05 君に会えない


 ぽとり、梢子の手からチキンナゲットが落ちる。店内の喧騒が一瞬掻き消えた。
 おつきあいしているんです。脳内で抑揚なく反復する綾代の言葉をどうにか吸収して、意味を掴んだ。
 綾代はほのかに笑っている。幸福そうに見える。迎えに来た汀はいつもと変わらないように見えるが、綾代のトレイを片付けてやったりしていてなんだか甲斐甲斐しい。交し合う視線すら、どこか今までとは違っているように思えた。
「ほ……ほんと、に?」
 どちらへともなく再確認する。「ええ」「うん」二人は同時に頷いた。
「ちょっと待って、それは、そんなのは……」
「なにかおかしいですか?」
 なにもかもが。そう答えたいのをぐっと我慢する。双方合意のうえであるようだし、それなら自分はただの第三者だ。何かを言う資格はない。どちらかに明らかな問題があるというなら別だけれど、そういったこともない。むしろ綾代など汀にはもったいないほどよくできた娘さんなのだ。
 それ以前の問題があるような気もするが。うまく言葉にできない。どうも彼女たちは問題視していないようだし。どういうわけか己も明確に問題視できない。
「ごめんオサ。姫さんもらっちゃった」
 片手を立ててさらりと言う汀。
 人の親友をかっさらっておいて、なんだその悪びれない態度は。
 汀をねめつけると、彼女は「はは」と軽薄に笑った。まったく堪えていない。
「……綾代、汀のどこが良かったの?」
 思わず詰め寄ってしまう梢子だった。
 綾代は人差し指を唇に当てて、しぃとポーズを取った。「内緒です」
 ほんのりと頭痛がしてきた。気分が悪い。
 この二人、自分の知らない間に愛を育んでいたのだろうか。そういえば汀がバイトしている古書店に足繁く通っていたようだった。よく、梢子の知らない汀の話をしていた。汀も酔いつぶれた時、呼んだのは綾代だった。さらに遡れば、卯奈咲でも二人はすぐに仲良くなっていた。元々相性が良かったのかもしれない。
 途轍もない喪失感。透徹した疎外感。いきなり、ぽんと砂漠の真ん中に一人取り残されてしまったようだ。見晴らしが良すぎて自分がどこにいるか判らない。
「ですから、これからは少しだけ、梢子さんと会える時間が減ってしまうかもしれません」
「……うん」
 綾代の言葉は梢子に届いていなかった。ただ無意味な音が耳をすり抜けたから、反射的に相槌を打っただけだ。
 そうだ、明日は武道場の鍵を開ける当番だから早起きをしなければならないのだった。目覚ましのアラームを変更しておかないと。
 梢子が立ち上がる。両手がトレイを持ち上げていた。ドリンクカップに残った氷を専用の場所に捨てて、残りをダストボックスへ。空になったトレイを上に置く。
 明日は早く起きなければいけない。それにレポートがまだ途中だ。提出期限はいつだったっけ。
「梢子さん、それでは」
「うん。さよなら」
 手を振る。「じゃーね、オサ」にこやかに手を振ってくる、綾代の隣にいる人は誰だったか。梢子はその人に会釈を返した。
 ギクシャクと、梢子は二人に背を向けて歩き出す。
 その後ろ姿をしばらく眺めてから、綾代は横目で汀の様子を盗み見た。
 梢子に手を振った時の笑顔と変わらない表情でいるのを見て取って、小さく溜め息をつく。
「趣味が悪いですね、汀さん。喜んでいるのでしょう?」
「それを言ったら、姫さんは人が悪い。わざわざ呼びつけたりして」
「梢子さんの反応が見たかったものですから」
 絹のように滑らかな返答だった。「おー、こわ」汀がわざとらしく肩をすくめて怯えた真似をする。
 夏が近くて太陽は鮮やかだ。日差しに焼かれながらも綾代は涼しい顔でいる。
 恋人ごっこの二人はぷらりと歩き出した。取りとめもない話題で時間をつないでいるのに、手はつながない。双方とも、不満はなかった。
「姫さん相手だと楽だわー」
 真夏日の屋外を歩いて、家に帰ってエアコンの効いた部屋へ入った時の第一声みたいな言い方だった。綾代が顔を上げて汀の横顔へと視線を移す。高い位置にあるから日差しが眩しくて目を細めた。
「そうですか?」
「うん。変なしがらみもないしね。わりとこのままでもいいのかもしれない」
 どこか真剣なような、逆に投げやりなような眼差し。ふふ、綾代は小さく吹き出す。汀が「うん?」というふうに目を合わせてきた。
「梢子さんがよく言っていました。汀さんは嘘つきだって」
 汀は飴玉を口に入れてるみたいに口をもごもごさせた。
「楽なだけで選べるのなら、そんなに簡単なことはありませんよね」
「……ま、ね」
「いえ、そもそもどんな理由でも、自分では選べないのかもしれません」
 勝手に決まってしまうものなのでしょう。どこか懐かしげに言う。対象は汀ではなかった。
 黄昏をおもてに浮かべて、汀が溜め息をついた。
「本当に、姫さんなら良かった」
「どうしてそんなに怯えるのですか? 梢子さんにはしがらみがあるのでしょうか?」
「オサにっていうか……ちょっと、軋轢のある相手がね」
