ディアレスト after


 パタパタと少女が駆けている。
「ほら、はとちゃん早くはやくー」
 先行している友人が足を止めないまま振り返り、急かすように手招きをした。
「陽子ちゃん待ってよぅ。そんなに急がなくてもケーキバイキングは逃げないってば」
「なに言ってんの。こうやって走ってバッチリおなか空かせといた方がケーキもおいしいでしょうが」
「走りすぎて気持ち悪くなりそうだよ……」
 しょうがないなー、と友人はその場で足踏みをしながら少女を待つ。静止しないのは少しでも運動量を増やそうという魂胆か。
 待ってくれている間に追いついた少女が、「ちょっと休憩させて」肩で息をしながら両手を合わせた。
「軟弱だなー、はとちゃんは」
「うう……」
「しょうがない。五分だけだよ?」
「ありがとう、陽子ちゃん……」
 喋るのも億劫だというふうに小声で言い、少女は何度か深呼吸をして乱れた息を直しにかかった。高い位置でツインテールにしている髪を指で梳いてそちらも直す。かなりの長さがあるので、走っているうちに絡んで膨らんでいた。
 指先に引っかかりを覚えた少女が、束の先端をつまんで唇を尖らせた。
「毛先からまっちゃった。ちょっと痛んでたからかなぁ」
「そんだけ長けりゃ痛みもするわ。はとちゃんってずっと長くしてるんだっけ?」
「うん、ちっちゃい頃から。……あれ?」
 答えつつも、腑に落ちない表情で首を傾げる少女。友人も同じように首を傾けた。
「えっと……一度短くした時があったような……」
「どっちよ」
「すごくちっちゃい時のことだから、よく覚えてないけど。うーん、気のせいかも」
「ふーん」
 まあいいや。友人の一言で少女もまあいいかと思って、絡んだ髪の毛をほぐし始める。それほどきつく絡んでいるわけではなかったので、丁寧に縒りを戻してやると髪の毛ははらんとほぐれた。
「おっけ。じゃあ行こっか、五分経ってるよね?」
「うむ。それでは出発」
 なぜかピシっと敬礼をした友人が、不意に「お?」と首を伸ばして、敬礼の手を額に移して庇にすると、少女の向こう側を眺めた。少女もつられて後ろを振り返る。
 肩口で切り揃えられた髪を揺らしながら、小走りで駆け寄ってくる少女の姿が目に入った。二人より少しだけ年下だろうか。真っ直ぐにこちらを見つめているので、確実に彼女の目標はここだろう。
 二人は少しだけ顔を見合わせて、どちらも同時に首を振る。近づいてくる彼女に心当たりはないという意思表示だ。
 なんだろうと思いながら待っていると、やはり彼女は二人の前で止まった。
「良かった、追いついて」
 淡く笑いながら言う彼女の視線の先にはツインテールの少女。
 間近で見ても、やはり知り合いではない。少女は少しだけおどおどした様子で首をすくめると、「なんでしょうか?」と小声で尋ねた。
「これ」
 差し出された手に乗った物を眼下に収めた瞬間、思わず「あっ」と声が出た。
 青い珠が先端にくくりつけられた携帯ストラップである。慌ててポケットから携帯電話を取り出して確認すると、それはまったくの無機質なフォルムで、装飾が何もなかった。
 となれば彼女が差し出しているストラップは、この携帯から外れて落ちたものだ。少女は慌てたままペコペコと頭を下げた。
「ありがとうございます。このストラップ、すごく大事な物なんです」
「ええ、ちゃんと渡せて良かった」
 受け取ったストラップをよくよく見れば取り付けるための紐が擦り切れて分断されていた。走っている間に摩擦で切れたものと思われる。切れそうな感じなんてなかったけどな、とどこか八つ当たりのように思いながら、帰ってから新しい紐を付け直すつもりで少女はストラップをバッグへしまおうとした。
 
