彼女たちのおそらくは幸福な日々 01

    「きみ…! どうかしてんだ めちゃくちゃ……」
    「どうもしてない きみが好きなだけ」

(萩尾望都『ポーの一族』)
 
 
 
 
 溜め息を耳聡く聞きつけた夏夜が一瞬身を強張らせる。診療台に敷いていたタオルを片付ける手を止めて、シャツを着込んでいる梢子へ視線を向けた。
「梢ちゃん」
「ん? なに、夏姉さん」
「どこか痛いところとかあった? 私、変な風に捻ったりしてしまったかしら」
 オロオロと、返答によっては世界の終わりが訪れるとでも言わんばかりの表情は、梢子を笑わせた。「大丈夫よ」笑みを収めないまま届けられた返事は夏夜を安心させたけれど、それでは、さきほどの溜め息はなんだったのだろう。
 もしかして気を使われているのではないか、と、脇で夏夜の施術を見ていた仁之介へ目の動きで問いかける。師匠たる彼の眼差しは厳しい。それはいつものことだ。逆に言えば厳しさしかない。それ以外の、夏夜を責めるなにかは内在していなかった。
 眼差しを補強するように、「ああ」と仁之介が口を開く。
「別にでかい失敗はしちゃいねえ」
「……小さい失敗はしているんですね」
 軽く肩を落とす夏夜である。
「習い始めていくらも経ってねえお前が、そうそう完璧にできるはずがねえだろう。とはいえ、筋や骨を痛めるようなことはしてねえから安心しろ」
「うん。ずいぶん身体が軽いし、すごく気持ちよかった」
 梢子も仁之介の言葉を裏付ける。「なら、いいんだけれど」あまり引っ張りたくない話題であるし(主に仁之介に言われた小さい失敗について)、夏夜は頷いてその話を打ち切った。
 椅子に座っていた仁之介が立ち上がる。もうすぐ予約している患者の訪問時間だった。彼はそれほど暇ではない。
 それと同時に、夏夜の練習もおしまいだ。人体を扱う行為である以上、監督役は絶対に必要だった。下手に自主練習などして何かが起こってしまったら取り返しがつかない。そうなった場合に一生面倒を見る覚悟はあるけれど、何も起こらないに越したことはないのである。
 仁之介が立ち上がったのを契機として、夏夜は手際良く片付けと患者のための準備を済ませて、待っていてくれた梢子と共に母屋へと戻った。
 リビングで梢子が入れてくれた茶を一口飲んで、ようやく気が緩む。師匠にじっと見られながら、かつ大切な家族(そう言ってしまっても良いと思う)の身体を扱うのだ、どうしたって気は張る。
 そのせいだと言えるかもしれない。
 夏夜は自分で打ち切ったはずの話を蒸し返した。
「梢ちゃん、さっき溜め息をついていたけど、何かあったの?」
「え?」
 問われた梢子はきょとんとした。この反応からすると、無意識だった可能性が高い。だとすれば事態は深刻だ。それは自らの深層が真相を申告しているということだから。
「何か悩みがあるの? 頼りないかもしれないけれど、私でよければ相談に乗るわよ」
「別に、これといって悩みはないけど……」
 妙な具合に語尾を濁して、梢子は自分のカップを唇へ運んだ。そこでも小さく嘆息。息を吹きかけて冷ましているのだとも解釈できる仕草だった。けれど、それにしては重い。
 夏夜は、それはそれは何人に言われたか判らないくらい、どうしようもないほど鈍くて朴念仁だったが、それでも彼女の言葉が嘘であることには気づいた。
 視線は落ち、表情にはうっすらと影が射している。何もない人間のする顔ではない。
 これは良くない。自分を救ってくれた彼女、自分が救いたかった彼女。誰にも言われたことはないけれど、夏夜はどうしようもないほど彼女のことが大切だったので、身を乗り出して揺れる双眸を覗き込むといたわしげに眉を寄せた。
 彼女が笑っていないのは悲しい。
 笑ってくれるなら、なんでもする。
「学校で何かあったの?」
「ううん。特に何もないわ。クラスも剣道部も、全然いつも通り」
「それじゃあ、もっと別のところで」
「ないってば」
 苦笑交じりに言いながら梢子が手をひらめかせる。どこか痛ましい仕草だった。
 それなのに、どこか――――やわい。
 痛いというよりは、切ないと評した方が良いような、どこか匂い立つ、丸みを帯びた気配だった。
「何もないのよね……」
 丸みのある、曲線的な呟き。それは世界を斜めに見た思春期の厭世でも、自分自身の無能ぶりに苦悩する思春期の失望でもなかった。
 平穏な日々に飽き飽きして「自分は特別な存在なのだ、ここは自分のいるべき場所ではなく他にもっと相応しい場所があるはずだ。ああ、冒険と栄光の日々はいつやって来るのか」などと嘆いているのでは絶対にない。
