03 論を待たない


 桜井綾代が大学生になって得た最大のメリットといえば、『時間』であった。
 通学に大量消費されてしまうものの、履修する講義の関係で火曜と木曜は昼後の一コマを受ければ終わりなのである。おかげで、いつもは門限のためにまっすぐ帰らなければならないのだが、この日ばかりはおやつ時には自由の身、買い物に出かけたりお茶をしたりできてしまうのだ。
 そんな木曜日、綾代は行きつけの古書店へ足を運んだ。欲しい本があるというわけでもない。数週間前、少し古い資料が必要になって探していて、たまたま中を覗いた時に、そこの老店主と親しくなったのだ。還暦を数年過ぎた店主は、髪を染めていたり服装を崩していたり言葉が崩れていたりする若者を快く思っていないらしく、正反対の位置にいる綾代をいたく気に入った。気難しいが歴史と数学の教養は確か、話好きでもあって彼と過ごす時間がなかなか楽しいのだった。
 今日は講義中の雑談として、ひとつの数字マジックを講師が教えてくれた。それが興味深かったので店主に話そうと思って店を訪れたのに、店主はおらず、代わりに綾代より少し年上の青年がレジで漫画単行本を読んでいた。ここでは漫画を扱っていないから彼の私物なのだろう。
 小さな店に客の来店を知らせるブザーなどついていない。それでも気配を感じたか、青年が漫画から目だけを上げて「いらっしゃい」とやる気のない声で言った。
 綾代はまっすぐにレジへ向かう。青年が訝しげに漫画へ戻していた視線をまた綾代へ移した。
「あの、おじいさんはお休みですか?」
「じいさん? 昨日から腰痛めて寝てるよ」
 「まあ……」綾代が痛ましそうに小さく眉を歪める。青年が軽く笑った。「まあ」という前時代的な台詞が面白かったのかもしれない。
 おそらく店主の孫なのだろう青年は、本に指を挟んで閉じると綾代に顔を向けた。会話をする気になったという意思表示か。
「天板が割れた本棚の修理してて踏み台から落ちただけだから、明日には店に出るよ。けど、そろそろ身体が追いつかないから閉めた方がいいんじゃないかってうちの父さんとかは言ってる。元々じいさんが一人で趣味みたいにやってる店だし」
 欲しい本があるならその時に譲るよ、と青年は結んだ。彼の独断だろう。下心が透けて見えないわけではなかったけれど、綾代は何も気づかないような素振りで「いいえ、悪いですから」ときっぱり断った。
「閉店されてしまうのですか?」
「じいさんは続けるつもりだけど、どうしても年だからさ。こんなしけた店じゃバイトも雇えないし。前に募集かけてみた時も、誰も来なかったしなぁ。おかげで俺がかり出されちゃって」
「そうですか……」
「せめて週三くらいで誰かが来てくれたら、じいさんも楽できると思うんだけどね」
 寂しい気持ち。できることなら自分が立候補したい。しかし生活環境がそれを許してくれない。
 誰かいないだろうか。そこそこ時間があって、薄給でも文句を言わないような親切な人。厚遇を望めない以上、こういう店に好んで来るような人間でなければ無理だろう。これが可愛い小物を扱う雑貨屋さんとかならともかく、漫画すらない古書専門店では条件が厳しすぎる。店主の趣味が色濃く出ているせいで店内の本は歴史資料やノンフィクションが多い。そういったものを好む知り合いなど綾代には……。
「……あ」
 いるかも。
 
 
 好きこそものの上手なれという。上手い下手という区分けはできないけれど、あれだけの知識量、好きでなければ身につくまい。
 というわけで綾代が白羽の矢を立てたのは汀だった。電話で頼んでみたら、汀は割合あっさりと色よい返事をしてくれた。授業があるから平日は午後からだけになるけれど、週三日と土日のどちらかくらいならなんとかなるという。
 綾代は喜び勇んで古書店へ連絡を入れた。店主の方は突然の提案に面食らっていたが、それでも話だけは聞くと答えてくれたので、さっそく翌火曜日に汀を連れて赴いた。
 汀の姿を一目見た瞬間、店主はむっつりと唇を曲げた。あ、と綾代は気づく。赤茶けた髪色に南国独特の派手な色使いの服装。そしてかもし出ている軽薄な空気。
 汀の外見において、店主が気に入る要素がなかった。
 己が犯した失敗に肩を落としつつ、それでも汀を紹介する。
「お友達の喜屋武さんです」
