彼女たちのおそらくは幸福な日々 02


 時が止まっているようだ、と小山内梢子はたまに考える。
 無論、八年を経て舞い戻ってきた従姉妹違の停止とは意味が違う。肉体は日々健やかに代謝を繰り返し、成長を続けている。
 止まっているのは心、心象風景の方だ。
 青く光る石の祭壇。そこで死闘を繰り広げる彼らと彼女。硬い石柱に叩きつけられて呻く彼女。
 心臓を握りつぶされたかと思った。
 幸い、命に関わる損傷はなく、声をかけたら応えてくれたけれど、それでも一瞬視界が暗転した。
 梢子の一部は、どういうわけかそこで止まっている。
 おかしなものだ。理由があったとはいえ、一度は夏夜を討ち倒そうとしていた彼女なのに。
「でも、最終的には助けてくれたわけだし……」
 自宅への帰路を辿りながらひとりごちる。夏夜を助けようとしたというよりは、《門》が開くのを止めようとしていたのだろうけど、結果だけ見れば同じことだ。
「だから、夏姉さんを助けてくれたことへの恩義を感じているだけで、それにお礼も言ってないし……。そういうのが、気がかりになってるだけじゃないの……?」
 ブツブツ呟きながら、足は勝手に自宅へ向かっている。思考と肉体が見事に分離していた。
「第一、汀が近づいてきたのは夏姉さんの所在を探るためで、私がどうってことじゃなかったんだし」
 無意識に眉間が険しくなった。墓穴である。
 またもや無意識に足が止まる。顔を上げれば自宅前。ゴールだ。梢子は一旦思考を打ち切って玄関に向かった。今日は顧問が私用でいなかったために部活動は休みだった。そのせいで帰宅時間が繰り上がっている。時間帯から考えて、夏夜は仁之介の助手をしていると思っていたが、どうも中から話し声が聞こえてくるので、来客があったようだと梢子は推測する。
「ただいまー」
 戸を開けるために下ろしていた視線を上げつつ声を上げると、かすかに息を呑む気配を感じた。
「ん?」
 なんか目の前に汀がいた。
「うわ、オサ、なんで」
 動揺の隠し切れない上ずった声が届く。なんでって、ここが自分の家だからだ。むしろそれはこちらの台詞である。
「汀……?」
 後方では夏夜がやはり動揺を見せながら立ちすくんでいる。
「ちょ、ちょっと夏夜、どういうこと? オサ帰ってきちゃってるじゃない」
「どうって、私にも……。梢ちゃん、部活は? いつもはもっと遅いのに」
 焦りもあらわに夏夜の方へ振り向いて噛み付く汀と、何か後ろめたそうな夏夜へ順繰りに視線をめぐらせて、梢子はゆっくりと思考を展開する。
 どうもこの二人、自分のいない間にこっそり会っていたらしい。
 自分がいると都合が悪いらしい。
 なにこれ逢引?
 大人の付き合い?
「……部活は、葵先生がいないから休みになった」
「そ、そうなの」
「えーと、お邪魔しましたー……」
 引きつり気味にごまかし笑いをしつつ退散しようとする汀のシャツをむんずと掴む。
「汀。ちょっとお話しましょうか」
「あー……。拒否権は……ないわけね」
 がっちり掴まれたシャツを見下ろした汀が、諦めたようにうなだれた。
 次に夏夜を捕まえようとしたところで、遠くから仁之介の呼び声が届いた。夏夜を呼んでいる。鍼灸院の方を手伝えということだろう。
 梢子もさすがにそれを無視は出来ず、汀だけ連行していった。視界の端で夏夜が胸を撫で下ろしている。
 「夏姉さんとも後で話すから」深々と釘を刺してやると、彼女は汀と同じようにうなだれた。
 この時夏夜は、他人、それも相容れない存在である汀を勝手に家へ上げたことに梢子が怒っているのだと判断していた。あれだ、家人が野良猫を家に入れて餌をやっている場面を見た猫嫌いの人みたいな状況。
 かくも鳴海夏夜は残念なくらい残念な鈍感さだった。
 ずりずりと汀を引きずりつつ自室へ入り、後ろ手にドアを閉める。ちょっと力が入りすぎてしまって大きな音が出た。
 困り顔にとりあえず笑みを貼り付けた汀が、しゅたんと右手を上げる。
「オ、オサオサ、久しぶりー」
「久しぶりね。卯良島の一件以来ね。夏姉さんとはそうでもなかったみたいだけど」
 うわー墓穴掘った、と汀が上げていた手で口元を覆った。
 その仕草、その表情……!
