11 旅へのいざない


 部員だけで走り込みをしている中、梢子は肉体と思考を乖離させて考え事をしていた。
 どうして汀だったのだろう。それだけを思う。
 夏夜のことがなければ思い悩まずに済む相手だった。過去に縛られることなく、ただ平穏に過ごして、ただ平常に触れ合って、ただ幸福にそばにいられた。
 夏夜のことがなければ出逢うことすらなかった二人だった。住んでいる場所も、概念的な世界も違いすぎる。梢子にとって南の地は観光のためにあるものだったし、鬼なんて御伽噺の中にしか存在しなかった。
 夏夜がいたから、出逢えた二人だった。
 初めから他の存在に縛られていた。これからも縛られ続けるのかもしれない。
 それでも、他の誰かでは駄目だと確信してしまっているのだから、始末が悪い。
「具合悪いの?」
 少し離れた位置で併走していた部員が気遣わしげに声をかけてきた。梢子は弾む息を抑えながら首を横に振る。
「そんなことないけど。どうして?」
「なんか辛そうな顔してたから。大丈夫ならいいんだ」
「ああ、ちょっと考え事。心配させてごめん」
 微笑んだら頬にひきつりを覚えた。表情が固まっていたせいだろう。
 走りながら何度か頬を揉んで直しにかかる。その仕草が面白かったのか、隣を走る友人は小さく笑った。
 曲がりなりにもスポーツ特待生な二人、けして緩くはない速度で走っているが、わりあい苦もなく会話を続ける。
「なんか悩み事?」
「悩みというか……。考えても仕方ないことだと判ってるけど、どうしても考えちゃうことがあって」
「ふぅん。喜屋武さん絡み?」
 唐突の汀の名前が出たので驚いた。短い会話の中で汀の存在を匂わせるような発言などしていない。あまりにも不意をつかれすぎて鼓動が跳ねる。「どどど、どうして?」走っているせいとは別の原因で言葉を詰まらせながら梢子は問う。
 堪え切れなかったのか隣の彼女が吹き出した。すぐに酸素が足りなくなって息を荒くする。
 ペースを落としながら呼吸を整え、梢子の背中を叩いてきた。
「いやー、最近の梢子って可愛いわ」
「そう……なの? 特に変わったとは思わないんだけど」
「変わった変わった。堅物なのは相変わらずだけど、なんか……うん、可愛いとしか言えないな」
 不確かかつ不可解な評価に梢子の眉が寄る。そんな褒め言葉、汀にだって言われたことないのに。
 そういえば、あまり汀に褒められた記憶がない。ストレートに他者を高評価する性格ではないが、少しくらい甘い言葉をくれても良いのではないか。
「…………」
 言を尽くして褒めちぎってくる汀を想像してみたらうっすらと気味が悪かったので、やっぱり言われなくてもいいと思った。
 そのうちにランニングのノルマをこなし、走っていた流れのまま連れ立って武道館へ向かう。
「梢子が可愛いのはいいとして。喧嘩でもしてんの?」
「もっとタチが悪いかもね」
「ふーん。よくわかんないけど、あんまり喜屋武さん困らせないように、あんなに美人なんだから。いやほんと、梢子にはもったいない」
 軽くひどい言われようだった。付き合いはこっちの方がずっと深いのに、ずいぶんと汀びいきな発言だ。そういえば彼女は練習試合のとき汀にへばりついていた。
 まあまさか、自分のような感情ではないと思うが(おそらく憧憬や羨望みたいなものだろう)、それにしたって、やはり、ううむ。
 ところで「もったいない」ってどういう意味だろう。
 追及すると自分が困る事態になりそうだから流しておくけれど。
「私だって、困らせたくて困らせてるんじゃないわよ」
 視線を外す。タオルで汗を拭う彼女は横目で梢子を見ながら、他人事でしかない表情で首をかしげた。
「そういうときはパーッと遊んで忘れるのが一番よ。今度の休みにでも遊びに行ってみたら?」
「……そうね」
 梢子の頷きは首肯ではなく相槌だった。同意はどこにもない。
 忘れることなんてできないのだ。
 けれど、すべてを否定する気にもならなかった。
 どこかに記憶を置き去ることはできないけれど、気分を変えるくらいなら、できるかもしれない。
 記憶の転嫁ではなく、気分の転換。
