ディアレスト 06


 柚明の体力が回復するまで旅館で休憩を取ってから、白花は柚明と共に鬼切り頭のもとへ向かった。汀も途中までは同行していたが、目的の駅で別れて今は一人だ。
 日はとっぷりと暮れている。街灯の丸い光が点々と落ちる中を汀は歩く。
 夜遅いから、とか、そんな配慮をしないのが喜屋武汀だ。
 そして彼女も、そんな喜屋武汀だと知っている。
 窓枠にもたれかかっている彼女と目が合った。双方ともに驚きもしない。彼女にいたっては「ああ、やっと来た」とでも言いたそうな待ちくたびれた表情だった。
 不意に泣きたい気分が襲う。
 満足そうな白花の顔が、半透明の幻となって彼女の顔に重なった。
 手を上げて合図を送ると、彼女の姿が窓から消える。
 玄関のドアが開くまで、汀は目と目の間、眉間の下あたりを自分でつまんでいた。
「おかえり」
「ただいま」
 いつもと同じやり取りと、いつもと同じキスをする。汀はいつも、ここでいきなり彼女の家族が顔を出したら面白いなと思うのだけど、現実になったことはない。
「どうだった?」
「寒かった」
 だから暖めて、と耳元でねだったら、「サカらないの」と呆れたふうに言われた。そのくせ彼女は逆らわない。
 窓を開けていたせいか、梢子の部屋はうっすらと寒かった。
 コートだけを脱いだ汀は、梢子を抱きすくめてもろとも床へと倒れこんだ。彼女の身に着けている寝間着の裾がわずかに乱れて脇腹が覗く。唇を塞ぎながらシャツの隙間へ指先を這わせると、「ちょ、ちょっと汀。ストップ」首を捻ることで唇を解放させた梢子がやや焦り気味に待ったをかけてきた。
「一体ぜんたい、どうしたのよ。いつもはもうちょっと、……その……ゆっくりなのに」
 そうだったろうか? うまく思い出せない。思考を悠揚と回せるほどの執行猶予が己にない。
 「ほしいから」汀は端的に答える。常ならば一言えば済むところを十は言葉を連ねる汀が、一にも足りない返答をする。
 汀は実感がほしかった。彼女がここにいて、彼女の心がここにあって、彼女と己がひとつではないという実感。
 半分なんて冗談じゃない。ほんのひとかけ足りなくても耐えられない。
 同化するなんてとんでもない。そんな考えが正しいなんてどうかしている。
 彼女が女の子で良かったと心から思う。
 汀はもう、比喩表現としてですら、彼女とひとつになんてなりたくなかった。
「まったく……、少し落ち着きなさい。慌てる乞食はもらいが少ないって私に言ったのはあなたじゃないの」
 動揺の消えきらない瞳が見上げてきて、両手で頬を包み込まれた。
 焦燥の冷えきらない気持ちがこみ上げてきて、脇腹に触れかけた指先が煮えきらない様子でうごめいた。
 そっと引き寄せられて、綿菓子みたいな口付けをされる。
「どうしてそんなふうになるの? 汀は私の全部を好きにしていいのに」
 その言葉にときめきの煌きはなく、丹念に磨かれた木像のような艶だけがあった。
 身勝手という名の柔らかい布地で何度も何度も、力を込めずに撫で磨いた結果の想い。
 潤む双眸は、愛しさと、切なさのため。
 するり、彼女の首筋へ鼻先をこすりつける。
「本当?」
「私が嘘つけないの知っているでしょう?」
 「まあね」久しぶりに汀が笑う。
「じゃあ、ちょうだい」
「いいけどベッドでね。床ってわりと痛いんだから」
 するり、腕から抜け出られて、汀は軽く「えー」と思った。
 
