12 銀は穢れない


「雉星!」
 鋭い一声と共に梢子めがけて腕を振り抜く。高速で飛来した白い弾丸が残像の尾を引きながら梢子の手元を狙った。
 「っ!」己の腹部に近い位置、手首を返しにくいそこへ無理やりに手を入れて、握った得物で飛来物を弾き飛ばす。
 それは大きな弧を描きながら汀の頭上を越えていった。
「アウトー。これで六対四ね。マッチポイントマッチポイント」
 転がったピンポン球を拾い上げつつ、汀がもう勝った気でいるような口調で宣した。
 梢子は悔しさに軽く歯噛みする。
「汀、そのいちいち技名を叫ぶのはなんなの? 気になって集中できないじゃない」
「別に意味とかないわよ。ただのこけおどし。ま、ハッタリは勝負の常套手段ってね。この程度で乱されるようじゃ、オサもまだまだね」
 汀が人差し指と中指の間にピンポン球を挟んで、それを左右に振りながら笑う。
「ちなみに雉星ってのは流れ星の別名ね。夜這い星の方がメジャーだけど、そっちの方が良かった?」
「良いわけないでしょう。もう少し公序良俗を考えなさい」
「そうは言うけど、『夜這い』は元々『呼ばう』が転じたもので、『愛しい相手にずっと呼びかけ続ける』って意味なわけ。それが『夜こっそり恋人に会いに行った男が家の中にいる女へ呼びかける』って意味を持って『夜這い』になった。わりと外れてないと思うけどなー」
 うんちくに紛らせてさらりと自身の愛情をアピールする喜屋武汀である。とはいえ、梢子にしてみれば思いのたけを込めた白球を高速で叩きつけられたところで嬉しくはない。むしろ当たったら痛い。
「……いいから、続けるわよ」
 「はいはい。オサのサーブね」汀がピンポン球を投げてきた。
 汀のしたいことというのはつまり、温泉の三大要素のひとつである卓球だった。散策路へ向かう途中に見つけていたらしい。「温泉といったらこれじゃない?」と彼女の談。
 剣道とは違って、どちらもほぼ未経験、条件は互角である。なんだかんだと勝負事に乗りやすい梢子は誘われるままにラケットを握り汀と対峙した。本来は二十一点の三セット制だったと思うが、それでは長いだろうということで、七点三セット制という変則ルールでの対決となった。
 一セット目はなんとか梢子がものにしたが、それがかえって汀の勝負魂に火をつけたらしい。さきほどのハッタリはもちろん、フェイントだのスピンだのを使ってきて、梢子は全体的に押され気味だった。
 ただの遊びとはいえ、梢子は物心ついたころから剣道に打ち込んできたので、こと勝負というものに対する執着は人一倍強い。武道は自己鍛錬の意味もあるから勝つことがすべてではないけれど、しかしながら道を究めんとするなら勝つことは第一になる。自己を高められたら、それだけ強くなるのだから。
 汀は汀で自尊心ゆえか負けん気が強い。鬼切りとして死線をかいくぐっていた経験による自負もあるだろう。以前、「今までカヤ以外には負けたことがない」と言っているのを聞いたし(それが事実なのか、嘯いただけなのかは判断しかねるが)、矜持はかなりのものだ。
 というわけで二人とも本気で対戦していた。温泉卓球という、家族や友人同士できゃっきゃ言いながら行われるものとは一線を画していた。去年の全国大会で向き合った時と同じくらい真剣かもしれない。夕食後の腹ごなしというには激しすぎる試合内容だった。
 二人とも卓球は素人ながら、卓越した運動神経の持ち主なので、ラリーは素人のレベルを超えていた。カンコンカンコンと小気味良いリズムでピンポン球が跳ねている。目で追っていたら間に合わないから、どちらも相手の腕の振りと台についた時の音の具合でピンポン球の行方を判断していた。
 汀がラケットを掬い上げるように振った。
「狐火」
 カン、とひとつ高い音がして、梢子は思わず視線を上げてピンポン球を探した。途端、真上にあったむき出しの蛍光灯に目を焼かれる。反射的に目を閉じた次の瞬間、コーンと手前で甲高い音が鳴る。眩しさを払いきれない目をうっすら開けて確認すると、ピンポン球が反作用で何度か台の上を跳ねていた。
「七点目。このセットはあたしの勝ちってことで」
 ラケットの側面で肩を叩きながら汀が勝利宣言をする。
 なんて卑怯な手段だ。いや、汀が卑怯者なのは知っていたけれど。最近わりと律儀な部分ばかり見ていたから忘れていた。
 目をこすって蛍光灯の残像を追い払いつつ、梢子は喉の奥で唸る。
 落ち着け落ち着け、焦っても良いことはない。こういう時は精神統一が大事だ。