 感情が拳にした両手から発露する。汀の胸に叩きつけて、そのまま止まらずに押し進んだ。汀は抵抗するのも気が引けるのか、逆らわず後退していく。
 違う。そうじゃない。
 してほしいのは、そうじゃないのに。
 汀の背中が壁に当たって、それでも拳を押し付けていると彼女の顔がわずかに歪んだ。逃げようという意図か下へ下がっていく。完全に腰を下ろした姿勢になって、逃げ場を失って初めて、汀は梢子の拳を受け止めた。
「夏姉さんとは、何回くらい会ってたの?」
「月一くらいのペースだから、えぇと……」
 計算なんてする必要ないはずなのに、汀はわざとらしく空中で指を折った。結構な数だ。それをすべて、自分の目を盗んで行っていたわけか。
 なんだそれ。
「ああ、そう。汀ってばそんなに夏姉さんと会いたかったんだ。私とは何一つ接点を持たなくても平気で、夏姉さんとは直接会わないと満足できなかったわけね」
「は? オサ、なに言ってんの?」
 胡乱な目つきで見やってくる視線を、梢子は避ける。
 拳が震えているのを視認した汀は深々と溜め息をついた。
「あー、もういいや。めんどくさい」
 汀がうんざり口調で独白する。「なに怒ってんだか知らないけどね」そんな言葉を皮切りとして汀は洗いざらい全てを白状した。鬼切り部と夏夜の取引のこと、鬼切り部の規則のこと。
「夏夜は人に戻りたい、鬼切り部は夏夜を野放しにできない。だから取引をした。単純でビジネスライクなギブアンドテイクよ?」
「そう、だったの」
 説明を聞いて、梢子は心の底から安堵した。同時に拳の力も抜ける。「そうそう」梢子の態度が和らいだのを察した汀が軽薄に笑った。
「オサに知られちゃったのは、まあまずいけど致命的じゃないから、どうにかなるかな。わりと事故っぽいし」
 くしゃりと、汀の指先が梢子の髪に潜って、宥めるように撫でてくる。
 その瞬間、梢子は光の速さで自覚した。
 ああ、この想いは。
 恋だったのだ。
「心配しなくても、あんたの大事な夏ちゃんは誰も取らないって」
 自覚した途端、別の問題が降ってきた。
「あ、あの、汀」
「夏夜の方は引け目があるみたいだけど、どうせオサは気にしてないんでしょ? 夏夜が人に戻れても戻れなくても、大好きな夏ちゃんと幸せに暮らしましたで終われるんだから」
「それは、そうかもしれないんだけど」
「ま、鬼切り部が夏夜の動向を監視してるのも、『念のため』くらいな感じだし。いちいちこっちに来るのはあと半年ってところかな。あんまり邪魔するのもなんだしねー」
 からかい口調で言われたが、的外れすぎて笑えない。半年? 半年しかない? 困るそれはすごく困る。
 またしても梢子の両手に力がこもった。今度は胸倉を掴む形になっている。「おや?」汀がどこか間の抜けた声を出した。彼女としては、これにて一件落着といきたかったのだろう。当てが外れた困惑が目元に浮かぶ。
「み、汀」
 何か言わなくては、そうではないのだと、そういうことではないのだと。
「なによオサー」
 まだ何か不満があるのか、そんな表情で汀は問うてくる。大ありだ。
「汀はっ、人を好きになったことある!?」
「……はい?」
 梢子は己の学習能力の無さに崩れ落ちた。
 「好きに、ねえ」面食らいながらも、答えようと口を開きかけた汀を慌てて止める。
「やっぱりいい! 聞きたくない」
「自分で訊いといて、聞きたくないって」
「聞きたくなくなったの」
 遅ればせながら、返答いかんによってはものすごいショックを受けると気づいてしまった。
 幼稚園の時、とかならともかく、もっとリアルな過去とか聞かされたら立ち直れない。これだけ見目良いのだし、一匹狼タイプと言いつつ社交性は低くないので、そういうことの一度や二度、はたまたそれ以上あってもおかしくない。剣道に打ち込みすぎてそういった方面をスルーしまくってきた自分とは違うのだ。
 不可解に首を傾げつつ、汀は「そういうオサはどうなのよ」と以前と変わらぬ軽薄な口調で訊ねてきた。
「私?」
「そ、オサ。といってもなさそうだけど。堅物だし、剣道一筋でそういうことする余裕なんてなかったんじゃない?」
 まったくもってその通り。
 けれどそれは二分前までの話だ。
「あるわよ」
 汀の目に、軽く好奇心の波が現れた。危険だ。好奇心は猫を殺すのだ。
 しかし彼女に警戒心はまったくなかった。あくまで余裕綽々、あくまで軽々しく、汀は笑う。
「へえ。オサが惚れるタイプって想像つかないなー。どんなやつだったの?」
「平気で嘘ついて、嫌味たらしくて、無闇に自信家で、からかい癖があって、すごく可愛くて猫っぽい」
「……へえ」
「で、今目の前にいる」
「うん最初ので気づいたから駄目押しとかしなくていい」
 ちょっと不安になって付け足してみたが、幸い、彼女は夏夜より鋭かった。
 指先でこめかみを押さえる、どこか苦悶に似た表情の汀。深刻な事態を打開する策でも練っているのだろうか。
 まあ、こちらとしては逃がしてやるつもりなどこれっぽちもないわけだが。
 こめかみを押さえていた指はいつの間にか額へ滑って、手のひらが顔を半分覆っていた。頭痛を堪えているみたいだ。本当にそうなのかもしれない。
「……あたし、オサは夏夜が好きなんだと思ってたんだけど」
