15 白はいとけない


 もうすっかり登り慣れた階段へ、一歩一歩足を乗せる。寒靄にけぶる山門は、夏の侘しさがわずかに薄れて一見荘厳としていた。しかし、綾代にとってはいつでもそこは彼らが和やかに暮らす温かな古寺だ。
 遠くで鐘の音が響いている。凛と張った空気の中、それは澄んでよく聞こえた。
 この時期にしようと、前々から決めていたわけではない。特に理由も無かった。いつかと思っていて、そのいつかがたまたま今だった、その程度である。
 あるいは大切な友人たちの左手に触発されたのかもしれないけれど、原因はあまり重要ではない。
 階段を登りきると、寒風が吹きつけてきた。南方にあるとはいえこの季節はやはり寒い。綾代はマフラーを引き上げて寒さをしのぐ。
「こんにちは」
 奥へ向けて声をかける。すぐにとててっと足音が聞こえてきた。わずかに頬が緩む。
 現れた白髪の少女は綾代を見つけるとその胸へと飛びついた。
「綾代ちゃん、いらっしゃいませ」
「こんにちはナミちゃん。お邪魔しますね」
 何度か優しく髪を撫で梳いて、一緒に奥座敷へと向かった。
 二年前の夏に出逢った時は失語の状態だったナミが言葉を繰るようになって、半年ほど過ぎていた。月に何度となく来訪した綾代の努力の成果だ。彼女が初めて語を発した時、その場にいた佑快和尚が「奇跡の人ですな」と感嘆の声を洩らした。綾代としてはアン・サリヴァンと並びたてられたことに大変恐縮してしまったのだけれど。こちらは視覚にも聴覚にも問題がなかったのだし。
 しかし、基本的に綾代の真似をすることで言葉を覚えたような感があって、敬称の使い方がよく判っていないようだ。綾代がナミを「ナミちゃん」と呼ぶから、同じように彼女は綾代を「綾代ちゃん」と呼ぶようになってしまった。
 佑快が何度かたしなめたのだが、ナミは何故それが間違いなのか判らなかったし、綾代としてもそう呼ばれることに不満は無かった(むしろ願ったり叶ったりであった)ので直させようとはせず、結局それが固定して今に至る。
 ナミの淹れてくれたほうじ茶を半分ばかり飲んだところで、遅れて佑快が顔を見せてきた。
「おお、いらっしゃっておられましたか。これは、迎えもせずに申し訳ない」
「お気になさらず。鐘が聞こえていましたから」
 ナミが手元の茶盆から甲斐甲斐しく佑快の茶を用意している。教え始めた頃は危なっかしくて見ていられなかったものだが、今ではなかなかどうして、立派に作法を身につけていた。
 湯飲みを受け取った佑快が、一口ずずりと啜って息を吐いた。「うむ。美味い」
「寒が強くなると、熱い茶が何にも勝りますな。無論、ナミさんの淹れてくれる茶が絶品であることもありますが」
「ありがとうございます」
 「うむ」佑快の大きな手がナミの白髪を柔らかく撫でた。
 うにゅんと目を細めるナミを穏やかに見つめてから、綾代は佑快へと目を移す。
「でも和尚さまは別の熱いものもお好きなのではありませんか?」
 佑快が力強く頷いた。
「確かに熱く燗した般若湯も良いものです。喉から胃の腑に落ちていく心地良さといったらありませんな」
「もう少し待っていただければ、お付き合いもできるのですが」
「それは楽しみじゃわい。来年までナミさんと共に心待ちにしておきましょう」
「……そのことなのですけど、今日はお願いに参りました」
 佑快の眉がわずかに上がった。「いかがなされたのですかな?」包容力に溢れた声音に、綾代は少々申し訳ない気分を味わう。
 綾代の首筋から、菖蒲の香が立ち昇っている。
「もちろん、ナミちゃんと和尚さまが許してくださるのなら、というお話ですけれど」
 前置いてから、居住まいを正して佑快に正対する。
「ナミちゃんをわたしにくださいませんか」
 数瞬、佑快が黙り込んだ。綾代の言葉の意味を吟味していたのだろう。
 「……ふぅむ」あごひげを手で撫でつけながら、小さく唸る。瞑目して、またしばらく黙った。
 ナミはそんな佑快の様子が不可解であるようできょとんとしている。
「それは、副部長さんのお宅でナミさんを引き取りたい、ということですかな」
「はい。両親にはすでに了解をもらっています。ナミちゃんを桜井の養子として迎え入れること、お許しいただけませんか?」
 それが父親と取り交わした交換条件だった。自宅通学の引き換えとしては少々勝ちすぎている気がするけれど、なにしろ綾代を溺愛している両親、外へ出て行かれるのに比べたら家に一人増やす方が受け入れやすかったようで、相手が女の子であることも相まって強く反対はしなかった。
「……ふぅむ」
 再び唸り声を上げた佑快は、静かな眼差しを綾代へ向けて、表情を観察し始めた。綾代はまっすぐにその眼差しを見つめ返す。
「儂のような、いつ仏の末席に並ぶか判らぬおいぼれと二人では、確かに不安もありましょうが」
「いえ、そういうわけでは」
 筋骨隆々、かくしゃくとしてあと数十年は生きそうな佑快である。さすがにそこは否定する。
 佑快がゆっくりと茶を飲む。ことりと湯飲みを置いて、そこへ視線を落としたまま口を開いた。
