◆12◆
目を覚まして最初に覚えたのは引きつれだった。なにか、乾いてパリパリとしたものが顔と首にかかっている。この感触は知っている。血だ。流れてしばらく経った血が肌にはりついている。しかし己の身体に痛みはない。ならば己の血ではないのか。では誰の?
「オサ!?」
ガバッと飛び起きて梢子を探す。どこだ、どこに倒れている? 『自分が殺してしまった』梢子はどこにいる?
「ああ、汀、起きたわね」
「え?」
梢子はどこにも倒れていなかった。座っていた。汀のすぐそば、ちょうど、汀が横たわると膝に頭が乗る辺りに、梢子は腰を下ろしていた。
さて、自分は今まで横になっていた。ということはつまり。
梢子は「うぅ、足しびれた……」とか呟いているし、やはり、そうなのだろう。
「え、え? どういうこと? 鬼は? あの成りかけは?」
「神様は、ひとまず依代に帰ってもらったわ。鬼は……還っていった」
自分も無事で、梢子も無事だ。成りかけの鬼は神に戻ったという。
汀は、なにが起こったのかまったく判らない。
説明を梢子に求めるのも仕方のない話だ。
「あたしが成りかけに憑かれたところまでは覚えてる。それからなにがあったの?」
「えぇと……」
しぶしぶ、というように梢子は話し始めた。自刃で果てようとしていた汀を止めたこと、神が梢子を覚えていて情けをかけてくれたこと、その代わり封印はせずにちゃんと祀ると約束したこと、去り際、汀の傷を直してくれたこと。
言われてみれば、社の周囲に瘴気はない。清浄で、正常だ。
ここを治める神が、分霊によって多少力を取り戻したせいか、木々の葉も青々、季節の花も咲き誇っている。あとは社をどうにかすれば、マヨヒガへたどり着いたと錯覚できそうな美しい森だった。
説明通り、意識を失っている間に、そういうことが確かにあったらしい。
だが、一点だけ。
話を聞き終えた汀は気付いていた。
重要なことがひとつある。
いや、重要なことがひとつ抜けている、か?
「で、オサ」
「なによ」
目の前の彼女は嘘とか隠し事が下手である。
「どうやってあたしを止めたのかな?」
「だから、神様が」
「なにかきっかけがあったんでしょ? オサのことに神様が気付くきっかけ。それってなんだったの?」
どうごまかそうかと目を泳がせていた梢子は、そうした時点でごまかせないのだと気付いたか、観念したように溜め息をついた。
「ほら……汀、昨夜の電話で言ったじゃない?」
「なにを?」
「だから……」
視線を足元に落とし、自己嫌悪に眉を下げて、
「つかれた身体に、って」
非常に情けない声で告げた。
疲れた身体に。
憑かれた身体に。
「……駄洒落?」
「あ、あの時は真剣に、わらにもすがるというか……」
汀はがくりとうなだれて、両手を地面についた。
「駄洒落で助けられたあたしって……」
だから言いたくなかったのに。梢子が拗ねたように呟く。まさかあの電話がこんな結果をもたらすとは。これもツキが向いていると言わば言えるか。
そこではたと気付いて汀は顔を上げる。疲れた身体に。それは、なんの話をしていて出た言葉だったっけ?
