14 それは否めない


 手際よく林檎の皮が剥かれていく。「災難でしたね」綾代が手を止めないまま言った。
「でも、後に残るような怪我ではなかったそうで、それは良かったです」
「まあね。腕が無事だったのは不幸中の幸いかな」
 ベッドにもたれかかった姿勢で、応じた梢子は苦笑いをする。両腕に大過はなかったものの、右の鎖骨と肋骨が二本持っていかれた。おかげで起き上がって歩くことすらままならない状態だ。数分程度なら我慢もできるが、それ以上となると脂汗がにじみ出てくる。
 剥き終わった林檎を受け取ってかじりながら、逆の手で自身の腹部をさする。痛み止めが切れてきたのか、疼痛が響き始めた。
「剣道部も除籍にはならないそうだし、できるだけ早く退院したいんだけど」
「いけませんよ。なによりもまず、怪我を治すことを考えてください」
「うーん……」
 根っから体育会系のせいか、あまり自分の身を大事にしない傾向のある梢子である。危険を顧みずに死地へ飛び込んだこともあるし、少々の痛みならやり過ごそうとしてしまう。どうもこの、ただ寝ているだけという時間がもったいなく思えてしまうのだ。
 綾代はどこか呆れたように息をついた。
「あまり無茶をすると、汀さんに心配をかけてしまいますよ」
「それは……悪いとは思っているわよ」
「事故があった日も、梢子さんのご家族が到着されるまでずっとついていて下さったのですよね?」
「うん、まあ……。でもうちの人たちが来たらすぐに帰ったらしいんだけど」
 おりよく、話題の主となった汀が顔を出してきた。「あれ、姫さん来てたんだ」や、と片手を上げて綾代に挨拶。綾代はそれに会釈で応えた。
「あら」
「え?」
 顔を上げた綾代が、汀を注視しながらわずかに驚嘆した。なんだろう?と訝る二人を置いて、くすくすと笑いを洩らす。
 綾代の視線は汀の上げられた手に集中していた。左手である。その小指には装飾を極力排除した銀色が煌いている。綾代の視線の先に気づいた汀が、「ああ」と軽く苦笑した。慌てて隠さないあたりはさすがだなと綾代は感心する。そのまま自然に手を下ろして、ゆったりと歩み寄ってきた。
「あたしにも一個ちょうだい」
 返答を待たずに林檎をひとつつまみ上げる。シャク、といい音を立てて噛み割られた林檎が、汀の口へ収まった。
「どう、調子は」
「まあまあ」
 汀はそのあっさりした返事に「あっそう」とやはりあっさり頷いて、一時、林檎を食べるのに集中した。
 綾代にとっては少し不思議な光景である。確かに梢子の状態は落ち着いていて、そんなに心配するような時期でもないが、それにしたってもっと気遣ってやってもいいのではないだろうか。気遣うどころか汀は「うり」と梢子の傷口あたりを指でつついたりして怒られている。様子を見るに梢子は本気で痛いみたいだ。
 まあ、照れ隠しというか、小学生が好きな子を苛めるのと同レベルの悪戯なのかもしれないけれど。
「汀さん、梢子さんは怪我人なのですから、そういったことは控えた方がいいと思いますよ」
「あたしを舐めてもらっちゃ困るなー。後遺症が出るようなことはしないって」
 そういう問題でもない。
 「綾代、いつものことだから気にしないで」呆れ半分、不機嫌半分という風情で梢子が言ってくる。彼女はもう慣れてしまったようだ。あるいは信頼であるかもしれない。
 汀は次に、綾代が剥いた林檎を取り上げて「あーん」とか梢子に迫っていた。「馬鹿っ」顔を真っ赤にした梢子が汀の顔を手で押しのける。綾代がいるのを前提としたからかいなのだろうが……なんのかんのと、仲は良いようだ。
 林檎を持つ手と、押しのけている手、どちらも左手で、どちらにも銀色が光っている。
 その光に当てられた綾代はわずかに目を細めた。
 あまり邪魔をするのも野暮か。
 スカートの裾をさばいて立ち上がると、二人へ向けて笑いかける。
「汀さんもいらっしゃったことですし、わたしはそろそろおいとましますね」
「そんなの気にしなくていいわよ。汀が鬱陶しいなら外させるから」
「……ひどくない? それ……」
 せっかく来てあげたのに。汀がいじけて、指でシーツの上に「の」の字を書き始めた。