「え、そりゃあ、夏姉さんも大切な人よ。家族だもの、当たり前でしょう?」
「それだけ?」
「それだけって、他に何があるっていうのよ」
「家族だからってだけで、あんなことまでして助けるわけ?」
 汀の言う「あんなこと」が判らなくて、梢子は一瞬止まった。それから、祭壇で眠っていた夏夜を目覚めさせた時のことだと思い至る。
 指摘を受けたせいか、頬が熱を持った。そうか、あの時は無我夢中だったが、言われてみればあれはそういう行為に当たるのだ。
「っていうか汀、あんな状況で見てたの!?」
「戦況把握は基本中の基本。まさかあんな場面見ることになるとは思わなかったけど。
それで? オサは家族なら誰にでもキスできるんだ? おとーさんとかじーさんとかでも」
「あ、あれはそうじゃないでしょう! ああしなければ夏姉さんは……ううん、あそこにいた全員が助からなかったんだから」
「ふうぅぅぅん」
 ずいぶんと含みの多い相槌だった。加えて、じっとりとねめつける視線。
 なんだこの態度。拗ねているような、梢子を責めるような視線だ。どうしてこんな目で見られなければいけない。「それにしたって、へえ。『ただの家族みたいなもの』にキスをね」やけに粘着質な絡み口調。
 プツンと梢子の何かが切れた。
「じゃあ、汀にもする」
「へ?」
「それならフェアでしょう?」
 掴んでいるままだった胸倉を更に引き寄せて額を近づける。汀が大いに慌てて身を引いた。壁際なので思い切り後頭部をぶつけていた。わずかに痛がったものの、それより梢子から逃れたいのか、汀はなおも壁を滑る。すっかりクールダウンしていた。梢子の両肩を押さえて留めようとしてくる。
「いやちょっと待ってオサ、なんか論点がずれてる」
「ずれてない」
「おおおぉ落ち着け。あたしが言ってるのはそういうことじゃなくて……」
 両者の力は拮抗していた。どちらも後には引けなかった。梢子は心理的に、汀は物理的に。
 互いに苛立ちが募る。体力の限り続くかと思われた力比べに、先に痺れを切らせたのは汀だった。
「ああもう! 馬鹿オサ!」
 一声吠えると、残る力のすべてを込めて梢子を引き剥がす。
「あたしは、そんな理由のあるものなんてほしくない!」
「じゃあどうしろっていうの!」
 梢子も負けじと怒鳴り返した。それはそれは激しく、震えるハートが燃え尽きるほどヒートしていた。
「大体、虫が良すぎる! あんた夏夜が大事なんでしょ!? あんなことができるくらいに好きなんでしょ!?」
「大事よ! 当たり前じゃない! それが汀になんの関係があるの!?」
「あたしは鬼切りであいつは鬼なの! 夏夜が狂ったら切らなきゃいけないの! そうしたらあんたどうするわけ!? 傷つきたくないなら、鬼切りと鬼のどっちか選べ! あいつが大事なら、」
 叫びすぎて疲れたか、他の理由があってか、汀が一度息継ぎをした。
 真正面から睨みつけてくる強い眼差し。梢子は引かない。
「――――あたしを選ぶな!」
「嫌よ」
 光の速さで否定した。
「だからって夏姉さんを捨てたりもしない。私は汀と夏姉さんの両方を選ぶ」
「……話にならない」
「感情論だもの」
 話にならないというか、話をしたくなかった。彼女は嘘吐きだ。論点をずらしたのは向こうの方なのだ。そんなずるい手段は認められない。
 鬼切りだとか、鬼だとか、それがどれほど重要だというのだ。
 そんなもの、思春期の恋にはなんの意味もない。
 力比べは終了する。梢子が上半身へ電気信号を送るのをやめたせいだった。両手が悲鳴を上げている。こうなるまで応えてくれる、君命辱めぬ見事な仕事振りだった。
「あなた、夏姉さんの監視をしてるのは念のためだって言っていたわよね。それなら、夏姉さんが狂う可能性なんてほとんどないんじゃないの?」
 ぐ、と汀の喉が詰まった。
 イカサマを見破って、少しだけ気分が良くなった。
 肩で息をする汀へ手を伸ばし、頬を包み込む。
「夏姉さんより自分を大事にしろって、素直に言ったらいいじゃない」
「や、そういう、わけでは……」
「ないの?」
 ムッとして至近距離から見つめると、彼女はあうあうとまごついて口を閉じた。そろそろ壁と背中が一体化するんじゃなかろうかというくらい身を引いている。そんなことになったら困るので、梢子はわずかに開いた首の後ろの隙間に腕を突っ込んで引っ張り、壁ではなく己と密着させた。
 スポンジボールに水が沁み渡る。水の際へ置かれたボールは接着面から水を吸い上げて、取り込み、己がものとする。
 会いたかった。顔を見たくて声を聴きたくて肌に触れたかった。自覚的ではなかったけれど、いつだって梢子は汀を欲していた。叶うならこのままいつまでも抱きしめていたい。
 それは思春期の激しさ。言い換えれば世界最強の雑念だった。
「夏姉さんに会いに来てるなら、私とも顔を合わせたらよかったじゃないの」
「だから、鬼切り部はむやみやたらと無関係な人間に接触しちゃいけないんだって」
「無関係じゃないし」
 「うぅ……」汀が弱々しく唸り、力なくうなだれる。
「っていうのが鬼切り部としての理由で、あと……
オ、オサが好きなのは夏夜だと思ってたから、二人一緒のとこを見るのがちょっと嫌かなーって……」
 ん?