 天空が円遊する。地面はジレンマに揺れて空気は有機的に震えた。切羽詰った熱波が肌を焦がす。何度となく安堵が訪れ、汀はぬるま湯にくるまる。
 周囲がすべて奇跡みたいだった。
「ふ……っ」
 耳元でかすかに鳴る享楽。くすぐるように腹部をなぞって、ぺろりと耳朶を舌先ですくう。すくむ身体をつないだ手が閉じ込めた。夜陰の繭の中で、汀の眉が切なく歪んでいる。白い花弁が脳裏でちらついている。止む気配はない。
「オサ、声出してよ」
「馬鹿……っ。できるわけないじゃないの……っ」
 もちろん汀だって他者にその声を聞かせたくはないけれど、それと同じくらいその声が聴きたい。そうすればひらめく白は吹き飛ぶのだと信じているようだ。残象は実体がないから、どれだけ熱を高めても溶けることがない。
 焦燥感が追い立ててくる。雪花が視界を覆って、汀は白闇に取り残される。
 彼女はここにいるのに。彼女の心はここにあるのに。実感は、確かにあるのに。
 ひどく頼りない気分だった。灯りはなく(残念ながら己は水である)、一歩ごとに足が沈んでフラフラする。
「…………」
 祈りのように梢子の鎖骨へ口付けて、腹部へ添えていた手を内側へ滑らせた。
 尻尾を踏まれた子犬の悲鳴に似た、引きつれた音が梢子の喉から洩れ出る。切実さと愛情の入り混じった手がシーツを強く掴んで、逆の腕で汀の頭部をかき抱いてきた。押し殺しながらも名を呼んでくる声は汀にしか聞こえない。
 一定のリズム。呼び声は歌うようで、時折鋭く吸い込まれる。
 迫り来る巨大な質量を持った何か。
 
 上昇。
 
 眺望。
 
 絡みつく。
 
 迫り来る。
 
 狭まり狂う。
 
 爆ぜる。
 
 凪。
 
 くたりと梢子の身体が沈む。腕を引いた瞬間、残り火が少しだけ彼女を焼いた。
 まぶたへ唇を落とすと返礼のように髪を梳いてくる。手首を掴んで、手のひらから肘へ道筋を点々と唇で辿る。艶めいた潜み音が梢子の口からこぼれ落ちた。
 こっち、と潤む視線で促されて唇を重ねる。ついばむように一瞬、次はもう少し長く。
 とろとろと緩いまどろみに似たキスが不意に深くなった。汀は軽く訝ってまぶたを上げる。首筋に両腕が回された。それは捕縛の意味を持つ。
「……オサ?」
 戸惑いの見える呼びかけに梢子は淡く笑んで、汀の顎先を唇でくすぐってきた。
 彼女の行動がどういった意図の元に現れたのか判らないほど、汀は鈍感でも愚かでもないし、研ぎ澄まされた感覚は簡単に感化する。
「嫌?」
「別に嫌じゃないけど……オサがそっちに誘ってくるのって珍しくない?」
「汀がしてほしそうだったから」
 彼女はくすくす笑っていて、隠そうとする気は最初からないようだった。
 まったく、この正直者め。
「汀が私の全部を好きにしていいんだから、私だって汀を好きにしていいでしょう?
それにあなた言ったじゃない、好きなだけ触っていいって」
「うーん、そこまで言われちゃ仕方ない」
 わざと茶化した口調にしたのは、あるかなしかのプライドのせいだ。それすらもまた、梢子の手の中にあった。
 梢子が首を持ち上げて鎖骨に噛み付いてくる。ぞくりと震えて、包み込むように身体を沈めた。
 髪の毛一筋から爪先まで、辿った跡に色をつければ隙間がないような丹念さで触れられる。粘性の高い空気がベッドの中にこもり始める。源は二人の吐息。すがりつきたいのを堪えるためにシーツを強く掴む。反らした喉に唇が押しつけられた。
 