 汀が自身の右手を見やって、握りこぶしを作った。何かを掴むように、何かを捕らえ損ねたように。
 握りこんだ手の中には何もない。
 何も掴んでいない手が身体の横へ下ろされた。
 綾代はそれをじっと見ていた。
 何もないと思えたけれど、本当は、綾代には見えない何かがそこに宿っているのかもしれない。
 そしてそれは、梢子には見えるのかもしれない。
 汀はそれを見せたくないのかもしれない。
 愚者には見えない衣を暴くのは、いつだって正直者の特権で、彼女だったらそれを得る資格に申し分ない。
「でも、姫さんのことは大事よ。これは本当」
 先ほどまでの憂いを一瞬で消し去り、汀は快活に告げる。手のひらは身体の陰に隠れて見えなくなった。
 「ありがとうございます」綾代は穏やかに微笑んだ。
「それでは、大切にしてくれているという証明に、お土産を選ぶのを手伝っていただけますか?」
「……マメだこと」
 少々呆れまじりながらも汀は首肯した。
 
 
 
 左手の小指に触れてみたら、あまりの頼りなさに驚いた。
 ここに結ばれるという糸はきっととても儚い。誰だって自分の身は大切なのだから、指が切れる前に糸を切るだろう。何かに引っかかったら、すぐにほどけて落ちてしまうようなものなのだろう。
 もとより、結ばれていたかも定かではない。おそらくは結ばれてなどいなかった。最初から、頼りない左手の小指には、何もなかったのだ。
 二ヶ月ばかりの間、梢子は汀と綾代を避けていた。古書店へ顔を出すことも、ハックでお茶をすることもなくなり、時折届くメールを無視こそしないものの、簡潔な返信ばかりで大抵一往復で終わった。
 興味を持てないわけではなかったのだなぁ、と、部屋で一人、ぼんやり考える。
 好奇心は猫を殺すと言うけれど、適度な好奇心は寝る子を起こす。
 火に触れたらどうなるか、という疑問を解決するためにマッチの火に触れて火傷をする。そうすれば火が危険なものであると学習して、安全距離を測れるようになる。更には火の存在には酸素が必要なことなども学ぶかもしれない。
 今の梢子は、火という概念を知らないまま火事場へ放り出されたようなものだ。
 それが何であるのか、なぜ存在しているのか、どうしたらいいのか。
 一つとして理解できずに呆然とするばかりで。何も判らないのに、ただただ、苦しい。
 小指を撫でていた右手が、脇へ置いていた古いアルバムへ伸びる。
「もしも今ここにいたら、教えてくれた……?」
 梢子の、おそらくは永遠に大切な人。
 四角の中で微笑む彼女は、微笑み以上の意味をくれない。
 誰も彼もがいなくなる。祖母がいなくなって、大切な人がいなくなって、親友がいなくなって、そして。
 恋の相手は、最初からいなかった。
 
 
「っと、オサ?」
 後方から届いた声にギクリとする。ギミックじみた動きで首だけを声のした方へ向けると、一番会いたくない彼女がそこにいた。「なんか久しぶりね」裏も表もなさそうな、円柱みたいな笑顔で汀は言う。
 彼女は両手に紙袋を抱えていた。ずいぶんと重そうである。ただでさえ長い腕が伸びきって、飛行機雲に似たしなやかさを見せている。
 あえぐように一度口を開閉させた梢子は、喉の奥に詰まった重苦しいものを吐き出せないまま隙間から声を出した。
「……それ」
「ごひいきがこないだ亡くなってね。本人の意向で蔵書をうちに引き取ってほしいってことで、お使いに出されたわけ。個人的には宅配便で送ってもらえばいいと思うんだけど、じーさんがNG出してきて」
 乱暴に扱われて傷でもついたら困るということらしい。今持っている分ですべてではなく、少なくともあと三往復はしないといけない、と汀がぼやく。
「オサは?」
「……竹刀が割れたから、新しいのを買いに」
「へえ……?」
 少し不思議そうな顔で汀。多少なりとも経験した身なので(『多少なり』で全国大会へ出場できるのだからふざけている)、少し意外に思ったようだ。カーボン製の竹刀は軽く強い。よほど手入れを怠るか、乱暴に振り回しでもしない限りそうそう壊れはしない。優れた剣士ほど剣は切れ味を失わないものだ。そして梢子は優れている。
 汀は、意外に思いつつも深くは追及してこなかった。大して興味を惹かれなかったか。
「急ぎじゃないならちょっとうちに寄っていかない? 今、姫さんいなくて暇なのよ」
「…………」
 転んで腕をアスファルトに擦りつけたような疼痛が梢子の内側を苛んでいる。
 うちというのは自宅マンションではなく、古書店のことだ。すでにあの古びたインクが充満する狭苦しい店は彼女の居場所となっていた。
 綾代がいないからと彼女は言った。寂しさを紛らせるために付き合えと言った。円柱の声だった。
 緊急連絡先のステッカにも気づかず、梢子を呼ぶしかなかった彼女はもういない。
 喉を詰まらせている塊が大きくなって、とうとう息をするのも辛くなった。
 今まで、どうやって彼女と会話していたのだろう。どうやって彼女に触れていたのだっけ。彼女の隣にいる時、どんなふうに呼吸をしていた?
