09 夜に紅
ベッドに寄りかかるようにして雑誌をめくりながら、梢子は汀の帰りを待っている。待っていてほしいとメールが届いたのがそうしている理由だ。自宅とそれほど離れてはいないし、合鍵を預かっているので問題はないけれど、そんなことを言われたのは初めてだったから少し驚いた。
ちなみに梢子が読んでいるのは剣道雑誌である。普段から読んでいるわけではない。部室にあったものを斜め読みしたら、いつかの大会で夏夜と対戦したことがある人のインタビューが載っていた。だからなんとなく、自分でも購入したのだ。
インタビューでは一言だけ、夏夜の名前が出ていた。思い出深い選手を訊かれて答えた部分だ。素晴らしい剣士だったと、今は強豪校の顧問をしているその人は語る。
しばし、梢子は物思いにふけった。
あんなことがなければ夏夜もこんなふうに過ごしていたのだろうか。もしかしたら現役を続けていたかもしれない。剣道は昇段に時間のかかる武道だから、ほとんどが男性だけれど五十代、六十代でも現役の剣士というのは珍しくない。
想像したところで、詮のない話だけれど。
玄関の鍵が開く音がして、ドアの向こうから汀が姿を見せた。
「ただいまー」
「おかえり」
梢子が雑誌を閉じながら迎える。
「お、ちゃんと待ってた。偉い偉い」
「待ってろって言ったのはそっちじゃないの」
「うん、ありがとう」
時々誤解されるが、汀は色々とルーズなくせに礼を言うべき時にはちゃんと言う。そこは、梢子が好きな要素のひとつだ。
あの時もそうだった。
笑みもなく、口調に軽さは見えず、彼女は尽きる命に対して礼を尽くした。
そういうところが、好きだと思う。
まあ今はなんだかふにゃりふにゃりと笑っていて、発する声もまた浮かれ調子ではあるのだけれど。それはそれで嫌いではない。
「で?」「え?」顔を上げた梢子の問いに、汀は首を傾げた。
「なんの用?」
「特に用とかないけど」
じゃあどうして呼びつけたんだ、という表情をすると、それを読み取った汀の眉が下がった。わしわしと梢子の頭を乱暴に撫でて、これみよがしな溜め息をついてみせる。
「理由がないとオサに会っちゃいけないわけ?」
「今まではわりとそうだったと思うけど」
「まあね。今回は口実を考えるのが面倒だっただけ」
ということは、これまでは頭を捻って何かしら口実を作っていたわけか。別に、理由なく会いたいと願われたところで断るつもりなどないのだから、今日みたいにただ呼べばいいのに。変な汀だ。
今さらだが、汀は黄色いステッカを見つけていたのかもしれない、と思った。
梢子の隣に座って、頭を肩口にもたせかけてくる。かすかに花の匂いが浮かんだ。その移り香に、梢子は少々面白くない気分を味わう。
「綾代の匂いがする」
「なに、妬いてんの?」
「そういうわけじゃないけど」
親友だし、信頼しているけれど、どうしても綾代に対しては少しだけ複雑な心境にならざるをえない梢子だった。そして逆に、汀に対しても複雑な心境になる。腹を立てること自体が何か違うし、どちらに対して負の感情を抱いてしまうのかも判別できないのだ。両方に対して疎外感を味わっているのかもしれない。
すい、と汀が離れたので、スイートな花の香りもすぐに消えた。
梢子はゆっくりめの瞬きをして、気分を変える。両腕を天井へ向けて伸びをする汀の不意をついて喉もとをくすぐった。「うぅ!?」突如として奇妙な感覚に襲われた汀の喉から、無理な姿勢と驚愕が相まって情けない悲鳴が洩れる。
慌てて体勢を戻した汀がガードするように手のひらで自身の首を覆った。
「ふ、不意打ちとは卑怯なり」
「あなたに言われたくない」
くすぐる程度なら可愛いものだろう。こっちはもっと強烈な不意打ちを食らったことがある。
そういえば、あの時は別に汀のことなどなんとも思っていなかったはずなのに、嫌だとは思わなかったな。追想でうっかり恥ずかしい発見をした。
もちろん、今も嫌ではない。
むしろ、なんというか、望むところだ、みたいな。
「………………」
くいくいと汀の服の裾を引っ張った。汀がん?というふうに視線をこちらへ移して、それから満面の笑みになる。
「なに?」
絶対判ってるくせに訊いてきた。
梢子は朱を帯びた顔を背ける。
「……なんでもない」
「なんでもないって顔じゃないけど」
肩と肩がわずかに触れ合った。汀が柔らかな体当たりをしてくる。梢子は消え入りそうな唸り声を上げると、体当たりをやめさせて汀の腕を絡め取った。
「……今日、まだしてない」昼間はお互いに学校があったし、それから汀は綾代と食事へ行ったので、二人が顔を合わせたのは今が初めてになる。
無事に梢子からのおねだりを得た汀は、ニマニマしながら喉を鳴らした。
「ん」
潤みのある視線で、梢子の顎を上げさせる。
梢子は自身の身体がわずかに硬直するのを自覚する。
いつもいつも、何を緊張しているのだろうと自分が情けなくなる。望むくせに、そこはかとなく身構えてしまう己がいるのだ。汀によくそのことをからかわれる。そろそろ慣れてもいいと思う。
優しく優しく、泡玉のように汀が唇を梢子のそれに触れさせた。そこからカウントを三つ。触れた時と同じくらいの淡さで唇が離れる。
汀が唇を引く直前、そのほんのひと刹那に、『揺らぎ』を感じることがある。
迷いとも後ろめたさとも違う、ためらいに似た何か。
それは本当に吹けば飛ぶような曖昧さなので、捕まえて正体を見極めることができない。
ねえ汀、それって、なに?