 綾代はそんな汀に眉を下げる。冗談半分なのだろうけど、梢子の前でそんな姿を見せるようになったのか。
 嬉しくて、少し寂しい。
 もう彼女は、こちらを頼ってはくれないだろう。
「いえ、今日はこれで失礼します。また明日来ますね」
「ありがとう。気をつけて帰ってね」
 梢子に言われると妙に説得力がある警句だった。しかし綾代はもちろん口には出さない。ぺこりと頭を下げて病室を出る。
「……少し、暑いですね」
 秋も深まっているというのに、綾代は廊下を歩きながら呟いた。
 暑いというか、熱かった。
 綾代が出て行って、病室には梢子と汀の二人きり。ベッドは四床あるけれど、他はすべて空いている。
 ベッド脇の小型冷蔵庫を勝手に開けた汀がペットボトルのジュースを取り出した。断りも入れずにキャップを開けて飲み始める。別にそれは汀の私物ではないが、梢子もまあ、それくらいで目くじらを立てるほど狭量でも吝嗇でもない。
「退院は来月の終わり頃だっけ?」
「ええ。回復が早ければもっと前に退院してもいいそうだけど」
 それを望んでいるのだということがありありと判る言い方だった。気忙しい彼女だ。もっと鷹揚に構えてもいいと思うのだが。
 ペットボトルにキャップをはめようとする。うまくいかない。自分でそれを不思議に思った。どうしてこの程度のことがうまくできないのだろう。
 キャップがボトルにぶつかって、カタカタ音を立てている。
 梢子が手を延ばしてきて、汀からボトルを奪った。キャップも取り上げて、蓋を閉める。
 サイドボードにボトルを置いた梢子は、空いた手を掴んで引き寄せた。
 そこで初めて、汀は己の手が震えていることに気づく。
「まったく、綾代がいなくなった途端に強がれなくなるんだから」
 梢子の声には母性が垣間見えた。掴まれた手がゆっくりと頬に寄せられる。触れた先は温かかった。
「手が冷えてる」
「……寒かった、かな」
 残暑もすぎたこの時期は、日によってぐんと気温が下がる。今日は曇りがちで少し肌寒かった。そのせいだろうと汀は言う。
 「まったく」同じ言葉を呟いて、梢子がさらに汀を引き寄せた。小さく顔をしかめる。傷口が傷んだのだろう。それに気づいて離れようとするけれど、彼女は許してくれなかった。
 彼女の肩口に顔をうずめて、汀は深く息を吐き出す。
「ごめん。オサ」
「もういいって、何度も言っているじゃない。私が不注意だっただけだし、別にあなたのせいじゃないわよ」
「そうじゃない」
 震える手を握りこんだ。
「あたしは、あんたが死ぬんだってことを判ってなかった」
 二年待ったからなんだというんだ。それはすごくも偉くもない。ただ幸運だっただけだ。
 ただ二年間、彼女に何事もなく日々が過ぎていたという、それだけのとんでもない幸運だ。
 いくら未来を祝福したところで、それを誰かに奪われてしまえばなんの意味もない。
 夏夜を切ったことに後悔はなかった。他の何かもなかった。感情とか思いとかいう単語に包括される何もかもが、汀の胸には去来しなかった。
 ああ、だから……本当に汀は、判っていなかったのだ。
 大切な人が突然いなくなる、その不幸と不運を。他の誰か(それはあるいは神と呼ばれる存在であるかもしれない)の暴虐によって奪われる、その悲劇を。
 梢子が汀の背中を優しく叩いた。「それでも私は今、ここにいるでしょう」だから心配いらない、そう彼女は告げる。「私はあなたのそばにいるから」
 汀の目に涙はない。それは失礼な行いだ。泣いて慈悲を乞うような、浅ましい行為を汀はよしとしない。
 だからただ、震える手を押さえ込みながら、離れないでと願った。
 彼女は了承してくれた。
「少なくとも私は、あなたじゃなければ嫌なのよ」
「……ん」
 駄目だとか駄目じゃないとかではない。彼女でなければ嫌なのだ。理屈じゃない。
 たとえその両手が血にまみれていたとして、それは否定する材料にはならない。
 彼女でなければ意味がない。
 お互いに。
 そっと唇がまぶたに触れる。愛しい行為だった。「あまり我侭を言って困らせないで」どこか苦笑じみた愛の言葉。汀は眠そうにも見える表情で彼女の唇を受容する。