 平穏は平穏として受け入れつつ、なお不足が生じている、そのための切なさ。
 彼女の切なさを物質化したら、乾いたスポンジボールに似ているだろう。重量は軽く、水さえ与えられれば満ちるのに、それがどこにもないからふにゃりとつぶれる。
 それは厭世でも失望でもないのだけれど、やはり、思春期だ。
 思春期の何であるのかは、夏夜には判らなかったけれど。
「あるのかな……」
 さっきとは逆の呟きが梢子の唇から落ちた。「何が?」夏夜が促した。彼女は小さくかぶりを振って、それから意識的だとはっきり判る溜め息をつく。
「……夏姉さん」
「なに?」
「夏姉さんは……人を好きになったこと、ある?」
 悩みを打ち明けてくれるのかと待ち構えていたら己のことを尋ねられたので驚いた。しかもなんだかちょっと困る質問だ。「梢ちゃんも仁伯父さんも、みんな大好きよ」とか言ってごまかしてもいいんだろうか。
 夏夜が答えあぐねていると、梢子は我に返ったように肩を震わせて突き出した手を振った。
「ごめん、今のは無し。ないってことはないわよね」
「あの……梢ちゃん?」
 どうしていきなり従姉妹違の恋愛遍歴を知りたくなったのか、見当もつかず首を傾げる夏夜だった。とりあえず、答えなくてよくなったらしいので内心ホッとした。いくら大切な彼女と言えど、照れも恥じらいもあるのだ、何でも告白できるわけもない。
 梢子は拳を口元に当てて、微妙に夏夜から視線を逸らしながら咳払いをした。
「わ、私はね、夏姉さんの真似で剣道を始めて、それからずっと剣道を続けてて、高校もそれが縁で入ったようなものだし、つまり、わりとそれが人生の基本になってたっていう感じで。もちろん友達と遊んだりはしていたんだけれど、そこ止まりだったというか。中学のときとか、話題についていけないことも結構あって、でもあまり気にしてなくて。その、やっぱり、他の子よりはそういう方面に興味が薄かったと思うの」
 夏夜に口を挟ませない、早口の長広舌だった。しかも意味が判らない。そういう方面ってどういう方面なのかしら、と考えて、時間軸を遡った夏夜はようやく先ほどの質問と繋がるのだと理解した。
 剣道馬鹿だった彼女は恋に興味を持ったらしい。
 要約すると二十文字以内に収まりそうな結論に至り、夏夜が表情を緩ませる。
 なるほど、思春期のそれか。可愛らしい悩みではないか。おそらく彼女自身にとっては重大事なのだろうけれど。もしかしたら死人がよみがえってひょっこり帰ってくるという出来事より重大かもしれない。なにせ思春期のそれは世界と同価値があるのだから。
 彼女のまとう曲線にニコニコしていたら、なぜか恨みがましい目つきで見られた。
「笑わないで」
「……ごめんなさい」
 夏夜は気合を入れまくって口元を引き締めた。
「誰か、好きな人がいるの?」
「……い、いるような、いないような……」
「梢ちゃん、それじゃあ判らないわ。話すだけ話してもいいんじゃない? あまり役には立たないかもしれないけど、これでも梢ちゃんより長く生きてるんだから、アドバイスできることもあるかもしれないし」
 自身にある懐かしさと、彼女の成長に目を細めつつ、夏夜は優しく言う。
 梢子はかすかに喉で唸ってから、両手を膝の上で組んだ。まだ迷っているようだ。そんなに頼りないだろうかと心の中で落ち込む夏夜だった。
 しかし、ここで諦めては仕合い終了である。彼女が笑ってくれるのなら、夏夜はなんでもするのだ。
「どんな人なの? それくらいは教えてくれてもいいでしょう?」
 興味本位で訊いているわけではないのだ、という意思表示に親身な表情を作る。本心でもあるので後ろめたさはない。
「背が高くて、顔というか、見た目はかなり整ってると思う」
「素敵ね。性格は?」
「えっと……最初はちょっと苦手なタイプだと思った。つかみ所がないっていうか、軽いというか……平気で嘘をつくし、嫌味たらしいし、無闇に自信家だし、よく人を馬鹿にするし」
 外見が良くて中身がアレという、残念な感じが満載な人間像だった。
「……梢ちゃん、あなたが選んだんだから私に何かを言う権利はないのかもしれないけれど、個人的にはどうかと思うわ」
「でっ、でも仕事には一生懸命で、本当に命かけてるくらいだし、優しいところもある、と思う……」
 フォローの声が次第に小さくなっていくのがかなり不安を煽る。この子、騙されてるんじゃないだろうか。
「その人とは、知り合ってからどれくらい経ってるの?」
「夏姉さんと会えた少し前に知り合って……けど、今は連絡先も知らない」
 行きずり?