 それはなんだ、梢子が夏姉さん好き好きオーラ全開な様子を見たくなかったということか。
 え、なにそれ可愛い。
 まあ確かに、意味は違えど好き好きオーラは出ているような気がしなくもないので、汀の判断もあながち間違いではなかったかもしれない。
 だってやっぱり、夏夜は夏夜で大切な人なのだ。
 けれどやっぱり、それは意味が絶対的に違う。
 触れている彼女の耳が熱い。思春期の熱が心地良く溶け合う。
 ああ、駄目だ。
 触りたい。
 少しだけ身体を離して、潤む双眸で彼女を見つめる。
「汀」
「な、なに?」
「あなたにキスをしたいからちょっと大人しくしてて」
「なっ、ななな何言ってんのオサ!?」
 うひゃああぁぁ。汀が情けなく悲鳴を上げた。しかも避けた。大人しくしていろと言ったのに。
「ば、馬鹿、そういうことをいちいち宣言するなっ。改まって言われると照れるっ」
「言った方が判りやすいじゃない」
 腕へと伝わる電気信号は彼女に使えないので、梢子は声を発して命令する。光よりは遅いけれど、音速だって充分速い。
 公平を期すためのキスならいらないと彼女は言った。
 ならばそうではないものは、欲しいのだろう?
「ちょっと待った、なんか、手順っていうか段階がチグハグになってる。落ち着いてよく考えてみて。そういうことはいちいち言わなくてもいいけど、他に言わなきゃならないことがあると思わない?」
「落ち着いているし冷静よ。ただあなたに触りたいだけ」
「全然落ち着いてないし。むしろなんかテンパってる」
 ごちゃごちゃうるさいなあ。梢子が人差し指を汀の唇へ当てた。「いいから静かに」囁いて、指で触れていたそこへ自身の唇を寄せる。
 汀が息を詰めた。
 二人の距離がゼロへ近づく。呼吸が凪いで、唇が触れ「二人とも喧嘩は良くないわ!」なかった。
「……え?」
 思わず固まった二人が視線だけをドアへ向けると、呆気に取られた表情の夏夜が「あれ?」と困惑していた。
 誰よりも早く忘我から舞い戻った梢子は、半ば無意識に汀から離れて夏夜へ向き直った。思春期の激しさは、場合によっては羞恥心に敗北する。
「な、夏姉さん、おじいちゃんの手伝いをしてたんじゃなかったの?」
「あの、怒鳴り声が聞こえてきたから、てっきり喧嘩をしているのかと思って止めに来たんだけれど……」
 慌てて駆けつけ、ドアを開けるとそこはいちゃラブ空間だった。
 あまりといえばあまりなうっかりぶりである。
 一応、喧嘩らしきものはしていたけれど。痴話喧嘩というやつを。
 立ちすくむ夏夜と、へたり込む二人。両者の間を微妙な空気が流れる。
「……えぇと、私の勘違いだったみたいね。どういうことかよく判らないけれど、もう邪魔しないから」
「あ、夏姉さん」
 それじゃ、と複雑な笑みでドアを閉めようとした夏夜へ呼びかけて、梢子は指し示すように汀のシャツを掴んだ。
「後でちゃんと話すけど、汀がね、……汀が、私の好きな人」
「そ、そう、なの。ええ、判ったわ」
 無意味に頷いた夏夜はフラフラした足取りで去って行った。「あの小さかった梢ちゃんが……」軽くショックを受けてるっぽい呟きが小さく聞こえてくる。話に聞くのと目の当たりにするのでは衝撃の度合いが違うのだろう。しかも相手は汀だし。
 夏夜が去ってからも、室内には微妙な空気が漂っていた。さようなら良い雰囲気。こんにちは気まずさ。
「てゆーか」
 梢子が離れたせいで生まれた隙間を埋めるように、体育座りの姿勢になった汀が上目遣いに梢子を捕らえる。
「また順番が違う」
「順番って、なによ」
「なんで夏夜に先に言うわけ?」
「言っておきたかったの。そんなことで妬かないで」
 だからって、とか、また夏夜を優先して、とか汀は小声でブツブツ言う。
 ふて腐れた表情に梢子は溜め息をついて、丸まっている身体へ強引に割って入った。
 「ほら、耳貸して」首筋を抱きこんで引き寄せる。それから、彼女の耳元へそっと想いの核を置いた。
 汀はしばし沈黙する。スイッチが切れた機械みたいに見事な停止だった。「……オサの卑怯者」なんとも心外な評価だったが、真っ赤になった耳に免じて不問とする。正々堂々真っ向から言えなかったのは確かだし。
