ディアレスト 03


 サラサラと宿帳へ記入している手の動きを覗き見る。几帳面な達筆だった。ペンを持つ手の甲に、中指から伸びる骨が真っ直ぐに浮き上がっている、それによく似た字を書く。
 羽藤白花。今更だが汀は彼の苗字をここで初めて知った。
 汀はフルネームを知っても、少し変わった苗字だなと思う程度だったが、返された宿帳を確認した女将は「おや」と眉を上げてコミカルな表情をした。
「羽藤って……お客さん、もしかしてあの羽藤様のお方ですか」
「ええ、一応直系です」
「それじゃあ、あのお屋敷のことでこちらに?」
「家は僕のものではないので。今回は人に会いに来たんです」
 そうですか、と女将は頷いた。おそらく友人にでも会いに来たと思ったのだろう。
「ええと、お部屋は一部屋でよろしいですね?」
 さも当然というふうに聞かれた白花が困り笑いをした。
「……よろしくは、ないですね。二部屋でお願いします」
「あらあら、ごめんなさい。あたしったらてっきり」
 ほらやっぱりだ。女将から見えない角度で白花の脇腹を突くと、彼はわずかに身を捩じらせて、こちらへ申し訳なさそうな視線を送ってきた。
 部屋へ向かう道すがら汀が白花に問いかける。
「あなたの家って、こっちじゃ有名なの?」
「昔、ここいら一帯の地主をしてたんだよ。長者の羽藤様ってわりと尊敬されてたらしいけど」
「おぼっちゃんだ」
「僕が物心つく頃には普通の家だったから、別にそういうわけでもないよ」
 しかし、彼の顔立ちやかもし出している雰囲気からすれば、むしろそちらの方が相応しい。静穏で冷静、色々な機微を読むことも出来るし物腰も柔らかい。顔立ちも整っていてどこか高貴な雰囲気さえ漂わせているから、普通に暮らしていれば本当に『お金持ちのおぼっちゃん』で通じる。
 けれど、今の彼は決定的にそうではない。
 先ほどつついた脇腹の感触、目を凝らせばいくつも見つかる細かな傷跡。
 引き締まっていてバランスの良い肉体だったが、それは明らかに、美しく見せるためではなく、生き残るためにそうなった身体だった。
 そんな身体を手に入れる必要が、彼にあったのだろうか。
「白花さん」
「なんだい?」
「あなたが鬼切りになった理由って、なに?」
 問いかけに白花は小さく笑う。
「怒っていたから、かな」
 意味不明だ。
 汀がもっと詳しい説明を視線で求めると、拳が眼前に迫って、手の甲で額を撫でるように小突かれた。
 その感触を認識した瞬間、汀は驚きに目を瞠った。
 通常であれば、汀はその拳を避けただろう。軽々しく触れられるのは好きではない。一人を除いて。
 しかし避けられなかった。速すぎて見えなかったということでも、逆に遅すぎて思考リズムを狂わされたわけでもなかったのに、汀は彼の手を認識できなかった。
 視界の端で木の葉が落ちたような感覚。見えているのに、それが己にもたらす影響を感じ取れなかったのだ。
 もしも彼が、額を撫でるのではなく首をへし折りに来たらどうなっていたのか。
 光景をシミュレートして唾を飲み込む。汀の喉が上下する。圧倒的な力の差を見せ付けられて、何も言えなくなった。
 やはり彼は、ぬくぬくと育ったおぼっちゃんにはなりえない。
 静穏で冷静だが、どうしようもなく決定的に、力を行使することを迷わない鬼切りだ。
 白花はすぐに手を下ろすと、数歩進んで足を止めた。気がつけば割り当てられた部屋の前まで来ている。
「君の大切な人は、君が鬼切りだって知っているの?」
「……ま、一応」
「そう」
 首肯に返ってきたのは、どこか慕わしげな笑み。彼は汀の返答を好ましく思ったらしい。
 彼が思い出しているのは妹のことだろうか。きっとその子は、兄が社会の裏側で命を懸けていることなど知らない。
 知っていてなおそばにいる存在を、そういう存在がいる汀を、羨ましく感じたのかもしれない。
「それじゃ、今日はゆっくりと休むといい。葛も温泉を勧めていたことだし、入ってみたら?」
「……覗くなよ」
「僕は鬼以外のものを見るために危険を冒したりしないよ」
 とんでもないと手を振り、白花が戸の向こうへ消える。まあ、汀としてもただの冗談だったので、動揺されていたら困るところだったが。
 部屋は和室。なかなか広い。汀は荷物を部屋の隅に下ろすと窓へ近寄って外を眺めた。しんしんと降り積もる雪が視界をふさぐ。冬なのだなぁ、と当たり前のことを感慨深げに思った。
 夏から始まって、秋へ続いて、さらに冬。盛夏に起きた一件で己の挙げた成果は大金星と言える。まあ大昔から守っていた宝を永遠に遺失するという結果も出てはいるのだけれど、元々余人の手に渡らぬよう守っていただけの物だから、誰の手にも渡らなくなったという結果に問題はない。
 他方、もう一つのこちらはごく個人的な金星。
 積極的に得ようとしていたものではない。というか、初めのうちは積極的に得まいとしていた。
 それなのに向こうはずかずかとこちらの内側に入り込んで、隣に居座って、手招きをしてきて、喉を撫でてきた。
 汀の口から密度の高い溜め息。耳に残る彼女の温度。無意識に手が動いて携帯電話に触れる。固い手触りにすぐ引っ込めた。
 任務の間、梢子から連絡が来ることはない。こちらがどんな状況にあるか判らないのが第一、もし通じなかったら余計心配になるというのが第二の理由だそうだ。推し量るに第二の方が理由の比重としては重い。
 汀もまた、任務中は連絡をしない。たとえば「毎日電話するよハニー」とか言っておいてなんらかの原因により(事の大小に関わらず)連絡できなかった場合、それはそれでやはり、余計に気を揉ませることになってしまう。
 ゴス、と汀の額から鈍い音がした。閉め切られた窓に打ちつけたせいだ。携帯電話を握り締めるとスライド式のそれが小さく軋んだ。汀の表情は切なく歪んでいる。
 発つ前に声を聴いたくせに。前日に直接赴いて顔を見たうえ、今日もわざわざ白花に頼み込んで待っていてもらい(しかも肝要な理由を言わずにだ。彼はなんと寛容であることか)、電波を介して声も聴いたのだ。特に用事があったわけでもないので会話はとりとめのない話題に終始した。雨だれのようにポツポツと、脈絡なく遷移する話題が尽きるまで、彼女の声を聴いていた。
 それなのに、もうこの体たらくか。
「……弱いなぁ」
 秋からこっち、何度となく実感する自身の弱体化。この道を選べば必然としてそうなると判っていて選んだ道。
 危ぶむなかれ、とどこぞの格闘家は言ったが、危ぶまずにいられようか。
 いつだって恐い。
 その恐怖を凌駕する強さを、己は持ち合わせていない。
 汀の身の内にいる、たった一人の特別。それより増えることも減ることもない、絶対的な一人。
 声を聴きたかったけれど、今そうしてしまうとますます弱りそうだから我慢した。
 