 思い返してみれば汀とどこかへ旅行するなんてことは一度もなかった。お互い、大学を初めとして各々剣道やバイトで忙しかったから、なかなか時間が取れなかったし、まだ学生であるわけだし、そもそも日常を続けているだけで不満はなかったのだ。
 非日常は、二年前に済ませてしまったから。
 とはいえ旅行程度のちょっとした日常からの離脱には興味を引かれる。都合が良ければ一泊くらいはできるだろうか。おりしも紅葉シーズン、山水流れる温泉地などは今ごろ風光明媚なことだろう。
 梢子の表情が少しだけ晴れた。
「うん、そうしようかしら」
「あたしも一緒に行っていい?」
「……それは、ちょっと」
 相槌の意味ですら、頷くことのできない要求だった。
 
 
「あー、いいわね温泉。こっち来てから行ってないし」
 提案してみたら汀は二つ返事で乗ってきた。バイトが入っているが、そこは店主の孫に代わってもらえるそうなので問題ない。
 行楽シーズンなので宿の手配が難しいかと思われたが、三軒目で予約を取ることができた。
 祖父も「たまにはいいだろう」と了承してくれたので無事に予定も立ち、梢子と汀は初めての二人旅行に出かける。
 電車に揺られて降りた駅では、すでにどこからともなく硫黄の匂いが漂っていた。道端では煙のような湯気が上がっていた。往来の店で温泉玉子を作っているらしい。嗅ぎ慣れない匂いと見慣れない光景に、ちょっとだけ異世界気分だ。
 この辺りは地熱の影響で紅葉が早いそうで、今の時期では少し盛りを過ぎているとのことだったが、どちらかというと温泉が目当てなので構わなかった。
 送迎の車で運ばれること三十分、目的の温泉旅館に到着する。
 経年を感じさせるが劣化は見えない、情趣に富んだ良い印象の旅館だった。
 汀が古雅の和建築を見上げながら、すぼめた唇からひゅんと息を吐いた。
「うーん。同じ歴史を感じさせる建物でも、咲森寺とは雲泥の差ね」
「失礼なこと言わないの」
 わずかに眉を寄せて汀を諌める梢子。
 こっそり自分も同様の感想を抱いていたが、それは秘めておく。
「あそこはあそこで、良い温泉だったけど」
「そうね」
 酔狂な和尚のおかげで、その点に関しては文句の付け所のない経験ができた。懐かしさに梢子の相好も崩れる。
 玄関をくぐり、仲居に案内されて部屋へ通される。窓側は山に面しており、三割ほどが色を無くした山が一望できた。確かに時期は少し外れているようだけれど、これはこれで侘び寂びを感じられて良い。あえかな姿に美を見出す日本の文化である。
 「おー、いい眺め」汀が呟く。風流さなど微塵も感じさせない口調だが、まあまあ本気が見えた。
「課題とバイトに追われてたから、久しぶりにゆっくりできるなー」
 座卓に陣取り、背後の柱に身体を預けた汀はもうリラックスモード、丸くなって寝ている猫とイメージが重なる。
 梢子は二人分の茶を淹れながら「ええ」と相槌を打った。「私もだけれど、汀も忙しそうだったものね」
「ま、鬼切りやってた頃ほどじゃないわよ。あの頃はほんと、学校にもまともに行けなかった」
「そんなに?」
「あたしみたいな下っ端はまだマシな方。鬼切り役なんかだと、大抵は出席日数ギリギリって話よ」
「……大変なのね」
「ちなみにギリギリっていうのはギリギリアウトの意味ね」
「駄目じゃない」
 それはまあ、知識を増やす作業と人の命を救う行いでは、後者を優先するのは当然なのだろうけど、なんとなく、鬼切り役という立場を不憫に思う梢子だった。
 汀は茶菓子の饅頭を頬張りながら「仕事だしねえ」と気のない返事をする。まるで他人事だった。鬼切り部を抜けているから、他人事と言っても間違いではないが、本当になんの未練もないみたいだ。
 茶を一杯飲み干して、「じゃ、早速」汀がゆるりと立ち上がる。長い腕が夜露をまとった蜘蛛の糸みたいにたわんだ。
「堪能しに行きますか」
 
 
 湯気のこもる浴場には数人の先客があった。みんな梢子の祖母ほどの年齢と見える。誰も二人には頓着しない。
 五種類ほどある湯のうち、白濁した濁り湯を選んで身を沈めた。梢子の希望である。すっかり失念していたが、温泉ということはつまり、一糸まとわぬ姿をさらすということなのだ。「や、前にも見てるじゃない。咲森寺で」と汀は言うけれど、あの時と今では状況(あるいは心境)が違う。
