08 今は言えない


 そろそろ涼風が吹くようになってきた。残暑のなごりはかさを減らしつつも姿を消していないが、夜、寝苦しくてなかなか眠れないということもなくなった。
 そんなだから、ようやく寄り添って眠っていても平気になった。
 すぐそばで穏やかな呼吸音が鳴っている。脇腹のあたりに乗っている腕が重くてどけたら、わずかに意識が浮上したのか、どかされた腕が上方へ向かって髪を撫でてきた。
 撫でてくる手が気持ちよくて、梢子はうとうとし始める。汀の胸元にもぐりこむ。夜の闇に溶けて二人の身体は境界が曖昧になっている。
 ことん、と梢子は眠りに落ちた。
 こうして一緒に眠るようになってしばらく経つが、汀が『一緒に眠る』以上のことを求めてきたことはない。
 
 
 綾代はテーブルを挟んで汀と向かい合っている。隠れ家っぽい雰囲気の小料理屋、その奥まった位置にある座敷はずいぶんと静かだ。騒がしいのを汀が嫌ったせいだろう。
 汁椀から毬麩を箸で摘み上げる汀を見ながら、綾代は綺麗な所作だと感心した。
「少し緊張してしまいますね」
「や、別にそんな格式ばったところでもないし。普通にしてればいいわよ?」
「いえ。汀さんと二人きりというのが」
 言葉の裏を読み取った汀が苦笑した。「オサには言ってある」言い訳めいた台詞だったけれど語り口に気負いはない。綾代も誘いを受けた際、梢子へメールで伝えていたので、特に密会というわけでもなかった。まあ、ちょっとした冗談だ。
 汀は吸い物を一口含んで喉を湿らせてから、椀をテーブルに戻した。
「姫さんには迷惑かけたからね」
 お詫びに、と言う。綾代としては迷惑をかけられたなどと思っていないが、向こうは色々と思うものがあったのだろう。
「構いませんよ。お友達ですから、役に立ちたいと思うのは当然です」
「そう言ってもらえるとありがたいわ」
 ぷかりと笑う。その表情はもう特別なものではない。あの、自分だけが見ることの出来た笑みを見られなくなったのだけは少し惜しい気がしている綾代である。
「それにしても、知り合った頃はこんなことになるなんて思いもしませんでした」
「ああ、あたしもあたしも。オサとか絶対気が合わないと思ってた。実際合わなかったけど」
「梢子さんも言っていました。苦手なタイプだったと」
 「ま、オサの好みじゃなかっただろうからね」わずかばかり苦みばしった表情で頷く汀。焼き魚をほぐして口に運ぶ。それと一緒に何かを飲み下したようだ。おそらくは梢子が好きになる人間像を知っているのだろう。空想上の理想ではなく、実在していたという可能性もある。そういった話を彼女から聞いたことはなかったけれど、綾代は梢子の何もかもを知っているわけではない。
 綾代も止まっていた箸を動かし始めた。女将ひとりで切り盛りしている小さな店だが味は確かだ。あまり自分たちのような若輩者が通うような店ではないように思えた。汀も初めて来たと言っていた。誰かの紹介らしいが、尋ねても「昔のツテ」としか教えてくれなかった。
 高校生の頃なら、怖気づいて足を踏み入れられなかっただろう。それだけの時間が経ったということだ。
「いつの間にか二年も経ってしまいましたね」
「うん、けっこう早かったかな」
 大学生になっても実家暮らしで大した環境の変化もない綾代と違って、汀はほとんどすべてと言っていいほど変わった。その分だけ、表情に深みがある。同い年ということを忘れそうだ。
 二年前からそうだったけれど、汀はどこか、想像もつかないような経験をしていそうな雰囲気があった。どこか、この年頃の人間ではたどり着けない領域に立っているような空気。
 だから綾代は彼女がどれだけ子どもみたいなふりをしても、子ども扱いなどできなかったのだ。精々がところ、いくばくかの幼性を見出して、戯れ程度に手を取るくらいで。
