16 貴方を忘れない


 夏の夜に生まれて、夏の夜に逝ったあの人は、最期の瞬間なにを思っただろう。
 ありがとうと彼女に告げて、何を負うこともなく、何の不満もなく終われたのだろうか。
 そうでなければいいと思う。
 ほんの少しでいいから、自分との別れを惜しんでいてくれたらいいと思う。
 己が抱えている罪や痛みや後悔を忘れないために、梢子はそう願った。
「私は、もっと夏姉さんといたかったわ」
 何かひとつでも、選択肢が違っていたら変わっていたかもしれない未来。諦めてしまった何かを諦めなければ救えたかもしれないあの人を、ただ静かに想う。
 梢子の周囲には石が並ぶ。死者を悼む象徴としての石。死者が眠る墓の下。己が前に立っている石の下に、あの人はいない。
 それでも梢子は象徴へ語りかける。
「ねえ、夏姉さん。私はいつになったら汀を許せるのかしら」
 あの人の命を終わらせた腕。あの人を最期に救った腕。自分の権利を横取りした腕。もう二度と取り戻せない、後悔ばかりをもたらす腕を、いつになったら許せるのだろう。
 きっといつまでも許せないのだろう。
 許すと、自分で決めて声に出さなければ、許すことなどできはしない。
 足音がした。それから水の跳ねる音。そちらに目を向ければ、愛憎入り混じる相手が供花の入った水桶を持ってやって来る。
 憎いあんちくしょう、である。
「風通しがいいわね。結構結構」
「冬場は寒いんだけどね」
「東北の方じゃ墓石にお湯をかける地方もあるらしいわよ。仏さんも冬は寒かろうって。ま、積もった雪をどかすのが面倒なだけかもしれないけど」
 この地のこの季節ではそれほどでもない。汀の持っている水桶から花を抜き取って供え、ひしゃくで石に水をかけた。
「海だったから、水はもうたくさんかしら」
「いやー、海水なんて塩っからくて飲めたもんじゃないし。いいんじゃない?」
 卯良島でいいだけ水を飲んだ汀が、肩をすくめながら言う。それもそうかと梢子はさらに水を捧げた。
 ひしゃくを水桶に戻す。カラン、と、綺麗な音がした。
「ちゃんと手入れされてるんだ」
「ええ、鳴海の家はもう誰もいなくなってしまったでしょう? そのままにしておくと荒れるばかりだから、おじいちゃんとか母さんとかが頃を見て来ていたのよ」
 手を合わせて黙祷。隣の汀は墓石を見据えたまま動かない。
 初めて、汀をここに連れてきた。
 報告という意味もあったし、これまでは汀を連れて来たくなかったという理由もあった。
 なんと言えばいいのだろう、自分の大切な人が他の誰かに目を奪われるのが嫌だというような、子どもっぽい嫉妬心だろうか。現実に起こりうるわけでもないのに。
 今は、少し違う。
 隣に汀がいることを知ってもらって、それでも貴方を忘れられないのだと告白して、許せない自分たちを、許せないまま認めたかった。
 顔を上げ、静かに目を開ける。
「手くらい合わせたら?」
「別に、そんなことする必要はないわね」
 大した感想も無いような顔で、汀は水桶の持ち手を変えたりしていた。
 必要と彼女は言ったけれど、本当は、資格と言いたかったのかもしれない。
 梢子としても無理強いする気はなかったので、溜め息ひとつで済ませて視線を前に戻した。その先には供花が水に濡れながら佇んでいる。「それにしても」ぽつりと呟いた。
「こういう時って、普通は菊とかにするんじゃないの」
 退院して日が浅いためにまだ身体が本調子ではなく、手配を汀に頼んでいたから今初めて見たけれど、こういった用向きには珍しい花だった。花というか、ほとんどが実になっている小ぶりの枝だ。
 小さな赤い実をつけている枝を見遣りつつ、梢子は小さく首を傾げた。
「南天よね、これ」
「うん」
 汀が小さく頷いて、眉を片方上げた、そこはかとなく皮肉げな笑みを浮かべる。
「ま、ちょっとした嫌がらせと願掛けかな」
「なにそれ」
「南天は『難を転ずる』とかけて縁起物とされる花でね。厄除けのために鬼門の方角に飾られたり植えられたりしたわけ。
鬼に寄ってこられちゃ迷惑だし、まあ威嚇みたいなもん。これで夏夜もおいそれと出てはこれないでしょう、と」
「……そんなことしなくても、夏姉さんは化けて出たりしないわよ」
「だからちょっとした嫌がらせだってば。こんなので鬼を排せるなら鬼切り部なんていらないって」
 この程度のことは見逃せ、と、汀は梢子の肩を抱き寄せて唇を近づけた。
「オサを取られたくないわけよ」
 もういない、出てこないと判っていたところで不安は消えない。
 二人の記憶に強く残る彼女は、確かな存在感を持って意識に宿っている。
 今以上には出てきてくれるなと、汀は赤い実で念じる。
 「……取るとか取らないとかいう話じゃない」紅潮した顔を俯けて、梢子がぼそりと言った。
 判っては、いるのだけれど。
「じゃあ、願掛けって、なに?」
「ん?」
「さっき言ったでしょう、嫌がらせと願掛けだって」
「ああ」
 はらりと笑って人差し指を唇へ。「それは秘密です」「なによ。気になるじゃない」面白くなさそうに眉を寄せる彼女へ、汀は飄々と背を向ける。
「汀」
「別に大したことじゃないから、気にしなさんな」
「そんなふうに隠されると気になるの。大したことじゃないなら言ってもいいじゃない」
「んー、まあ、報告というか宣言?」
「全然判らない」
 水桶を持ち上げて歩き出す。砂利が小気味良い音を立てた。
 「汀、ごまかさないで」背後から腕を取られて少々抵抗を覚えた。引き止めようとしてくる左手に、その断ちがたい銀色に、汀は仕方なく振り返る。
 まいったな。口の中だけで呟いた。恥ずかしいから直接言いたくはないのだが。今回は特に命の危険が差し迫っているわけでもないし。
 夏夜に伝えたかった言葉。手を合わせることも、静かな眠りを祈ることもできないけれど、それだけは言っておきたかった。言ってみれば汀なりの手向けである。
 できればそれは夏夜と自分だけの秘密にしておきたかったのだけれど、この実直すぎて引くことを覚えない彼女、黙っていてはいつまで経っても諦めそうにない。
 吐息をつく。
「南天の花言葉って知ってる?」
「知らないけど」
「じゃ、調べてみたらいいわよ。多分それで判る」
 どうあっても直接教える気はないのだなと梢子はやや呆れがちな半眼になった。それでも、ヒントを引き出せただけで良しとしたか、「綾代にでも訊いてみようかしら」独り言を口元に置く。
 彼女ならば知っているかもしれない。意味を悟られた時のことを想像すると全身をかきむしりたくなるが、同時に彼女であれば仕方がないとも思う汀だった。
 