――――あ、こういうことかも。
 
 瞬間、ひどく抽象的に汀は思う。自分自身の根源にある、信念とか本質みたいなものに指先がかかった気がして思わず薄目を開けると、それは文字通り瞬く間に霧散した。
 彼女に触れても埋まらなかった空虚が、彼女に触れられることで埋まった気がする。
 欲しいと願ったものを手に入れる方法はいくつかある。
 創造する、奪取する、譲り受ける。
 与えられる。
 どちらも何も減らすことなく、移りゆくこともなく、かといって増えもせず。
 一足す一は二であるというだけの、単純明快にしてとんでもなく美しい定理だった。
 汀は理解をしない。分析も解析もない。思考は疾走することなく失踪して行方をくらます。
 ただ感覚する。
 比喩も比較もなく、彼女がただ唯一であるということ。
 だからこそ、欠けることすら許せないのだと。
 感情に支配されて自己を見失う。けれど無くなったわけではない。見えないだけだ。ここにある。汀の身体と心はここに在る。そして彼女も。
 重苦しい焦燥感の中で汀は梢子を抱きしめた。
「オサ……オサの中に、あたしはいる?」
「あなたはそこにしかいないじゃない」
「……ははっ」
 ああ、そう、こういうところ。
 あまりにも真っ直ぐすぎて、思考は無意味で、閃きすら必要とせずに真理に辿り着いてしまう。そんな愚直という性質を持つ彼女だから、彼女を選んだ。
 いや、選ばされた、かな。不可視の手に腹の底をくすぐられながら汀は胸中で独白した。
「だから汀は汀のまま、ちゃんとそこにいなさい」
 自身に所有権があるとは思っていないが、かといって他の誰かに汀を弄ばれるのは我慢がならないのだと梢子は言う。それがたとえ神であったとしてもだ。
 人である梢子が、人である汀へと告げるその言葉は祝詞ではなく、祈りとはかけ離れていた。
 けれど命令の傲慢さも懇願の卑屈さもない。
 ただ、ただ、「それは定理としてそう決まっているのだ」と、前提条件として書き出されただけの通達だった。
 喜屋武汀はここにいる。
 小山内梢子もここにいる。
 二人はそれぞれ個々に居る。
「オサって面白い」
「そう? 逆のことを言われる方が多いんだけれど」
 堅物で面白味がない。そんな評価ばかりを受けてきた彼女は、汀の言葉をうまく理解できなかったのか、きょとんと目を丸くした。
「あたしには充分面白い。オサがいない人生はさぞかしつまらないでしょうね」
 ひひ、と品なく笑いながら指の背で彼女の鼻を擦りあげると、その鼻梁にしわが寄った。くすぐったかったようだ。
 「……まあ、汀の人生の潤いになってるなら何よりだわ」苦笑がちな表情で、お返しのつもりか顎をくすぐってくる。「ひゃひゃひゃ」更に品のない笑声がこぼれた。
 そう、潤い程度が良い。
 彼女のいない人生はさぞつまらないだろうが、彼女しかいない人生もまた、同じくらいつまらないに違いないのだ。
 人は水がなければ死んでしまうけれど、大量に取り込んでもまた、死に至る。
 人の許容量を越えた水を得ようとするなら……人ではないものになるしか、ないのだろう。
 彼のように。
 顎をくすぐっていた指先がいつしか艶を帯び始め、呼応するように汀の笑声も失せる。代わりに洩れるのは磨かれたあでやかな嬌声。
 触れられるたびに、汀は潤う。
 くしゃりと梢子の髪をかき回した。間近で見つめ合う瞳はどちらも春に蕩ける。
「――――良すぎておかしくなりそう」
「いいわよ別に。そうしたらまた連れ戻してあげる」
「キスで?」
「キスで」
 照れるかと思っていたけれど、そうでもなかった。
 お喋りは終わりだというように唇をふさがれた。
 人工呼吸でも栄養補給でもない、ただの愛情表現としてのキスが、二人の境界を確かなものにする。
 
 おかしくなりそうなほど深く深く絡み合う。
 
 さなか、あの少女はちゃんと出逢えたのだろうかと、そんなことを思った。
 
 出逢えていたら良い。
 こんなふうにでも、もっと別の形でも、特別な一人と確かにつながって、幸福でいたら良い。
 そうでなければ。
 彼の半分が、あまりにも哀れだろう。
 