 ――――――――。
 
 音が。
 なんとも形容しがたい、蝶の羽ばたき、あるいは花びらの舞い散る音を増幅したような仄かな音が、聞こえた気がした。
 そんなはずはない。ストラップについている珠は単なる瑠璃で鈴になどなっていないし、そんな音を発するようなものも見当たらない。
 はて幻聴かとこめかみのあたりをトントン突つく。「なにやってんの? はとちゃん」友人の声で我に返ると、目の前の彼女は拳を口元に当ててクスクスと笑っていた。
 少女の頬がわずかに紅潮する。変な子だと思われた! なんだか彼女にそうやって笑われたことがひどく恥ずかしくて、少女は俯き沈黙した。
「あ、ごめんなさい笑ったりして。可愛らしかったから、つい」
 馬鹿にしたわけではないと弁明してくる彼女を上目遣いに見やると、奇妙なほど親しげな視線とぶつかった。
 あれ?
 なんだろう。なんだか……。
「あの……」
「なにかしら?」
「前に、どこかで会ったこと、ありませんか?」
 「なーにはとちゃん、ナンパ?」友人のからかいに「違うよぅ」と迫力なく睨んで、再度目を彼女に合わせる。
 彼女は白く笑っていた。
 花のように笑っていた。
「あ……」
 どれだけ記憶を辿っても、彼女に見覚えはない。
 年下で顔を合わせたことがある人なんて、学校の後輩くらいしかいないし、それだって親しいというほどの子なんていない。すれ違っただけの顔を覚えていられるほど記憶力も良くはない。
 こうして顔を合わせて、彼女の存在を意識するのは初めてのはずだ。
 それなのに、痛いほど胸を締めつけてくる既視感。
 少女はその感覚をうまく処理出来ない。
「あの……、つまりですね」
 つまりと言ったきり少女は口を閉ざす。
 胸が詰まり、声が出せない。
「はとちゃーん? どしたー?」
 訝しげに顔を覗き込んだ友人が、ぎょっとしたように身を引いた。
「ちょ、ちょっとはとちゃん、ホントにどうしたのさ? どっか痛い? 苦しい?」
 ほろほろと涙を落としながら少女が頷いた。「ど、どこが? どこが痛いの、言ってごらん?」動揺しすぎて小さな子を宥めるような口調になった友人に、少女は小さく苦笑して「おなか」と答えた。
「おなか空きすぎて胃が痛くなっちゃった」
 がくり。友人の首と肩が落ちる。
「……おいおい、焦らせないでよ。はとちゃんに引っかけられるとは、前代未聞の大事件だわ……!」
「えへへ。ごめんね、早くケーキ食べに行こ」
 胃のあたりをさすりながら少女は笑う。本当に痛む位置と少しずれているのは気づいていたけれど、心配させたくなかったからそうしてごまかした。
 友人は呆れ顔で肩をすくめると、「はいはい。はとちゃんのおなかと背中がくっつく前に行きましょ」溜め息をついて頷いた。
 少女が顔を上げて、花のように佇む彼女を真正面から見つめる。
「これからケーキバイキングに行くんですけど、良かったら一緒に行きませんか? ストラップのお礼、というわけじゃないんですけど」
「やっぱりナンパじゃない」
 「違うのっ」がうっと友人に噛みついてから笑顔を彼女へ向ける。返答を待つ時間がいやに長く感じられた。
 断られたらどうしようと考えたのではない。突然誘ってしまって不快にさせるかもと不安になったわけでもない。
 「まだかな?」と少女は待っていた。
 まだ頷かないのかな? そう、少女は待っていた。
 彼女が目を細めて、その細まった目の奥には切なさがあって、それと同時に愛しさも、あった。
 少女も友人も気づかなかったけれど。
 気づかなくて良いものだったけれど。
「喜んで」
 頷く彼女の声は甘く、その甘さに少女の胸は蕩ける。
「それじゃあ、行きましょう。
あ、私は羽藤桂っていいます」
 少女が己の右手を差し出す。
「……ええ。これからよろしくね、桂ちゃん」
 彼女も己の右手を差し出す。
 二人の右手が組み合わさって。
 そうして二人は、始まった。



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