07 誰にもあげない
関係性が変わったから二人の日々が劇的に変化したかというと、そうでもなかった。
毎日おはようとおやすみの電話をするだとか、休日は必ず顔を合わせるとか、甘い言葉を囁きあうだとか、そういうものは一切なく、卯奈咲にいた時や、汀がこちらに来てから初めの数ヶ月と同じような、さっぱりとした交流を続けていた。わりに光彩のない交際である。
あえて言うなら、少し喧嘩の量が増えたか。二人を隔てていたドアが開いて、直接文句を言えるようになったのでお互いに遠慮しなくなった。距離感が縮まったということだ。
「なんで来るのよ」
遠慮しなくて良いから遠慮なく、梢子はムッとした表情で汀を斜めにねめつける。「ひどいなー」ダメージのかけらもない様子で笑う汀。
「応援しに来ちゃ悪いわけ?」
「ただの練習試合なんだから来なくてもいいでしょう。実際、他には誰も来ていないし」
剣道着姿の梢子の後方には、同じ格好の男女が数人たむろしていて、みんな興味なさそうな顔をしながら、しかし確実に耳はこちらを向いている気配があった。今日は一年生のみ、他大学との練習試合を組まれていた。引率のコーチは相手校の顧問と何事かを話している。汀の存在については気にしていないらしい。まあ、公共の施設なので部外者立ち入り禁止というわけでもない。見学者の一人や二人、いても構わないのだろう。
気配の主は全員が梢子と剣を揃える部員だ。同級なのでみんな結構親しい。気配を隠しきれないのはそういった親しさの表れでもある。
しかし、梢子は背中に感じるチクチクした気配を不愉快に思う。
別に、二人の間柄を剣道部の面々が知っているというわけではない。特段隠してはいないけれど、訊かれていないので言ってはいない。だからこの気配は痴話喧嘩の野次馬ではない。
後方にいる同級生たちの男女比率は半々。けれど、どの気配も意味合いは一緒だった。
思わず溜め息が出る。己はかれこれ二年ほど見ているので(うち一年は空白だったけれど)いい加減見慣れたのだが、そういえば汀は美形だった。
なんとなく面白くない。
どうしてこんなことで気を揉まなければならないのだ、と理不尽な怒りを覚えている梢子である。
「いいから帰りなさい。あなたは講義があるでしょう」
「あ、休講になった。教授の奥さんが産気づいたらしくて飛んで帰ったわ」
「……それはおめでたいわね」
そして汀の頭もおめでたい。
拍を置くようにぶつ切りで届けられる視線に気づいていないわけでもないだろうに、まったく頓着せず梢子だけを見ている。
「あたしもう剣道やめたから、オサと仕合うこともなくなったわけじゃない。久しぶりに竹刀を構えてるオサが見たくなった」
「見たって別に面白くないわよ」
「少なくともおいしい。レア度の問題で。剣道着のオサも最近見てないし」
それはまあ、剣道をするとき以外は、剣道着など着用しないけれど。街なかで遊ぶときに着ていたらただの変な人だ。
「それとも、今度うちで着てくれる?」
そこまで行くと、もうなんか意味までおかしくなってしまう。
「着るわけがないでしょう」
「でしょ? だからわざわざ見に来たわけ」
なんだか言いくるめられてしまった。剣道着など、別にセクシャルなわけでもないのだから、見たところで楽しむ要素などないだろうに。
「あ、ひょっとしてオサ、負けるところを見られるのがやなの? 大丈夫だいじょうぶ、笑ったりしないから」
「そんなことは気にしてない」
答えつつ、絶対に勝たねばならないと強く決意した。万が一負けたら、汀は笑うに決まっている。
背後からの気配は消えない。どころか、ますますその存在を誇示し始めた。汀を追い返そうとする梢子への反発だ。応援のおこぼれに預かりたいのだろう。
