ディアレスト 01


 ちんまい、というのが第一印象。
 見上げれば首が九十度を取るビルの最上階で、初めて鬼切り頭と対面した汀はしかし、そんな感想をおくびに出さず畏まっている。いくらなんでも本人を目の前にしてそんな失礼な感想は言えない。
 若杉葛と名を持つ自分たちの長、十代も前半の彼女は年相応に見える気さくさで「敬称とかはいりませんよ」と顔を合わせるなり言ってきたが、無茶な要求だと汀は胸のうちだけでげんなりした。
 彼女の斜め後ろには男が一人立っている。汀と同年代、または一つか二つ年長だろうか。少年と言うには大人びていて、青年と呼ぶには幼さが消えていない。シャツにジーンズというラフな服装で、さきほどから無言で佇んでいる。その表情は柔和。女の子みたいに繊細な顔立ちだが、そのへんの若者とは放つ空気が圧倒的に違う。かなりの手練だと汀は見る。葛の護衛役だろう。
 敬称云々の短い会話で「せめて葛さまと呼ばせてください」と汀が折衷案を出した時だけ、小さく吹きだすように笑っていたが、嫌味な感じはなかった。爽やかすぎて鼻につく。
 大きすぎるソファに半分埋まるような格好でいる葛が膝の上で手を組んだ。
「遠いところ、わざわざご足労ありがとうございます」
「いえ、鬼切り頭のお呼び立てとあれば、どこへなりとはせ参じます」
 一時間も経たない前はブツブツ文句を言っていた口で、いけしゃあしゃあとうそぶく。
 葛は重畳というふうに笑んだ。
「向こうは観光名所などではありませんが、なかなか趣のある良いところですよ。温泉などもありますし、時間があったら堪能されてくることをお勧めします」
「はあ……」
「わたしも一度お会いしたことがありますが、旅館の女将さんも良い人ですよ」
 別に、温泉宿へ旅行するわけではないのだが。
 的外れとしか思えないアピールにどう応えていいか判らず、汀は「はあ」と間抜けた返答を繰り返した。
 呼び出されはしたものの、なぜ自分が呼ばれたのか、どこへ何をしに行くのか、そういったことは何も聞かされていない。できれば温泉の効能とかよりそちらを説明して欲しい。
 汀の視線から読み取ったのか、葛が「たはは」と苦笑いを浮かべた。そうするとずいぶん子どもっぽくなる。年齢的には本当に子どもなのだけれど、常に放出されている聡明さが、一瞬どこかへ行ってしまうのだ。汀は彼女のそんな様子に毒気を抜かれる。
「失礼しました。わたしとしてもちょっと懐かしい場所なので、ついつい思い出話になってしまいますね。
では本題です」
 すっと葛の表情が引き締まる。噂程度には耳にしている、鬼切り頭を選定するための儀式。それを否応なく意識させられる表情だった。
 汀が喉をわずかに上下させた。
「あなたにお願いしたいのは、ある術のお手伝いです。鬼切り部としては本当に無用で無駄で無為な、マイナスにしかならない儀式です」
「……なら、どうして?」
「鬼切り頭としては到底承服できない願いでしたが、感傷に干渉されたというか。こちらの……」
 葛がちらりと背後の彼を見やる。「白花」端的に彼は告げた。
「……白花さんがどうしてもと言うので」
 中性的な外見ではあるが、どう頑張っても女の子には見えないのに、名前だけは妙に女の子っぽかった。
「では、今回のパートナはそちらの……えー、白花さまということで?」
 呼び方を迷いながら尋ねる。葛の護衛をしているのだ、どこかの党の役付きか、もしかしたら彼女直属の鬼切りかもしれない。日本の端っこかつ後から組み込まれた新参の党の、下っ端も下っ端が下手な口を利いて良い相手とは思えなかった。敵を知り、己を知らば百戦危うからずと言う。それは何も戦場に限った話ではない。自身と相手の差を知るのは世を渡っていくために絶対に必要な技術だ。
 しかし白花は仄かに目を細めて、右手を軽く振ってきた。
「僕は別に鬼切り部の要職でもなんでもない、ただの葛の友人だよ。畏まらなくていいし、敬語も必要ない。年もあまり変わらないし」
「要職につかせようとしてたんですが、のらりくらりとかわされてましてね」
 嘆息しながら葛が横槍を入れてくるものだから、汀はまたも対応に困る。現状はどういった位置にいるのか知らないが、鬼切り頭が認めているという、それだけで汀にとっては畏怖に値する。