 違う、汀はそんな存在じゃなかった。これまでだって忙しさにかまけてメールに返事をしないことがあったし、特に用事がなければ連絡を取ることもなかった。
 何より、一年間音信普通でいてもまったく苦ではなかったのだ。その頃と何も変わってなどいない。自分はどこにも行っていない。嘘も本当もない。探す必要もなく己はここにいる。
 だから平気だ。
 だから。
 梢子は足を速める。「ととっ」汀が荷物にバランスを崩されそうになりながら追いかけてきた。
「ああ、なに、急いでんの? それならそう言いなさいって。別に無理やり連れてったりしないから」
 方向が同じなので汀はずっとついてくる。もうすぐだ。あの角を曲がれば古書店と梢子が向かう武道具店への道が分かれる。潜水は得意なのだ。常人より長く息を止めていられるから、この速度で進めば充分間に合う。
 溺れている事実に気づかないまま、梢子は無意味な自信で自身を鼓舞して規則的に足を踏み出していった。
 両手の荷物をものともせず、息切れひとつしないままに汀がくっついてくる。梢子は口を開かない。
「姫さんのことは悪いと思ってるって。でもほら、気持ちってわりとどうしようもないじゃない?」
 うるさい。いつでも汀は口うるさい。少し黙ればいいのに。
 声を聞くたびにこちらがどれだけ息苦しくなるか気づきもしないで。
 どうしようもないほど気持ち悪い。無意識に拳を硬く握っていた。
 ゴールだ。ほら、やっぱり息を止めたままでもたどり着けた。これくらい簡単だ。全然大したことはない。
 これくらいなんでもない。
 ふあぁっと大きく深く息を吸い込んだ。
 振り返って、挑むような視線を汀に向ける。
「もう汀には会わない」
 自分でも驚くほど滑らかに言い放った。本心だったからだろう。
「……オサ」
「汀の顔も見たくないし、声も聴きたくない」
「あー……、そう」
 微妙な角度で眉をゆがめた汀は、感情の見えない声音で肯んじて、よいしょと紙袋を持ち直した。
「ま、そういうのもいいかもね」
「――――っ」
 それは鋭くも強くもない、なんの力もない呟きだったのだけれど、梢子は脇腹をえぐられたように顔をしかめた。
 痛みに耐えながら汀から目をそらさない。彼女の額からこめかみへ汗が伝い、顎の先から落ちるのをつぶさに観測する。それが涙であればまだ救いもあったのかもしれないが、双眸は荒涼として乾いていた。
 「それならあたしも」腕は伸びやかで唇は艶やか、こんな状況ですらその美しさに目を奪われる。それが自身の甘ったれぶりを表しているのだと気づかないまま、梢子は音を紡ぐ唇の動きに吸い寄せられていた。
「姫さんは返せないな」
 その通告はあまりにも痛酷で、時間がゆっくりになったような気がした。
 奥歯を噛み締める。
「それは、あなたが決めることじゃない」
「あんたが決めることでもない」
 お互いに代名詞で相手を呼ぶ、ひどく遠い会話だった。すでに目の前にいる人物が誰であるのか不確かになってしまったようだ。別々の部屋にいる二人の前にあった、向こう側が見えていた出入り口のドアが閉じてしまった。
 扉は開かない。おそらく梢子も汀も、自分の手ではそれを開けられない。
「じゃあ、さようなら」
 汀が背を向けて迷いを見せずに歩き出した。『うち』へ帰る彼女の背中は何も語っていない。別れを告げた相手に語りかける言葉などないのだろう。
「――――……、……」
 梢子もまた、彼女にかける声などなかった。
 立ちすくむ梢子は声が欠けて、その足元に孤影を架ける。
 左手の小指に触れた。
 何もなさすぎて驚いた。
 
 
 あまり苛めてはいけませんよ、と綾代にたしなめられて汀は不機嫌そうに唇を尖らせた。
 テーブルを挟んで正対する二人は、位置関係がそのまま感情を表現しているかのように正反対の表情を浮かべている。
 不機嫌な汀に対して、綾代はどこか面白がっているような笑みだ。
「小学生ではないのですから。少々、度が過ぎているように見えます」
