06 君しかいない


 深夜、梢子は居間で一人たたずんでいる。
 膝の上には古いアルバム。そのページを一枚一枚、ゆっくりとめくっていく。写真に写っているのは一人ないし三人が大半で、時折もっと大人数でいるものがあった。確か家族旅行に出かけた時のものだ。普段から忙しくしている両親が珍しく暇を作ってくれて、一緒なのが嬉しくて、ずいぶんはしゃいだ記憶がある。
 そこにいる内の二人は、もういない。
「なんだ、まだ起きていやがるのか」
 ドア付近から声をかけられた。振り返ると祖父の仁之介がいかめしい顔でこちらを見ている。夜着姿だから、眠っていて不意に目覚めてしまったのだろう。
「さっさと寝ろ。明日も早いんだろう」
「ちょっと寝付けなくて。もう少ししたら眠るから」
「ふん」
 梢子の手にあるアルバムを見止めた仁之介がわずかに目を眇めた。「懐かしいもん見てるな」
「夏夜か」
「うん……」
 家族同然に過ごしていた人の姿が、すべての写真に収められている。時系列に沿って並べられた中で、夏夜は少しずつ、けれど着実に年齢を重ねていた。
 再会したあの時、彼女の姿は記憶の最後と変わらなかった。何もかもあの頃と一緒だった。
 仁之介が灰皿を取り出して煙草に火をつける。部屋に戻れとせっつくのはやめたようだ。
 一息、深く吸い込んで、どこか遠くを見るように中空へ視線を飛ばしながら煙を吐き出した。仁之介から離れるにしたがって煙は拡散し、薄いもやを作り出す。
「しばらく見てなかったと思うが、どういう風の吹き回しだ?」
「なんとなく思い出して」
 忘れていたわけではない。今でも夏夜は梢子にとって、とても大切な存在だ。
 ただ……ああ、本当に、『思い出さなくなって』いた。どこか違和感を覚える新品の竹刀が、ずっと握るうちに手の形に変形して馴染むように、『そこにある』ことを忘れはしないけれど、『そこにある』と意識しなくなっていた。
 汀を拒絶して、綾代が去って、梢子には夏夜しか遺されなかった。
 そうしてようやく思い出したのだ。
 進む己の時間と止まった彼女の時間は一秒に一秒のペースで乖離していく。それでも梢子は夏夜にすがった。遠い遠いところから、支えて欲しいと甘えた。
 仁之介の煙草から灰が落ちる。トン、と灰皿のふちで煙草を叩く音が小さく響いた。
 ひとひらの雪に似て、灰はほろりと輪郭を崩した。
「ひどいわよね。私……ずっと夏姉さんを見ていなかった」
「仕方がないだろう。死んじまった人間を覚え続けるのは難しいからな」
 最後に夏夜を意識したのはいつだろう。そうだ、去年の夏、大会の結果を報告しに行った。
 あれきりだ。
「特に、お前は夏夜にべったりだったうえ、その前に秋芳も失くしてたからな。覚えてるのは辛いだろう。なにがきっかけか知らねえが、今みてえにそうやって眠れなくなるようなら、いっそ忘れてしまうのも悪手とは言えん」
 半分ほどに短くなった煙草を手持ち無沙汰に回しながら、仁之介が細長く息を吐く。
「そう気に病むな。死んだ人間は死人になるんじゃねえ、『生きていた人間』になるんだ。
夏夜が生きていたこと、お前のそばにいたことさえ忘れなけりゃ充分だろうよ」
「……あ…………」
 罪悪感に苛まれていた梢子へかぶさった仁之介の言葉が、ひやりと肩口を冷やした。
 そばに、いたのだ。
 見えていなかっただけで、彼女はずっと己のそばにいた。
 だから?
 無意識に左手の小指へ触れる。
 頼りない、何かに引っかかれば簡単に切れてしまう糸は。
 だからどこにも結ばれていなかったのか?
 彼女に引っかかったせいでその先に進めなくて。誰にも届かなくて。
 両手を組んで、そこに額を押し付けた。祈りの姿勢で瞑目して、「あぁ……」重苦しい嘆息を落とす。
「ごめん、夏姉さん……」
 あの時から、これからも。
 灰皿に押し付けられた煙草が最後の煙を一筋くゆらせて、消えた。
 
