01 別に困らない


 喜屋武汀はひとつの失敗を犯す。
 一年ぶりの再会から、汀と梢子の交流は途切れることもなく、しかし密につながっていたというわけでもなく、数日に一度メールを交わす程度のやり取りを数ヶ月続けていた。
 その間に梢子は青城女学院を卒業して、スポーツ推薦でそこそこ有名な大学へと進学した。もちろん剣道の特待生である。授業を終えてからの数時間だけを使っていた高校とは違い、大学のスポーツ生というやつはほぼ一日中剣道に打ち込まなければならなかった。誇張抜きで朝から晩までだ。体力には自信があったはずなのに毎日倒れそうになっている。自然、自由な時間も少なくなって、汀とのメールも回数を減らしていた。
 だからといって、連絡ひとつを受けられないほどではない。
 メール一通開けないほど窮してはいない。
 なにより、三月あたりはわりと時間を持て余していたのだ、その頃に連絡したってよかったはずなのだ。
 そういった小言を梢子はこの先、何度となく口にすることとなる。
 汀はその小言を何度となく聞くことになる。
 それが汀の失敗。
 あるいは、幸福。
 
 
 
 くたくたの身体に鞭打って家路を辿る途中、信号待ちを利用して携帯電話に届いたメールを確認した梢子は、思わず「は?」と間の抜けた呟きを落とした。
 返信するためにウィンドウを開いたが、聞きたいことが多すぎて何からどう書いたら良いのか、さっぱりまとまらない。もどかしくなってキャンセル。電話番号を呼び出してコールを始めたところで丁度信号が青に変わった。耳に当てたまま歩き出す梢子の眉間には知らず知らず深いしわが刻まれている。
 コール音が途切れた。『もし』「ちょっと、どういうこと?」汀の応答にかぶさるほど素早い問いかけだった。向こう側で汀があっさりとした苦笑を洩らしている。
『どういうこともなにも、メールに書いたとおりだけど?』
「こっちに来るなんて聞いてない」
『言ってないからね』
 汀から届いたメールには、こちらの大学に進学したことと現在の住所が記されていた。住所は梢子の自宅にも程近いベッドタウンにあるマンション。学生の分際で贅沢な、と場合によっては眉を潜められる状況であるが、自宅から出たことのない梢子にはピンと来ない。だから彼女が不満をおぼえているのは違う理由だ。
 現在は四月の下旬、ゴールデンウィーク間近で世間が浮き足立っている時期である。そんな時期に新年度が始まる大学などない。
「一応聞くけど、怪我か病気で入院していて引越しが遅れた、とかないわよね」
『おかげさまで健康体。ちゃんと入学式にも出たし、講義の方も今のところ皆勤賞』
 ではやはり、遅くとも先月にはこちらへ越して来ていたわけだ。
 それなのに、一ヶ月も何の連絡もしてこなかったわけだ。
 足を止めて音を出さずに深呼吸、大丈夫大丈夫と心の中で念じた。
「そう。頑張ってね」
 声が硬くなったけれど気づかないふりでやりすごす。『ま、ほどほどに』汀はなんということもない口調で答えた。電話越しだから微妙な声音の違いは判らないのかもしれない。だとしたら好都合だ。
 梢子がおぼえた不満は、ただの疎外感だった。いつの間にか好きな俳優の出演している連続ドラマが放送していて、第一回を見逃してしまった、そんな時のちょっとだけガッカリする感じ。あるいは、自分の知らない間に夏祭りが行われていたと聞いて、別に知っていたところで出かけるとは限らないのに残念な気持ちになる、その程度。
 話題は他愛もないものに終始する。お互いの大学生活がどうだとか、汀が満員電車に辟易しているとか、剣道部の師範がかなりのスパルタで葵先生の適当ぶりが懐かしいとか。卯奈咲の思い出話も少しだけした。
 最近、あまりメールをしていなかったせいか、意外にも話題は次から次へと出てきた。近況報告と思い出話だけで結構話せるものなのだなと、梢子は妙なことで感心する。
 けれどそれも梢子が自宅にたどり着いたのを契機として終了した。じゃあまた。そんな簡単な別れの挨拶をして通話を終える。楽しかったけれど、身体の疲れが取れたわけでも精神的疲労が回復したわけでもなかった。汀との会話は梢子に特別影響しない。
 会話の中で一度も「どんな部屋なの?」と尋ねなかったのも、特に深い理由はなかった。思いつかなかっただけだ。
「ふぁ……」
 帰宅による気抜けか、欠伸が洩れた。今日は珍しく母親が早く帰ったようで、食事の準備をしておくと連絡が入っていた。ご飯を食べてお風呂に入って、さっさと寝てしまおう。体力に自信があったって無尽蔵ではない。一日中動き回っていればHPゲージが赤くもなる。
 梢子はすでに汀のことを思い出さない。
 
