17 朝は暮れない


「汀、いい加減起きなさい」
 肩をいささか乱暴に揺すられて、汀が「んん……」と寝惚けて唸る。「あと五分……」
「駄目」
「じゃあ、あと十分……」
「延ばしてどうするの」
 掛け布団を剥ぎ取ると即座に丸くなる汀。子どもか、と少々呆れる。卯奈咲ではそうでもなかった気がするのだが、どうも最近の汀は自堕落いちじるしい。あの頃はモードが命懸けの鬼切りだったからシャンとしていただけで、これが彼女の地なのだろうか。
 魍魎を次々に切り伏せた、凛々しい姿が懐かしい。過去は美化されるものだけれど、それを抜きにしたところで今の姿とのギャップはそうそう埋まるまい。
 といっても、どちらも汀であることに変わりはないのでいいのだけれど。
 いいというのはつまり、「良い」ということだけれど。
 こういう受け取り方をしてしまうから甘やかしてしまうのだろうかと自己分析および反省をしつつ、梢子はさらに汀の肩を揺する。
「早く起きないと遅刻するわよ。今日の一限は必修でしょう。来年から私より下の学年になりたいの?」
 揺すっても効果が見えないので強請ってみた。
 汀は眩しいというように顔をしかめると、喉の奥で潰れた呻き声を上げてのっそりと起き上がった。
 時が止まったかのように静止していた汀だったが、やがて電源が入ったのか眠たそうな目を梢子に向けて「おはよう」と言った。
「おはよう。ほら、さっさとご飯食べて着替えて準備しなさい」
「……オサはお母さんみたいだなー」
「文句があるならたまには私に起こされる前に起きて」
 やれやれ。病み上がりを朝から働かせておいて随分な言い草である。
 ダイニングテーブルについた汀がそのまま突っ伏しそうになるのを、手を叩くことでたしなめて、汀の食事の用意を進める。
 準備を終えて向かい合わせに座ったところで、汀がいただきますと手を合わせた。こういうところだけ礼儀を心得ている彼女だ。
「オサは今日も朝から部活?」
 食事をしながら尋ねてくる汀へ頷きを返す。「あと二十分くらいで出るけど」
 そこで汀が初めて現在時刻を確認した。「うわ、遅刻どころか二度寝できる時間じゃない。だまされた」
「起こしておかないと、あなた本当に寝過ごして遅刻しそうだもの」
「ちゃんと目覚ましで起きるわよ」
 嘘っぽかったので梢子は彼女の主張を無視した。いい加減、汀の扱いにも慣れてきたので、こういう振る舞いにも後ろめたい気持ちは生まれない。
 汀は不満そうに口を曲げていたが、筑前煮の里芋が柔らかかったので機嫌を直した。
 BGM代わりにつけているテレビのワイドショーを眺め、それに感想を言ったりしながら食事を進めていく。次第に頭もはっきりしてきたようで、地方の伝統行事の話題が出た時はうんちくを語ってきたりもした。今度から彼女を起こす時は神話とか古代伝承とかについて話しかけたら良いかもしれない。
 さて、そろそろタイムリミットだ。梢子は椅子から立ち上がると傍らに置いてあったバッグを肩にかけた。
「それじゃ、行ってきます」
「ん。行ってらっしゃい」
 味噌汁椀を持ちながら応じる汀。それからにやんと笑って、
「行ってきますのちゅーとかはないの?」
「……馬鹿?」
「あれ、何度も言われてるのに疑問形になっただけでダメージが深い……」
 胸を押さえて悲しそうな顔をしてくる。何を言っているのやら。「下らないことを言うからでしょう」取り付く島もなく切り捨てる梢子だった。
 テーブルを回り込んで汀の傍らに立つと、そのこめかみをちょんとつついた。
「あなたとする時は、ひとつの意味しか込めたくないの」
 挨拶だとか合図だとか、そういうものではなくて。
 ただひとつ、気持ちだけを伝えるキス。それしかいらない。
 汀は瞬時きょとんとして、次の瞬間には破顔していた。
「あたしはそれでも全然構わない」
 カモン、と鉤型にした指先で誘う。
