02 時にしょうがない


 ゴールデンウィークも過ぎ、梢子はまたぞろヘトヘトの日々を送っていた。連休中、汀と接触した記憶はない。こちらは特に用事もなかったし、向こうもきっと同じだろう。お互い、あまりべったりとした人付き合いをする方ではないから、そうなったのは自然な流れだった。
 連絡する必要があれば抵抗なくメールなり電話なりするし、そうでなければ何もしない。去年、再会するまでの一年間と同じだ。あの時は連絡先を知らなかったという理由もあったけれど、積極的に知りたいとも思わなかった。
 今日も特別用事もなく、いつも通りの一日を終えようとしていた。というか終えていた。本日の小山内梢子は終了しました、シャッタはとっくに下りていた。
 だというのに、そのシャッタを無遠慮に叩く輩が現れたのだ。
 無遠慮な騒音は携帯電話の着信音というかたちを取っていた。眠りを妨げられた梢子は不機嫌にそれを取り上げる。誰かと思えば汀からだった。次に時刻を確認すれば午前二時を十五分過ぎている。常識のじょの字もない時間帯だった。万が一、今彼女が時差六時間くらいの外国にいるというのであれば許してもいい。
 無視しようかと思ったがコールはやむ気配がない。うんざりしながら梢子はシャッタを開けた。
「……もしもし。こんな時間になによ」
『あー、オサだ』
 電話しておいて「オサだ」もないだろう。
 そのどこか気の抜けたような、腑抜けた声に梢子の右眉が上がる。いつもの飄々とした態度とは違う、もっと……意識が不明確な声。
 こういう声を何度か聞いたことがある。汀のではなく、別人の。高校時代の話だ。その人は民間伝承の研究が趣味で眼鏡をかけていて剣道の経験がないのに剣道部の顧問だった。
 そして何より、アルコールを非常に好む人物であった。
「汀、もしかして飲んでるの?」
 声が尖る。汀は意に介さず肯定した。
『コンパだったんだけど、うちの地元から来てるのがあたしだけだったから珍しがられちゃって。店も郷土料理系のとこでね。泡盛があったからつい懐かしくなったわけだ』
「いや、未成年が泡盛を懐かしく思うのは問題でしょ……」
 それでゴキゲンになって、とにかく誰でもいいから電話をしたくなったのだろうか。周囲にはいないけれど、そういう人がいると話に聞いたことがあった。はた迷惑な人種だ。
 しかし汀の説明は違った。
 もっと切実だった。
『実はうちの鍵が見つからない』
「は?」
『どっかに落としたかなー。ここ、管理人さんは通いだからこの時間いないんだよね。というわけでどうにかしてほしいんだけど』
「どうにかって、私に言われても……。そもそもどうして私なのよ」
『知り合いだとオサの家が一番近いから』
 酔っ払っていてもそういうことには頭が回っていた。褒めどころか怒りどころか、なかなか判断の難しいところだ。
 溜め息をついて、ベッドから抜け出す。
「判った、とにかくそっちに行くから待ってなさい」
『ん』
 夏とはいえ、いくらなんでも一晩外にいるのは危険だ。あの様子だと玄関前で寝入ってしまいそうだし。
 手早く着替えて家族を起こさないようにそっと家を出る。大通りでタクシーを拾うと、運転手に汀から以前教えられた住所を伝えた。運転手がカーナビにそれを入力するのを、梢子は無意識に眺める。
「こんな時間にお出かけですか?」
 走り出した車内で運転手がやや緊張した声音で問いかけてきた。深夜に年若い女の子が一人でタクシーを捕まえる。なるほど、色々と想像できるシチュエーションだ。
 心配されたのか面倒ごとを厭われたのか判らないが、とにかく彼の不安を払拭するために軽く笑って見せた。
「友達が酔いつぶれてしまったそうなので、介抱しに」
「ああ、そうですか。大変ですね」
「まったく」
 あからさまにホッとした様子で同情のポーズを取る運転手だった。
 「どのくらいかかりますか?」「車通りもないし、三十分くらいで着きますよ」気楽な声が梢子の気も緩ませた。できるだけ早く到着したい。時間がかかればかかるほど、汀が眠ってしまう可能性が高まる。
 眠っている人間を引きずるなんて疲れるから嫌だ。
 
 
 運転手の予測は概ね正しく、三十四分を経て梢子は目的のマンション前へ降り立った。煌々と点灯している常夜灯の下を覗けば、オートロックの解除パネルの横に汀が座り込んでいる。