尋ねようとするけれど、いつも汀の視線に見蕩れて、声が出せない。
艶やかな視線を隠すように、きゅん、と汀が双眸を細くする。ふざけ半分に甘える時の、いつもの顔だ。
「ねーオサオサー。今日は一人で寝るのやだなー」
「はいはい」
実はこっちも最初からそのつもりだった。
ほら、涼しくなってきたし。
夜になると輪郭が際立つものがある。
それは背を撫でる手のひらであったり、時折髪や額に触れてくる唇であったり、うっすらと開いたまぶたの隙間から洩れる眼差しであったりした。
望まれているのだと思う。
求められているのだと思う。
輪郭は明確でありつつも尖らない。髪の毛一本分よりも薄い透明な壁を越えずに、いつだって滑らかに表面だけをなぞる。
水槽の中で泳ぐ魚は透明な壁面にぶつからない。そこに壁が在るのだと判っていて、直前で身を翻す。そういうかわし方を、汀はする。
臆病とは違ったモラトリアム。未踏の地を踏むことに躊躇はないけれど、そこに咲いている花を踏み潰してしまいたくない。他に、足を踏み出しても綺麗なものが壊れない位置があるかもしれないと、慎重に見定めている視線。そういうもの。
花の移り香はもうどこにもない。汀はただ喜屋武汀だった。それ以外の要素はなかった。あとは小山内梢子と夜だけがあった。
汀に気づかれないよう、こっそりと息をついた。
二年前では考えられなかった状況であり、状態だ。
顔を上げて、ブランケットから抜き出した腕を汀の首にまわす。
「汀」
「ん、なに? 眠れないなら子守唄でも歌ってあげようか?」
汀が口を開いたとたん、輪郭は曖昧模糊とした不定形になった。これもまたいつものことだ。
彼女は理由もなく会いたくなるのだという。
それなら、理由もなく触れたくなることだって、あるのだろう。
不定形には触れられない。
ほしいのは子守唄じゃない。
暗闇の中、手探りで唇を重ねた。食むようにうごめく。汀の戸惑いが夜を媒介にして伝わる。
ゆるりと離れたら、汀が揺らいでいた。
「あの、オサ……?」
「一応言っておくけど初めてだから、あまり期待しないでね」
「えと……いい、の?」
いちいち訊くな。潜ませた文句に汀は少したじたじになって、ごめんと小声で謝ってきた。
「で、でもほら、そういうことはもっとお互いを知ってからの方がいいと思うわけ、ミギーさんは」
モラトリアムが顔を出してきて、及び腰の回避行動を汀に取らせる。
気に入らない。
首筋へ腕をまわして引き寄せた。
「汀はまだ、私に何かを隠してるの?」
「え? ……そういうわけでもないけど」
「私も」
自分が知っている自分はすべて見せた。そしてまた、汀の見える部分はすべて見た。
ならばあとは、自分の知らない自分と、汀の見えない部分を夜の元にさらけ出すしかない。
汀の中で何かと何かがせめぎあっているようだった。それは若干詰まった呼吸として表現される。汀の反応を待っている間に押さえ込まれていた理性が鎌首をもたげて、欲求を絡めとろうとしてきた。梢子は汀にしがみつくことでまとわりつく理性を追い払った。
押し付けている頬の熱が、汀へと伝播する。
熱が全部汀に移ってどこにも逃げなければいい。
梢子はただひたすらに汀を抱きしめていた。経験を積んでいればもっとスマートにできたのかもしれないが、その場合は汀以外の誰かとしなければならないから、それは嫌だと思った。
汀のあらゆる要素が輪郭を帯び始める。
「……オサ」
柔らかに、両腕で抱き返してきた。
そっと体勢を変えて、再度キスを交わす。汀の指先が首筋からすべるようにして耳の後ろ側へもぐりこんできた。汀と梢子と夜だった。三つとも完全分離して溶け合うことはなかった。
汀の指先によって梢子の身体は小刻みに震える。今までだって触れられたことのある部位なのに、決定的な違いがあった。
性的だった。ひどく純粋な、種族としてのさがを、今の汀は指先にまとっていた。
