04 糸は見えない


 入学して二ヶ月もすれば、そこそこ仲の良い友人もできるもので、たとえば同じ講義を受ける時に場所取りをしていてくれたりノートのコピーを取らせてくれたり逆にコピーをあげたり、そういうやり取りをする相手が梢子には数人いた。
 その中の一人から誘いを受けたのは、授業が終わって次の教室に移動しようか、というタイミングだった。
「明後日?」
「そう、小山内さん四限で終わるでしょ? 六時からみんなでご飯でも行かないかなって」
 詳しく話を聞くと、十人弱が集まって全国的なチェーン店で食事をするらしい。男女比はきっぱり半々。男子は全員、別の学部の学生だそうだ。名前を聞いてみたけれど、梢子は一人も知らなかった。
「……それって」
 つまりアレじゃないのか。大学生とイコールで結ばれているイメージがある、新しい出会いを求めるアレ的な。
 梢子が面白くなさそうな顔をしたせいか、「別にそういうんじゃないから」慌てた様子で手を振ってくる。
「ホントにただ集まってご飯食べるだけ。つまらなかったら途中で帰っちゃってもいいから」
 必死だ。おそらく人数合わせに奔走しているのだろう。もう少し渋れば拝み倒してきそうな勢いがある。
 こっそり心の中で溜め息をついた。あまり邪険にするのも悪い。そうできるほどは親しくない相手なのだ。確実に楽しくはないだろうが、これも社会勉強と割り切ってしまえばいい。
「判った。明後日ね」
「うん! 助かる! ありがとう!」
 パンと両手を合わせて拝んでくる彼女。結局拝まれることになってしまった。
 
 
「あはは。それで来るなり不機嫌だったわけだ」
「あなたは他人事だから笑っていられるだろうけどね」
 古びたインクの匂いが充満した薄暗い店内。レジ奥で頬杖をついている汀を半眼で睨みながら梢子は苦々しく応えた。
「ま、何事も経験。行ってみたら意外と楽しいかもよ。気の合う相手もいるかもしれない」
「そうかもしれないけど、あまり期待はできないわね」
「運命の出会いが待ってるかもしれないじゃない」
 ずいぶんとお手軽な運命だ。いや、運命に軽重などないのかもしれないけれど。
 古書店に客はいない。ただの一人もだ。汀は店員だし、梢子は実のところ冷やかしである。買い物をしに来たわけではなく、汀相手に愚痴を吐きに来ただけだった。
 座れば、と汀に促されて、レジの前にある丸椅子へ腰かけた。年配の客が訪れることもあるのでいつもそこに置かれているものだ。店主が値段を決めるまで待っていてもらう必要があるから。あとは梢子のように、汀との会話をする時に使われたりもする。気安さと博識と聞き上手なところがお年寄りに大人気なのだった。そして外見的な理由により数少ない若年層の客にひそかな人気である。しかし運命の出会いはないらしい。
「あんまり興味ないのよね。今は綾代とか汀といる方が楽しい」
「そりゃ光栄だけど。女子高出身だとそういうもんかしらね」
「性格的なものかもしれないけど」
 同級生や剣道部の仲間にも、わりと仲の良い男子はいるけれど、特にそういう方面を考えたことはない。実は一度、そういう方面が訪れた……つまり誘いを受けたことはあったが、さして迷うこともなくお断り申し上げた。
 そもそも勉学と剣道のために入学したのだ、目的に色恋は入っていない。別にストイックでいるのだと決めているわけではないけれど、まったくもって積極的になろうという気がない。
 汀は頬杖をついたまま苦笑した。
「オサらしいといえばらしいか。ま、そのうちいい人が現れるでしょ」
 それからふっと呼気を吐いて、
「でもあんただと、現れても気づかないってケースも考えられるな」
 困ったものだという表情で続けた。
「世の中には赤い糸ってものがあるらしいから、気づかなくてもそれが引っ張ってくれるんじゃないの」
 どうでもよさそうに答える梢子だった。
 