 二セット目は取られたが、これで一対一。次の最終セットを取ればこちらの勝ちなのだ。汀の手の内は読んだ。さっきみたいな技を使ってきても対応できるはず。基本的に一度敗れた技は二度と通用しないのが世界の常である。
 伸ばした中指を軸にして、ラケットを拳銃のように回し(器用なことだ)、汀は梢子が落ち着きを取り戻す様子を見ていた。
「ね、オサ」
「なに?」
「ただのお遊びじゃつまんないじゃない。どうせだから賭けない?」
 悪戯な双眸が光っている。回していたラケットを停止させて梢子へ向けてきた。
「勝った方が負けた方に、なんでも言うことを聞かせられる、そういう賭け」
「なんでそんなことをしないといけないの」
「あれ、嫌なんだ? 負けるのが恐いんだ? オーケィオーケィ、常勝と無敗の違いに目をつぶって逃げ出すんだったら、ミギーさんも無理にとは言わない。楽しくお遊びをしましょうか」
「…………」
 いやいや、いくらなんでも。この小山内梢子、そんなあからさまな挑発に引っかかるほど単細胞ではない。
 そうとも。
 挑発なのは判っているのである。
 こっちが頭に血を上らせて賭けに乗ってくるように仕向けているのは判っている。
 判っているからなんだというんだ。
 理解できればすべて解決するものではない、この世界は。
 引っかかったんじゃない。
 受けて立ったのだ。
「……私が勝ったら、二度とそういう減らず口を叩かないって約束しなさい」
 音がしそうなほど大きく、汀が唇の端をつり上げた。
「成立ね。じゃ、始めましょうか」
 高々とピンポン球が宙を舞った。
 
 
 
 ずるい、卑怯だ、あんな手が許されてたまるか。
 むっつりとした表情を浮かべた梢子は足早に部屋へと戻る。汀を半ば置いてきぼりにする速度だった。そのつもりで足を速めているのだ、隣になど並ばれてなるものか。
 無意味な技名でこちらを惑わす手段も、蛍光灯を使った目くらましも封じてみせた。やはり一度見た技は通じないのだ。それは正しかった。
 しかしまたしても、見たことのない手段に引っかかった。あまつさえあの勝負の中で最大級の卑怯な手だったのだ。それはそれは信じられないような、噴飯ものの禁じ手だった。何を考えているんだ、温泉卓球というなごやかであるべきの遊戯であんなことをするなんて。
 紅潮する頬はいつまで待っても平素に戻らない。部屋の戸を開けて飛び込んだ。このまま汀を締め出してやりたいくらいだったが、さすがに可哀想だから鍵はかけないでおく。
 部屋を空けている間に夜具が用意されていて、梢子はその上に座り込んだ。ふわふわした感覚は布団の柔らかさか、それとも己の内心によるものか。
 一拍を置いて追いついた汀が部屋に入ってきた。戸に背を向けている梢子は気配でそれを感じ取る。
「あ、布団は二組なんだ」
「……当たり前でしょう」
 これで一組しかなかったらその方が驚きだ。あの仲居はどれだけ観察眼が鋭いのだという話になってしまう。
 部屋には緩く暖房がかけられていた。平時であれば丁度良い室温となるのだろうが、いかんせんさっきまで全身運動を行っていたので少々暑かった。梢子は羽織を脱いで、丁寧にたたんでから脇へ置いた。汀も「あつー」とか言いながら備え付けの団扇を取り上げて扇いでいる。
「あ、こういう時こそ権利を行使するべきか」
 独り言が聞こえて振り返ると、「はい」汀が団扇を差し出してきていた。
「……扇げってことね」
「物分りが良くてありがたいわ」
 まあ、それくらいならいいだろう。わずかにプライドを傷つけられるが、敗者に文句を言う資格はないのだ。
 てっきり汀は横に座ってくるのだと思って待っていたら、彼女はひょいと梢子の膝に頭を乗せてきた。一般的に言う膝枕とは違い、梢子に対して水平方向ではなく、垂直方向に重なるかたち。梢子が視線を落とせば天地が逆になった汀の顔が目に入る。
「ひとつよろしく」
 片手を上げて合図を送ってくる汀に嘆息を吐きかけて、梢子は手にした団扇で汀を扇ぎ始めた。彼女は心地良さそうに目を閉じている。さやさやと風にあおられて、汀の髪がかすかに揺れた。
 両手を腹部に置いて安らかな表情でいる汀を見下ろしながら、梢子は己の感情が凪いでいくのを感じ取っていた。あれだけ卑怯な手を使ってくるからどんな要求をされるのだろうと内心で恐々としていたが、これくらいならお安い御用である。一晩中とか言われたら困るけれど。