 
 喧騒が周囲を取り囲んでいる。休日のファストフード店には友人同士でお喋りに興じている女の子たちや、おそらく鑑賞してきたのだろう、封切られたばかりの映画について感想を語り合っている恋人同士などの声で溢れかえっていた。女性の側がかなり大きな声で結末について語っており、斜め前の席に座っている梢子は見たこともない映画の大切などんでん返しをすっかり知悉してしまった。まあ、観る予定もないしその気もない作品だから良いけれど。もし近くにこれから観に行こうと思っていた人がいたら可哀想だな、ぼんやり思う。
 梢子の視界に綺麗な指が入った。ポテトを一本つまんで、先端を口に運ぶ。綺麗な仕草だ。ファストフードのしなびたポテトを上品に食べるという行為が正しいかどうかはともかくとして、梢子はその所作に少々見蕩れる。けれど健啖家の後輩みたいにパクパクと元気に食べる様子も実は好きなのだった。要はベクトルの違い。「おいしそうに食事をする」、その軸さえぶれていなければ、スマートだろうがラフだろうが構わないのである。
 ポテトを一本食べ終えた桜井綾代は、指についた脂を紙ナプキンでふき取って(その仕草もまた美しかった。距離感が近すぎて時々忘れそうになるが、彼女は類まれな美しい性質の持ち主だ)、梢子に微笑みかけた。
 微笑みに意味はない。こちらが見蕩れていることに気づいて謙遜した、という意味くらいはあっただろうか。
「あのへんだと、確かに通学には便利ですね」
 先ほどまで汀の現住所について話していたのだが、綾代はその話題を続けるつもりらしかった。
「綾代は片道一時間半くらいだっけ?」
「ええ」
 少し困ったように頷く綾代。相変わらず、彼女の両親は子離れができていないようで、通常であればもっと利便の良い所に部屋を借りて通うような場所にある大学へ進んだ綾代を強引に自宅通学させている。綾代は綾代で、どうしても学びたい教授がいたものだから進学先を変えようとせず、互いに意地を張った結果、またしてもひと悶着あったと後々で聞いた。ということはつまり、今回は梢子の家へ逃げ込んでこなかったわけで、ある意味それは彼女が成長したという証かもしれない。
 なおかつ彼女は父親に譲歩させるという成果を上げていた。通学に関しては折れるが、その代わり一つだけ、いつか自分が何かを願ったら無条件で叶えること、それを約束させた。なんとも逞しくなったものだ。
「わたしもそのあたりに住めたらずいぶん楽になるんですけれど」
「そうか、あの沿線だと一本で行けるのよね」
「最寄り駅まで三十分くらいです。本当に、うらやましい」
 言っても詮無いことだ、という表情だった。決着についての未練だから、彼女自身、どうにかなるとは思っていない。空を自由に飛びたいと願ったところで、現実には「はい」とあっさり叶えてくれる存在など現れない。
 綾代の指が、今度はドリンクカップに添えられる。水滴が落ちた。
 梢子も自分のカップを持ち上げてストローをくわえた。残り少なくなっていた烏龍茶が音を立ててストローを登ってくる。
「汀さん、お一人でこちらに出られて大変なんじゃないでしょうか」
「そうかしら。汀のことだから、それなりに上手くやってそうだと思うけど」
「器用な方ですものね」
 梢子の言葉を否定せずにやんわりと応じる。無意識なのだろうけれど彼女は彼女で器用だ。
 少し前の話題で、男子学生から妙に声をかけられて少し困るというような相談をされたが、納得である。高校は女子高だったせいで、そうそう困るような事態も起こらなかった。それが災いしたかもしれない。
「にしても、どうしてこっちの大学に来たんだか……」
 独白めいた梢子の発言に綾代がきょとんとした。地方から進学してくる者など珍しくない。彼女は特に疑問には思っていなかったようだ。
 梢子の呟きは鬼切り部に端を発していた。電話で交わした会話の中で、鬼切りの仕事はどうしたと尋ねたら、「廃業」という返事が来たけれど、彼女は鬼切り部であることに一種の矜持を抱いていた。そんな簡単に辞めたりできるものだろうか。結婚や何やを機に引退するケースはよくあるらしいが。なんだか一般社会の企業みたいである。もっと『ムラ』的なものかと思っていたけれど、案外、梢子が思っているより普通の組織なのかもしれない。
 遠方の大学に進みたいから鬼切り部を抜ける。駄目だ、どうしてもバランスが悪すぎる。どう考えても汀なら後者を取った方が自然なのだ。事実、高校に通うより鬼切りの任務を優先していたそうだし。(受験勉強が大変だったらしい。生憎、大学入試に神話や漢字の成り立ちなどは出題されない)
 もっと別の、彼女にとって大切な理由があるのだろうか。
 ストローをすすったがとうに飲み干していた。
「そろそろ出ますか?」
 注文した品をすべて消化したのを確認した綾代が言ってくる。「そうね」当人のいないところで考えていたって答えなど出ないから、梢子は早々に汀についての考察を打ち切って綾代へ頷きかけた。
 トレイを持ってトラッシュボックスへ向かいながら、綾代が小さく溜め息をついた。
「それにしても」
「なに?」
「これからお暇でしたら、映画でもどうですかとお誘いするつもりだったのですけれど」
 皆まで言わずとも、綾代がどうして沈んだのか察して梢子は苦笑した。
 結末を知っても困らないと思っていたが、このケースは想定していなかった。
 



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