 
 食事会(婉曲表現)はやっぱりつまらなかった。梢子は学者になった気分である。肉食動物の研究者。その生態をつぶさに観察して解明しようとする存在。
 まあ、解明したところで何かの役に立つとは思えなかったが。
 途中で帰っても良いとは言われていたけれど、まさか本当にそんなことをするわけにもいかない。場の空気を悪くしてしまうし、誘ってくれた彼女もバツの悪い思いをしてしまうだろう。
 話しかけられたら答えはするが、会話は弾まなかった。最近眼が疲れているという男子がいたので眼精疲労に効くツボを押してやったら妙に喜ばれた。そんなに疲れ目がひどかったのだろうか。
 同じ時間だけ座禅をしていた方がマシだろうという百二十分間を耐え抜き、店外へ出る。上を見上げれば天蓋。生憎と星は出ていない。
 挨拶を済ませ、これで帰れるのだろうと思っていたら男子の一人に声をかけられた。先ほどの疲れ目な彼だ。
「ああいうツボとか色々知ってるの?」
「まあ、おじいちゃんが鍼灸院をやってて、教えてもらったりしていたから」
「俺、そういうのちょっと興味あるんだよね。良かったらもっと教えてほしいんだけど」
 ふむ。健康に気を遣っている人なのか。そんなことで役立てるのなら、教えることにやぶさかではない。専門的な知識はないけれど、まったくの素人よりは知っていることが多い。よく、聞きかじったツボを力任せに押して逆に痛める人もいるし、ちゃんとしたものを得るのに協力しても良い。向学心というやつは好ましいものだ。
「構わないけど」
「あ、じゃあ、これからそのへんの店で」
「ていっ」
 背後から気楽な掛け声が届いて、次の瞬間、彼が「うっ」と呻いた。彼の両脇、肋骨のあたりに誰かの手が添えられている。……いや、添えるというか、人差し指が潜り込んでいた。
「いててて! な、なんだ!?」
 痛みに顔を歪めながら彼が振り向いて、そのおかげで梢子からも背後にいる人物の姿が見えるようになった。
「汀?」
「ちょ、なんだよあんた!」
 突かれた箇所を押さえながら(まるで自分を抱きしめているようでちょっと間抜けだ)彼が喚いた。
 汀はひょろんとした笑顔で首を傾げている。
「いやー、ツボを知りたいっていうから一つ身体に教えてみた」
「今打ったの、経穴じゃなくて点穴でしょう。危ないからやめなさい」
 字は似ているが、人体の経脈を整えるものと遮断するものという逆の性質を持つ。点穴は急所とほぼ同一なので最悪の場合死に至る。指で突いたくらいなら問題ないが、それでも非常な痛みを覚える箇所だ。
 訳が判らなくて目を白黒させている彼の横をすり抜けて、汀は呆れた様子で梢子の頭へ手を置いた。
「一応見に来てみて正解だったわ。あんた、誘われてるのに気づいてないでしょう」
「え?」
「あのままついてってたら、そのうち『じゃあ服を脱いで身体中のツボを教えてくれないか』とか言われてたって絶対」
「いや、そこまでは」
 彼が割り込んできて否定したけれど、汀は一瞥して黙らせた。
「とにかく、もうまっすぐ帰れ。危ない」
「でも」
「でももストもないの」
 古臭い親父ギャグを使う汀だった。そのわりに表情は真剣、というか、不機嫌だ。
 いいのだろうか、と汀の肩越しに彼の表情を窺うと、憮然としながらも何かを諦めた様子で頷いてきた。
 正直に言って、汀と彼のやり取りは半分くらい意味が判らなかった。だが、なんとなく汀の雰囲気に呑まれてしまい、手を引かれるままに歩き出す。
 角を曲がったところで汀が手を離した。その横顔は静かな無表情に変わっており、喜怒哀楽のどれも見えず、仕方がないので目をそらした。
「オサの運命の出会いを邪魔しちゃったかなー」
 不意の軽々とした一言。顔を上げてみれば隣の彼女は笑っていて、一瞬前の無表情は幻だったかと思わせるくらいのいつも通りだった。
「そういうのじゃなかったわよ。ただ話していただけだし」
「向こうはそうじゃなかったと思うけどね。でもまあ、睨まれたくらいで引き下がるようなのは、やっぱり違うか」
 睨んだ当人が言うな、とは思うが、確かに女の子から威圧された程度で萎縮するのは少々情けない。
 夜の街は賑やかで、人も多い。チラシやらポケットティッシュやらを渡そうとしてくる手をかわしながら二人は並んで歩いている。
「あ、さっきのお姉さん。どうですかカラオケ。フリータイム千二百円」
 カラオケ店の割引券を配っていた店員が汀へ向けてそれを突き出してくる。「いいから」汀はうんざり顔で押し返した。
「ずっと店探してるんでしょ? ね、カラオケ。楽しいっすよ」
「もう帰るの」
「え?」
 店員ははてと首を傾げていた。けれど食い下がることもなく、汀から離れて別の通行人へ割引券を差し出し始めた。
 ようやく逃れられた汀は小さく舌打ちをする。
「ったく、しつこいなー」
「さっきって?」
「……来る時も寄ってきてたのよ。遊びたい気分じゃないってのに」
「ふぅん……」
 ちょっと引っかかった。
 こちらは確かに駅までの通り道だが、店前で汀が現れた方向とは逆だ。それにあの店員、「ずっと」と言っていた。ということはつまり、何度か汀の姿を見かけていたのではないか? だからまるで見知った人物のように汀へ話しかけたのではないか。
「汀、もしかして探してた?」
 彼女はしばらく、この界隈をグルグル回っていたのではないか。それはどうしてだ。目的地が判らなかったからか。目的地はどこか。あるいは、目的の人物は。
 汀の眉根が小さく寄ったのを見つける。
「暇なのね」
「うるさい」
 まったく、ずいぶんタイミング良く現れたものだと思ったが、なんのことはなくずっと様子を見ていただけか。もしかして何もなければそのまま一人で帰るつもりだったのだろうか。
 梢子が気乗りしていないと知っていたし、こういう場に不慣れであることも合わせて、心配してくれたのかもしれない。
「汀って、意外と友達思いなのよね」
 ことんと笑いながら言ったら、彼女は何故か複雑な表情をした。
 あまり心配させるのもなんなので、今度からはこういった催しに誘われても断ろうと思った。
 やっぱり、汀といる方が楽しいし。
 