ありえないほど、心臓が大きく跳ねている。唇が耳朶へと落ちて、断続的に刺激を与えながらパジャマのボタンを外してきた。
「……っ、汀、目、つぶって」
「そんな無茶な。ていうか無体な」
「だって……」
「どうせ真っ暗だから何も見えないわよ」
喉の奥で笑いながら告げてくる。嘘だ。いい加減、夜目に慣れてきたはずだ。事実、こちらは汀の輪郭を視覚で捉え始めている。
彼女が目を閉じたのか閉じていないのかは判らないままだったけれど、梢子は耐え切れずに固く眼を瞑った。覆いかぶさってきている汀の輪郭が、まぶたの裏に残像として映る。
腹部から脇腹、肋骨と筋肉が作るライン。目を閉じたせいで、ひそやかな触感を否応なく意識してしまう。時折、名を呼ぶ声が鼓膜を撫でまわした。それにすら身体の奥から悦びを引き出される。
「息、上がってきたね」
いいんだ? 揶揄の口調で囁かれる。羞恥で全身が熱くなって、血液の巡りが三倍ばかり速くなった気がした。
「そういうこと、いちいち言わないの……!」
「嬉しくてついね。言祝ぎだと思って見逃して」
「馬鹿……っ」
まったく、こんな時まで汀はいつも通りだ。
慈しむように頬へ唇が降る。先ほどの彼女の言葉があったから、梢子は手の甲を自身の口に当てて呼気を悟られまいとした。
汀はあえてそれを外させないまま、停めていた手をすべらせる。
淡く淡く、柔く柔く、汀は梢子に触れた。
次第に梢子の思考は意味のあるものでなくなっていく。無思考へどんどん近づいて、会話をする余裕すらなくなって、手の甲には吐息ばかりがぶつかる。
そんな中で、汀の手のひらが心臓の真上に来た時、光景が閃いた。
――――ありがとう。
赤、赤、赤、赤、赤。
次に黒。黒、黒、黒、黒。黒。
赤々として黒々としたイメージが閃光となって視界いっぱいに広がる。
イメージ? 違う違う違う違う!
これは記憶だ! 過去の映像だ! 忘却していた、忘却したと思い込んでいた、しまいこんでいた過去が思考の籠から解き放たれてよみがえった!!
「――――!」
次の瞬間、梢子は汀を力の限り押しのけていた。
「!? オサ……?」
夜が汀の困惑と焦燥と後悔を如実に伝えていた。
触れていた手を止めて、さらに梢子の身体からシーツへと移して、汀が気遣わしげに問いかける。
「……やっぱ、嫌だった?」
梢子は激しく首を降る。
そうじゃない。汀のことが嫌だったわけじゃない。
恐かったのでもない。
ただ、ただ……あの優しい瞳を、思い出してしまっただけだ。
「ごめん。ごめん、汀……」
「いいから、ま、ちょっと落ち着きなさい」
狼狽している人間がいると返って冷静になれる、そんなことを以前彼女は言っていた。
それを体現するかたちで、ころんと梢子の隣に横になると、自身の困惑と焦燥と後悔を包み隠して気負いのない声で梢子を慰めた。
こんなふうに、彼女は許してくれるのに。
自分は自分が許せない。
「どしたの。恐くなった?」
「違う……」
「じゃあ、なに?」
「……夏、姉さん、が」
切れ切れに梢子はその人の名を出した。一音のたびに喉がヒリヒリした。「夏夜が?」宥めるような口調の促しに、喉の痛みに耐えながら続きを紡ぐ。
「夏姉さんはもういなくなってしまったのに……、夏姉さんを『終わらせた』のは私たちなのに、こんなふうにしているのが、辛い」
汀の両手も、己の両手も、彼女の血で汚れきっていて、触れ合えば触れ合うほど相手の身体に彼女の血がなすりつけられてその範囲を広げる。
血まみれの身体で触れ合って、けれどもそれに気づかないで幸せを感じることの不誠実。
梢子は罪悪感によって、汀の両手を受け入れられない。
「そっか」
小さな相槌を打つ汀の胸元へ、額を押し付ける。手枕の姿勢でいる彼女はわずかに身体を丸めて梢子が入り込む隙間を作った。
ブランケットの中で汀の片手が梢子の手を探り当てる。
「実は、そうなんじゃないかと思ってた。だからオサになかなか触れなかった」
「え……?」