「初めまして、喜屋武汀です。喜屋武岬の喜屋武に、石田幽汀の『てい』で『みぎわ』と読みます」
 綾代はおやと眉を上げた。ずいぶんと簡素で難しい説明だ。自分たちに字の説明をした時は、もっと噛み砕いていたのに。
 店主がじろりと汀を見た。
「絵を?」
「いえ、特には。法眼にはちょっと縁がありますけど」
「南から来たかね」
「ええ、苗字の通りです」
「……ふん。その髪は日焼けか」
 最後のは独り言の調子だった。自分に言って確認する、という行為。それはつまり、汀に「違う」と言わせないための行動だ。
 店主は目元と口周りのしわを深くしながら、左右の書架を視線で指し示した。
「どれでもいいから、棚から一冊取ってくれんか」
 まるで試験だ。綾代はハラハラする。汀がどんな本を選ぶかで結果が出るのだろうか。店主が納得するような本とはなんだろう。著名な詩人の初版本? 百年も前に書かれた郷土資料? はたまた、逆をついてベストセラーの小説かもしれない。
 思わず、店内をぐるりと見回す。天井に届きそうな高い書架が壁を囲み、さらに人ひとりがやっと通れる隙間を空けて同じ高さの棚が林立している。出入り口と通路以外はすべて本。この中から店主が気に入る答えを見つけ出せという。大丈夫だろうか。知識と、センスと、観察眼を問われる難問だ。
 汀が左側にある書架を見やった。そのまま無造作に手を延ばす。え? と綾代は自身の目を疑う。
 汀の指先が、一冊の本の背を押した。そのままの姿勢を保ち、逆の手が隣にある本の中ほどを掴んで引き出す。取り出されたのは古い文庫本だった。知らないタイトルだけれど、何か特別なものとは思えない。一体、彼女はどういった基準でそれを選んだのだろう。
「ああ、いいね」
 棘の抜けた声で店主が呟いた。どうやら汀は試験に合格したようだ。綾代はまだ、その本がどうして合格なのか判らない。
「あの、その本は貴重なものなのでしょうか?」
「違うと思うわよ。あたしも初めて見た。流通しすぎて百円まで値崩れするようなもんじゃないわね。いいとこ二百五十円かな。どっちが状況として良いかは微妙なところだけど」
「え、じゃあどうしてそれを……?」
 汀が手にした文庫の裏表紙をパラリとめくった。「ああ、やっぱり」最後のページを眺めて小さく笑う汀に、綾代は首を傾げる。
「オーナが見たかったのは、あたしが何の本を選ぶかじゃなくて、あたしがどうやって本を取り出すか。最初に言ってたじゃない、『どれでもいいから』って。
書架に入ってる本を出す時、本の上に指を引っかけて引き出す人がいるでしょ。それだと背の上下が傷む」
「ああ……そういうことでしたか」
「うちにはずいぶん古い本もある。丁重に扱わんやつに任せるわけにはいかん」
 まず隣の本を押し込んで隙間を作り、そこから目的の一冊を引き出す。両手が必要で手順も無造作に引っ張り出すより多い。その手間を惜しむ人間かそうでないか、店主はそれを確認したかった。
 なんとも、おみそれした。普段からそうしているのかもしれないけれど、何より、汀はある意味ひっかけみたいな問題に引っかからず、意識的に本を引っかけず取り出してみせたのだ。慧眼である。
「喜屋武さんだったね。お願いしよう。よろしく頼んだよ」
 にこやかに、とまではいかないが丸みを帯びた表情で店主が右手を差し出した。
 汀はその手を見つめたまま笑っている。握手に応えようとはしない。
「それも『仕事』のうちなら、お断りしますけど」
 綾代だけでなく、店主も「うん?」と戸惑った。
 ややあって、何かに思い至ったらしい店主が手を引っ込める。「ああ、これは失礼した」とりなすような口調で汀に言い、引いた右手を左手で包み込む。「そういうつもりではない」
「そうですか。それじゃあ、これからよろしくお願いします」
 今度は汀が握手を求めると、店主はすぐに応じた。
 よく判らなくて首を傾げたら、立場が上の男性が女性へ握手を求めるのは、夜の相手をしろという合図の意味を含むことがあるのだという。もちろん汀は本気でそう解釈したわけではなく、説明もなしに試されたことに対する意趣返しだ。
 話がついて、二人は古書店を辞した。汀の初出勤は次の水曜からということになった。火曜か木曜であれば綾代も様子を見に行けたのだが、都合が合わなかったのだ。そこは仕方がない。
