10 夏を越せない


 目を覚ますとベッドに汀の姿がなかった。寝返りを打つ要領で身体を返し、早朝の朝焼けが差し込む部屋を見回す。丹念に探す必要もなく、こちらへ背を向けるかたちでテーブルの前に腰を下ろしている汀を見つけた。いつも彼女が座っている定位置だ。
 汀の手元にはカップがあった。ほのかに漂う香りから判断すれば中身はコーヒーであると思われた。
 気配に気づいたか、カップを持ったまま汀が振り向く。
「おはよう。まだ早いから、眠いなら寝てていいわよ」
 「おはよう」小さく首を振りながら起き上がる。わりに深い睡眠を得られたようで、眠気はほとんどなかった。
 起こした上体が身にまとう夜衣は大して乱れていない。昨晩は知らず知らずのうちに眠りへ落ちてしまったが、汀が直してくれたようだ。
 見られたかもしれない。その可能性に思い至り、気恥ずかしさを覚えた。見られる以上のことをしようとしていたのに、それくらいで照れるというのも不思議な話だけれど。
 ベッドを抜け出て汀の対面へ移動する。これもまた定位置。
「コーヒー入れようか。それとも日本茶がいい?」
「コーヒーで」
「了解」
 手早く入れられた(英語で言うところのインスタントである)コーヒーを受け取って口をつける。苦味が覚醒を促した。眠っている間に整理整頓された記憶が順列を保って再生されていく。それに相反して、梢子の内心は複雑に絡まった。視線をコーヒーの黒い水面へと落とす。己の顔が映って揺らいだ。
 手のひらにこもる温もりは、カップ越しに伝わるコーヒーの温度であるのだと自身に言い聞かせる。手のひらと言わず身体中が温かくなってきたけれど、それも熱いコーヒーを飲んだせいだ。
 梢子は無言で苦味をすする。汀がふあ、と欠伸をした。眠気覚ましを追加するためにカップを持って立ち上がる。お湯を沸かす間、汀はガスレンジの前に立って、何をするでもなくぼんやりと中空を見ていた。
 外された、と思った。正確に言えば、外してくれた。
 だからこそ、踏み出せる。
 戻ってきた汀を見やると、梢子が何事か言いたいのを察したか、彼女はキッチンの戸口に立ったまま「ん?」と視線で促した。
「その……、昨日、ごめん」
 自分から言い出したのに拒絶した。夜になると冴える輪郭を知っていたのに。その確固とした感情に、気づいていたのに。
 自分自身にも、想いは、欲望は、あったのに。
 汀は片目をすがめてぷかりと笑う。
「予想してなかったわけじゃないからあたしは結構平気。あんたがそう簡単に夏姉さんを忘れられるとも思えないしね」
「けど」
「仕方ないんじゃない? あたしがカヤを切ったのは事実だし、オサはそれを目の前で見ていたわけだし。納得ずくだったとしても、なかなか吹っ切れるもんじゃない」
 汀の両手。夜明けの陽によって今は緋色が見えないけれど、そこには確かに緋色がこびりついている。
 その両手が、恨めしくて、羨ましい。
 夏夜に最期をもたらした手が恨めしくて、夏夜に最後に触れた手が、羨ましい。
 汀が悪いのではない。
 すべての原因は、己の浅ましい心根だ。
 おそらく彼女はそれを判っているのだろう。なじられても文句は言えない。それなのに彼女は笑っている。
 その笑顔に救われた気分になれるとか、いっそ責め立てられた方が楽だと沈むとか、そういった重苦しいものはそれほどなかった。もとより深く思い悩むタイプではないせいだろうか。それとも、もっと俗で普遍的な性質が原因かもしれない。汀が隣に腰を下ろしたことが引き金となった、普遍的な心境。
「顔を見られるし、話もできる。別に特別な不自由は感じないかな」
 刃を振りかざした瞬間の凛とした横顔を不意に思い出した。今の横顔とあまりにも違っていたからだ。
 この表情。視線を合わせたタイミングで確信する。あの頃には見せなかった表情だ。
 カップに添えられていた手が離れて、汀がわずかに身を乗り出した。
「それに、キスもできる」
 す、と短く一度。感触を楽しむ暇もないほどの淡い触れ方だったけれど、切ないほどに胸を締め付けられた。
 何度目だろう。判らないけど。変わらない痛みと増大する愛しさ。
 思い悩むタイプではない。むしろ感情だけで突っ走ってしまう傾向がある。その正否がどちらであろうとも、変えられるとは思えない。