 しばらく団扇をパタパタしていた。次第にうなぎでも焼いている気分になる梢子である。色素はあまり濃くないから白焼きか。タレをつけても良いが、すだちと上等な塩でいただいても美味い。身がほどよく締まっているのは素敵だけれど、脂が乗っていないから少し物足りないかもしれない。
 ……さて、自分が何を考えているのか判らなくなってきた。
 判らなくなってきたなりに、味見をしてみたくなる梢子だった。
 扇ぐ手を止めて、上体を傾ける。汀は目を瞑ったまま動かなかった。
 触れた。その瞬間、彼女の唇が笑みを作る。ゆっくりと目を開けると、からかいじみた視線がまっすぐに届いた。
「そういうお願いはしてないけど」
「……ずっと扇いでいたんだから、これくらい見逃しなさい」
 言うなればお駄賃だ。「いいけどね」笑いながら汀が起き上がり、良い気持ちだったと満足そうな息を吐く。
「じゃ、次のお願い聞いてもらおっかな」
「まだあるの?」
「権利は一回だけとは言ってないし」
 詐欺に引っかかった気分だ。もしかして、これからずっとその権利とやらは有効なのだろうか。
「後ろ向いて目を閉じて。で、あたしがこれから何をしても嫌がらないこと」
「……なにその、不安にしかならない命令」
「まーまー。そんな危ないことはしないから」
 ものすごく不安だけれど、汀は卑怯者のわりに梢子が本気で嫌がるようなことはしないから、とりあえず大人しく言うことを聞いておいた。汀に背を向けて、まぶたを下ろす。
 汀は後方でなにかゴソゴソしていた。荷物から何かを取り出しているようだが、それが何であるかは判らない。
 音が止んだと思ったら背中を包まれて、耳元に囁かれた。
「いい? 嫌がらないでよ?」
 左手を取られる。汀の指先を支えとして、小指に何かが触れた。するりと根元まで滑ってくる。その固い感触に梢子が身を強張らせた。
「目、開けていいわよ」
 汀の言葉に従ってまぶたを上げる。すぐに自身の左手を確認した。
 銀環が。
 何もなかった小指に、銀の輪がはまっていた。
「……え、と」
 装飾が極限まで抑えられたシンプルなそれは、金属の鈍い輝きを放ってそこに鎮座ましましている。
 金属の固い感触。それはきっと、引っかかったくらいでは千切れない。誰かが引き千切ろうとしても叶わないだろう。
 千切れない契りの、銀の輪。
「外さないでよ?」
 悪戯に、それでもかすかな緊張を覗かせて、汀が囁いた。
 梢子は無意識に銀色を撫でる。驚くほど頼りなかった小指は、金属に補強されてその存在を確立していた。
 まったく、彼女らしい搦め手だ。汀は基本的に目的のためなら手段を選ばない。
「でも、普通こういうものはこっちじゃないかしら」
 照れくさくて思わず憎まれ口を叩いてしまう。空いている隣の指を示すと、汀は「うん?」と相槌を打って、それから梢子の身体を引き寄せた。
 背中から抱きくるむ形になった梢子の手を取り上げる。
「そっちが良かった?」
「そういうわけじゃないけど」
 汀が梢子の手を操る。親指と小指を残して、他の指を折りたたみ、電話のハンドサインに似た状態の手をくるくる揺らした。
「重過ぎるかなーと思ってね。あんたはただでさえ重いもん背負ってるし」
 薬指にはまっていたら重くて疲れてしまうかもしれない。
 でも小指くらいなら、遊ばせていても大丈夫かもしれない。
「……ありがとう」
 その気遣いと、気持ちに。
 ふわふわした気分は、確実に布団のせいではない。
「どういたしまして」
 ちゅ、と、うなじに唇を落とされる。思わず首がすくんだ。けれどやめさせようとはしなかった。汀は本当の意味で優しい。梢子が耐えられないようなことは、しない。
 うなじを這っていた唇が次第に下方へ流れ始める。襟を開けて肩から落とし、現れた玉膚をまず指先でたどって、その跡をなぞるように唇が。
 あの日から何度となく繰り返された儀式。塗りつぶそうとしても消えない緋色は色鮮やかで、上塗りしようとすればするほど、その彩度を上げて行く。
 触れられている間、梢子の身体は静かに打ち震えていた。悦びと哀しみが等分に混ざり合った微動だった。
 汀はなだめるように唇で梢子の肌を撫でる。生まれ出でた赤ん坊の未来を祝福するキスにも似ていた。
 儀式のさなか、梢子の口から呼気が洩れた。
 明かりが落ちる。
 夜の中、銀色に守られた絆だけが、緋色に埋もれず煌いていた。



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