 
 古書店は相変わらずインク臭い。しかし埃っぽくはない。毎日(ともすれば毎時のペースで)埃を払われていて、書架に収まった商品は紙の鋭さを失わない。
 本格的に夏が到来したというのに店内は涼感があった。空調の類といえばレジ横の床に置かれた扇風機くらいなものだ。薄暗さがもたらす視覚効果だろうか。
 そんな中でやはり涼しげに、汀は椅子に腰かけて和綴じの本をめくっていた。古文書かと思ったが状態は比較的新しい。そういう装丁の本なのだろう。
「……汀」
 こちらを一瞥した汀は本を閉じると身体ごとこちらへ向き直った。にこりと笑う。「いらっしゃいませ」
「何かお探しですか?」
「そういう冗談はやめて」
「冗談じゃなくてただの皮肉だけど」
 笑みを引っ込めて腕を組み、斜めに梢子を見やる。
「顔も見たくないし声も聞きたくなかったんじゃないの?」
 そうだ。そうしなければ壊れると思った。よどみにはまり込んで際限なく沈んでいく感覚。自分が自分でなくなる不安が襲ってきて、対抗策として梢子はその方法を選んだ。
 これで二度目だ。
 大切なものほど、梢子はその存在を考えない。
 「私は汀が恐かったんだわ」脱力した、質量の存在しない声が、汀の鼻先三センチで漂う。
「何もなくても、汀といればいつかはこうなっていたんだと思う」
「結果から予見性を考えても仕方ないんじゃない?」
「そうね」
 いつか、梢子は夏夜を思い出しただろうし、汀と結びつけて自身の後悔をよみがえらせただろう。
 己の両手が、あの人の血にまみれていることを思い出しただろう。
「逆に言えば、汀がいなかったら私はずっと夏姉さんを思い出さなかったかもしれない。
夏姉さんがしたことも、私がしたこともどこかへ追いやったまま、夏姉さんが遺してくれた剣の道だけを、ただ何も考えずに進めたのかもしれないわ」
 汀が腕組みをしたまま視線を横へ流し、思案顔になった。
「そういうのを悪いとは言わない。忘却は人間の自己防衛本能だし。あんな異常事態、一人で抱え込むには重すぎる。あんたの取った選択は別に間違ってないと思うわよ」
「じゃあ、どうして」
 冷静すぎる汀の態度が原因なのか、次第に梢子の精神が昂ぶってくる。熱くて鈍い呼気が口からこぼれ落ちた。怒鳴り散らしたいのを懸命に堪える。その判断は賢明だった。そうしたら汀はますます冷静になるだろうし、通り過ぎて冷徹にさえなるかもしれない。
「どうして、私に近づいたの? 綾代を奪って、私を独りにして、あなたならそうすることで私が夏姉さんを思いだすことくらい、判っていたでしょう?」
「そりゃ、判ってたからそうしたわけでね」
 綾代。大切な親友で心のよりどころである、何も知らない彼女。彼女がいれば心穏やかでいられた。自身の罪を暴かれることもなく、誰に責められることもなく、自責に苛まれることもなく、平和に、平穏に日々を過ごしていられたのだ。
 汀の視線は梢子と絡むことはない。思案顔を変えることなく書架に並んだタイトルを順繰りに目で追っている。
「私を傷つけても構わないくらい、綾代が好きなの?」
 梢子の問いかけに汀がふふっと小さく笑った。失笑。「そうきたか」腕組みを解いて顎を撫でる。梢子としては真剣に訊いたので、そののらりくらりとした態度に不快感を覚えた。
「一応、告られたのはあたしの方なんだけどね」
「え……」
「どっちかっていうと、姫さんがオサを傷つけても構わなかったんじゃないかな。正直、姫さんはあたしを過大評価しすぎてると思うけど」
「どういうこと……?」
「あたしがなんとかすると踏んだんでしょ。ったく、無知は罪だわ。あたしらだけの問題じゃないってのに」
 感情がこみ上げているだけだと思っていた綾代と、暗礁に乗り上げているのだと知っている汀。
 仕方のないことなのだろうが、二人の間には明確な齟齬があって、汀は余計な苦労をする羽目になる。
 汀が立ち上がって梢子の眼前へ進み出た。ようやく二人の視線がかみ合う。
「姫さんのためじゃない。かといってオサのためでもなかった。
あたしはあたしのためにオサから全部を奪った」
「だから、どうして」
「間違ってるとは思わないけど、気に入らなかったから」
 少しだけ身をかがめて梢子の双眸を覗き込んでくる。
 内緒話のように声を潜めて、
「カヤを切ったことは、あたしとあんたしか知らないでしょ?」
 それは深紅の、辛苦の思い出。
 けれど……。
 色めかしくもない、甘やかさのかけらもないそれは。
 