 瞬間、汀の鬼を視る目が一粒涙を落とした。
 
 汀は嘆いていた。……嘆いていた!
 あの、自らの半分を削り取った自分とは違う少年。
 善人すぎた優しい彼の、その片割れをひたすらに嘆いた。
 鬼切りの非道さも、心優しき覚悟も得られなかった、哀れな善人!
 そんな彼の半分たる、永遠に叶うことのない、触れ合うことすら許されなくなってしまった恋心を、汀は哀れみ、悼んだ。
 あれは、あの霊木は墓標だ。いつまでもあの場に留まり続け、消えることのない恋心の死体が埋葬されたしるしだ。
 嫌悪。そしてまたも憐憫。
 持つ者を羨んだ持たざる者に、どうしようもなく感情を揺さぶられる。
 あんな。
 あんな『永遠の恋』が正しいなど、あってたまるものか。
 
「……汀? 痛かった?」
 涙に困惑したか、不安げに問いかけてくる梢子へ微笑み返す。「平気」「そう……?」戸惑いの消えない瞳をまぶたに当てた唇で隠させる。再び現れた時、不安は消えていた。
 汗ばむ身体が絡んで、それは驚くほど熱くて、生命活動そのもので、生殖行為ではないけれど、二人のおもてには生色が溢れている。
 生きている。
 不意に実感した。
 
 その事実の、なんと幸福なことか。
 
 お互いに心と身体の何も変化せず、『次』を迎えられる幸運の、なんと得がたいことか。
 
「――――ありがと、オサ」
「? なにが?」
「や……なんでもない」
 さようなら。さようなら哀れな君。
 相互理解は夢のまた夢だった。だけど二人だけのイレギュラーな一日は、本当は、けっこう楽しかった。
 でも、もう次はない。
 彼は特別ではないから。そしてまた、汀も彼の特別ではなかったから。
 二人の糸は絡まることなく、一瞬だけ触れ合って、すぐに離れた。
 彼の半分は神に接ぎ、もう半分はどこにも継がれず、汀は想いを彼女に告ぐ。
「オサに触れていたい」
 それは、ひどく抽象的に。
 終わりがいつかは判らないけれど。
 きっと永遠よりは短い期間。
 「知ってる」梢子がいやに真剣な口調で答えた。その言葉は同意と同義で、つまり彼女も同じ気持ちであるということだ。そうだ、汀は気づく。触れたがったのも、声を聴きたがったのも、彼女の方が先だった。ならば積み重ねた時間の分だけ、彼女の方が、想いとしては切実であろう。
 青々とした未熟な二人の切実だった。
 今日か明日かと怯えながら、裏側では「なんとなくだけど大丈夫なんじゃないかな」と楽天的に考える未熟さ。
 だから汀は彼の永遠性を厭った。恋心の死体を気味悪がりながら、実は同じようなものが身の内にあると気づいていて、認めたくなくて否定した。
 忘れたくて、生きている彼女の恋をかき抱いた。
「ねえ、抱きしめてよ」
「……ん」
 梢子の腕が、脚が、腹部が、全部が、汀を包み込む。
 汀の口から吐息が洩れた。
 こんなにも、一人と一人は確固とするものなのかと、感動すら覚える。
 マヨヒガから好きなものを持ち帰った人は、その先ずっと幸福に過ごせるのだという。
 それはきっと、本当だ。
 汀は穏当に笑った。
 彼女の心はここにあり、彼女の身体はここに生きている。
 おそらくは始めからそうなっていて、これからも変わらずにいるのだろう。
 同じように自分も。
 
 それは二人が持っている、いとしき性。
 
 
 
「あたしら、いつまでこうしてるのかなー」
「汀がこっちに来るまでじゃない?」
「そういう意味じゃないんだけど」
「そういう意味よ」
 
「一緒がいい?」
「一緒がいい」



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