「まったく……」梢子が勢いよく後ろを振り返った。途端に気配が霧散して、みんないっせいにストレッチを始めたり防具を付けだしたり、あるいは何も思いつかなかったのか、明後日の方を向いて「今日も暑いなー」などと呟いてみたりした。
あからさまに誤魔化す仲間たちを横睨みにしつつ、唇をへの字に曲げる。
何が嫌だって、気にするべき対象が多すぎるのが嫌だ。通常であればこの半分で良いはずなのに、全員が全員、可能性が存在するという面倒な事実。同性だから安心とはいかないことは、先日の一件で身をもって学んでいる。
汀の襟元を引っつかんで顔を寄せた。少しだけ声を潜める。
「仕方がないから見ていてもいいけれど、うちの子たちに変なことしないように」
「うむ、安心めされい。オサ以外にはしないから」
「……ここでは、私にもしないの」
呆れて吐息を落とす梢子だった。
幸い、試合では勝つことが出来たので、汀に笑われずに済んだ。しかし試合中の足運びについて指摘されて悔しさは少々味わった。もう剣道も鬼切りも引退しているくせに、相変わらず確かな眼を持っている。
更衣室で着替えてから控え室に戻ると、汀が女子部員の一人と話していた。男子は横目でその様子を見つつも、会話に入っていこうとはしていない。
そんな男子の中から抜け出した一人が、梢子の隣へ移動してきた。肩をつつかれてそちらを向くと、彼は少々興奮した面持ちで汀を指差し、
「あの人、お前の友達?」
上ずった声で尋ねてきた。
「……ええ、まあ。そんなところ」
「マジやべえじゃん。ちょっと紹介してよ」
崩れに崩れた言葉遣いに眉を潜めたが、とりあえずそこは流して、ふいと顔を背けた。
「私に頼まなくても、好きに話しかけたらいいでしょう」
「いや、あそこまでレベル高いと手ぇ出しづらいんだよ。高嶺の花ってやつ?」
最後の『高嶺の花』と、汀自身とのギャップが面白くて、梢子は小さく笑った。綾代あたりなら似合う表現だが。迫り来る海水の壁にあたふたするような人間に使って良い言葉ではない。
梢子の表情が和らいだと勘違いした彼は、脈があると見込んだか「な、このとおり」両手を合わせて拝みこんでくる。
ムカムカした気分を隠しながら、梢子はすぱりとその願いを切り捨てた。
「汀にはもう相手がいるから無理よ」
「……マジかー」
合わせた両手をだらんと下げた彼が、悲しげに首を垂れた。
「駄目、いるって」こちらの様子を窺っていた男子集団へ戻っていった彼が、両手でバツを作りながらリサーチ結果を切なく報告する。集団の中から口々に、嘆きとどこの誰とも知れぬ相手への呪詛が洩れた(実は前方二メートルくらいのところにいる)。
それを横目にしつつ梢子は溜め息をつく。いかな生え抜きのスポーツマンといえど、やはりみんな二十歳前の若者だ。むしろそれでこそ健全なスポーツマンであるとも言える。
汀へ歩み寄ると、ああ、というふうに笑って出迎えてくれた。
「オサ、これからどうする?」
「遅れてたレポートを提出しないといけないから、一度大学に戻るけど」
梢子の返答に顔を輝かせたのは汀と話していた少女だ。「あ、じゃあ丁度いいですね!」煌きを全身から放出しながらまっすぐに汀を見つめる。
「梢子忙しいみたいだから、あたしたちとお茶しませんか? こっちはもう帰るだけなんで」
「んー、そうねえ」
今度はこっちか。胃の痛みを覚え始めた。
しかもこちらは男子連中のように直接的な願望ではない。本心は判らないけれど、今のところ「お友だちになりたい」というレベルであるようだ。それなら、さっきと同じ言い訳では通用しない。
汀は自身の首をさすりながら、何かを考えるような素振りを見せて、「っていうことなんだけど」梢子に話を振ってきた。