 赤茶色の髪をすくって撫で上げる。夏草に似た感触だった。
「今度は、夏姉さんじゃなくて私に会いに来なさい」
「……ん」
「それから、もう夏姉さんに妬かないの」
「あー……、まあ、努力する。――――や、難しいかな」
 どっちつかずな返事に眉を上げると、汀の視線は下方の一点、梢子の首筋へ集中していた。不機嫌そうだ。そこに何があるのか、梢子は一拍を置いて気づく。
 小さな二つの傷跡。梢子はちょっとドギマギした。別にやましいものではないはずなのだが、他の誰かに触れられた証であるその傷は、感情論で批判される。
「これは、必要に迫られて、だから」
「判ってる」
 とか聞き分け良く言う汀はものすごく嫌そうだった。
「――――っ」
 はむ、と同じ箇所に噛み付かれて、言い様のない刺激が梢子の全身を巡った。
 反射的に汀を突き飛ばす。「うわっ、とっ」崩れかけた体勢を、床に手をつくことで立て直し、汀が不満そうに唇を曲げた。
「夏夜にはさせるくせに」
「馬鹿っ、夏姉さんにされるのと汀にされるのとじゃわけが違うのっ」
 噛まれた部位を手のひらで覆いながら梢子は吠える。びっくりした、すごくびっくりした。うっかり涙目になる。理由は判っているけれど恥ずかしすぎて口には出せない。
 気持ちよかった。
 これ以上なく思春期らしい感想を抱きつつ、汀の額をぐいぐい押して距離を取る。
 なにをするんだ、という表情でいた汀だったが、赤面と涙目で自分がしたことの意味に気づいたのか、「……あ」と掠れた呟きを落としてからは大人しくなった。
 できれば照れずにいてほしかった。これじゃあますます恥ずかしい。
 意味もなく視線をめぐらせていた汀が、ふと携帯電話で時刻を確認して目の表情を変えた。活路を見出した瞳だった。
「そ、それじゃオサ、あたし、もう時間だから」
「あ、うん」
 そういえば、彼女は帰らなければならないのだったと、梢子は今更のように当然なことを思い出す。
 微妙な距離を保ちながら玄関へ向かう二人。会話はない。
 玄関先で夏夜と鉢合わせた。夏夜はかける言葉をしばらく探して、「もういいの?」とそこはかとなく空気の読めていない質問を選んだ。
「帰りのチケット取っちゃってるし。明日、若に報告しないといけないから」
「そう。今度はゆっくりできるといいわね」
「お気遣い無用。言われなくてもそうする」
 汀が軽く肩をすくめて答える横で、梢子は心ここにあらずという風情でたたずんでいる。
 駄目だ。自制が利かない。これでまたしばらく会えないのだと思うだけでリミッタが吹き飛ぶ。汀がこちらを見ていないというだけで、どうにかなってしまう。
 「汀」呼びつけて、抱き寄せて、触れろと命令する。唐突に命令を下された汀はあわあわした。
「ちょ、オサ、かやがっ、夏夜が見てるっ」
 だから離れてほしいんですよと訴える言外の願いはまったく無視。夏夜へ視軸を合わせ、心持ち低い声音で感情的に告げる。
「ごめん夏姉さん。ちょっと外してくれる?」
「え、ええもちろん。そうよね……梢ちゃんが笑っていてくれたらそれでいいと思っていたけど、女の子にはそういう表情も必要よね……」
「なんかこっちはこっちで混乱してるしっ」
 汀のツッコミも虚しく、夏夜は元剣道日本一とは思えない、なんとも覚束ない足取りでその場を離れた。
 二人きりになった途端、こほ、と梢子が乾いた咳をした。
 サインが、先ほどから絶え間なく梢子へ送られている。脳でも心臓でもない、どこかにある己の核が忙しなく明滅している。単色の鮮やかな光。電気信号かもしれない。動けと自分自身へ出される命令。
「ごめん、汀」
「え?」
「やっぱり冷静じゃないかも」
「……やっと気づいたか」
 どこか疲れたように言って、汀がよしよしと宥めるように背中を撫でてくる。
 すごく気持ちいい。そうされるごとに体温が一度くらい上昇していくような気がする。サインはいよいよ激しくなって、動かない梢子に痺れを切らしたか警告のサイレンまで鳴り始めた。
「あの、汀」
 呼び声に汀が手を止めた。「どうした? オサ」いやに優しい声を愛情と確信できることが嬉しかった。
「……さっき、できなかったじゃない?」
 軽く硬直する気配。
「だから、前振りはしなくていいってのに……」
