったし、マスタはそもそも気づいていなかった。レンは気づいていたけど言いたくなかった。だから誰も教えてあげなくて、リンの想いはジャンクとして追いやられてしまった。
 でもそれは、やっぱり駄目なんだ。レンは思う。
 がくぽが来てくれたことに喜んだり、自分が意地を張ったせいでしょげながら帰る後ろ姿をカーテンの隙間から覗いて自己嫌悪したり、そういうのを誰もいないところでしていちゃいけないんだと、レンは思う。
 不意にモノリスの一部が剥がれた。少しずつ少しずつ、真っ黒なコートが落ちていって、その下にあったオブジェクトが形を取り戻す。
 レンはあえて、そちらを見なかった。
 ずっと遠くを名残惜しそうに見つめていて、その手はずっとロードローラで遊んでいた。
 
 
 
 ミクにネクタイを締められながら、マスタはものすごく嫌そうな顔をしていた。
「うう……、スーツって動きにくいし、革靴は硬くて歩きにくいし、良いとこひとつもないよ。ネクタイだって首が苦しいし。いったい誰が考えたんだろうね、こんなの」
「マスター、わたしに喧嘩売ってるの?」
 常にネクタイ着用のミクが、きゅっとマスタの首に巻きついているネクタイを締め上げた。「く、くるし……っ」わりと遠慮なく力を込めたらしく、マスタが慌ててミクの手を外させる。
 ぐいぐい捻ってネクタイを緩めると、ひとつ息をついて恨めしげにミクを睨んだ。
「ひどいじゃないか。殺す気か……!」
「あーもう、せっかく締めたのに崩れちゃったじゃない。やり直しだよー」
「シカトだっ。しかもなんか僕が悪いみたいになってるよ!?」
 クライアントへの謝罪に向かう準備中の二人を、レンと隣のリンはぼんやり眺めている。
「そうやってると新婚さんみたい」
 あはは、と笑いながらリンが言ったら、二人は同時に「なに言ってるの、冗談じゃない!」と喚き返してきた。気が合うのか合わないのか判らない彼らだ。
 ルカもバッグに必要書類などをまとめる手を止めて二人に見入っている。視線を察したミクが振り返った。
「なに?」
「……いえ。私もミクのネクタイを結んであげたいなって……」
 ぽろっと本音を出してしまったルカは、次の瞬間失言に気づいて口を閉ざした。しかしもう遅い。途端にミクが破顔一笑して、マスタを放り出すと一足飛びにルカへ抱きついた。
「そんな、言ってくれればいつだってウェルカムオーケイだよ。というかお姉ちゃんにはむしろほどいてほしいんだけど」
「え、ちょ……」
「ネジの飛んだ発言もいい加減にしてくれないか」
 ミクの脳天にチョップをかまし、首根っこを引っつかんで引き剥がすマスタ。「ああっ、お姉ちゃん、お姉ちゃ〜ん!」涙ながらの訴えは誰にも届かず、哀れ二人は引き裂かれた。
 「なにやってんだか……」三文芝居を見物していたリンが苦笑する。
 そんなこんながありつつ、マスタは久しぶりのスーツに身を包んでクライアントの元へ向かっていった。事情があったとはいえ、穴を開けてしまったのは事実なのでその足取りは重い。しかしまあ、ミクが完成した当初からの付き合いだし、酒の席でも設けたらなんとかなるのではないか、とマスタは言っていた。
 マスタを送り出したミクとルカは、早速ネクタイを結ぶ練習を始めている。
「こうこうこう。で、ここに通して完成。簡単でしょ?」
「えぇと……こう、こう……あら?」
 ささっとお手本を見せた後にルカが挑戦するが、初めての挑戦なせいか上手くいかない。
 ぐちゃぐちゃになったネクタイを一度戻して再チャレンジ。ミクが手順を一つずつ指南していく。
「あ、違うよ、そっちじゃなくてこっち。そこじゃちゃんと通せないよ」
「こっち?」
「そうそう、その太い方をこっちに持ってきて、この穴に通してあげるの」
「ここを押さえて……あら、穴が小さくて入らないわ」
「太めだし、でっぱりが引っかかっちゃうんだよね。もうちょっと広げてみたら入るんじゃないかな。さっきまで締まってて固くなってるから、揉んだり擦ったりして柔らかくすると入りやすくなるよ」
「こう?」
「うん、指で押し開くみたいにして。そうそう」