 なんだか墓穴を掘った気がしなくもないが、汀はすっかり待ち受けているし、待ちぼうけさせるのは可哀想だと思えなくもない。
 梢子は逡巡ののちに汀へ背を向けた。「あれ、オサ?」肩透かしを食らった汀が間の抜けた呼び声を洩らす。
 かわしたわけではない。それは交わすための前準備、このままでは少々気恥ずかしいものがあったのだ。
 壁際に置かれたラックの最上部、そこに佇むフォトフレームをクルリと反転させる。それから汀のもとへ戻って、彼女の肩へ手を置いた。
 汀は顔を上げた姿勢で、双眸へわずかに悪戯な光を宿した。
「見られたくない?」
「気分の問題」
「いやー、あたしとしては見せつけておきたいなー」
 軽口を叩いてくる彼女の頬を引っ張って黙らせる。その手を添えるかたちに変えて、そっと唇を彼女の唇に落とした。
 かすかに強張る気配。罪悪感の発露を唇越しに感じ取って、梢子の抱える痛みがダイレクトに汀へと伝わる。それは悲しいことだけれど、二人とももう慣れてしまっているので後悔はない。滑らかな表面に傷が一筋あれば目立つ。しかし何千、何万と細かな傷がついていれば、それらひとつひとつが互いを打ち消しあって傷があると認識しなくなる。そういうこと。
 始まりと同じようにそっと離れた梢子が、赤らんだ頬を緊張させながら見下ろしてくる。キスの後、彼女はいつも少々不機嫌そうな顔をした。照れているだけではあるけど、たまには笑ってみたらいいのにと思う。
「ときにオサオサ」
「ん?」
 背もたれに身体を預けた汀が、軽く首を傾げた。
「『あたしとする時は』ってことはつまり、他の人とする時は違うの?」
「っ、馬鹿!」
 なんとも聞き慣れた、耳に心地良い『馬鹿』だった。
「汀としかしてないに決まっているじゃない!」
「じゃあいいや」
 ひょい、両腕を彼女の腰にまわして抱き寄せる。滑らかなラインが洋服越しに伝わる。いまだ、その曲線を思う存分味わうことはできていないけれど、汀に焦りはない。
 薄っぺらい腹部に頬を押し付けながら、そっと彼女の背を撫でる。
 昨晩つけた目には見えない印が、いつか全身に咲き誇ればいいと思う。それはきっと光の色で、輝いて、両腕の緋色すら包み隠してしまうだろう。
 災厄が結びつけた幸福を、銀色がずっとつなぎ止めていてくれたらいい。
 ゆるやかな慰撫に毒気を抜かれた梢子が、汀の頭を抱え込むように両手を組んだ。
「そんなことを心配するくらいなら、もっと早く捕まえに来ていたらよかったのに」
 そもそも再会からして悠長すぎたのだ、と梢子が言い出した段になって、汀はうんざり顔を作りつつ身を離した。それでも口元が微妙に緩んでいる。
「もうその話は聞き飽きた。過ぎたことを何度も言いなさるな」
「だって、汀の前に他の誰かを好きになっていたら大変じゃない」
「なってなかったんだからいいんじゃないの?」
 「それに」汀が不敵に笑って。
「もしそんなことになっていても、ちゃんと取り返すから大丈夫」
 小さく、梢子の喉が鳴った。何かを言いたそうな、けれど何を言いたいのか自分でも判っていないような表情。
 もう何度、こんなやり取りをして、彼女のそんな表情を見ただろうか。
 繰り返し繰り返し、出されては否定される「if」。
 おそらく彼女は無意識に、甘えによって「もしも」を唱える。
 そして汀はいつだって、その「もしも」を否定する。
 彼女が無意識に、それを望んでいたからだ。
 叶えられない、答えられない別物の「if」。
 『もしも別の選択肢を選んでいたら?』
 汀は嘘つきだから、いつでもその問いに『それでも結果は同じだった』と答え続ける。
 過ちであることは自覚している。どこかで別の道を選べば夏夜を救えたかもしれないし、どこかで別の道を選べば二人はこうしていなかったかもしれない。そんなことは判っていた。
 けれど……。