 自動ドアを抜けて「汀」と声をかけた。彼女はゆるゆると頭をもたげてこちらを見やってくる。
「あー、オサだ」
 電話と同じ調子で同じ台詞を吐く汀。「あなたが呼んだんじゃないの」呆れ口調で梢子は応える。
 ひとまず起きていたようなので心配の種がひとつ減った。問題はまったく解決していないけど。
「鍵、本当にないの? よく探した?」
「探した探した。もう服とか全部脱いで探した」
「え、ここで!? なにしてるの!」
「嘘だけど」
「…………」
 駄目だ。ただでさえ汀なのに、そのうえ酔っ払いだ。彼女の発する言葉を信用する要素が何一つない。
 もう一度よく探せ、とバッグを出させる。
 もしょもしょと緩慢な動作でバッグの中身を漁る汀に業を煮やして、梢子はひったくるようにバッグを奪って中をあらため始めた。
 ペンケース、テキスト、財布、その他小物類をひとつひとつ寄せて鍵を探す。「ないってば」ふにゃけた声が癇に障ったが酔っ払いは相手にしないに限る。
 そしてやはり、今の汀の言葉など信用出来ないと証明された。
 テキストの一冊に奇妙なふくらみを見つけて、そこを開いて見れば金色の鍵が挟まっているではないか。適当な栞がなかったから一時しのぎに鍵を代替として使ったのだろうか。単純にバッグの中で揺れて偶然入り込んだだけかもしれないが。
「ほら、汀。見つかったわよ」
「おおっ、何もないとこから鍵が出てきた。オサ、あんたさては手品師ね?」
「……いいから立ちなさい」
 解除パネルの鍵穴に見つけた鍵を差し込んで捻り、部屋番号を押す。住人すら拒んでいたドアのロックが外れる音がした。
 汀に肩を貸してやりながらエレベータに乗り込む。濃い酒気が鼻腔を刺激してきて、知らず知らず、梢子は顔をしかめた。赤ら顔が間近で揺れている。緊張感のない表情は少し子どもっぽい。
 廊下を突き進み、部屋の鍵も開けて汀を中へ放り込んだ。彼女はフラフラと歩いて部屋の明かりをつける。初めて見た室内はわりに雑然としていた。散らかっているというほどの印象はないけれど、物が多くて圧迫感がある。そのほとんどが書物であればなおさらだ。
 大学で使う資料ではないことは明白。和綴じの古書や神話に関する文献などが大多数を占めるそれらは確実に趣味のアイテムである。引越しの際にわざわざ持ち込んだのだろうか。地元に置いてきたら部屋が今より二十パーセントほど広く使えただろうに。
 ワンルームの利点と言っていいのか、汀は覚束ない足取りで数歩奥へ向かうとそのまま据えつけられたベッドへ倒れこんだ。
「水、飲む?」
「んー」
 いるのかいらないのか判らない。飲ませた方が良いと勝手に判断し、キッチンの冷蔵庫を覗く。口の開いたミネラルウォータが入っていたのでそのまま取り出して部屋へ戻った。汀の両目はすでに閉じられている。腕を引っ張り上げて身体を起こさせる。ペットボトルを渡すと彼女はのろのろそれを飲んだ。三口ほどで蓋を閉めなおしてテーブルに置く。
 奇妙に、汀は希薄だった。
 あの、南の果実みたいな芳香が消えている。硬い表皮で隠しているくせに、隠し切れず洩れ出る濃密な芳香。
 それは鬼切り部という要素なのかもしれない。
 彼女は本当に矜持を失ったのだろうか。
 胸の奥がざわついて、梢子は汀から目をそらすために立ち上がった。
「鍵も見つかったんだから、私はこれで御役御免でしょう? もう帰るわよ」
「駄目」
「え?」
 汀が腕をつかんでくる。振りほどくのも気が引けた。曖昧に腕の力を抜いて止まる。
「危ないから」
「夜中に呼びつけたのはそっちなんだけど」
「うん。でも、危ないから」
 梢子の身体が傾いだ。汀に引っ張られたせいだ。油断していたのでバランスは簡単に崩れた。ベッドへ汀もろとも倒れこむ。咄嗟に空いている手をついて汀との衝突を避けた。これはこれで危ない。
 叱りつけようとしたら抱き込まれた。汀の胸元に顔が押し付けられて声が出せなくなる。
 漂うアルコールの残滓が汀の芳香をさらに薄めて、汀の方向をゆがめている。
「明日の朝、帰ればいい」
「あのね……」
 確かにひどく疲れていて(気疲れも含む)、動くのが億劫になってきている。まあ、夜半の一人歩きなどなるべくしたくないし、明日の始発で帰って方が懐へのダメージも少ない。考えてみれば特に断る理由もないのだった。