 不思議なのだが、梢子にも仄かに同じ雰囲気を感じる。丁度、汀と知り合ったころと、彼女がそういう雰囲気をまとい始めた時期は一致する。二人の間に何かがあったのかもしれない。あるいは、二人が同時に何かを経験したか。
 だから梢子は彼女の隣に並べたのかもしれない。
「二年っていったら、そっちもでしょ。どう、最近」
 話の矛先を向けられて、綾代は「あら」と微苦笑を浮かべた。
「相変わらず、元気で可愛らしいですよ」
「ふぅん。それは良かった、と言っておこうかな」
「良かったとは言い切れないかもしれません。『相変わらず』、なので」
 少しだけ、綾代の表情が翳る。自分たちとは違う時間を進む存在。その事実が両肩にのしかかっている。
 意識的にか偶然だったのか、汀が玉子焼きを一口分に割って口へ入れた。
「でも、諦める気はないわけだ」
「それはもちろんです。好きですから」
 重力のような純粋さだった。当てられて、汀が小さく目を瞠る。どこか渇いた笑いを上げると、食事の途中なのに「ごちそうさま」と呟いた。
「汀さんだって諦められなかったでしょう?」
「あー……、ん、まあ……」
 複雑な表情で汀が微妙な肯定をした。
 それはいいとして、と無理やり矛先を戻す汀。恥ずかしいのだろうか。今さらなような気もするが。
「まったく変化なしなわけ?」
「いえ、少しずつですけれどお話ができるようになってきました」
「ふぅん。じゃ、改善には向かってるわけだ」
「ええ」
 冷め始めてしまった玉子焼きを口に運ぶ。硬くなってきていた。もったいないことをしてしまった。
「なんていうか、純愛よね」
 禁止したくなるような恥ずかしい単語をさらりと口に出されて、綾代が軽く照れ笑いをする。
 そんな良いものであるのかどうか、自分としては甚だ自信がない。ただのままごとであるかもしれない。そんな可能性は捨てきれないのだ。純粋に相手のことを慮っているのかと自問すれば、返答に窮する。
「ただ自分の望む相手がほしいだけかもしれません」
「それは大抵の人間がそうでしょ。自分のメリットを考えないってのは、愛情じゃなくて奉仕精神よ」
 問題は相手のメリットも考慮できるかどうか。汀は魚の骨を外しながら続けた。
「それなら、汀さんも純愛ですね」
「あたし? めちゃくちゃ純粋よ。純粋にオサに欲情してる」
 こふっと綾代の喉から変な音が出た。身も蓋もない告白に、思考が一瞬真っ白になる。
 紅潮する頬を自覚しながら思わず視線を下に移し、忙しなく筍の炊き込みご飯を口に詰め込んだ。飲み込むまでは声を発せずに済む。
 汀は綾代のそんな様子を面白そうに観察していた。
「姫さんはそういうのないだろうから、少し羨ましい。こんな下らないことで悩まなくて済むからね」
「いえ、その、人としての本能ですし……」
 ああそうか、お付き合いというのはそういったことがあってしかるべきなのだ。やっとのことで綾代は気づく。形式ばかりの恋人同士だった頃、汀との間には何もなかった。ごっこ遊びだから、リアリティなど必要なかったのだ。泥団子の食事を本当に食べる子どもはいない。
 何をどう言ったものか、とあたふたしていたら、汀が打ち消しの合図に手を振ってきた。
「ごめんごめん、からかいすぎた。姫さんが良いアドバイスできるとは思ってないから、そんな考え込まないで」
「はあ……」
 いつの間にか茶碗の中は空になっていた。筍の風味が程よく効いた逸品だった。時間稼ぎといえどしっかり味わった綾代だ。喉を塞ぐためだけに使うのは失礼だろう。