 彼女がその答えを望んでいること、『それでも君のそばにいた』と答えてほしがっているそのことは、確かに汀の幸福だったのだ。
「だから安心して」
「……まあ、心配はしていないけど」
 彼女の表情は嘘だった。嘘である限り、梢子はライナスの毛布を手放すことができない。
 だから汀は毛布越しにその背を撫でてやるしかないのだ。
 まったく、困ったものである。こちらはいつでも身ひとつで暖めてやる準備ができているというのに。
 本当の春が来るのはいつになるやら。汀は心の中だけで苦笑した。
「オサ、そろそろ時間じゃないの?」
 言われた梢子が時刻を見る。一瞬にして焦燥がそのおもてに浮かんだ。
「も、もうっ、汀が変なこと言って引き止めるから」
「うわー、なんか八つ当たりされた」
「事実でしょう?」
 拒まなかったし気づかなかったのはそちらの責任だろう。汀は涼しい顔でやれやれと首を振った。その仕草にまた何かを言いかけた梢子だったが、埒が明かないと見たか、ぐっと言葉を飲み込んでバッグを持ち直す。
「行ってきます」
「ん。行ってらっしゃい」
 バタバタと梢子が出て行くのをのんびり見送る。
 途中だった食事を終えた汀は、自分で淹れたコーヒーを飲んでしばらく閑に浸った。携帯電話にメールが二件。アルバイト先の店主からと、大学の友人からだった。昨晩のうちに届いていたが気づかなかったようだ。時間も早いし、大した用件でもなかったので返信は見送る。
 朝の日差しがカーテンの開けられた窓から入り込んでいて清々しい。心洗われるようだ。特別な場所や日時でなくとも、朝日はいつだって奇跡的に神々しい。
 その日差しが汀の足元に金色の陽だまりを作る。自然の労わりを見出した。
 カップの中身を飲み干すと、汀は離れがたい陽だまりから抜け出て着替えを済ませた。
 今日はこれから大学で勉学に励み、友人たちとお喋りに興じたり(そしてたまに弁が乗りすぎて鬱陶しがられたり)、合間に梢子や綾代とメールをしたり、終わってからはバイト先へ顔を出して店主や孫息子の話し相手になってやったり(彼は最近綾代のことが気になっているらしい。残念ながら当の綾代は別のものにご執心で気づいていない)、家に帰ったら適当に過ごして梢子へ「おかえり」を言ってやったりしようと思う。彼女をからかって他愛ない口げんかに発展するのも良いだろう。それでも夜になったら彼女を抱きしめて眠ろう。
 そういう、なんでもない幸福をひとつ、昨日までの幸福に積み重ねようと思う。
 荷物をまとめて、さて出発という段になって、汀がつと視線を止めた。
 梢子が反転させたままになっていたフォトフレームへ手を延ばす。元の方向に戻して、陽光に照らされたそれを眺めた。
 フレームの端に指を置いたまま、ふ、と小さく、苦笑のような吐息をつく。
 二度も勝ち逃げを許した相手だけれど、もうそのことに腹立たしさは覚えなくなった。
 いつまで経ってもいなくなってくれないから、いつの間にかそこにいるのが当たり前になってしまった。憎いとか憎くないとか、そういった次元の感情は融けて己と同化して、『自分を打ち負かした存在が自分の中にあること』が自己形成の一端を担っている。
 それは成長と言えるのかもしれない。
 失敗が成功の母であるように、劣敗は成長の母となりえるのだろう。
 写真の彼女は、なんてことのない日々の中にいる彼女は、こちらへ穏やかな微笑みを向けていた。
 梢子と同じ色を持つ瞳を見つめながら、汀は目じりをわずかに緩めた。
「――――じゃ、行ってくるわ」
 ありがとうと最期に言ってくれた優しい人へ。
 またここに帰ってくるよ。そう告げる。
 
 汀が玄関を出て、外から扉を施錠する。
 
 誰もいなくなった部屋で、写真が陽光を反射させて、星のように散りばめていた。



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