「まあでも、白花さんの言うとおり、普通に接してくれて構いませんよ。こちらはもう諦めてますから」
 両手を空に向けて肩をすくめる。アメリカンなポーズだった。妙に似合う。
「じゃあ、白花さん。あたしはどこで何をすれば?」
「経観塚という地名に聞き覚えは?」
「……生憎、ここらから北の地理は弱くて」
「ああ、そうか、南の人だったね」
 白花が簡単に説明をする。普通の人間には特に面白みのない場所であるとか、しかし自分たちには重要な意味を持っている地であるとか。
 蛇神を封じている、というあたりで、白花と葛、二人の顔がわずかに曇った。どうしたのだろうと思ったが、どちらも細かい説明はしない。
「その神の封じに問題があるとか?」
 汀の推測に白花が首を振る。
「いや、今はなんの問題もない。これからもないだろうね。それはもう、済んでいるんだ」
「それなら、そこに行く意味がないと思うんですけど」
「封じに問題がないから、僕にとっては大問題なんだよ」
 さて謎だ。まさか、その神の封印を解こうという話でもあるまい。封じているのなら人の世に放つべきではない存在なのだろうし、そんな腹積もりなら目の前の小さく聡明、そして冷徹な鬼切り頭が許すはずがない。
「封印はそのままですが、少しだけ……いえ、半分だけ、その形を変えるのですよ。術式については後でわたしが説明しますけど」
 口を挟んできた葛へ視線を戻す。仏頂面だった。反比例するように白花の表情は穏やかさを増していく。よく判らないが、彼の双眸に浮かんでいるのは感謝のように見えた。
「いずれにせよ、大した仕事ではありません。術式が発動する瞬間、封印が揺らぐ一瞬だけは注意が必要ですが、そこさえ越えてしまえばあとは子どものおつかいより簡単ですから」
「だからあたしみたいな下っ端で充分だということですか」
 特に卑下するでもなく汀は言う。事実の確認をしたかっただけだ。
 けれど葛は汀が気分を害したと思ったのか、「いえいえ」と苦笑いしつつ否定した。
「そういうわけじゃありませんよ。観察能力の高さとか思考速度とか、あとはまあ、もうちょっとロマンチックな部分も褒めていましたし。そのへんを加味してわたしがあなたを選んだんです」
「……それは、ありがたき幸せ」
 おざなりに頭を下げた。頭目に目をかけられるとはなんと幸運なのだろう。できれば巡り合いたくない幸運だったけれど。
 そこではたと気づく。
 幸運を別な言い方で表現すればどうなる。ラッキー? 僥倖? それとも。
「葛さま、さっきあたしを褒めてたって言いましたよね。……誰が、ですか?」
 ツキが向いている、か。
「あなたの思っているとおり、千羽党の鬼切り役、千羽烏月さんですよ」
 あっさりと葛は答え、テーブルに置かれていた茶を一口飲んだ。
 汀は総大将の御前ということも忘れて、片手で顔を覆うと深々とした溜め息を吐き出した。
「……おかしいと思ってたんですよ。一地方の新参である守天党の、役付きでもないあたしのことを鬼切り頭が知っているわけがない。あいつからの進言ですか」
 千羽の担当はここに程近い地域一帯。その鬼切り役であれば、葛と近い位置にいても不思議ではない。
 季節をひとつ遡る程度の過去だ。汀はひょんな縁で烏月と知り合った。というか彼女は命の恩人である。懲りもせず去年の夏と同じように独断専行して危険に晒された折、たまたま別の鬼を追っていた彼女に助けられた。そういえばあれもおつかいだったな、とどうでもいいことを思い出す。
 ずるずると記憶の糸が引っ張られて、森の深いところにある社でまたも死にかけたことまで思い出した。それは恋の予兆の記憶でもある。
「最初は烏月さんにお願いしたんですけどね。真っ向唐竹割りに断られてしまいました。
渡辺などの党も当たってみたんですが、みんななかなか忙しくてですね、困ってたら烏月さんがあなたを紹介してくれたんです」
 汀がぼんやり追想している間にも話は進んでいた。おっと。口の中でこぼして意識を現在に引き戻す。
「たかが一党の鬼切り役が、頭目の命令を断ったんですか?」
「まあ、わたしも烏月さんには色々と迷惑をかけてしまいましたし、くだんの蛇神の一件でもずいぶんと働いてもらいましたから。あまり強く出られないのですよ」