「……オサ」
「なに、よ」
「オサって、寝てるあたしにキスする趣味でもあるの?」
「ないわよそんなもの! 大体、どっちもあなたを助けるためにしたことじゃないの。そういう、変なアレはないんだから」
一度目は人工呼吸で、二度目は……栄養補給? まあなんでもいい。
確かにそれだけ見ればなにもあるまい。その、表面的な部分だけを見れば。
眼前の顔は真っ赤になっている。忌々しいほどに。からかわざるをえないほどに。
「そうね。じゃあ、あたしも変なアレはなく」
避ける暇を与えない素早さで、食むように、梢子へ口付けた。
「オサにお礼」
一年と数ヶ月前をリプレイする。違いは他に誰もいないことと、梢子が喚き散らさなかったこと。ふたつに関連があるのかどうかは知らない。
「う……」
「ん? これじゃ足りない?」
梢子は答えなかった。
「足りた足りた! 充分!」という慌てふためいた返答を期待していた汀は、肩透かしを食らって思わず梢子の目を覗き込む。
迷いが見えた。
忌々しい。
迷うくらいなら。
「…………」
「…………」
近づいたのは、彼女の方だったと思う。
思うと曖昧な言い方なのは、無意識に引き寄せられた可能性を否定できないからだ。
清浄な地で、神の前で行われたそれは、何も誓っていなかった。
離れて、梢子が俯く。その目に迷いはまだあるのか、それとも消えてしまったか、汀には見えない。
身体を返して、そばにあった太い樹の幹に背中を預ける。
「あたしさ」
「え?」
「集団行動とか苦手なのよね」
「知ってる、けど」
「群れにいると他の連中も守らなきゃいけないし、守ってもらえるから弱くなるし、大人数に合わせたりとか面倒だし」
「……ん」
「だから、オサとも群れたくない。大事な人たちとか、特別な人たちって、作りたくないのよ」
彼女といると、なんだか弱くなる。ただでさえ弱いのに、これ以上弱くなったらそれはもはや役立たずだ。役なしから役立たずへ。耐えられるか? 否。
一人でいるのが性に合っている。群れは嫌だ。喜屋武汀は群れを厭う。
非情で存らねばならない。気丈で在らねばならない。鬼切とはそういう存在だ。柔弱は侵略される。
木々が鳴る。神が反論しているのかもしれない。孤独を恐れた、独りを厭うた神が、馬鹿なことを言うなと怒ってるのかもしれない。
汀には聞こえない。無視をする。鬼も神も見ない。梢子も見ない。
汀の真正面に、梢子がちょこんと座った。何も見ていない目を彼女へ向ける。
「私、思うんだけど」
ピ、と梢子が人差し指と中指を立てる。いわゆるピースサインだ。平和の象徴がどうした。
立てた指を逆の手で、一本、二本とつまむ。あとは折りたたまれて、自由に動ける指はない。
「二人なら、群れって言わないんじゃないかしら」
「は?」
「群れって、もっとたくさんいて成立するんじゃないの? 三人なら『群れる』って言うかもしれないけど、二人だと普通言わないわよね?」
「まあ……ね」
二人であれば通常は『並ぶ』とか『連れ合う』とかだろう。群れるとは言わない。
「なら、私だけにしといて、もう増やさなければいいんじゃないの?」
それなら群れの中に入ることにはならないだろう、と、梢子はいくらか教師じみた表情で言う。
汀はあんぐりと口を開けた。
「オサ……自分で言ってることの意味、判ってる?」
「判ってるわよ」
自信満々に答えられて、溜め息が出た。
「なるほど……あんたも天然ね」
ほとほと疲れてしまって、汀は両肩から力が抜けるのを感じる。彼女は確実に判っていない。己の発した言葉の意味を、まったく判っていない。
自分以外に特別な人を作るなというその言葉が、どんな意味合いを持っているのか、これっぽちも気付いていない。
どうしてこうなるのだ? 弱味なんて少ない方がいいに決まっている。彼女は弱い。鬼に立ち向かえない。手のひらが熱を持つ。彼女は真正面にいる。彼女は弱い。彼女は。
近しい。
熱を持った手が梢子の服の襟ぐりを掴む。引き寄せる。惹き寄せられる。熱はきっとグローブに阻まれて伝わらない。
それで良いと木々が言う。うるさい。
これで良いのだろう。
「みぎ……」
「そろそろ目ぇつぶるってこと覚えてよね、オサ」
そうでなければこれから先、迷いのない目に何度も見つめられることになる。
梢子がぎゅっと固く目を閉じた。
呼気が絡む。
「……一応言っとくけど、これも別に変なアレじゃないから」
「わ、判ってる」
なぜか噛む。
腕の中に彼女を包み込む。
こうしていれば良いのだろう。こうして不自然な姿勢でいれば良いのだろう。こうして彼女を守れば良いのだろう。彼女は弱いから、こちらが強くなるしかないのだろう。
そうして二人でいれば、きっと心地良いのだろう。
「あー。それにしてもオサかー。百ちーの方がノリ合うし、やすみんの方が料理上手いし、姫さんの方が素直なのになー」
「さりげなくもなく、好き勝手なこと言ってるわね」
肩口に顔をうずめているから見えないけれど、おそらく彼女は笑っているだろう。
忌々しくも清々しい、親しげな笑みでいるだろう。
だから、彼女で良い。
嘘が得意な己には、嘘が苦手な彼女が良い。
二人でいるためのもう片方は、そんな誠実な彼女が良い。
群れを厭う喜屋武汀には、群れをまとめる小山内梢子が良い。
マヨヒガから持ち帰るのは彼女が良い。
迷いの彼岸を見送る共連れは、彼女が良い。
「ねえオサオサー」
「なに?」
「二つで一つの組を表す言葉ってなーんだ」
「え? えぇと……」