 湯の落ちる音が反響する浴場内では声も聞き取りにくい。自然、会話をするために寄り添うようなかたちになって、やはりここを選んで正解だったと梢子は胸中で息をつく。
 湯は濁っている見た目とは裏腹にサラサラとした感触だった。壁に取り付けられた効能の説明書きには切り傷や高血圧などに効くとあった。特に該当するものはないが、まあ、湯治に来たわけでもないから気にしない。
「こういう時、日本人に生まれて良かったと思うわよね」
 ゆったりとした動作で湯をかき混ぜながら汀。梢子もそれには全面的に同意だ。効能には書かれていないけれど、浸かっていると全身の疲れが溶け出していくようだった。うっかりすると眠りそうである。
 実際、まぶたが重くなってきた。眠気を覚ますために何度かまばたきをして、浴槽のへりに置いていたタオルで顔を拭う。
 ふう、息をついてこめかみを揉みほぐす。
「自覚はなかったんだけど、やっぱり疲れが溜まっていたのかしら」
「そりゃあ、毎日毎日しごかれてたらくたびれもするでしょうよ」
 あたしは逆だなー。汀は頭にたたんだタオルを乗せながらぼやいた。
「鬼切りも剣道も辞めたうえ、毎日大学で座学ばっかやって、バイトでも動いてないからどんどん身体がなまっちゃって。動かなさすぎてだるい」
「全然運動してないの?」
「んー、全然ってわけでもないけど、ほとんど。たまに走るくらいかな」
 言うわりと、脱衣所などでちらりと見た体型には特段変化が見られなかった。そういう体質なのだろうか。世の女性に羨ましがられそうな特性だ。
「走るって、どれくらい?」
「二、三日おきに二十キロくらい」
 軽くハーフマラソンだった。
 体質でもなんでもなく、単純に運動量が多いだけの話だったようだ。
 それで「ほとんど動いていない」と断言できてしまうあたり、鬼切り部がどれだけ過酷か判ろうというものだ。
「そろそろのぼせそう」
 独り言のように呟いて汀が膝を伸ばす。流麗な背中を捉えた次の瞬間、梢子は咄嗟に視線を斜め下に逃がした。
 こちらはこちらでのぼせそうだ。少し違う意味で。
 汀がいなくなったので梢子も浴槽を出てへりへ腰かけた。外に面した部分は全面がガラス張りなので景色が良く見える。ここからも、遠くの山が紅く色づいているのを鑑賞できた。
 あれは綺麗な紅だ。上がったら散策してみるのも良いかもしれない。部屋に案内してくれた仲居が教えてくれたところによると、湯冷ましに向いた散策路があって、そこからだとよく紅葉が見えるらしい。
 汀が戻ってきたら誘ってみよう。二人でのんびり紅葉を眺めるなど、なかなか幸せな光景ではないか。
 そういう『二人だけの思い出』があってもいいだろう。あった方がいいに違いない。
 不意に背筋を何かが通った。飛び出しかけた悲鳴を慌ててかみ殺す。
 振り返ると、真後ろにしゃがみこんだ汀が人差し指を立てて構えていた。「にひひー」汀はしてやったりと得意満面でいる。背中を撫で降りたのはこの人差し指だ。どうもこっそり近づいていたらしいが、まったく気づかなかった。さては気配を消していたのか。
 特殊技能を小学生なみの悪戯で使う喜屋武汀だった。
「……下らないことしないで」
「いやぁ、オサがあまりにも無防備だったものだから、つい」
 無防備だったのは君と過ごす幸福を夢想していたからだ、などと言えるはずもなく、梢子は仏頂面で浴槽に戻った。汀も後を追ってくる。「怒った?」甘えただけの否定を前提とした問いかけ。梢子は手で湯をすくい、汀の顔めがけて跳ね上げた。「わぷ」湯が直撃した汀が顔をしかめる。
「これでおあいこにしてあげる」
 タオルで顔を拭く汀が、へえ、とどこか感心したように呟いた。
「丸くなったわね、オサ。お詫びにキス一回とか言われるかと思ってたけど」
「怒っててもそんなこと言わないから」
 なんだその恥ずかしい要求。
 そんなじゃれあいをはさみつつ、先ほどと同じように横並びになって、じんわり沁み渡る心地良さに浸った。
 浴槽の内と外で、静と動が入れ替わる。じゃれあいの気楽さは失せて、緩い享楽が漂い始めた。
