ディアレスト outer after


 ごく自然に並んで歩く二人の少女を見つめる、二つの姿がある。
 一方は幼い女の子で、他方は青年層にさしかかった若者である。
 どちらも微笑んでいる。けれど、柔和なその笑みでは隠し切れない寂寞が、どちらのかんばせからも滲み出ていた。
「桂おねーさん、嬉しそうですね」
「当たり前だろう」
 淡々と交わされる会話。一度、女の子の背中が震えた。
 震える背中に、少年の手のひらが押し当てられる。宥めるつもりではなかったので、背中が撫でられることはない。
「泣くな」
「泣きませんよ。これでも若杉の当主ですから」
 寒かったのだとごまかすでもなく、感情を抑えるのは自らの義務であると、女の子は正直に言った。
 力強い手が、今度は小さな頭を優しく撫でた。「たはは。なかなかない経験ですね」照れ笑いと共に呟いて彼女は目を伏せる。
「ありがとう。僕のわがままを聞いてくれて」
「まあ、戸籍の復活とか諸々の処理は若杉の得意技ですし。大したことはありませんよ」
「そうじゃない。君が僕の願いを聞き入れてくれた、そのことに感謝してるんだよ。
若杉の力に礼を言ったわけじゃない」
 女の子は少しだけ顔をゆがめた。何かを思い出したのだ。もしかしたら痛みのある幸福を。
 彼女の持つ力ではなく、彼女自身を認められるという、切ない幸福を。
 彼は手を離すと、すでに誰の姿もない道の先へ視線を巡らせた。まっすぐに続く道を見通しながら、どこか憂いを含んだ表情で吐息をつく。
「さて、僕はこれからどうしようかな」
 びゅおん、と強い風が吹いた。思わず目を細めた彼の前に、女の子が躍り出る。
「なにを言ってるんです? 帰るんですよ」
「……なに?」
 不覚にも呆気に取られてしまった。「しかし」怪訝な表情を浮かべた彼は反駁のために口を開いた。
「僕にはもう、鬼切りの力はない。
桂のことだって、柚姉を通じていくらでも様子を探ることができるだろう。だから僕は」
 ひたり、指先が突きつけられる。
「いい加減にしないと怒りますよ? あなた、よく自分に何も言わないって怒ってましたけど、だったらこっちの言うことはもっとちゃんと聞いてください。
鬼切りについてですが、それは諦めたと前に言ったはずです。お忘れですか?」
「な……、あれは僕に役をつけようとしていた話のことじゃないか」
「そんなことは言ってませんよ?」
 彼の唇が苦くゆがむ。「それにしてもだ」かたくなに拒否の態勢を崩さない様子に、女の子が小さく肩をすくめた。
「桂おねーさんのこともです。いくら柚明さんというコネクションができたからって、わたしがほいほい接触したらおねーさんの記憶を消した意味がないでしょう。柚明さんも、もう『こちら』の人ではないのですから、必要以上に近づこうとは思っていませんよ。
というか、はっきり言うとですね、そのへんのことは関係ないんです」
 腰に両手を当てて見上げてくる彼女の双眸は、どこか小さな弟に言い含める姉の気配をただよわせていた。
 彼はどことない懐かしさを覚える。
 こんなふうに、偉そうな顔で見つめられる経験が、彼にはあった。
 しょうがないな。記憶が幼い声を届けた。
 
 しょうがないから、はくかちゃんにあげる。
 
「あなたはあなただというだけで、わたしにとって価値があるんですよ」
 
 だから、ないちゃだめだよ。
 
「……葛は、僕の力と血にしか、価値を認めてないと思ってた」
「千羽の直弟子で桂おねーさんの兄だからですか? 見くびられたものですねー。むしろその辺りはデメリットなのですよ。
千羽党はあなたの噂を聞きつけて自分のところに引き込もうとするし……これは烏月さんが止めましたけど。
ちょっとだけ桂おねーさんと似てるから時々寂しくなるし。これでそっくりだったら五分と隣にいられないところです」
「二卵性だからね」
 苦笑するしかない彼だった。
「けっこう苦労してたんですよ。鬼切り部に下るわけでもなく、なにか若杉のポストについているわけでもないあなたがわたしのそばにいることを、みんな快く思ってませんから。未だに、わたしに取り入ろうとする人たちが後を絶たないのですよ。そういう人たちからすれば、あなたは非常に羨ましい位置にいるわけです」
「ああ、そうか。僕を要職につけようとしていたのは、そういう魂胆だったんだ。高いところに置けば小物は手が届かないと?」
 彼には珍しい、皮肉を含んだ言い方だったが、事実なので女の子は頓着しなかった。
「本当に気づいてなかったんですか? さすが桂おねーさんのおにーさん。わりと天然ですね」
 やれやれ、と首を振り、女の子が見上げる視線を和らげる。
 彼はその視線を受け止めた。
「たとえのつもりだったんだけど、本当に茶飲み友達だったわけか」
 首を傾げられた。意味が判らなかったのだろう。
 彼の唇から、ゆったりと吐息が洩れた。
「鬼切りの力はないし、桂と関わることもないけど」
 先ほどとは違う意味の問いかけ。
 否、確認か。
「かまいませんよ」
 満面の笑みで、彼女は頷く。
 子狐のような淡い色の髪が軽やかに揺れた。
「鬼は切れなくても、人間社会の魑魅魍魎くらいは退けられますよね?」
「まあ、それくらいなら。ただ、還暦を待たずに僕は死ぬだろうけれど」
「充分ですよ。それまでに、誰もわたしには手出しできないようにしておきますから」
 自信満々だった。これが驕り高ぶりでないのが恐ろしいところだ。
 彼は彼女を好ましく感じる。あどけなさの広がる今は、その好ましさが他の何かに変化することなどないけれど、もしかしたら将来的に別のものへと変わるのかもしれない。恋ではないとしても。
 またしても、記憶の声がこだまする。
 だいじにするんだよ?
 ああ。彼は脳裏に響く偉そうな声に、穏やかな頷きを返した。
 大事にするよ。
 女の子が、歩き去った少女達とは逆の方向を指差す。
「戻りましょうか。わたしたちの世界に」
「それは僕の台詞だ」
 ひどく静穏な声で彼は言った。
 
 
 
 大事にするよ。
 君が置き忘れてしまったこの小さな友人を、僕がこれから大切にしていくよ。
 命尽きるまで。
 一生涯。



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