「あ、もう少しで入りそう」
「いいよ、その調子。いけそうだよお姉ちゃん。もっと強く、奥まで押し込んで」
 つと、レンが顔を背けた。
 鏡音レン、十四歳。
 人間で言えば中二。
「あー! リン、お前もほら、準備しないと」
 おおっとこいつは重要なことを忘れていた! という態でレンが勢い良く立ち上がった。「へ?」不意をつかれたリンが一瞬身をすくませる。
「がっくんに謝りに行くんだろ?」
「あ……うん……」
 がくぽにこれまでの非礼を詫びたいとリンに相談されたのは昨晩のことだ。自分が拒絶した手前、どうにも行きにくいと渋るリンを、ついていってやるからすぐに行こうとけしかけていた。
 マスタのように酒の席を手配するわけにはいかないが、そもそも彼は怒っているわけではないので、手土産の一つも差し出して今回のことはちょっとした不運なすれ違いだったのだと説明すれば、きっと判ってくれる。
「リンだってこのままなの嫌だろ。がっくんに謝って、また遊んだり一緒にご飯したりしようよ」
「……うん」
 手を差し伸べるとリンは素直にそれを取った。レンは満足げに頷いてその手を引く。
「ん、もうちょっと……! あっ」
 ドアを開けたところでミクの声が上がった。
「時間かかったけど、ちゃんとできたね」
「やっぱり、初めてだとなかなか上手くできないわね。途中で力が入りすぎてしまったけれど、痛くなかった?」
「平気だよ。一生懸命わたしに優しくしようとしてくれた気持ちだけで充分」
「ありがとう。これからはもっと上手にできるように頑張るわね。ミクに痛い思いをさせてしまうのは嫌だもの」
「ミク姉たち、わざとやってない!?」
 思わずがなりたてたレンに、無事に結べたネクタイを弄びながら二人は首を傾げた。
「なにが?」
「……なんでもない」
 十四歳の男の子は色々と大変なのだった。
 リンを引っ張って自室に入ったレンは、そのままベッドへジャンプしてリンの準備を待った。髪に櫛を通したり、リボンの結び目を整えたり、姿見に背中を映して汚れていないか確認したり。何度確認しても不安なようで、リンは姿見の前で三度ほど回転した。
「やっぱ着替えようかな……」
「そのまんまでいいじゃん。別に特別な日じゃないんだから、めかしこんだってがっくんに変だと思われるだけだよ」
「へ、変ってなによ」
「リンはいつも通りで充分可愛いって言ってんの」
 むすりとしながら言ったら、彼女は照れて、けれどそれを隠すために仏頂面を作ろうとして失敗し、結果いびつな笑顔になった。
「今日は謝りに行くだけなんだから。別に告白とかするわけじゃないだろ」
「あ、当たり前じゃん! こ、告白とか、そんなの、まだ全然……」
 わたわたしているリンを半眼で見遣りつつ、ひとつ嘆息。
 まだ先の話のようだけれど、それでもいつかは、彼女の想いが彼に届けられる日が来るのだろう。
 その時、どんなふうになるんだろうか。寂しくて泣くのか、嫉妬で怒るのか、心構えが済んでまったく平気だったりするのか。
 最後のはさすがに希望的観測だな、と我ながら思った。
「リンはさ、がっくん好きじゃん」
「……う、うん……」
「俺は……ホントは、がっくんになんかやりたくないけどさ。しょうがないよな」
 我が身を半分削られたところを想像してみよう。
 意識もせずできていたことが出来ない。あるはずのものがない。見えていたものが見えなくなる。聞こえていたものが聞こえなくなる。
 レンにとって、リンを失うというのはそういうことだ。
「ずっとリンの一番近くにいたかったけど、リンがそうじゃなくなるなら、仕方ないよな」
「何言ってんの? なんでそんなに悲しくなってんの?」
 同調機能はレンにリンを伝えて、同時にリンへレンを伝える。
 気がつけば、彼女はこちらの足元に屈みこんで顔を覗き込んでいた。
「レン、あたしから離れちゃうの?」
 どこか悲しげに彼女は言う。その哀情はレンのものが伝染したのか、それとも彼女自身のものか。
「違うよ、リンが俺から離れるんだろ」
「……なんで?」