 この状況では比喩も何もあったものではないが、ぬるま湯に浸かった身体と心は少々堕落する。このままではいけないと判ってるのに抜け出せない心地良さ。
 汀の首から肩にかけてのラインがひどく清廉なものに感じられた。洗練された芸術的なライン。
 触れたくなる。
 無明の銀白に隠れた内側で、梢子の手がそばの汀を絡め取った。
 汀は一瞬、わずかに目を見開いた。それから梢子の頭がこてんと肩に乗ったところで手を握り返す。
 穏やかに二人は目を閉じていた。
 見えない方がいい時もある。
 『好き』という気持ちだけが流れる時間。互いが互いを支え合って、無明に沈むことはない。
 湯気による薄雲がかかる中で、時を止めたように二人動かない。
 こつり、汀が自身の頭を梢子に重ね合わせた。
「オサ。あんまりくっついてると、もっとあんたに触りたくなるよ」
 それは性的で純粋な言葉だった。『愛しい』と同義であるその欲求は梢子を澱ませない。
 けれど、承諾も拒絶もできない状態だったから、答えずにそのままでいた。汀は湯気を吹き飛ばすように細長い息を吐いた。彼女が見せた反応はそれだけで、そこからは指先ひとつ動かなかった。
 
 
 長いこと湯に浸かっていたせいで、外はすっかり夕暮れ、濃い陽の色が景色のすべてを染めている。遠くの山も夕陽に煌いて、まさしく照る山紅葉、という様相だった。
 浴衣に身を包んだ二人は美しい光景を眺めながら散策路を周遊している。梢子の方は羽織つきの正統派な着こなしであるのに対して、汀は暑いのか袖を肩口までまくりあげ、襟もわずかに開けていた。そんなだらしない格好でいるくせに、妙に似合うのだから始末が悪い。
 からころからころと下駄の歯を鳴らしながら二人は歩く。
「ねーオサ、手でもつなごうか?」
「なんで?」
「うんまあそう言うと思ってた」
 ま、いいけど。軽く片目を眇めて汀。右腕を浴衣のあわせから懐へ突っ込んで、時代劇に出てくる遊び人みたいな風情で足を進めていく。
 左手は下ろされていて、自然に揺れていた。
「…………」
 ひょい、梢子が汀の揺れる手を取る。「これでいいの?」尋ねると、彼女は力なく口元を崩しながら「結局するなら聞かないでほしいな」もっともなことを言った。
 散策路の両脇にも樹木が植えられていて、それらが夕陽をさえぎって緑陰を作りだしている。
 中途半端な時間だから周囲にひと気はない。木の葉ずれと、二人の履いた下駄が落ち葉を踏み鳴らす音、それから小動物が遠くで鳴く声だけが響いている。
「オサと、こんなふうに歩けるとは思わなかったな」
 それが以前話してくれた懸念のことであったのか、それとも梢子が自身を選んだことであったのか、どちらともなく曖昧に、汀が独白した。
 二年待ったと彼女は言った。
 第一印象はけして良くはなかった。嫌いではないが、さりとて無条件に好意を抱ける態度でもない。それは今でも根本的な部分では変わっていないのだ。
 好きなところはたくさんあるけれど、同じくらい、好きになれないところもある。
 何が変わったかといえば、そういった好悪のすべてをひっくるめて、汀を認めたというところなのだろう。
 だからこんなふうに彼女と手をつないで歩ける。
 彼女と二人でどこかに行ける。
 そう思ったので、梢子は揶揄のように、あるいは拗ねたように言った。
「それをゴールみたいに言わないでほしいんだけれど」
「え?」
「私はまだ、汀と一緒にしたいことが色々あるもの」
 出逢って、衝突して、馴れ合って、恋をして、恋をし合って。
 それで終わりだなんて冗談ではない。
 今日みたいに出かけたりして、興味のあることについて語り合ったり、触れ合ったり、同じものを見たり、同じ音を聴いたり。やりたいことは沢山あって尽きない。
「汀は違うの?」
 視線を上に向けた汀はほんの間考えて、うん、と頷いた。
「あたしも、オサとしたいことが色々あったわ」
「でしょう」
 得意気に応じる梢子へ苦笑いをしながら、
「じゃ、とりあえずご飯食べてから、やりたいことをしない?」
 汀が提案してきたけれど、彼女の「やりたいこと」が判らなくて梢子は首を傾げた。



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