 夏夜は思わず目頭を押さえた。この八年の間に何があったのだろう。あんなにも生真面目で一本気だった梢子が。これも成長という一言で片付けて良いのか。いや、真面目な子ほどちょっと悪っぽいタイプに惹かれると話に聞く。そういうことか、そういうことなのか。
「会わなくなったから少し気になるだけかもしれないとは思うの。けど、ずっと、今はどうしてるのか気になってるし。でも、そういうことだって確証もなくて……」
 否定、否定と続く言葉は自信のなさの現われか。経験による指針もなく、それで参考として夏夜の経験を聞きたかったようだ。
 というか夏夜も否定したい。その人はやめておいた方がいいと言ってしまいたい。
「でも、今はどこにいるのかも知らないのよね? 探すのも難しそうだし、その……諦めた方がいいんじゃないかしら」
 言葉をオブラートにくるみつつ、夏夜は梢子を誘導しようと試みる。「そうなんだけど」思春期特有の憂いを込めて、梢子は言葉だけの肯定をした。
 彼女もそれは判っているのだ。今はちょっと、初めての経験にどうしていいかが判らず、なかなか吹っ切れないだけだ。そうに決まっている。ならば己がとやかく言うことではない。きっと時間が解決してくれるはずだ。
 細く息を吐き出して、梢子がカップに口をつけた。
「夏姉さんの言う通りよね。偶然再会するなんてこともないだろうし、別に私のことなんてなんとも思ってなかっただろうし。よしんばまた会えたとしても……夏姉さんとは打ち解けないしね」
「そうそう」
 うっかり力強く頷いてしまう夏夜だった。
 彼女は笑わない。それは残念だが、かの人物を探し出して引き合わせてあげたいとは思わない。場合によっては協力する腹積もりでいたけれど、さすがに無理だ。色々な条件が厳しすぎる。
 ところで梢子の言葉のうち、最後だけは予測ではなかったが、夏夜の中ではすでに決まりきっていたことだったのでそのことに気づかなかった。
 タイミングを見計らっていたように、夏夜のポケットが震えた。同時に規則的な電子音も流れ出す。原因である携帯電話を引っ張り出した夏夜は、ディスプレイに表示された登録名を見やって軽く表情を曇らせた。
「電話? 誰から?」
「ああ、ちょっとした知り合いよ」
「よくかかってくるわよね。昔の友達とかじゃないんでしょう? 一応、一度死亡宣告されてるから連絡してないって夏姉さん言ってたし」
 訝しげな梢子へ愛想交じりの笑みを送って、
「大人の付き合い、かしら」
 方便としてそんなことを言ってみた。
「あ……。そ、そう、大人の……」
 梢子がわずかに顔を赤らめてコクコクと忙しなく頷いた。
 なんだか妙な意味に受け取られた気がするが、携帯電話が鳴り続けているので夏夜は足早にリビングを出た。
 リビングから充分に距離を置いて、周囲に人の気配がないことを確認してから通話ボタンを押す。「はい」愛想も素っ気もない、硬質な声だったが、電話の向こうにいる人物は特に気にした様子も無かった。
『こんにちは、剣鬼。元気?』
「――――……」
『あら、面白くなかった?』
 呆れを含んだざらついた吐息に、向こうは皮肉げな響きで言う。
 電話の相手は少しばかり因縁のある存在だった。こちらとしてはそれほど悪印象はないのだが、あちらはそうでもないようだ。それも仕方がないことだと思う。向こうにしてみれば組織一丸となって守っていた宝を強奪した盗人であり、彼女自身にとっては初めて黒星をつけた相手なのだから。
 誤解も解けて、共に刃を揃えて敵に向かい、問題は解決したはずなのに、彼女はことあるごとにこうして嫌味をぶつけてくる。面白いわけがないが、負い目があるから強く反発もできなくて、結局、遠慮がちな吐息による抗議しかできないのだ。
「元気だし、正気よ」
『そりゃ良かった。こっちの進展はなし。鬼に憑かれた人間から鬼だけを切り離す方法はあるらしいけど、まるっきり、根底から鬼に成ってしまった身体を人間に戻す方法は、さすがの鬼切り部も持ってないみたいでね』