「だって、お前がっくんが好きなんじゃん。それってがっくんのことが一番大事ってことだろ。俺じゃなくて、がっくんのそばにいたいんだろ……」
「なんで!?」
 せっかく整えたリボンがゆがむのも構わず、リンは激しく首を振った。駄々っ子のように暴れるリンを、レンが慌てて押さえ込む。掴んできた腕を強引に振り解いて、リンはまっすぐにレンを睨みつけた。
「がっくんは好きだよ! レンが教えてくれたから、あたしもがっくんが特別に好きなんだって判ったよ! でも、なんでそれがレンと離れることになんの!? あたしは」
 ひとつ、涙がリンの頬を滑り落ちる。レンはギョッとしてしまって、彼女を抑えようとする手の力を抜いた。
 ひくっと喉を震わせてから、リンが濡れた声を放つ。
「レンが一番大事だよ。がっくんを好きになったって、それは変わんないよ」
 手の甲で涙を拭い、切れ切れに告げられたその言葉は、レンにとってあまりにも予想外で、油断したせいか彼の双眸にも薄い膜が張り出した。
 これは同調しているせいだ。彼女の涙とリンクしてしまって、勝手に流れてきたものだ。
 そうだ、同調しているのだ。
 レンがリンを一番大事だと思っているのなら、『同じ』である彼女もまた。
 この想いは、本当はどちらのものなのだろう。
 二人の、ものだったのだろうか。
 何度もしゃくりあげながら、リンが弱々しく首を揺らす。
「やだ。レンと離れ離れになるの、やだよぅ……」
「お、俺だってやだ。リンと離れたくなんかないよ」
 堪え切れなくて、二人はまったく同時にべえべえと声を上げて泣き出した。
 降りしきる雨のように二人は泣いた。
 リンが背中に腕を回してきて、レンも同じように彼女の背を抱く。
 同じように頼りなくて小さな十四歳の身体は、分かちがたくお互いをしっかりと抱きしめた。
 
「がっくん家に行ってくるー!」
 足音高らかに階段を下りて、リビングの二人に一声かける。
「行ってらっしゃい。リンちゃんも一緒?」
「うん。一緒」
 ひひ、と笑いながら頷いたらミクは「うん?」とわずかにきょとんとした。
 追いついたリンがレンの背中から顔を出してくる。「行ってきまーす」
「はい、リンちゃんも行ってらっしゃい」
 ミクがひらひらと手を振る。「行ってらっしゃい」ルカも見送りをしてくれた。
 愛用のクロスバイクを引き出して乗り込み、リンも後ろに。いつもの二人、いつもの位置。
「どっかでお土産買ってかないと」
「お菓子とか?」
「がっくん甘いもの好きじゃないんだって。お煎餅とかの方がいいのかなあ」
「それじゃ俺たちがおいしい思いできないじゃん」
 当然のように土産を自分の腹にも入れるつもりのレンだった。
「あ、前にめー姉が買ってきてくれたチーズケーキ。あれあんま甘くなかったから、がっくんも大丈夫なんじゃないの?」
「あれかぁ。うん、いいかも。お店の場所判る?」
「任せとけって。調べたからデータ入ってる」
 「ナイス」リンがコトコト笑った。
 それでは出発。レンがペダルを漕ぎ出して、クロスバイクは二人分の重みなどものともせず軽やかに走り出した。
「飛ばすぜー!」
「おっしゃー、行けー!」
 なんびとたりとも俺の前は走らせねえとばかりにスピードを上げて、レンとリンは疾走する。
 バランスは完璧、後ろのリンはしがみつくでもなく自然にレンの肩へ手を置いて、風にあおられるのを楽しんでいる。加えて天気が快晴となれば、誰だって気分が良くなるものだ。
「レーン!」
「なにー!」
 風切り音に負けないよう声を張り上げながら会話をする。
「あんたはあたしで、あたしはあんただからー!」
「あったりまえだろぉ!」
 下り坂に入ってクロスバイクはますます快調、レンが漕ぐまでもなく風を切る。
「だから、この先なにがあったってずっと一緒じゃん!」
「おー、ずっと一緒だ!」
 天気は快晴。
 いつかの雨のなごりか、高い樹に広がる葉についた水滴が、日差しを反射して煌いている。
 二人の迷いなき光を湛えた双眸が、揃って弓なりのアーチを作った。 



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