ディアレスト 04


「寒い寒い寒い昼でも寒い雪が冷たい無理マジ無理これ死ぬ凍死する」
 呪詛のように呟き続ける汀の泣き言を背に受け、白花は困ったように振り返った。
「もうすぐ着くから、少しだけ我慢してくれないかな」
「バス降りてからずっと我慢してるっての!」
 怒鳴ったら口の端が切れた。うおぉぅ、汀が口を押さえて悶える。
 北国の冬の寒さは想像以上だ。少ない脂肪をカバーするためにこれでもかと着込んだ衣服の壁を易々と乗り越えて、寒気は汀の全身を撫でていく。
「喋ってないと気ぃ失いそう」
「なら、もう少し楽しい話をしてほしいな。さっきみたいなのだと、なんだか僕が呪われそうだ」
「気分的には烏月を呪ってやりたいから大丈夫」
「……大丈夫じゃないと思うけど」
 益体もない会話をしつつ二人は歩を進める。汀は本当に烏月への恨み言を会話の端々に交ぜていた。そのたびに白花は困ったように笑っていた。
「にしても、妙に安定してない? ここ。神を封印してる場所って、大体が無理やり押さえ込んでる力の余波で揺らいでるもんだけど、これじゃまるで、強力な山神が治めてる霊峰ばりじゃない」
 山ノ神はどこにでもいるものだ。しかしどこでも安定しているわけではない。人の手が入ったり、逆に人の信仰がなさすぎたりして、神の力が弱まれば当然山は荒れる。森だったが、汀は近い過去にそんな寂しい場所を見たばかりだった。
 白花は前方を向いたまま答えた。
「山神の力はそれほどでもない。でもここには別の、土地神みたいな存在がいるんだ。そっちが蛇神を抑えているから山神は影響を受けない」
「土地神?」
「古くから封印を守ってきた存在だよ。オハシラサマと呼ばれてる、僕の家が代々奉ってきた神だ。祭儀を取り仕切っていたのは烏月の家だけど」
「千羽の?」
「古い話だよ。今はどちらも廃れている」
 どういうわけか、白花の笑みは寂しそうにかすんだ。
 「さあ、お待たせ。到着だ」わざとなのか白花が調子を上げた声で告げて、道を開けるように一歩横へとずれた。
 汀が思わず喉の奥で唸った。少し開けたその場所の、ひときわ大きな樹木が何であるのか察したせいだ。そのあまりにも強大な、かつ清冽な力に圧倒された。
「槐、よね?」
「そう」
「木偏に鬼か。そりゃあ、封印にはこれ以上ないほど相応しい樹だわ」
「はは、懐かしいな。前に桂とそんな話をしたっけ」
 なんの抵抗もなく歩み寄って幹に手を触れる白花。おいおい、と思わず汀は口の中でツッコミを入れた。よくまあ、これだけ強力な樹にあっさりと触れるものだ。こちらなど、足がすくんでなかなか動かないというのに。
 そうは言っても、槐から悪しきものは感じられない。まったくの逆だ。何が起ころうと、槐に宿るモノはこちらに危害を加えないだろうと確信できる。それほどまでに、安定していた。
 だから汀が感じている畏怖は単純な力の差だ。それこそ広大な自然に覚える感動に近い。
 何が起ころうと、自分はこれに勝てないだろうと、戦う前に、戦う気のない相手に屈服させられるような感覚。
 白花はそんな偉躯をいとおしげに撫でている。それと同時に見える逆の感情。
 封じているものへの思慕と、封じられているものへの憎悪。そんなふうに汀は感じた。
 少し奇妙に思えた。オハシラサマといったか。白花が生まれるずっと前からそれは崇められていたのだろう。まだ年若い彼がそんなふうに想いを馳せる存在とは思えないのだが。それに、彼の表情に浮かぶものは信仰というよりむしろ、もっと俗物的な感情であるような気がした。
「随分と時間がかかった」
 その表情は、まるで……。
「じゃあ、早速始めよう」
 汀の思考をさえぎるように白花が言った。「あ、ああ、うん」汀はへどもどと応える。
 槐から離れて、その手前、汀と向き合う形で白花が雪の上に腰を下ろす。汀も思考を切り替えた。目を閉じて、開く。私情を裏側に押し込めて、与えられた任を忠実にこなすための、鬼切り部としてのスイッチを入れる。
 白花の正面へ彼と同じように座り込んで、コートの内ポケットから葛に預かった符を取り出した。
 符を挟み込む形でパンと両手を打ち鳴らす。白花は静かに両手を合わせた。
 ちらりと白花を見やる。一瞬のアイコンタクト。それが済んでから二人は同時に口を開いた。
 