「行ってもいい?」
「どうして梢子に聞くんですか?」
少女が不思議そうに、やや不満そうに尋ねる。
うん?というふうに少女を見返して、汀はわざとらしく困り笑顔を作った。
「あたし、オサに弱味を握られてるのよ。そりゃもうでっかい弱味なもんでね、オサの言うことに逆らえないの」
仲間であるはずの少女からすごい勢いで睨まれた。なんてひどい人だ、そう眼で訴えかけられて、梢子は居心地悪くなる。
弱味なんて握った覚えはないのだが。なんでも出来るように見えて実はカナヅチという事実は知っているけれど、何があっても他人には知られなくないという類のものでもないだろう。
とすればこれは汀のジョーク、あるいは梢子を窮地に陥れるための虚言であると思われた。いい迷惑だ。
ここで「行くな」と言うのはあまりにもまずい。すでに彼女はオーラで「オーケィしろ」と詰め寄ってきている。おかしいな、いつもは仲良くお菓子をつまみながら話したりしているのに。どうしてこんなに敵対心あふれるオーラを放たれているのだろう。
友情は大事だ。今後とも剣道部で仲良くやっていくためには、ここはひとつ汀を差し出してやるのが筋というものだろう。二人きりというわけではないようなので、妙なことも起こるまい。
と思っていたのに。
「教授にレポートを渡すだけだから、すぐに終わるわ」
裸の王様を断罪する正直者は、愚者には見えない衣が見えない。
見えないから、着ることも着せることもできない。
衣を着せられなかった歯は、何も隠せず言葉を表に出してしまった。
「じゃ、待ってますか」
軟弱に汀は頷いて、唇をひん曲げている少女の頭をくしゃりと撫でた。
「ごめんね。また今度誘って」
「…………」
小さく首肯するのを見届けてから、頭を撫でていた手を離す。
明日からちょっと大変かもしれない、と気を重くしながら梢子はバッグを取り上げた。相手校への挨拶は済ませているし、現地解散なので、もう出てしまっても問題はない。
「オサ、ちょっと待った」
「なに?」
汀が梢子の前に立ちはだかり、梢子が着ているパーカの全開になっていたジッパを上げる。
「相変わらず格好に気を遣わないなー。開けてるとバランス悪いって」
「暑いんだもの」
「心頭滅却しときなさい」
アンダーのタンクトップがちらりと覗く程度までジッパを上げられたので、内側に熱がこもって息苦しい。下げたいと思うが、汀が強く止めてくるので叶わなかった。
べったりと張り付いてくる熱気。激しい運動の後で汗は引ききっていない。額にかかる前髪を、汀の指先がささやかに整えた。「ふむ」、汀が一声落とす。納得したようだ。
「それじゃ、行きますか」
ぽふん。梢子の頭をひとつ叩いて促す。梢子は暑い暑いとぼやきながら、汀と連れ立って控え室を出た。
二人の姿がすっかり見えなくなってから、汀に誘いかけた少女と、近場にいた一人が複雑な表情で顔を見合わせた。
「今のってさ……」
「……だよねぇ……」
うんうん頷き合う。
「見せたくないんだね」
困惑顔の二人は何かを含んだ視線を交わしたまま、同時に「あー……」と小さく呻いた。
「さっき言ってた『弱味』ってなんなのか、判っちゃった」
「あたしも」
「マジなのかな」
「梢子はマジじゃなきゃ無理っしょ」
「喜屋武さんも、あんなの見せられたらねえ」
はあ、とまたも同時に溜め息。
「どうするよ」一人が問い、「どうするって何が」もう一人が問い返した。
「……梢子、いい子だしね」
「うん。喜屋武さんも気さくでいい人っぽかったし」
しばらく顔を見合わせて、それから力なく互いに頷く。
「いっか。何が変わるわけでもないもん」
「そうだね」
「とりあえずあんた、邪魔しちゃ駄目よ」
「えー」