 唇を波打たせながら葛は肩をすくめた。どうも二人は単なる上司と部下の間柄ではないようだ。己と守天の党首みたいなものだろうか。
 「なにより僕が嫌われているのが理由だ。葛は優しいから」オブジェのように控えていた白花が不意に発したその言葉に、葛は顔をしかめ、汀は片眉を上げた。
「別に優しくないですよ。術式はなにより集中力が重要。烏月さんでは精神が乱れる可能性がありましたから、他に適任がいればそちらを選びます」
「嫌ってる? へぇ、あんまり仕事に私情を挟むタイプには見えなかったけど」
「君は、逢えない人を思い出す辛さを知っているから烏月を慮ってくれたんだろう?」
 白花はまず葛に応じてから、汀へ目を向けた。
「普段はとても職務に忠実だよ。僕が特別嫌われているだけさ」
「ふぅん。なにやったの?」
「彼女の大切なものを、僕が奪った」
 よどみなく答える白花は表情を消していた。苦悶をそのまま表すことも、笑みで覆い隠してしまうこともせず、ただ淡々と、手にすくった砂を落とすような静かさで言った。
 善人の顔だな、と思った。彼は罪科を背負っている。おそらくその罪は、彼が原因であっても彼のせいではないものなのだろう。許される余地があるからこそ苦悩している。償えないから自身に苛まれ続ける、そういう善人。
 己がそばに置いている、己がそばに居座っている彼女なら、浮かべない表情だ。
 梢子なら苦悩などしないだろう。罪を罪としてそのままに受け入れて、痛み続けて悼み続けて、償いという救いを求めずに、そのまま真っ直ぐに生きていくのだろう。今、そうして生きているように。
 彼女は、そういう罪人だ。
 ふと、汀の口元が緩む。
「夜這いでもした?」
 虚をつかれたのか、白花の端正な顔が一瞬崩れた。
「……もしそうなら僕は今ごろここにいないよ。維斗で一刀両断だ」
「維斗ってあいつが持ってた金ぴかの刀? 確かによく切れそうだったわね」
「ああ、よく斬れるよ。鬼も、そうじゃないものも。きっと僕の首も」
「白花さん」
 小さく、しかし鋭く葛が白花を諌める。「別に斬られる気があるわけじゃない」ふっと、かすかに苦笑して首を振る白花。想像したのか、自身の首筋を軽く撫でる。あれを烏月にくれてやれば償いになったのか。
 そうじゃないな。汀は推測をする。それですら償いにはならず、おそらく彼女がわずかばかり気晴らしをする、その程度。
 過ぎた時間は戻らない。失われたものも、戻らない。
 つまらない話になりそうなので、汀は視線を外すことで話題を打ち切った。尽き得ない罪には付き合えない。他人事だし。
「ま、なんでもいいけど。こっちは言われたとおりに仕事をこなすだけですし」
「切り替えの速さはなかなかですね。春から若杉で働きませんか?」
「お断りします」
 そこは汀も真っ向唐竹割りだった。葛の言葉は自分のそばに来ないかという誘いだ。呑まれ、流されて頷こうものなら、どんな過酷なポジションに置かれるか判ったものではない。若杉の幼い頂点は人使いが荒いともっぱらの噂である。
 それに汀は、もう強大なものに呑まれて流されるのは懲り懲りだったのだ。
 葛はわざとらしく残念そうに肩を落とした。彼女も本気ではなかったのだろう。汀としてはその方がありがたい。鬼切り頭として、正式に「自分に仕えろ」と命令されたら逃げられないところだ。
「つれない人ですねぇ。まあいいでしょう。それではよろしくお願いしますね」
「はっ」
 鋭く呼気を吐いて汀が礼をする。葛は少しだけ不満そうな表情、こちらは本気が垣間見えた。
「仕方ないんでしょうけど、もっと普通に接してください。――――」
 最後の方は声が小さすぎて聞き取れなかった。独白だったのだろう。何々みたいに、と言っていたように思えたが、固有名詞は呼吸より儚くて汀に届かない。
 葛が一瞬だけ伏せた目を上げて、にこりと笑った。
「危険な任務ではありませんが、万が一なにかあったら二階級特進で名誉鬼切り役へ任命させてもらいますからご安心を。ご家族へのアフターケアもばっちりですよ」
「……死んでからそんなものもらったって」
 嫌気たっぷりに汀が毒づく。
 第一、汀の記憶の限りで言えば、鬼切り部にそんな役職はない。



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