 汀が一足先に食事を終えたところで女将が食後の茶を持ってきてくれた。絶妙のタイミングだった。よもやじっと覗いていたのではあるまいなと疑いたくなるほどだ。まさかそんなことはないだろうけれど。
 茶をすすり、汀が一息つく。
「そういえば百ちーたちは元気?」
 あからさますぎる話題のすり替えに、綾代は大喜びで乗っかった。
「ええ、みんなそれぞれ元気にしていますよ。百子ちゃんと保美ちゃんは、今でもとても仲が良くて、同じ大学を目指しているそうです」
「それはなにより」
 汀が単なる相槌にしては重みのある頷きを返した。
 遅れて綾代も供された料理を食べ終えて、箸を置く。保美の料理もかなりのものだが、これはこれでまた違った意味合いの絶品であった。良い経験をしたと思う。
 茶を一口含んで、ほう、と満足の溜め息を落とした綾代に、汀が微笑みかける。
「お気に召したみたいね」
「はい。とても。ごちそうさまでした」
「それなら良かった。これで姫さんの口に合わなかったらなんの意味もないところだったし」
 裏もなく彼女は言った。
 外に出ると宵の淵、月明かりが炯々と照らしてくる。夜風が涼やかだ。たおやかで心地良い。
 瞬時目を閉じて風を味わった汀は、瞳を現すと「うん」ひとつ頷いた。
「やっぱり姫さんとはこっちの方がしっくりくるわ」
「わたしは前のように甘えていただいても構いませんよ?」
「それはオサが怒る。姫さんに迷惑かけるなって」
 絶対、あたしより姫さんの方が大事だし。むっつりと唇を一文字にして拗ねる汀だった。綾代はクスクス笑う。
 さて、否定するべきかどうか。ここは少し傲慢になっておこうか。
「それはまあ、わたしの方が付き合いが長いですし、ずっと一緒でしたから」
「見えない努力って評価されないもんよね」
 まったくだ。きっと梢子は判っていないに違いないが、全国大会で梢子を驚かせるために一年間剣道に励み、その後は勉学に励んでこちらの大学に合格して、会いたくてたまらないくせに一時的に彼女から離れた。その精神力と努力は尋常ではない。
 拍手を送るしかない忍耐強さだ。だから綾代は彼女の世話を焼きたくなってしまったのだ。
 それはつまり、友人として。
 努力した人間が成果を出せないなんて、理不尽すぎるだろう。
「けれど、これからは汀さんの方が一緒に過ごす時間が長くなるのでしょうね」
「だといいけどね。――――っと」
 唐突に汀が綾代の腕を引いて自分の方に寄せさせた。反応しきれなくてよろけた身体を受け止められる。直後、すぐ横を自転車が結構なスピードで通り過ぎていった。無灯火である。なんという危険行為だ。「危ないなぁ」汀が顔をしかめて呟いた。
「ありがとうございます」
「んーん」
 待っていても肩を抱いていた手が離れない。どうしたのだろうと訝っていると、彼女は鼻先をこちらの首元に近づけてきた。
「アイリス……や、菖蒲?」
「ああ、はい。よくご存知ですね」
 首筋でほのかに香るそれを、文字通り嗅ぎつけられたらしかった。高校時代にはできなかったことだ。校則違反だし、何より部活動の内容が内容なので、トップノートだのミドルノートだのいう以前に汗ですべて流れてしまう。
「花言葉は『吉報』だったっけ? なるほど、姫さんらしい」
 綾代はその言葉に微笑で応えた。本当はもうひとつの意味の方が強かったけれど、自分から言い出すのは恥ずかしいので。
 その香りは、良い報せを待つという受身の願望ではなく、もっと積極的な決意みたいな意味合いだった。
 叶うかどうか判らないし、まだ誰にも言えないけれど。
 いつか、できれば遠くない未来。香りに乗った決意を直接言えたらいい。
 今はまだ内緒だから、汀にも教えない。



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