 生まれ故郷の陽光にも似た、強い赤を持つ枝。
 夏の頃につけていた花が暗示するものは、深まりゆく愛情と、良き家族。
 それは汀自身の未来を指していたし、また、夏の夜に消えた彼女の過去も表していた。
 
――――約束する。
 そういう一言を南天に込めて、汀はまばたきと同じ時間だけ喪に服した。
 彼女が梢子へ与えてきたもの。彼女が梢子へ与えられなくなったもの。引き継ぐ、という気持ちがあるわけではない。汀が持っているのは似ているようで絶対的に違うものだし、彼女の代わりをしてやるなど御免だった。
 ただ、彼女に心残りがあるとすればそこではないかと思ったのだ。
 梢子から欠けた何か。虚無の透明か深淵の無色か、とにかく緋色にも陽色にも、そして自分自身の色にも染まらない穴倉。それを憂う彼女の空想が汀から離れない。
 そこへ陽色を詰め込んで、上塗りするどころか「そこは最初からこうだったでしょう?」と言い張る、嘘つきだけがなしえる救済。そういう約束だった。
――――だから、あんたは何も心配しなくていい。
 RIP。寺の敷地内で呟くにはあまりにも不似合いで不信心な死者への言葉を、汀は誰にも聞こえない(あるいは深く眠るただ一人だけが聞ける程度の)声量で発する。
 まばたきの時間が過ぎた。
「さーて」
 水桶を振り回しつつ、止めていた足を再開。「帰りますか」
 梢子もそれに追随して歩き出した。水桶を寺主へ返却して、ぷらりからりとのんびりした歩調で帰路を並び歩く。
「今日の夕飯はなんにしよっか」
「寒くなってきたし、鍋でもする?」
「おっ、いいわね」
 「鍋をつつきながら熱いのをきゅーっと」「こら、未成年」「なに言ってんの。お茶のことよ?」いつぞや風呂に浸かりながらしたようななやり取りを、飽きもせず繰り返す二人である。
 ところで茶を飲む擬態語として「きゅーっと」は使わない。割合、酒精と親しい汀だ。
 そのへんはさすがに梢子が許さないだろうけど、鍋は楽しみだった。水炊きかてっちりか、あるいはキムチ鍋も良い。締めを雑炊にするかうどんにするかが悩みどころである。
 それはなんてことのない日々の欠片で、なんてことのない小さな幸福だったけれど、柔い日差しみたいに瑕疵を一瞬不可視にする。
 初冬の昼は朝ほど凛とはしておらず、夜ほど威容を誇りはしない。ぬるま湯に似ていた。
 相変わらず梢子は自分たちを許せないし、夏夜を忘れるには過ぎた時間が短すぎるし、ある意味ではなにも解決していないのだけど、それでも日々は過ぎるし己は彼女の隣にいるし彼女は己の隣にいる。
 幸福と呼ぶには充分すぎた。
 汀はわずかに歩を緩める。「ねーオサー」「なに?」歩調を合わせた梢子がこちらを見上げてきた。
「歩くのが傷に響くなら、腕くらい貸すけど?」
「いらない」
 折れた骨もくっついて、歩く程度なら苦ではない。
 にべもない返答に汀が肩を落とす。
「じゃ、寒いから手を貸して」
「最初からそう言いなさい」
 差し出された左手を握ると、一瞬ひやりと冷気が通った。外気にさらされ続けた銀色はしかし、すぐに汀の体温を宿す。それを慈しむように小指で撫でる。くすぐったかったのか梢子が軽く笑った。
「あったかい」
「そうね。私も」
 穏やかな冬の陽だまりに、二人は揃って目を細めた。



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