「高天原に留まりおわす青衣の神、言離つ神、一言主の御名より以りて、浮き立ちたる御魂これの庵と慎み賜りまおさり」
 
 一言一句相違のない、同じ文言、同じ調子の祝詞が響く。
 木々がざわめいた。その中で、白花の背後にある槐だけが静寂を保っている。
 
「言祝ぎにより御魂、現世のあわれなり過ち・罪・穢れより解き放たれども、人の世の定めがたき、儚き縛めにて嘆く身がまおさく、葛城の大神に賜りし一言を今一度返納し、新たに半霊奉り、其をもって一柱とし継ぎ奉らば、人の世を平けく安けく、禍つ長きものは出でず、引結べる葛目のほころびなく、悪しき念の蛮声、万世に響かぬよう仕え奉らしめ給えと申す」
 
 降りしきる雪が、一瞬舞った。
 汀の額から一筋だけ汗が伝った。
 
 穏やかで強大で優しくて重厚なもの。槐に閉じこもっていたそれが、じわりじわりと幹の表面から滲み出してくる。手のひらから浮かぶ汗が符を湿らせた。呼吸もまた、浅く速くなる。
 集中力を途切れさせるわけにはいかない。汀は腐心して祝詞をあげ続けた。
 
「またまおさく、今宵しも御魂還しのいやわざ、甘らにきこしめし、夜の守・日の守に守り給いて、汝が霊代、しばし静けく、おだいに槐の庵へ還り留まり坐せと、かしこみ、かしこみもまおす」
 