 なんだかガックリきている汀を受け止めて、ん、と指先で招く。
 あーだとかうーだとか小さく唸り、汀は一瞬だけ視線をよそへやってから、瞬き一つの時間もない、かするようなキスをした。
 気のせいかと思ってしまうくらいの淡い感触に、梢子が思わずきょとんとする。
「え、短い」
「そう気構えられると、恥ずかしくなるんだって」
 汀は浮いてもいない汗を拭うふりで、自身の額をこすり上げる。その程度で赤みは引いたりしなかったのだけれど。
 なにやら思いっきり照れている様子が無性に可愛かったので、ぐいっと引っ張って唇を重ねた。それはもうしっかりはっきり。
 目を見開いて硬直している汀へ、さらにもう一度しようとしたら「うわわっ」と逃げられた。
「なんで逃げるの」
「や、今のは条件反射というか」
「言ってからしようとしても避けるし、言わずにいても避けるし。どうしたらいいの?」
「雰囲気とか空気とかあるでしょうよ……」
 わりとそういう雰囲気とか空気だったと思うのだが。
 汀の口から溜め息が一つ。人差し指の背で頬を撫でられ、辿るように滑って顎を支えられる。視線が瞬時下がったのにつられて意識をそらした隙に、口端を唇でくすぐられた。
 ああ、なるほど。
 こういう雰囲気とか空気か。
 目を閉じる。ふわりと、柔らかくも確かな感触が唇に訪れて、離れた時に小さく艶かしい音がした。
「こんなふうにね。オーケー?」
「……頑張る」
 ていうかなんか慣れてないか汀。
 訊くべきか? いやしかし問いただして落ち込むことになったらどうしよう。別に彼女の過去に何があろうと、今は今で幸せなのだから気にする必要はないのでは? ああでもやっぱり気になる。
 思春期ならではな葛藤を扱いきれず、梢子はよすがへ頼るように汀の手を握った。
「汀は、初めてじゃないのよね」
「初めてだけど?」
 わあ嘘臭い。
 照れ隠しか気を遣ったのか判らないけれど、いくらなんでも信憑性がなさすぎる。
 あっさりと言われた答えに思わず半眼になる。「そんな目で見られても」少々困り気味に汀が笑った。
「だって、なんか……慣れてた」
「ほら、うちの方にいる人たちって挨拶代わりにしたりするじゃない」
「挨拶代わりであんなふうにするか」
「あーもー。人に妬くなって言ったくせに、自分が妬かないでよ。
第一、それ言ったらオサだって初めてじゃないでしょ?」
「あれは……違うじゃない」
 こだわるなぁと思ったけれど、それは今、自分がこだわっているのと同じ理由なのかもしれない。
 つまり、思春期だ。
 こつりと、汀の額が額にぶつかる。
「初めてドキドキした」
 囁く言葉に嘘は見えず、握ったままでいた手のひらは日なたのように温かい。それはサインだ。汀から梢子への、「君が好き」という伝達信号。
 彼女の言葉が本当なら、それはそれでやっぱり初めてと言える。夏夜とのことをカウントしないのと同じ意味で。
 握った手に力を込めると、「もう一回?」彼女が笑声混じりに聞いてきた。
 鼓動は思春期のシグナルブルーで先へと進む許可を出す。
 触れるだけの、子どもの遊びみたいなキスなのに、どうしてか心は逸って呼吸が乱れる。サインはますますさやかに冴えて、焦燥感が膨れ上がった。
 唇を離すと一瞬呼気が混じり合った。
「――――汀、次に来る時は泊まっていって」
 ちょっと口調が熱っぽくなってしまったかもしれない。そのせいか、汀のこめかみがかすかに痙攣した。さっきまでの余裕でリードしてる雰囲気が瞬く間に霧散する。「あ、あのー、オサ。なんか下心が見え隠れしてるんだけど」引き笑い気味に差し出された疑問へ梢子は首肯する。
 そんなもの、あるに決まってる。むしろそれしかないと言っても良い。隠れてる部分なんて欠片一つ存在しない。「嫌なの?」「嫌というか」口ごもる汀である。へらりと笑っているが、いつもの人を食ったような不遜さは見えなかった。
 快諾を期待してはいなかったけれど、ここまで及び腰になられるのも面白くない。
「いいからっ、大人しく約束しなさい」
「とか言っていざとなったら怖気づきそうよね。オサってわりとヘタレだし」
「そんなことないっ」
 見事なほど勢いだけの売り言葉に買い言葉だった。