 話題がそれなりに重いものだったから、不謹慎だと自身に嫌気が差しもするのだけど。
「……み、汀」
「うん?」
「抱きついて、いい?」
 汀が虚をつかれた顔をした。それからほろんとした苦笑いを浮かべて、「好きなだけどうぞ」梢子のうなじに手をかけて引き寄せながら首肯する。
 ぽふり、汀の肩口へ頬を預けるようにもたれかかる。
 ドキドキが止まらなかった。あの日飲み込んだ汀の血が、彼女自身と共鳴して暴れまわっているようだ。朝の光は黒い血を陰へ押しやる。
 ここにいたいと思った。
 影を忘れたいわけではないけれど。影を不要だと断じるわけではないけれど。
 光の裏側に影は要るのだけれど。
 きっと夜になれば、また影に思い焦がれてしまうけれど。
 汀の指先がうなじの辺りで髪をもてあそんでいる。しっかりとした存在感が皮膚を通して伝わっていた。触れられたい、触れたい、そういう願いが確かに内在している。
 厄介な二律背反が梢子を停止させていた。二極に同じだけの力で引かれて、どちらにも行けない。
 なんとなくいつもより優しい彼女の手のひらに身体を預けていると、大丈夫というふうにぽんぽん叩かれた。
「ま、今のところはこれでいいんじゃない? 一応こっちは二年待ってるわけだし、もう少しくらい長引いたって大して変わらないわよ」
「ん……」
 優しさに甘えて、条件反射的に頷いてから汀の言葉を反芻する。
 溺れそうになる思考がぎりぎりのところで淵に引っかかった。
 顔を上げて、どこか呆けたような表情で汀を注視する。彼女はきょとんとしていた。
「ということは、汀、あの時から私を好きだったの?」
 ぐ、と汀の喉が鳴った。指摘されて初めて己の失言に気づいたようだ。視線をそらして「さて」と誤魔化そうとする。その反応こそが肯定の証だった。
 面映いような、申し訳ないような、なんとなく悔しいような気分になった。梢子の方はおそらく、あの当時はそんな感情を抱いていなかったのだ。好感は持っていたけれど、特別な好意はなかったと思う。だから一年間なんの音沙汰がなかろうと構わなかった。
 一年を経て再会したあの日も、嬉しかったけれどそれだけだった。
 それは汀のほうが距離を縮めようとしてこなかったからかもしれない。なんだかんだと理由をつけて、過度に親密な間柄になろうとしていなかったような気がする。
「それなら、どうしてあんなに素っ気なかったの? 汀の気持ちが大したことなかったってことかしら」
 ある種の無邪気を含んだ、それゆえに罪作りな一言に汀が絶句した。大きく溜め息をついて、呆れてものも言えない、と表情で物語る。
「本人にそういうこと言うか……」
「だって、会わなくても平気だったんでしょう?」
 「んん〜」困り果てた様子で唸る汀に梢子は首をかしげた。違うんだろうか。
 汀が触れ合っていた身を離して、こほんとわざとらしい咳払いをひとつ。
「……平気なわけないでしょ」
「じゃあ、どうして?」
「オサが、あたしを恨んでるかもしれないと思ったから」
 目を伏せて、唇を尖らせながら渋々口にする。
「あたしにとって、カヤを切ったことは『《剣》を奪った鬼を退治した』、それ以上の意味はない。でもあんたにしてみれば『姉のように慕っていた人を殺された』、そういう意味を持つ。だからあたしを受け入れられないかもしれないし、あたしに会うことで傷をえぐられるかもしれない。そう考えると、ね」
 そして汀のそんな懸念は昨晩、現実となった。
 二年を経てなお、梢子は汀を受け入れられなかったし、夏夜を喪くしたという傷は開いた。
 言葉を返せなくて沈黙する。俯いた梢子に汀は表情を和らげて、「けど、それでもオサに会いたかった」静かに告げた。
 彼女の想いに応えられないもどかしさが梢子を苛む。
「私は汀を傷つけている?」
「ううん、別に」
 ためらいがちの問いに返ってきた答えは至極あっさりで、肩透かしをくらった気分になった。汀は軽薄な笑みを浮かべてパタパタと手を振っている。
「そんな思い悩むことじゃないし。そんなこと四六時中考えてたら疲れるじゃない。