 最後の一音が二人の口から流れて、雪がそれを吸い込んで、二人は深々と礼をした。
 鬼切り頭に宿る神への祝詞が立ち昇っていく。それと連動するように槐は鳴動し、さらに中のものを……オハシラサマを、解き放っていく。
 不意に収束の気配。同時に濃厚な力が薄らいで、汀は上げられずにいた頭を戻した。
 顔を上げた先、己と白花のちょうど中間地点に、それは在った。
 いや、汀の心境を正しく表すなら、そこに、彼女はいた。
 儚げな少女だった。軽く目を閉じて、俯き加減に佇んでいる。ほんの少し、白花に面影が似ている気がした。性差を越えてそんな感想を抱かせるならば、彼女は彼の遠い先祖であるのだろうか。オハシラサマという存在の成り立ちをかいつまんで説明されていた汀はそう思う。
 オハシラサマが双眸を現した。
「――――柚姉」
「え……?」
 白花の表情は、オハシラサマに隠れて見えない。
 けれど汀はごく簡単に想像できた。
 それは信仰でも尊敬でもなく。
 もっと俗物的で、慕わしい、特別な感情。
 彼が彼女を呼ぶその呼称は、神への呼びかけとしてはあまりにも近すぎた。
 オハシラサマが振り返って白花と向き合う。
「白花ちゃん。どうして、こんなことを?」
 今度は彼女の表情が窺えなくなったが、その声音は悲しみに沈んでいた。
「私をこのようにしてしまっては、また繰り返しになるわ。若杉のご当主が、せっかく全て収めてくださったのに」
「収まってなんかいない。他の誰が『全て済んだ』と言っても、僕にとっては何も終わっていないんだよ」
 白花が立ち上がってオハシラサマへ近寄った。彼女は少しだけ怯えたように肩を震わせたが、すぐに肩から力は抜けた。
 そこで汀は気づく。オハシラサマの輪郭、切り揃えられた髪の先や、身につけている和服の裾が微妙に霞んでいた。あれはおそらくオハシラサマのごく一部だ。実体化するにはわずかに力が足りないのだろう。
「葛にも了解は得ている。柚姉の人格だけを元に戻して、それに現身を与えることで、柚姉を『こちら』に戻すんだよ」
「けれど、それでは封印が――――」
「うん、だから」
 なんのくったくもなく、白花はひどく綺麗に笑った。
「柚姉に僕を半分あげる。柚姉の一部が抜けた穴を僕が塞げば、封印は揺らがない」
 思わず汀は手のひらで押さえたままだった符へ目を落とす。
 そういうことか。口の中だけで呟く。
 霊格を安定させるための術だと聞いていたし、祝詞の内容でおおよその中身は知れていたが、まさかそれが、生きている人間から御魂を半分抜き出して別の御魂と融合させるものだとは思っていなかった。
「ちょ、ちょっと白花さん」
 呼び声に白花だけでなくオハシラサマの視線まで自分に向いて、汀はかすかに怯んだ。
「あなたは……?」
「喜屋武汀。鬼切り部で葛さまの遠い部下です」
「そうですか、葛さまの。すみません、白花ちゃんがつき合わせてしまって」
「や、それはまあ、別に構わないんですけど。というか白花ちゃんって」
 いくら女の子みたいな名前だと言っても、彼は立派な男性である。汀がうっかり追及してしまうのも無理はない。
 オハシラサマが困り笑顔で「そうですね」と首肯した。
「小さい頃からそう呼んでいたものですから」
「いやいやいや、あんた大昔から槐に宿ってる神様でしょ? ひょっとしてちょくちょく降りてきてたとか?」
「いいえ」
 かぶりを振ってオハシラサマが説明を始める。汀の失礼な物言いには頓着していないようだった。
 説明を聞き終えた汀は頭を抱えた。
 俗物的なはずだ。白花の中に厳かなものなど何もない。
 思っていたとおりだったのだ。
 彼の内側にあるのは、ただの。
「白花さん、あんた馬鹿でしょ?」
 じっとりとねめつけながら言ってやると、彼は少々鼻白んで、それから肩をすくめた。
「御魂を半分捧げるってことは、あんたを構成する四分の一を失うってことよ?
鬼を切る力もなくなる……残ってもほんのわずかだろうし、寿命だって縮むでしょうよ」
「鬼切りは無理だろうね。寿命も、まあ三十年ってところかな」
 簡単に言う白花に、汀は一周して感動にも近い呆れを覚えた。
 なるほど、葛の言う通りだ。なんの意味もない。マイナスにしかならない。
「これでも僕としては譲歩してるんだよ。本当は完全に柚姉と入れ替わりたいんだけど、そこは葛が納得してくれなくて」
 ふぅ、とオハシラサマが息をついた。咎めるというほど強くはないが、白花へのかすかな非難は込められた吐息だ。
「……葛さまは、あなたまで失いたくないのでしょう」
「葛が僕を惜しがるのは、僕が桂の兄だからというだけだよ」
