13 闇に気づかない


 汀が目を覚ました時、お互いの手はしっかりつながりあっていた。それを見つけた汀は無自覚に口元をほころばせる。たまらなくて、わずかに寝乱れた浴衣の隙間から彼女の肌へ唇を落とす。梢子はよく眠っているようでその程度の刺激ではなんの反応もしない。
 銀の光が眩しくて目を閉じる。良い気分だ。
 好きだからもっと触れたいと思うけれど、腕の中に彼女がいる、それだけでも嬉しい。
 いまだに夏夜のことを考えると気が重くなる。しかしそれは仕方のないことだ。もっと時が流れて、梢子と夏夜の距離が隔たれば、こんな憂慮を抱えなくて済む日が来るかもしれない。
 つまり、汀はもう自力で夏夜に勝つことを諦めている。タイムオーバの引き分け狙い。そうでもしないと、汀は夏夜から梢子を奪えない。
――――結局、一度もあんたには勝てなかったな。
 梢子の背後にまとわりつく影を見据えながら、胸中で独白する。
 それはプライドを切り裂かれる事実だったけれど、プライドくらいなら捨ててもいい。
 使いどころのないプライドなど、あっても邪魔なだけだ。
 つないだ手を外させようとしたら、存外彼女の力が強くて驚いた。逃がしてなるものかという決意でもしていそうな力強さ。別に逃げないんだけどなあ、と汀は少々苦笑いする。
 しょうがないから梢子の好きにさせて、逆の腕で彼女の頭を引き寄せた。
 二度寝はわりと無条件に至福の時間だと思うのだけれどどうだろう。
 
 部屋を担当してくれた仲居と女将に見送られて旅館を出る。ゆったり休養したおかげで心身ともにリフレッシュ、なんとも清々しい朝であった。
「ま、あたしとしては片方しか使ってない布団を仲居さんがどう思うのか、少し気になるところだけどね」
 顎に手を当ててニヤニヤする汀。男女ならばそういうことだとすぐに納得するだろうが、さて、自分たちの場合はどんな判断を下されるものか。
「普通に、一人どこか別の部屋にでも行ったんだと思うんじゃないの」
「……それもそうか」
 とすると、おそらくその『一人』は自分だと思われるのだろうなと、やや不満を覚える汀である。人を見た目で判断してはいけないというけれど、外見は最初に人を判断する材料なので、第一印象というのはわりに影響が大きい。隣の彼女は頭のてっぺんから足の爪先まで、どこからどうみても真面目っ子だからそんなことをするとは思えない。
 あたしはあたしでわりと一途なんだけど。誰にともなく反論する。
「ところで、あたしちょっと考えたんだけど」
「なにを?」
「あたしが触るのが駄目なら、オサが触るってのは?」
 一瞬、梢子は絶句した。いきなり何の話だ、と思ったのだ。
「……朝から話すようなことじゃないと思うんだけれど」
 まったく、爽やかな朝にはふさわしくない話題だ。
 つと目をそらして口を濁す。汀としては、方法としてなくはないと思うのだが、彼女はそう思わないのだろうか。
「そ、それってつまり、私が汀に……ってことよね?」
「そうね」
「……無理」
「あー、やっぱそんな小手先じゃ駄目か。あんたのそれって根が深いからなー」
 溜め息ついでに梢子の頭をくしゃりと撫でて、汀はんーと小さく唸った。汀は彼女がほしいだけでその手段には頓着していない。だからそれが可能ならそうなっても全然構わなかったのだけれど、事は簡単には運んでくれないようだ。
 梢子は頬を紅潮させたまま「そうじゃなくて」と汀の結論を否定してきた。
「……できるわけないでしょう、そんな恥ずかしいこと」
 なるほど、そっちの問題だったか。汀が深く頷きながら納得する。
 感情面だけ取り出せば、触れられることは厭わないのに、触れることには抵抗を覚えるらしい。動き出す時にはいつだって抵抗が存在する。それに抗しきれるかどうかは意志の強さ、そして軽さにかかっている。梢子は強いけれど軽くはない。重みによって乗り越えられない。
 汀の方もただの思いつきで言っただけなので、自分の意見に拘泥はしなかった。
 それにしても、と自身の肩を揉みながら、
「明日から大学行くの面倒だなー」
「なに言ってるの。それが本分でしょう」
「そうだけど」
 あまりにもここが居心地良くて、軽く帰りたくない気分の汀だ。なにせ今までは遠方へ出かけるといえば鬼切り絡みがほとんどで、のんびり休養とは正反対の、緊張感溢れる日々だったのだから。ちょっとばかり憂鬱になってしまうのも仕方ない。日曜夕方のアニメを見終わった時に覚えるそれと同種の憂鬱だ。
 梢子がやれやれと息をついて汀の頭をぺふっと叩いた。「しゃんとしなさい」姉のような表情。汀は叩かれた箇所をさすりながら唇を尖らせた。
「また来たらいいじゃない」
 当たり前の口調で言われたそれは、そうすることが当然だから当たり前の口調だった。
「ああ、うん。そうね」
 また二人で、こんなふうに出かけたら良い。
 そういうのを何年も続けて、それでいつかお互いの両腕を染める緋色が色褪せて、ただただ、陽の光のもと、二人で過ごせたら良い。
 今回の小旅行は終了、慣れ親しんだ最寄り駅へ到着した汀たちを迎えてくれたのは今までと変わらない日常だった。
 変わらない街並みと、変わらない喧騒と、変わらない空気。たかが一日だというのに懐かしい感じがする。
「オサ、まっすぐ帰る?」
「……もう少し、汀といる」
「そ」
 可愛らしい執着は、小指に填まった銀環が原因であることは明白で、あまりにも狙い通りすぎて笑えてくる。なにせ二年だ、これくらいの恩恵は受けなければ。
 汀の自宅マンションまで歩きながら、梢子は時々銀環に触れていた。つけ慣れないから感触が気になるのかもしれないし、もっと違う理由なのかもしれなかった。どちらでも良いけれど、汀としては後者であってくれた方がありがたい。からかう材料ができる。
 さて、その程度のことで浮かれてしまったのか。
 住宅街にありがちな狭い歩道、曲がり角の死角と、会話による注意力の拡散。
 飛び出してきた大型バイク、ブレーキ音は響かない。そんな余裕すらなかったのだろう。
 消失する存在感と、赤の他人の悲鳴。
 汀は呆然とその場に佇む。
「――――、……オサ?」
 銀色が、緋色に沈んでいた。



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