 
 
 剣道部のコーチは古武術もたしなんでいる。休憩時間にたまたまそんな会話をしていた。資料を探しているのだが心当たりはないかと聞かれた梢子は、当座の返事は保留したものの、その晩に心当たりへ電話をかけた。
『もしもし。梢子さんですか?』
 汀の携帯電話にかけたはずなのに、届いた声は彼女のものではなかった。
「あれ? 綾代?」
 さてかけ先を間違えたか。喜屋武汀と桜井綾代。これだけ違う字面で見間違えるとも思えないが。
『いえ、汀さんの携帯電話です。ちょっと今、汀さんが電話に出られる状態ではないので、私が代わりに』
 梢子の疑問に綾代はそう答えた。
 ということは、二人はいっしょにいるということだ。確か綾代の家の門限は過ぎている。「綾代、今どこにいるの?」なんの気なしに尋ねた。
『汀さんのお宅です。少し遅くなってしまったので、今晩はこちらに泊めていただくことになっているんです』
「へえ……。じゃあ、汀はなにしてるの?」
『それが……眠ってしまいました』
 苦笑まじりの声で事態の察しがついた。またも酔いつぶれたのか。以前、これっきりにしろとは言ったが、だからといって代わりに綾代を使えなどとは言っていない。放任主義なこちらと違って、彼女は箱入りなのだから、そのへんを考慮したらどうだ。
「汀、また鍵をなくしたの?」
『鍵ですか? いえ、お店で立てないほど酔ってしまったので迎えに来て欲しいと』
 余計悪くなっていた。
 『わたしは気にしていませんから』溜め息を聞きつけた綾代がとりなしてくる。
「綾代がそう言うなら、いいけど……」
『それに明日は一限からですから、実はこの方が助かるんです』
 いつもより少しゆっくりできるのでラッキーだった、と彼女は笑った。
 汀は目を覚まさないそうだし、綾代に文句を言うのも筋違いだ。
 手短に用件を伝えてくれるよう頼んで、梢子は電話を切った。
「今度は綾代? まったく……」
 別に、あと一、二回は付き合ってやってもよかったのに。
 そこはかとなくムカムカした気分を持て余しながら、携帯電話を置く。
 あの二人、今晩は一緒だそうだ。
「………………だから?」
 自分に問いかける。返答はなかった。
 