 けれども確かな、『二人だけの秘密』であったのだ。
 
「そんな……こと、で……?」
「いや、あたしにとっちゃ結構な重要事項よ。見事にカヤを討ち取った雄姿を忘れられちゃあ、ちょっと寂しいじゃない」
「――――っ、汀っ」
 夏夜を悪者扱いされた梢子が激昂する。「ははは」両手を胸まで上げて降参のポーズを取りながらも、まったく反省の色がない汀だった。
「ミギーさんも色々考えてたわけよ。メールでも電話でも、オサってば一度も夏夜の話しないし。意識的に避けてるならいいけど、どうもそうじゃないっぽかったからね。
藪の中に蛇がいるかもしれないって不安になるよりは、つついておびき出しちゃった方が、後々の心配がなくていいと思ったわけ」
 不意に汀の視線が緩む。優しい表情だった。痛みを堪えるような、いつくしむような、どこか泣きそうにも見える表情。
 穏やかならぬその面差しに、梢子の心が逸る。
 は。小さく汀が息を吸い込む。
「別に、こっちに来る必要なんてなかった。
鬼切り部を抜ける理由もなかったし、進学したいなら地元の大学に行けば良かっただけだし、周りにはわりと愛されてるし生活に不自由なかったし」
「なら、どうしてそうしなかったの?」
「オサがいなかったから」
 梢子に心構えをさせる隙を与えまいとする、素早い返答だった。思惑通り真正面から喰らってしまった梢子が息を呑む。
 もしかしたらそれは彼女の照れ隠しだったのかもしれない。言葉の後で一瞬だけ、汀は梢子から目をそらしていた。けれども視線はすぐに絡んで、梢子を捕らえて離さない。
「鬼切り部にオサはいないし、地元にもオサはいないし、あたしの周囲を取り囲んでる人たちの中にも、オサはいなかった。それが理由」
 「ねえ」どこか苦笑みたいに呼びかけてくる。
「そんなわけで、あたしにはオサが足りないんだけど、オサはどうかな」
「……なに、それ……」
「なにと言われても。そのままの意味なんだけど」
 これ以上噛み砕いて説明することは不可能だと汀は肩をすくめる。
 しかし梢子には意味が判らなかった。損得勘定のない恋愛感情だと、そう言っているように聞こえたのだけれど何かの間違いだろうか。彼女お得意の口八丁なのか。どこに罠が? 口先三寸で丸め込む、その狙いはなんだ?
「? おーい、オサ。固まるなー」
 汀が手のひらを眼前でひらひらさせてきた。水泡がはじける感覚と共に梢子は我を取り戻す。汀の言葉の何も、うたかたと消えはしなかった。
 視線を泳がせる梢子に汀は困り笑いをしている。
「ほら、夏夜は『還した』。それであんたは満足するの? オサにとって大切なものは何一つ欠けてない?」
 その痛ましい、魂の底から沸く問いかけは。
 虚を、持っていなかった。
「あ……、その……」
 望んでいたはずなのに、いざ直面するとしどろもどろになってしまう。いつもは防具越しの打撃だから軽減されているのだ。直に面を打たれるのは慣れていない。
「っ、綾代はっ? あなた今、綾代と……その、そういうことになっているんでしょう? あの子を傷つけるのは許せない」
 大事な部分を思い出して噛み付いた。ほいほいとあっちこっちに乗り換えるつもりであるなら、場合によっては道が変わる。
「ああ、姫さん?」
 汀はポリポリと頭をかいて、「じゃあ」ポケットから携帯電話を取り出した。
「もしもし姫さん? あたしあたし」
 詐欺師みたいな挨拶をしたのち、汀がカラリと笑いながら言った。
「ごめん、別れて☆」
 ☆とかつくほど軽い別れの言葉だった。
 「な……」梢子もさすがに呆れる。あれだけ仲睦まじくしていながら、それはないだろうと思ったのだ。しかも電話で。こういうのは直接会って頭を下げるのが筋ではないのか。
 それから汀と綾代はいくつか言葉を交わしていた。
「オサ? いるわよ。いるから姫さんに電話してんだって」
 「うん、オーケイ」汀が携帯電話を差し出してくる。綾代が代わってほしいと頼んだのだろう。
 おずおずとそれを受け取って、耳に当てる。
「……もしもし」
『良かったですね、梢子さん』
「え?」
 てっきり恨み言のひとつもぶつけられると思ったのに、綾代の声はいつもと変わらない。