「……そう」
 鬼切り部。それが電話の相手が属する組織で、夏夜の協力者であり監視役だ。
 人間社会へ戻り、戸籍やらなにやらを復活させたとはいえ、夏夜の身体は未だ鬼のままだ。
 人の身に戻る手段を探してやると言われたのは、戸籍が戻ったという報告を受けた日だった。その代わり、定期的に鬼切り部と連絡を取ること、自身に何か異変が生じたらすぐに伝えることが条件として提示された。
 納得できる話だったので、夏夜はそれを受けた。神代の呪物たる《剣》を、常人であればものの数分で取りこまれる《力》を短くない期間持ち続けていたのだから、いつどんな影響が現れるか判ったものではない。鬼切り部が監視下に置いていたいと考えるのも当然だった。
 それに夏夜としても、個人で調べられる範囲には限界がある。その申し出はありがたかった。
「梢ちゃんに頼りきりになってしまってるし、できるだけ早く、この身体をどうにかしたいわ」
『……オサなら、喜んで血をあげてるんじゃないの。大好きな夏姉さんだし?』
 どこか硬質に彼女は言う。「だから心苦しいのよ」声音になんの解釈も加えず夏夜は応える。
「あなたたちに頼んでいると言えたら、少しは気も軽くなるんだけれど」
 いつになるか判らないけれど、いつかは人に戻れるかもしれない。血を求めるのは一時的なものだ、と彼女に伝えることができたら、甚だ脆弱な根拠ではあるけれど、言い訳にはなる。けれどそれは許されていない。夏夜のケースは例外で、本来、鬼切り部は無関係な人間に対して無闇に接触を持つことはないのだそうだ。そのため、夏夜も鬼切り部と連絡を取り合っていることを梢子に教えないよう口止めされている。
 『一応規則だからね』肩でもすくめていそうな応答だった。
『で、そろそろ様子見の時期じゃない。オサのいない時間は?』
「平日なら、部活があるから――――」
 記憶を辿りながら夏夜は夕刻に近い時間を答えた。
 電話連絡だけでは心もとないという理由で、月に一度程度、夏夜は対面調査を受けていた。やって来るのは電話の彼女。いつも梢子が自宅にいない時間を狙って訪れ、異常がないと確認できればさっさと帰っていく。どうもこのお役目を快く思っていないようだ。夏夜もそうだろうと思う。しかしながら、鬼切り部の頂点から直々に言いつけられているらしく、嫌々ながら毎回律儀に足を運んでくる。
 様子見だけなら他の誰かでもいいような気がするが、「縁の結ばれている人の方が引き合いますから、逃げられた時に探しやすいのですよ。だってさ」彼女が似ているのかそうでもないのか判らない物真似付きで言っていた。
『じゃ、そのあたりに行くから。お茶は玉露で。茶菓子は豆菓子以外ね』
「……いいけれど。どうして豆菓子は駄目なの?」
『"さや付き"だと何が起こるか判らないじゃない?』
 これだ。悪い子ではないのだが、どうにも嫌味たらしい。
『そういえば、あんたとの再戦は結局叶ってなかったわね。オサが来るまで時間があったら仕合ってみる? 今度は負ける気がしないんだけど』
「あなたと剣を交える理由は、もう私にはないわ」
『ふぅん。ところで宮本武蔵は自分より弱い相手としか戦わなかったと言われてるって知ってる?』
「…………」
 これから何年付き合っていこうが、彼女とは打ち解けられる気がしない。
 悪い子ではないし嫌いでもないのだが、どうにもあの、嫌味たらしくて無鉄砲とも思える自信家ぶりと、人を小馬鹿にした語り口調に慣れない。
 梢子とは比較的親しかったようだが、同じように接していたのだろうか。だとしたら二人を会わせないのは良いことに思えた。きっと梢子も汀を苦手としている。彼女には笑っていてほしいから、あまり神経をささくれ立たせたくはない。
 
 とまあこのように、鳴海夏夜はどうしようもなく鈍かった。

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