 オハシラサマへ自嘲気味に答えた白花が視線を汀に戻す。
 これだから善人は嫌だ、と思った。
 善人は、簡単に殉教者への道を選ぶ。
 汀は責め苦に耐えながら生き抜く罪人の方が好きだ。
「さて、それじゃあ術の続きを――――するのはもう少し後かな」
 白花が鋭さを増した視線を巡らせて、細長く息を吐いた。「無粋な」忌々しげな呟きが耳朶を打って、それで汀も周囲に点在する気配に気づいた。
 封じが緩んだ一瞬に気をつけろと葛が忠告していたのを思い出す。実際には一瞬どころか長々と話し込んでしまったわけだが。
 おかげさまで、封じられていた神が悠々と出てきてしまった。
 とはいえ、抜け出せたのはごくごくわずかだ。白花の言葉の直後、オハシラサマの姿がかき消えた。そこで緩みが消失したから、現れたのは人型すら取れない力の欠片だけである。
「あたしの得意技に蛇の目ってのがあるんだけど、だからって蛇とお友達にはなりたくないなー」
 いそいそとバッグから目当てのものを取り出しつつ気楽な調子でうそぶく。一応の用心として持ってきておいて良かった。
 三分割された金属製の棒を取り出して手際良く組み立てた。普段使いの棍とは違って刃は仕込まれていないが、あの程度ならこれで充分だろう。ちなみにいつもの棍を持ってこなかったのは、あれを持つには手を外に出さなければならないからである。寒いから嫌だったのだ。
「うおっ、冷たい! 棍が冷たい! これはミギーさん一生の不覚!」
 金属の熱伝導率を甘く見ていた汀が喚いた。
「身体を動かせばすぐに温まるよ」
 背後から声が聞こえた。いつの間にか、白花が汀に背を向けて構えている。
 「それもそうか」汀も棍を構えた。
「背中預けるのはちょっと癪だけど仕方ない。さっさと片付けましょうか」
「僕じゃ頼りないかな」
「じゃなくて、あたしが背中預けていいのは一人だけって話。しかもそいつにだけは背中を預けたくないっていうお悩み付き」
 よく判らなかったのか、白花は適当に頷いた。
 蛇の数は五十に少し足りないか。一匹が白花の腕ほども長さと太さがある。二人を囲んでじりじりと這い寄ってきている。気の弱い常人なら卒倒しそうな光景だったが二人とも平然としていた。理由は違えど蛇にはそこそこ親和性のある二人である。
「じゃ、始めますか」
 足元へ猛スピードで這い進んできた蛇の頭を棍の先端で叩き潰す。潰れた瞬間、それは黒い霧となって消失した。
 それを契機としたか、残りもいっせいに飛びかかってきた。汀は棍を巧みに操ってそれらをあしらう。白花は徒手空拳で応戦していた。
 上下から同時に迫り来る蛇を、上は棍で叩きのめして、それから身を低く構えて足払いの要領で地面を擦りそうなほど低い蹴りを繰り出し下の蛇を粉砕。支点としてついた手を狙ってきた一匹を跳び退ることで避け、一直線に振り下ろした棍の中程によって潰す。
 死角となる背後を気にする必要がないので、ずいぶんと楽だった。癪だが安心はできる。
「お見事」
 小さく賞賛の声が聞こえた。そういう彼もまた、武器も持たずに次々と蛇を叩きのめしていた。そこに少々の感情を読み取る汀だった。恨みつらみに怨念邪念。あまり彼には似つかわしくない感情だ。けれど人間味があって良いと汀は思う。常に穏やかで負の感情を出さずにいる完璧超人より、こういった泥臭い部分が見える方が好感は持てる。
 蛇神にどんな恨みがあるのかは知らないが、どんな理由であろうとこの状況においては良い方にしか影響しない。
 そんな、どうでもいいことを考えていたせいだったのか。
 ガサリという音を感知した時には遅かった。
 右前方の上空。木の枝から弾丸のように突っ込んできた、ことさら大きな一匹に反応するのが一瞬遅れた。
 なまじ蛇という馴染み深い生物だったのが災いした。枝から落ちてくることはあっても、通常、蛇は地面を這い回っているものだ。枝から跳んで襲いかかってくることなどない。だから予測できなかった。
 白花の手を避けられなかった時と同じだ。
 目には映っているのに反応出来ない。
 けれど、思考は走っていた。
 
 ああ、『今日』だったか。
 
 汀は静かに思う。
 いつだって恐がっていた。その日が来ることを。
 彼女から自分が損なわれる、そんな絶望が訪れる日を、今日か明日かと怯えていた。
 だから嫌だったのだ。特別な存在なんて作るものじゃない。漆黒の鬼切り役だって、そう言っていたじゃないか。
 かけがえのない存在が欠けたら、そこにはもう絶望しかない。
 欠けに代えはない。
 
――――駄目か。
 
 やっぱり電話をかけておけば良かった、それだけが後悔。



NEXT
HOME