一応言っておくけど、オサのことで頭がいっぱいで何も手につかない状態とかにはなってないから。あんたが剣道をしている時にあたしを思い出さないのと同じように、他のことに熱中してたらオサのこともカヤのことも考えない」
 聞きようによっては気持ちの軽さの表れみたいな言い方だったが、そういうことではなく、日常生活を送るうえでの当たり前の現象を伝えているだけだった。
 ひらりと笑う汀がやや乱暴に梢子の頭を撫でて、梢子はその手に戸惑う。
「最大の問題は『あたしだけは駄目』なのか、『あたしじゃなきゃ駄目』なのかってあたりだったんだけど、そこは後者で確定したっぽいからわりとプレッシャーもないのよ。オサがあたしを好きならそれでいい」
 あまりにもさらっと言われたから照れるタイミングを逃したけれど、最後の言葉はけっこうな殺し文句だった。まるで……まるで、こちらの気持ちさえ移ろわなければ、状況は今のまま変わらないと言っているみたいだ。
 それは、つまり、汀はずっと好きでいてくれると、そう約束してきたようなものだ。
 タイミングを逃したせいで、もやもやした甘ったるい感情が胃のあたりで回っている。落ち着けと感情に注意してから、梢子は小さく頷いた。
「あ、うん、そこは、大丈夫……」
「ならオーケィ」
 解決、終了。汀がひとつ手を打ってお開きの合図とする。
「頃もいいし朝食にしますか。オサ、食べていく?」
「悪いけど、おじいちゃんから朝食には間に合うように帰ってこいって言われてるのよ。そのあたり厳しい人だから」
「そ。じゃ、お見送りかな」
 身支度を済ませ、汀の部屋を辞する。汀はどうせだからとエントランスまでついてきた。管理人室にはもう人の気配があって、ドアの向こうから生活音が洩れ聞こえてきた。
 音に導かれて視線をそちらに移した梢子の目に、例のステッカが飛び込んでくる。蛍光色で割合目立つ。
「ねえ、あなた本当にこれに気づかなかったの?」
 ステッカを指差しながら尋ねたら、汀は小さく肩をすくめた。
「そんな派手なものに何ヶ月も気づかないわけないでしょ」
 やっぱりただの口実だったようだ。
 
 
 梢子を見送った汀は一人で部屋に戻る。急速に音を無くした室内には昨日の残光と残香がほのかに漂っていた。あまりありがたくない残滓だ。
 定位置に座り込んで置きっぱなしだったカップからコーヒーをすする。先ほどはああ言ったけれど空腹は覚えていない。
 片足を伸ばした怠惰な姿勢でコーヒーを飲みながら、汀は夜明けを待たない時間の出来事を思い出していた。
 ショックを受けなかったと言えば嘘になる。嘘つきだから彼女には言えた。
 彼女の身体が、声が、表情がどんなふうに変化するのか、知りたいと思い願っている。
「とは言うものの、無理強いしていいことでもないしね……」
 物憂げに呟いてから、テーブルに置かれていた携帯電話を手に取った。
 カシャン、ディスプレイ部分をスライドさせる。以降の操作をするでもなくまたスライドを戻して、再度、親指で滑らせた。カシャン。
 何度かカシャン、カシャンとスライドをいじっていたが、つと手を止めて、開いた状態でキーを操作した。
 ファイルフォルダを呼び出して、一枚の画像を表示させる。剣道着姿の鳴海夏夜が穏やかに微笑んでいた。以前、資料として守天党から送られてきたものだ。
 すでに不要で無用なものだから番号を変えたタイミングで削除してしまっても良かったのだけれど、その画像は今まで汀の携帯電話にしまいこまれていた。
 汀は鳴海夏夜に執着はない。それでも残していたのは、もう一度『彼女を消す』という行為をしたくなかったせいかもしれない。
 鬼を切ることにためらいはないけれど……ディスプレイに映る彼女は、人だから。
 梢子の大切な人を消してしまうことに、気咎めを覚えるのか。
「やれやれ」
 誰にともなく、あるいは自分自身に対して苦笑した。
 苦笑のままじっと手の中の夏夜を見つめて、汀はわずかに眉を下げた。
「どうやったら、あたしはあんたに勝てるのかしらね」
 もういない人へ向けて、益体もない問いかけ。
 答えてくれる相手はいないし、もしいたとして、やはりその質問には答えられなかっただろう。
 そんな方法はどこにもない。



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