 梢子がするりと汀を離して横たわる。さすがに痛みが我慢の限界だったようだ。ふぅーと深く息をつき、ゆったりした視線を汀へ向けてくる。
「たまには汀に心配されるのも悪くないけどね」
 髪を撫でられて汀は少々不満そうに唇を尖らせた。人間、図星を指されると面白くないものだ。
 隠し扉を開けられた気分を味わいながら、梢子の眼前へずいと迫る。
「このままだと心配すぎて帰れないから、オサに安心させてほしいな」
「……何をすればいいの?」
「何もしなくていい。てゆーか何があっても動くな」
 言うなり、入院着代わりのパジャマのボタンを三つ目まで外す。「ちょっと、汀、なにを……」「動くなってば」向こうは怪我人、押さえつけてしまえば抵抗は弱い。包帯が巻かれた胸部まであらわになったところで止めて、なめらかな肌へ唇を押し付けた。
「汀……っ」
 動揺と羞恥。呼び声に汀は止まらない。
 ちりりと梢子の肌が焼けて、そこに小さな印を残した。
「……なに、するの……っ」
「おまじない。あたしがいない間に変なのが連れていかないように」
 包帯のすぐ上にきざまれた印が、熱を持って淡く光る。「これは自分のだから他のなんびとも手を出さないように」、そういうサインである。
 もちろん、霊的な力など何もないから、単なる気休め、まじないではなく汀の言うとおり『おまじない』だけれど、こんなことでもしないと気が休まらない。
 梢子は顔どころか胸元まで赤く染めながら、軽く涙目で汀を睨んだ。
「検査とか、包帯の交換とかで看護師さんにけっこう見られるんだけど……」
「うん知ってる」
「なっ、判っていてやったの!?」
「ははは、いいじゃない。虫除け、虫除け」
 気楽に笑ってやると梢子はさらにヒートアップして、馬鹿とかふざけるなとか怒鳴ってきた。何を言われても汀は柳に風、空を流れる雲がごとき鷹揚さでスルーする。
「もうっ、汀、馬鹿っ」
 頭に血が上りすぎて文脈を作れなくなったか、だんだんと単語の羅列になってきた。それがなかなか面白くてしばらく聞いていたが、頃を見て梢子の肩口を押さえる。これ以上暴れると傷口に響きそうだった。
 遠慮なしに殴ってくる拳を紙一重でかわしつつ(相変わらず身体能力の無駄使いだった)、耳元へ口を寄せる。
 かぷり。
 耳朶へ噛み付いた途端、梢子の全身から力が抜けた。味わうように何度か甘噛みする。「や……」耐えようのない刺激が梢子の喉から甘い声をおびき出す。
 すっかり大人しくなったのを確認してから耳を解放した。
「オサって、どれだけ怒っても『嫌い』とは絶対に言わないのよね」
 そんなところまで律儀な彼女だ。たまに呆れるくらいである。
「ま、そこがあんたの良いところか」
 こめかみに近い位置へ口付けて。
 一言、囁いた。
 そこまでが『おまじない』。
 温泉では卑怯のそしりを受けたけれど、今この場なら、正当だろう。
 梢子は何度か口をパクパクさせたが、結局なにも出てこなかったのか押し黙った。
 小さく頷く。同意。同じ気持ち。
 汀は満足そうな首肯を返して、至近から梢子を見つめた。
「ねえオサ、あたしがあんたをもらっていい?」
「え?」
 今さら何を言っているのだ、という顔をする梢子の左手を、汀が取る。
「一緒に暮らさないかっていうプロポーズなんだけど、判んなかったかな」
 もう、悠長に両手の赤が色褪せるのを待っていられる心境ではなくなってしまった。
 消えないなら、塗りつぶせないのなら、それ以外の部分を増やせば良い。
 これからどんどん領域を広げていって、緋色がどこにあるのか判らないほどにしてしまえば良い。
 そうしたらそれはきっと、無いのと同じことになる。
 汀の言葉はあまりにも思いがけなかったようで、彼女はしばし停止した。
「えっと……」
「はいかイエスで答えて」
「同じじゃない」
「それ以外に言うことがあるの?」
 梢子が小さく口をまごつかせた。「……ないけど」
 しばらく視線をうろうろさせてから、汀の首に手をかけて引き寄せる。
 待ち構えている汀の耳元、消え入りそうな声で彼女ははいと答えた。



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