「本を選ぶ時、よく何を望まれているのか判りましたね」
「あそこにある本、全部書架に入ってたから」
「? 本屋さんというのは、普通そういうものでは? 一般書店では新作が平らな棚に積まれていることもありますけど」
「古本屋でもああいう個人経営のちっちゃいところだと積んでるわよ。それも床に直接。棚から溢れた分を置いてるんだけど、あの店は書架を増やしてたわけ。書架の上にさらに棚を置いてね」
 天井に届きそうなほど高さのある書架。
 閉店が云々という話を聞いた時、孫の青年は天板が割れたと言っていた。書架の天板には何も乗っていなかった。そんなスペースはなかった。負荷のかからない板が割れるなどそうそうない。
 一つの大きな書架だと思っていたものは、実は二つだったのだ。彼が言っていたのは下になっている棚の天板だった。おそらく、重ねた棚の角度が悪かったか何かで一点に負荷が集中してしまったのだろう。
「本を積み重ねたら当然下にある本が歪むし傷む。それを避けるために棚を増設したんでしょ。おまけに、値段がどこにもなかったからね。こりゃ相当の本好きだわと」
 文庫の最終ページを見ていたのはそのためだったらしい。古書店の本といえば、大抵は裏表紙に値札が貼られているか最終ページに直接値段が書かれている。それがどちらもなかった。
「そういえば、あそこで買う時はいつも会計の際に代金を言われていました」
「多分、そのときに値段決めてるんでしょうね。古本屋の商品なんて時価みたいなもんだから、そうした方が柔軟な対応ができるし。
宮沢賢治の著書なんて、当時はあんまり売れないもんだから本人が私財を投げ打って引き取ったのに、今じゃその初版本はとんでもない値段がついてる。そういうことが起こらないとは限らないわけ」
 まあ、そこまで大きな変動はないだろうが、一律で決められるものではない。資産の減価償却と同じ考え方をするわけにはいかないデリケートな存在なのである。宝石や金と同等と言っても良い。材質の面から言えば宝石や金よりデリケートだ。
 なんにせよ、うまくいってくれて良かった。店主も助かるし、綾代も好きな店がなくならずに済んだ。汀は汀で「面白そうな本がいくつかあった」と言っていたから悪い話ではなかったのだろう。
「折を見て遊びに行きますね」
「よろしく。売り上げの貢献までは期待しないから、話し相手になりに来て」
「どちらも努力します」
 くすくすと笑う綾代。店主と違い、数学を教えてくれるかは判らないが、興味深い話は色々と聞かせてくれそうだから、こちらとしても楽しみだ。
 別れ際、うっかり忘れていたもう一つの用件を思い出した。慌てて汀を引き止める。
「どうしたの?」
「お土産を渡すのを忘れていました」
 バッグから小さな紙袋を出して汀へ差し出す。受け取った汀は軽く首を傾げた。
「どこかに旅行してたの?」
「ええ、週末に少し」
 汀が紙袋をひっくり返して裏側のシールに書かれた情報を読み取った。中身は菓子類である。一応名産品を使ったものだ。しかし彼女が見ていたのはそこではなかっただろう。ふぅん。吐息みたいな声が洩れる。「酔狂ね」感心と呆れの真ん中くらいにある感想だった。
「ま、いいや。ありがと」
「ええ。それでは、今日は本当にありがとうございました」
 今度こそ、二人は別れる。
 綾代はここ最近、よく旅行に出かけている。初めのうちは父親がずいぶんとごねたものだ。可愛い子には旅をさせろという慣用句は、彼の辞書に収まっていないらしい。数度、ほとんど飛び出すようにして強行した結果、諦めたというか、好きにさせて動向だけをチェックしていた方が気苦労が少ないと気づいたらしく、ようやく何も言われなくなってきた。
 もちろん、行き先は毎回伝えるし、到着したら電話を入れている。それよりも高い頻度で両親から確認の電話がかかってくるのだけれど。
 見聞を広めるためとか、旅行が趣味になったというよりは、ライフワークに近い。
 そのこともあって自分があの店でバイトをするわけにはいかなかったのである。出来れば週末は自由でありたい。
 さて、今月はあと何回飛行機に乗れるだろうか。今後の予定を頭の中で確認する綾代だった。



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