「そのわりと怒ってないみたいね」
「まあ、わたしも共犯者のようなものですし」
 せめて協力者と言えばいいだろうに。自嘲気味な自称を苦く思いながら汀はあえてその部分を無視する。
 テーブルに置かれたチョコレートをひとつつまんで口に入れる。ビターなそれは口に合う。甘すぎるのは好みではない。
「……オサは、全部失くしてしまえばいい」
「穏やかじゃありませんね」
「全部失くして」
 その先は無声だった。綾代は小さく首を傾げた。
「どうして、そんなに梢子さんから色々なものを奪おうとするのですか? もっとあの人を傷つけずに済ませられると思いますけれど」
 綾代にしてみれば本当に不思議だったのだ。卯奈咲での二人は、別に必要以上にベタベタしていたわけではないが(むしろサバサバとした爽快な付き合い方だった)、こんなふうに不要な攻撃性なんてなかった。売り言葉に買い言葉で喧嘩じみたやり取りをすることはあったけれど、禍根を残すような行動には出なかった。
 汀がチョコレートをまたつまんだ。しかし口に運ぶことはなく、指先で弄んだまま溶けるに任せている。
「食べ物で遊んではいけませんよ」
 チョコレートにまみれた指先が汀の口中へ消える。引き抜かれたそれにはもう、甘ったるいこげ茶はなかった。
「はい元通り」
「……もう。汀さんはなんだか、わたしといる時は子どもっぽくなりますね」
「その方が好きかと思って」
 「手のかかる子は嫌いではありませんけど」呆れ半分、照れくささ半分という感じに眉を下げた。行動ばかりが子どもでも、外見と、それから本性とのギャップがありすぎて素直に可愛いとは思えない。
 それに彼女は嘘つきなので、今の言葉も嘘だと思っておいて間違いはないだろう。ただ単に機嫌が悪くて何かに八つ当たりしたかっただけだ。綾代に当たらなかっただけ、子どもより自制が効いているとも言える。大人気ない、というのが妥当なところか。
 汀がテーブルへ突っ伏すように身体を伸ばして綾代の手を取ってきた。綾代はそれを両手で受ける。水泳を教える時に、相手の手を引いてやる姿勢に近い。
「どうしました?」
「今日は一人寝が寂しいなー」
 上目遣いにニマニマしながら言ってくる汀へ、首を傾げながら微笑む。
「我慢してください」
「ケチ」
「もっと違う理由だったら、添い寝くらいはお受けしても良かったかもしれませんけど」
 あはん、汀がごまかし半分の息をついた。苦笑いの目じりは情けなく垂れる。そのまま液状にとろけて流れ落ちそうだ。
 身長に相応な長い五指を絡め取る。きゅっと握ってくる哀切を憐れには思うけれど、それ以上の何かをしてやろうとは思えなかった。汀の方も特に何かを求めてはいないのだろう、離しもせず引き寄せもせず、絡みついたままじっとしていた。手負いの獣が安息地で自身を癒そうとする行動に近い。
「少し手が熱いですね。ひょっとして本当に眠いのですか?」
「チョコ食べたから血糖値が上がったんじゃない?」
 そう言う汀のまぶたは落ちている。
「眠いのでしたらベッドへ入った方がいいですよ。こんなところで眠ったら身体を壊します」
 握っている手を揺すって忠告してやるが、汀はんーとか小さく唸るだけで反応しない。慣れてるとかなんとかもごもご言っていたが、綾代にはよく聞き取れなかった。
 「せっかく姫さんといるんだし」心穏やかに見える表情で吐息のように呟く。なんとなく、みぞおちのあたりがくすぐったくなる表情だ。彼女と恋人同士になって良かったと思える瞬間である。きっと彼女は他の誰にもこんな表情を見せない。とても気分の良い特権だ。かりそめであったとしても。
 だから綾代は手を離せない。汀が可愛いから、汀が可愛そうだから手を離せない。
 離したら、彼女は溺れてしまうから。
 今はまだ、溺れても助けてくれる人がいないから。
 でも、きっともうすぐ。



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