 考える前に断ろうとしたのは、違和感を覚えるほど甘えてくる汀に据わりの悪さを感じたせいか。
 汀の後頭部に手を回してポンポン撫でてやる。彼女はくすりと微笑した。精神的に高度二センチくらいで飛翔している感じの笑顔だった。
「酔っ払い。あなた、色々と『酔いやすい』んじゃないの?」
 アルコールではないけれど、以前も彼女を介抱してやったことがあった。そのことを不意に思い出す。「あー、かもね」限界が近いのかまぶたをすっかり下ろした汀が小さく頷いた。
 睡魔が彼女を襲っているらしい。くたりとしているくせに梢子を包む腕は強い。小さな子どもがぬいぐるみを抱いて眠るのとは違う、結実の硬さを持った行為だった。
 固い殻に閉じ込められて梢子は身動きが取れなくなる。
「明日、ちゃんと起きなさいよ?」
「うん……」
 もう半分くらいは睡蓮の世界へ入り込んでいるようだ。くぐもった応答に嘆息する。
 梢子も眠るために目を閉じた。今からでは、仮眠程度しか取れないだろう。
 明日つらいだろうな、と憂える余裕もなく眠りは訪れる。
 
 
 大きな虫の羽ばたきに似た音で目を覚ました。飛び起きる。微かな抵抗があった。汀の腕だ。それはすぐにするりと落ちた。彼女が覚醒する。視線を巡らせた先にあったのは携帯電話。梢子は汀を乗り越えるようにしてテーブルの上に置かれた携帯を持ち上げた。
『おう、不良娘。お前どこにいやがる』
 憤然とした様子がありありと浮かぶ祖父の声。梢子は何よりもまず心配をかけたことを侘び、口早に事情を説明した。
『そうか。まあ、今からなら間に合うだろう。さっさと帰って来い』
「ごめんなさい。すぐに帰るから」
『ああ』
 電話を切ってから、思わず溜め息を洩らす。
 半ばうつぶせて気だるげに横たわっている汀へ目をやると、彼女はすっかり目覚めて明確な視線を面白そうに梢子へ届けていた。
 「怒られた?」「少しね」悪戯に細められた瞳に軽く腹は立つけれど、彼女を責める気にはなれない。
 それにしても、年頃の娘が無断外泊をしたというのに「少し」怒られるだけというのも、なんだか寂しいものだ。これが綾代だったら家中がひっくり返っただろう。放任主義も良し悪しである。
「汀、二日酔いはしてない?」
「んー、平気っぽい」
「それなら一人で大丈夫よね」
 酒気のすっかり抜けた頬をぺしんと叩く。「世話を焼かせないで」
 汀はくすぐったそうに笑ってその手を取った。「でも、嫌いじゃないでしょ?」
「そりゃまあ、高校じゃ二十人くらいの面倒を見ていたけど。好き嫌いと得手不得手は違うわよ」
 部活動、それも体育会系の部をまとめるとなれば、面倒見が良くなければ務まらない。そう思われがちだが実はそれは副部長の役目だ。先導する人間は常に前を見ていなければならない。後方を確認し必要があればフォローするという仕事は主に綾代が受け持っていた。
 だから梢子は、面倒を見るのが特別好きでもないし、特別に得意でもない。
「とにかく、今度からはあまり無茶しないこと。酔いつぶれるたびに呼ばれたんじゃ付き合いきれない」
「大丈夫だいじょーぶ。これっきりにするから」
 どうだか。あと一、二度はあるんじゃないだろうか。
「ありがとオサ。助かった」
 玄関口で靴を履いているところに届いた声、それは梢子の動きを一瞬止めるほど柔らかだった。
 ……仏の顔も三度までと言うし、あと一、二度くらいなら付き合っても良いかもしれない。
 エレベータで一階に降りる。早朝のため管理人はまだ来ていないようだった。薄暗い管理人室の前を通り過ぎる。
 そこで梢子は閉じられたドアに貼られたステッカに気づいた。昨晩は汀の相手をするのに精一杯で気づかなかったみたいだ。
 ステッカは黄色で漫画雑誌くらいの大きさをしていた。印刷されている文言は警備会社の名前と、緊急連絡先の電話番号。そして、『二十四時間対応』。
 夜間の管理を委託されている会社なのだろう。それならもちろん、部屋の鍵を開けるすべも持っているはずだ。
 しばしステッカを見つめた梢子は、思わずひとりごちた。
「……私じゃなくて、こっちに電話しなさいよ」
 やはり酔っ払いは正常な思考ができなくなるらしい。



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