『お二人とも意地っ張りですから。少しお節介をしてしまいました』
「……じゃあ、最初からそのつもりで?」
『ええ。梢子さんと会えない時は、わたしも寂しかったですよ』
「う……ごめん」
 綾代にしてみればとんだとばっちりである。状況だけ見れば、汀のそばにいようが汀の話を梢子にしようが、はたまた二人きりで一晩過ごそうが梢子に責められるいわれなどない。
 梢子は綾代を責めたくないから避けていたのだし、彼女はそれを判ってもいたのだろう。珍しく揶揄を含んだ物言いに、梢子は申し訳なさにうなだれた。
「でも、どうしてこんなことを?」
『汀さんがあまりにも不憫でしたので。梢子さん、まったく気がつく気配がありませんでしたから』
「……知ってたんだ」
『見ていれば判ると思いますよ』
 綾代にそのつもりはないだろうが、どれだけ鈍いんだ、と言われているような気分になって、ますます首が落ちる。
『では、お二人とも仲良くしていてくださいね。それから』
 堪え切れなかった小さな笑声が電波に乗って梢子の耳へと届く。
 なんだろうと訝っていると、綾代は笑みの収まらない様子で『汀さんは嘘つきだと聞いていましたけど』どこかからかいまじりに続けた。
『お付き合いしている間、一度もわたしを好きだと言ってくれなかったんですよ』
 ひどい話です、と彼女はことこと笑った。
 そんな口調でそんなことを言われたら、さしもの梢子も意味を理解できてしまう。
 棒を飲み込んだような表情で立ち尽くした梢子に、汀が不思議そうに首を傾げていた。綾代が何を言ったのかは聞き取れなかったようだ。
 空いていた手のひらを額に当てると、やけに熱かった。
「それは……ごめん」
『梢子さんが謝ることではないと思います』
 あとで汀さんに謝ってもらいますから構いません。どこまでも優しく彼女は言う。
『また今度、お茶でもしましょうね』
「うん。必ず」
 通話を終えて携帯電話を汀に返した。汀はそれをポケットに戻しながら梢子の表情をうかがっている。「納得した」答えてやると、「そう」彼女の双眸が三日月に変わった。
「じゃ、さっきの質問に答えてもらおうかな」
 なぜか両手を腰だめにしてふんぞり返る汀。
「質問? なんだったかしら」
「……ここでそれ?」
 もちろん、梢子は忘れていたわけではない。ただの時間稼ぎだ。
 もう一度言え、という無言の圧力に、汀の表情が軽く曇った。
 この頭文字Sめ。汀が反らしていた胸を丸める。意識的な呼吸を一度。それで気を取り直したか、肩の力を抜いて、指の背でするりと梢子の額を撫でながら目を細めた。
「オサは、あたしが足りない?」
 薄暗い店内はいやに静穏。
 汀の発した音のひとつひとつを内側に刻み付けた梢子が目を閉じた。
「判らない」
「うわ」
「けど、私は多分、汀がいないとどこにも行けない」
 あの人との距離を広げるだけの無為な時間。どこにもつながっていない糸がどこかで絡まって、身動きが取れない。
 糸なんてつながっていなくていいから。
 たとえ糸でつながっていたって、触れ合えないなら意味がないのだ。
 そんなものいらないから。
 ただ手をつないで引き寄せてほしい。
 夏夜のことは忘れないし、自分たちの罪も消えないけれど、それでも彼女と一緒にいたい。
 すがりつくように彼女の両肩を掴んだ。
 きっと、彼女の代わりなんていくらでもいる。
 定められた相手などではないから、もし何かのタイミングや順番が違っていたら、他の誰かがそこに立つ可能性だって充分にあった。
 けれど。
 自分の力ではどうしようもないことではないから、自分で選べる。
 自分で選んだ。
 運命の恋人はどこにもいない。だから相手は誰でもいいはずだけれど、彼女でなければ嫌なのだと、自らの心で選び取った。
 汀でなければ、意味がない。
 
「私を」
 
 さみしくしないで。
 
 置いていかれる子の孤独。その痛切を喉の奥から搾り出す。
 汀がかすかに頷いた。
 こういうとき、嘘も本音も言葉は無意味、視界すらも。
 
 
 
 二人が出会って二年と少し。
 初めて、恋人同士のキスをした。



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