「しかしナミさんは、同じ年頃の娘と比べても少々発育に難がある。それどころか……なんと言いますか、人の世の理に沿った存在ではない、そのような気がしております」
 その言葉を、綾代はよく理解できた。
 出逢ってから二年を越えても成長しない身体、不可思議な白皙と白髪(アルビノを疑ったこともあるが、それにしては瞳の色素が濃い)、未だに判明していない素性。
 それらを鑑みれば佑快が渋るのも無理はない。家族として迎え入れるということは、それらすべてを受け止めるということだ。苦労は想像に難くない。それに、言い方は悪いが地方の片田舎であれば人目にさらされることも少ないけれど、綾代の暮らす地域ではそうもいくまい。佑快はそういったことも心配しているのだろう。
 けれど、それでも。
「ナミちゃんが何者であろうと構わないんです」
 手招きをして、佑快の隣にいるナミを呼び寄せる。白皙の少女は素直に従った。
 傍らにちょこんと座り込んだ彼女の白い髪をそっとすくう。
 綺麗だと思った。
 それだけが理由。
「わたしはナミちゃんが好きです。だから、一緒にいたいと思いました」
「……う、む」
 どこか気圧されたように喉の奥で声を潰し、佑快はどうしたものかと顔をしかめた。
「副部長さんもいつかはお嫁に行かれるでしょう。そうなった際、ナミさんをどうなさるおつもりかな?」
「今のところ、わたしは一人娘ですから、婿養子をお迎えする予定になっています。それならうちを出る必要はありません」
「なるほど……」
 佑快は僧衣の袂に両手を突っ込み、腕組みのような姿勢になって、長めのまばたきを一度した。 
「そこまでお心が決まっておるのなら、儂からはもう言うことはありませんな」
「それでは」
「ただし、ナミさんが嫌がるようでしたら、儂としてもお受けしかねます」
「はい。それはもちろんです」
 話についていけず、頑是無く綾代の髪をいじくっていたナミの手を外させて、綾代がナミへ向き直った。
 ナミと向き合った。
 菖蒲がにおい立つ。
「ナミちゃん。あなたを大切にしますから、わたしのうちに来てくれませんか?」
 首もとの香に込められた決意が表出する。
 ナミはどこか感情のない瞳で綾代を見返していた。
「綾代ちゃんのおうちへ遊びに行くのですか?」
「いいえ。ずっとわたしと暮らすんです。わたしの妹として」
「妹……」
 小さく首を傾げて復唱するナミ。
「嫌です」
「……え……?」
 綾代の表情が絶望に強張る。佑快も意外だという顔でまじまじとナミを見つめていた。
 ナミはそんな二人の様子になど構わず、無邪気に笑った。
「お姉ちゃんがいいです。わたしは綾代ちゃんのお姉ちゃんになります」
「……えぇと」
 養子縁組は年齢順なのでそれは無理な相談だ。これで彼女が実は二十年以上生きているなら可能だろうけれど、どう見ても小学生くらいである。
 ともかく、引き取ることを断られたわけではなかったので安心した。力なく愛想笑いをする綾代の向こう側では佑快が同じように苦笑していた。
 宥めるような口調で、綾代はナミの心変わりを望む。
「お姉ちゃんでなければ嫌ですか?」
「……んー……」
 綾代の様子で自分の希望が叶えられないと察したのだろう、ナミは難しい顔になって、上目遣いにこちらを見つめてきた。
「お姉ちゃんがいいと、どうなりますか?」
「そうですね……、残念ですが、ナミちゃんとは家族になれません」
「家族……」
「ええ、お父さんがいて、お母さんがいて、わたしがいて、ナミちゃん。そういう家族です」
 ナミが指折り数える。お父さん、お母さん、綾代ちゃん、わたし。
「……四人、ですね」
「ええ。四人家族です」
「四人なのは、嬉しい気がします」
 奥底へ押し込められている記憶が、ほのかに浮き上がった。四人でいた頃。己が今の己ではなかった頃。
 誰も知らないことだったけれど。
「……時々、妹だった気も、します」
 同じ血を持つもう一人。こっそり入れ替わって姉が妹に、妹が姉に。
 本人すら理解の埒外な懐かしさを抱き、どこか遠くを見つめる。
 どこも見ていないナミは静逸に微笑むと、「妹でもいい気がします」そう答えた。
「本当ですか?」
「はい」
 綾代の心臓が一度収縮して、それからゆっくりと拡張した。
 彼女の頬へ触れる。赤子のような柔肌は、綾代を捕らえて離さなかった。
「和尚さまと離れ離れになってしまいますが、それでもいいのですか?」
 わずかにナミの表情が曇る。
「……それは、少し寂しいです」
 申請や引越し準備などがあるから、今すぐにという話ではない。早くても年をまたぐことになるだろう。
 それでもいつかは慣れ親しんだここを離れなければならない。
 「ほっほっほ」かすかにけむった空気を吹き飛ばすように、佑快が鷹揚に笑った。
「今は交通手段も整っておりますからな。来ようと思えばすぐでしょう。実際、副部長さんは半月に一度はこちらへ足を運んでおられたわけですしな。いつでもお待ちしておりますから、拙僧の顔が見たくなったら遠慮せずいらっしゃっていただいて構いませぬよ」
 このような生臭坊主の顔で良ければいくらでも見せますぞ。あごひげをしごきながら歯を光らせる佑快。綾代とナミは揃って笑い声を上げた。
 