 カシカシ頭をかきながら、汀が溜め息をつく。
「いや、口約束だけならいくらでもしていいんだけど」
「破ること前提で言ってる?」
「さて、どうでしょう」
 どうもこうもなくそういう口ぶりだったではないか。
「約束ひとつ守れないなんて、汀のほうがヘタレじゃないの」
「あー、そうかもね。そういう言い方もできるのかもしれないわ」
 存外あっさり認めた汀は、柔らかく梢子の頭を叩いて、「要するに」困り顔で口を開いた。
「……優しくできる自信がない」
 なんだかんだで汀も思春期だった。
 香車の一途さはその一言で動きを止める。どこまでも前方に突き進める香車はしかし、障害物を飛び越えられない。急停止急停止、シグナルが突然レッドに変わった。
 優しくされないとどうなるんだろう。ちょっと想像がつかない。やはりもう少し耳年増になっておくべきだったかと軽く後悔してみた。後で悔やむから後悔だ。もう遅い。
 困り顔はなんら変化を見せることなく、消えもしないし冴えもしないし歪みもしないし緩みもしないで、困り顔のままだった。
「けっこうな間、こっちは横恋慕気分だったわけ。おまけに夏夜の面倒見させられて、そりゃもう楽しそうにオサの話とかされて、そのうえアレは鬼のままだから血とか飲ませてるし。もう犬神の贄気分よ。邪念も増えるうえに恨んだり呪ったりもしたくなるって話でね」
 土中に埋められて飢餓状態となった犬か。随分と激しい比喩である。しかも勘違いで他人を呪うあたり、言い得て妙なのがなんとも。
 梢子は背中が薄ら寒くなった。
「汀、今の、単なるたとえよね? 本当に夏姉さんを呪ったりなんかしていないのよね?」
 彼女の立場上、そういう知識と技術も持ってそうでなんか不安だった。
 もしかしてこの前、夏夜が食器洗い中に皿を割ってしまったのは汀の呪いか。それとも按摩の練習をしていて梢子の首が軽く嫌な音を立てたあの事件か。いや待て、そういえば最近、夏夜は迷子になったり曜日を間違えたり透明なドアに気づかずぶつかったり、色々とアレな感じのうっかりが多い。まさか汀は『夏夜がすごくうっかりになる呪い』とかピンポイント過ぎる呪術を行使したりしたのか。どれだけ知識量豊富なんだ喜屋武汀。
「マジで呪ったりするわけないって」
 まあそりゃそうだ。
「てなわけで、けっこう溜まってたわけですよ、ミギーさんは」
「たっ……」
 いや、きっとストレスのこと。そうだそうに違いない。ところで蒲鉾は魚だったっけ?
 なんだか直接的な言い訳をされたけれど、香車の一途は引き下がれない。突き進んで金と成らねば、引くことを覚えないのが香車だ。いやまあ、ストレスの話をしていただけなんだけど。
 くっと唇を噛んで、そういうことだから、と話を収束させようとしている汀を見据える。
「じゃあ、私がそれで良ければ、汀も問題ないんでしょう?」
「え?」
 止まったことで安心していたのか、なおも切り込んできた梢子に汀が瞠目した。
「や、それは」
「いいのよね?」
 途中でさえぎられた汀の口からシャボン玉みたいな呻き声が洩れた。
 想像もつかないけれど、そうそう大変なことにはならないような気がする。
 だって思春期で恋だ。それは世界最強と同義である。
 もし想像を絶する事態が訪れても、汀なら、いいかなと思う。
 仕方がない。
 触れたくて、仕方がない。
「汀になら何をされてもいい」
「また随分ベタベタな殺し文句ね。
でもなるほど、殺傷力が高いからベタなのか……」
 汀が深々と嘆息して、降参の合図に両手を挙げた。
「わーかった、判りました。ま、別に今日明日って話でもないし、やっぱりオサがヘタレるかもしれないし」
 それまでにお互い、もしくはどちらかが冷静さを取り戻していれば、また話も違って来るだろうと、希望的観測っぽく願う汀の表情が、ふと凍った。
 そろりそろり、危険物でも扱うような手つきで携帯電話を取り出す。一度スライドさせて止まった。待ち受け画面を見たかったらしい。
 いや、見たかったのは、現在時刻か。
 汀が絶望的に強張る。原罪地獄に突き落とされた罪人もかくやという表情を浮かべたのち、がっくりと肩を落とした。
 簡単な推理だ。汀と時間と現在地、三つのヒントから導き出される状況は?