 
 
 葛お勧めの温泉は確かに気持ち良かった。雪中の露天風呂というのは趣深くて良い。
 気に入りすぎて三度ほど堪能してしまった汀である。三度目の直後である今はすっかり宵も更けてひと気がまったくなかった。静かな廊下をペタペタとスリッパを鳴らしながら歩く。
 と、ぼんやり人影が明かりに浮かんでいて、汀が足を止めた。廊下の突き当たり、壁に寄りかかって腕組みをしながら月明かりに照らされている彼は、月を見上げているようだった。
 どこか苦しそうなその表情に、汀は軽く眉を上げる。
「白花さん? こんな時間になにしてんの?」
 声をかけると白花が首をこちらに向けてきた。「ああ、こんばんは」一瞬にして彼のおもてに穏やかさがかかる。
「ちょっと眠れなくてね。元々あまり眠らなくていい体質だったから、寝ることに慣れてないのかもしれない」
「なにそれ、不眠症? 鬼切り部は夜間行動も多いから宵っ張りになる傾向はあるけど、眠れないってのも問題じゃない?」
「今はもう体質改善されてるはずなんだけどね」
 白花は苦笑と共に頭をかいて、おどけるように言った。人好きする、女性に好感を持たれる笑みだ。特段、汀の心は揺れなかったけれど。
「ま、明日に支障がないんなら、夜更かししようが徹夜しようがあたしは構わないけど」
「大丈夫だよ。僕としても失敗するわけにはいかないから、そんな下手は打たない」
 二人の間に流れる空気は和やかだった。恋も友情も育まれてはいなかったが、そこはかとない親しさみたいなものは、形成されつつあった。
 主たる要因としては、白花だろう。彼が汀を(それはとても単純な意味合いで)気に入ったから、汀としても無闇に彼を退けない。そして彼はおそらく、必要以上にこちらへ近づいてこない。汀の特別にはなりえない。
 特別ではないが、どうでもいいというわけでもない。そんな絶妙な位置へ、白花は立つ。
「眠くなったら寝た方がいいわよ。じゃ、おやすみ」
「おやすみ」
 和やかなまま、二人は別れる。
 絶妙な位置に立ってみせた白花に敬意を表して、汀は彼の左目の下に残る、涙の跡には言及しなかった。
 彼は月を眺めていた。
――――妹さんは、ケイって言ったっけ。
 おそらく、漢字で書けば『桂』。読み方を変えれば『かつら』だ。
 それは月の別名である。



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