「自分を過小評価するつもりはないけど、オサにとってあたしが夏夜より大事だとは思ってなかったから」
悔しさを見せず、淡々とした声で告げてくる。
「姫さんにも言われたけど、やっぱ『ずっと一緒にいた』ってのは強いわよね。過ぎたことならあたしが割り込む隙なんてないし。それはまあ、しょうがないことではあるかな」
過ぎたこと、と彼女は言う。その通りだ。
犯した罪を悔いるという行為は、過ぎてしまわなければできない。
梢子の罪悪感は、後悔は、夏夜を切ったことだけに起因するのではなかった。
それを考えたくないから忘却したフリをしていた。
もしも、と。
もしもどこか一つでも己の選択が違っていたら、あの人を助けられたのではないだろうか。
再会した頃、夏夜は生きていた。在り方は違っていたけれど、梢子の知る鳴海夏夜だった。
だから、たとえば立ち止まった場所をまっすぐに進む、その程度の違いで、もしかしたら彼女を救えたのでないか、そんな未来があったのではないかと夢想する。
あの人を、諦めずに済んだのではないかと、叶わない希望を捨てきれずにいる。
けれど、と。
けれど梢子は留まっていたくないとも思う。
切ない吐息が口の端からこぼれた。
「でも私は、汀と一緒にいたい」
「うん」
汀の両手を受け入れられないのと同じ理由で、梢子は汀と手をつなげた。
血にまみれた手で握ることで、相手の綺麗な肌を汚してしまうのではないかと危惧する必要はなかった。
彼女の手は同じ血ですでに汚れていた。
汀がそっとキスをしてくる。
唇は、血で汚れていない。
「ま、そう簡単にいくとは思ってなかったし。オサがあたしを嫌わないでいてくれただけラッキーかな」
「嫌うなんて絶対にない」
強めの語調で言い返したら、どうしてか汀は軽く苦笑した。断定したのが子どもじみて見えたのかもしれなかった。
つないだ手に引き倒された。ベッドへうつぶせになった梢子が、首だけを巡らせて汀を見やる。
汀は梢子へ身体を重ね合わせると、するりと頬をこすりつけてきた。
「なら、これくらいは許してよ」
何がしたいのか判らず当惑する梢子の肩からパジャマが落ちる。「っ、」反射的に身をすくませたその首筋へ、宥めるように唇を落とされた。
シーツへ投げ出していた手が、汀の手に包み込まれる。唇は背中へ何度も落ちてきて、柔らかな感触を梢子に伝える。
そこにはセクシャルなものが何もなかった。かといって神聖でもなかった。
ただ、真性だった。
梢子の手は指を絡めることができず、腕は彼女の身体にまわすことができず、視線は交わせず、汀の唇は背に触れるために使われているから声を発することはなく、梢子の耳は彼女の声を捉えない。
それは何一つ受容する必要のない、こちらの意思とは無関係に捧げられるだけの、儀式めいた行為だった。
うなじから首筋、正中線を通って左へ移る。
翼をもがれた天使の傷を癒すみたいに、肩甲骨を線状になぞって、逆側も同じように。
言うなれば、これは、癒しであり許しであり印しなのだ。
後悔でずたずたになった心を癒して、血にまみれた罪悪を許して、せめて返り血を浴びなかった背中だけは譲れないと印をつける。
触れる直前も、触れている間も、離れるひと刹那にも、汀は揺るがない。
張りつめていた背中がだんだんと和らいできた。はだけたパジャマから覗いている部分で、もう汀の唇が触れていない箇所は存在しないかもしれない。それでも汀は何度も何度もキスをする。薄く上気した肌はしっとりと潤びて、唇との接地をわずかに強くした。
梢子は瞑目している。まぶたの裏の残像は幻視のあの人。最期に微笑んだ姿のまま、変わらずそこに佇む幻影がゆるゆると明滅した。
まぶたの裏で夏夜を見つめながら、梢子の背は汀のぬくもりを感じ取っている。象徴的な状態だった。ひどく不実、しかし純粋。どちらも大切で、忘れがたくて、離しがたい。
目を開けた。視線の先には重ねられた手があった。
闇の中、血にまみれた二人の手は、境界線を失ってひとつに見えた。