 
 膝に乗った汀の頭をゆるゆると撫でていた綾代は、頃を見て「狸寝入りですか?」悪戯っぽく問いかけた。
 汀が小さく身じろぎをする。
「いま起きた」
「そうでしたか。梢子さんから電話がありましたよ。古武術についての資料があったら貸して欲しいそうです」
「ふぅん……」
 綾代の膝の上、汀はダラダラしている。柔らかく目を閉じて、綾代の腹部に顔をうずめるようにしてくる。また、綾代がその頭を撫で始めた。
「前は梢子さんを呼ばれたんですね。どうして今日はわたしを?」
「……オサ、怒るんだもん」
 拗ねたような、少し幼い声音。同い年なのに小さな子どもを相手にしているような感覚。可愛らしいなと綾代は口元をほころばせる。
 優しく髪を撫でてやると、彼女はさらに顔を押しつけてきた。
「梢子さんに愛想を尽かされてしまうのが恐かったのですか?」
「そうじゃないけど。面倒だったから」
「何がです?」
「オサの相手すんのが」
 顔を隠したまま汀が手を振ってくる。梢子の話はもういいという合図だろう。
 汀はすっかりへそを曲げてしまっていた。余計なことを言って。隠した顔にはそんなような文句が書かれている。綾代としては特に口止めされていたわけでもないので、責められるいわれはないのだが。
 根気よく髪を撫でていると、そのうち力が抜けてきて、少しだけ張り付いていた腹部から離れた。わずかに横顔が覗く。
 そういえば彼女の寝顔を見るのは初めてだ。泊りがけで遊びに行くようなこともなく、卯奈咲では別室で寝起きしていたからそんな機会はなかった。
 初めて見るその面差しはどこか子どもっぽい。いつもの彼女が完成した油絵だとしたら、今の彼女は素描、そんな感じ。本質しかない、必要最小限の構成であるようなその無防備さ。
 無防備は幼性の特権だ。
 そして綾代は子ども好きなのだった。
 ついつい、世話を焼きたくなってしまう。
「梢子さんはこんなことで汀さんを嫌いになったりしませんよ」
「だから、そんなんじゃないって」
 しばし二人とも無言。不意に訪れる静寂。こういう状況を、天使が通ると言うのだったか。いや、悪魔だったかもしれない。おそらく名称はラプラス。
 静かになったせいか、汀は少々うとうとし始めたようだ。
 視線を移して、汀の右手、その小指を見つめる。
 頼りなく、力なく、小指はシーツに沈んでいた。
 綾代は手を延ばしてその小指に自身のそれを絡めた。
 「ん……なに?」感触を訝った汀が半身を返して見上げてくる。綾代はやんわりと彼女の視線を受け止めた。
「汀さんがあんまり可愛いので」
 にこやかに笑んだまま、絡めた小指に力を込める。
「わたしとお付き合いしてくれませんか」
「……は?」
 汀がかすかに目を瞠った。
「それ、買い物に付き合えとか、そういうオチ?」
「いいえ。わたしと恋人同士になってくださいという意味です」
 むに、と汀が口をゆがめる。「嫌ですか?」頬を撫でて、子守唄と同じ調子で言った。
 汀は目を閉じると小さく息をついた。
「……いーよ」



NEXT



HOME