「汀、もしかしてフライト時間に間に合わないの?」
「……ご名答」
 「あと十五分〜……」絶望的に汀は呟く。十五分早く気づいていれば間に合ったと見える。
 通常なら、しょうがないから旅行気分で観光でもしていこうかなどうせ旅費は守天党持ちだしとか浮かれもできるのだろうが、この状況ではそうもいかない。なにせ、今日明日の話ではなかったことが今日の話になってしまうのだ。
 あ、なんか現実味を帯びたら一気に恥ずかしくなってきた。
 思春期と羞恥心がせめぎ合う。そうしている間に汀は携帯電話で誰かに連絡を取っていた。おそらくは守天党の誰か、上司に当たる人物だろう。
 梢子は盗み聞きするほど不躾ではなかったが、いかんせんすぐ側にいるので汀の声はたとえ耳をふさいでも聞こえる。さすがに相手の声は聞こえない。
「は? ちょっと若、なにふざけたこと言って……や、そういうことじゃなくて」
 困惑気味な応対は汀の表情に焦りの色を呼び寄せた。どうも、しょうがないから旅行気分で観光でもしてこいどうせ旅費は守天党持ちだしとか言われてるみたいだ。
「この時間ならまだ別便が取れるでしょう? 忙しいって、手が空いてる人間の一人くらいいるでしょうが。チケットの手配くらいしてくれても……」
 なんとなく懐かしい口調だ。困っていて、少し苛ついている。いつぞや、遠く南の地でこんなふうに電話していた姿を思い出す。あの時は遠慮して息を潜めたりしたものだが、今はなんだか、腹立たしかったので無言で手を伸ばした。
 うだうだ言ってる汀の手から携帯電話を横取りする。「もしもし」急に声が変わったことに鼻白む相手へ名乗ると、夏夜の関係者だから名前を知っていたのか、口調から警戒が消えた。
「汀なら今日はうちに泊まっていきますから、ご心配なく」
 ああそりゃ助かります。電話の向こうの青年は軽々と笑った。
「待て待て、勝手に決めるな」
 携帯電話を取り返そうと汀が迫ってくる。それを阻むために背中を向けたら、後ろから抱きしめるような格好で動きを封じつつ、携帯を狙って手のひらを繰り出してきた。梢子は一方的に通話を終わらせるとスライドを閉じた携帯を胸元へ抱き込んだ。
 「こらー、オサー」呆れたような、弱ったような苦々しい呼び声では、思春期で一途な香車は止まらなかった。携帯から引き剥がそうとしてくる手に対抗しながら梢子はさらに背を丸める。
「ほら、携帯離してさっさと返しなさい。今日は帰るから、マジで」
「嫌」
 光の速さでお断りだった。
 肩を乗り越えるようにこちらを覗き込んできている彼女の視線をこめかみに感じる。困っているようだけれど罪悪感はない。
「離さないし、かえさない」
「……あーもー…………」
 重なった手に力が込められて、「困る、ホント。そういう可愛いことされると」耳元に囁きが落ちた。
 思春期が羞恥心を凌駕している。いや正直に言えばこの体勢わりと恥ずかしい。基本的に慕ってくれるのが大人しい子ばかりなので、こんなふうに背中から抱きすくめられるなんてついぞ経験がない。夏夜に一度か二度、されたことがあるだろうか。でもそれはノーカウントだ。
 ぬくもりがダイレクトで鼓動は早鐘。伝わっていたら照れくさいな、と思ったけれど、確かめるのもなんなので、汀の腕の中で身じろぎ一つせずにいた。
 諦めの吐息が聞こえる。
「うん、じゃあ、離さなくていいや」
「ん」
 それは携帯電話のことではなかったのかもしれない。
 けれどというか、だからというか、梢子は光の速さで頷いた。
 革新的に確信された思春期の核心は、穏やかでありながらどこか不安で、しかしながら槍の一途さでどこまでも突き進まなければならない。
 こういうことは思い切りとタイミングがすべてだ。「いつ、誰と」という条件に「今、君と」と思えたならそこが踏み出すタイミングなのだ。
 断じて盛り上がっちゃった勢いとかではない。ないとも。
「オサって、そういうのに堅い方かと思ってたんだけどね」
「自分でもそう思ってた」
 仕方がない。恋なんて例外の連続で出来ているのだから。
 梢子は携帯電話ごと汀の手を握りこんで、引き寄せたそれに自身の唇を当てた。ピクリと汀が震える。
 雑念ばかりの行為は恋で、少しだけ目が眩む。
 擦り寄ると汀は小さく苦笑して、梢子の肩口をぽんと叩いた。
 
 
 勢い任せの成り行きっぽいが実はそうでもないそれは、ヘタレたり思ったほど大変じゃなかったり別の意味で大変になったり汀がやっぱり慣れてるような感じがあったりなかったり、色々あったがその辺を全部ひっくるめて、なんていうか、幸せだった。
 これからもこんなふうに綺麗だったりそうじゃなかったりする気持ちを抱いて、彼女と一緒にいられたらいい。
 神の吐息を吹きかけられて、思春期の恋は滞りなく廻った。これからも廻り続けるのだろう。
 
 
 
 ところで翌日、妙に態度が軟化した汀に夏夜がはてと首を傾げたが、幸いにして彼女は残念なくらい鈍感だったので、なんかよくわかんないけど梢ちゃんが笑ってるからいいやみたいな感じで素直に受け入れた。
 なんていうか、彼女は彼女で、幸せな日々だった。

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