 その年の暮れと、翌年の明けは、三人で過ごした。
 協力してお節を作って、それをつまみながら昔遊びに興じたり、佑快が除夜の鐘をつくのを手伝ったり、夜更かしはまだ辛いナミが寝入ってから、佑快と今後のことを話し合ったり、元旦にお年玉をもらってしまって面映い思いをしたり、そんなふうに過ごした。
 年明けには檀家の人々が年始の挨拶をしに咲森寺を訪れてきたので、ナミと一緒に応対したりした。彼らにもナミは可愛がられているようだった。養子の話を聞くと、みんな寂しそうな顔をした。
 そのことに、綾代は幾分か胸の痛みを覚える。
「……わたしは、ナミちゃんを好きな人たちから、ナミちゃんを奪ってしまうのですね」
 小さな呟きを聞きとめた佑快が、綾代を一瞥する。
「此方を選べば彼方を選べず、何かを手に入れれば誰かが手に入れられぬ。それは人の世の定めじゃよ。拙僧は仏の道を選び、剣の道を捨てましたが、後悔はしておりません。あそこで剣を捨てればこそ、今、こうして副部長さんと親しくさせていただいておるわけですからな。
申し訳ないと思うのであれば、副部長さんも後悔せずナミさんを大切にしなされ。それが皆への何よりの詫びとなりましょう」
 負い目を感じる必要はないとおためごかしを言わず、佑快は優しく綾代を諭した。
 たとえ過ちでなくとも誰かを傷つけてしまう事態は訪れる。そういった時にどうするか、額を土につけるか、それとも別の方法を取るか。何が一番誠実か。そんなことを、佑快は説く。
「……はい」
 綾代もまた、佑快の説諭に対して誠実に頷いた。
 
 それから養子縁組の手続きに奔走して、合間を縫って何度か卯奈咲に足を運んだ。
 五度目の訪問を終えた時、綾代は一人で帰りはしなかった。
 南の空から宝物を持ち帰って、それはそれは優しく丁寧に扱った。
 
 そして立春の頃、白は桜にほの染まる。



NEXT



HOME