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 やりたいことが見つかりません。
 
 よくもまあそんな恥ずかしい台詞を恥ずかしげもなく言えたものだと今では思うものの、その当時はそれが偽らざる事実だったのだから仕方がない。
 そりゃ丁度いい。うちに来なさい。
 尻の青い青二才の青くさい無気力主義に眉ひとつひそめず、そんな返答をしてきた担当教官も相当だと、これは今でも思う。
 
 
 
 リビングには全員が揃っていた。「あ、マス……」最初に気付いたミクが振り返り、そのまま硬直する。後に続いた三人も似たような反応を見せた。
「どっ、どうしたのマスター! 髪が薄くなってるよ!?」
「デリケートなお年頃に突き刺さる言い方をするんじゃないっ」
 思わず両手で頭を押さえ、頭皮の様子を確かめるマスタだった。
 実際、昨日よりも指に伝わる感触は頼りなくなっているが、それは単に長さがなくなり、寝癖で跳ね放題ではなくきちんと整えられているせいだ。
「ちょっと散髪に行ってきただけだよ。薄くなってなんかいない」
 後半を強めの口調にして言い返す。それでもミクたちの表情は強張ったままだった。
「珍しいわね、マスターが自分から髪を切りに行くなんて」
「いつもは論文書きに没頭してる隙をついてミク姉がこっそり切ってるのにね」
「次からも行ってほしいよな。落ちた髪の毛掃除すんの俺なんだよ……」
「ああ、道理で急に視界がクリアになると思ってたんだ。ありがとうミク」
「どういたしまして。てゆーか気付いてなかったんだ……」
 「って、そうじゃないんだよ」レンが裏手で空中を打った。
「そう、どうしたのマスター。まさかお見合い? これは一大事、みんな急いで後をつける準備して!」
「ついてってどうすんの」
「……えっと、どうしよう……」
 なぜ髪を切っただけでここまで騒がれねばならないのかと、マスタは一人嘆息する。
「こないだの論文が学会誌に載ったから、教授にお礼の挨拶に行くんだよ。いくらなんでも恩師と会うのに身だしなみを整えないわけにはいかないだろ」
 先日のあれやこれやに端を発したミクのバージョンアップについて、技術論文を学会に送っていたのである。その共同執筆者にボーカロイド研究の第一人者でもあるマスタの恩師が名を連ねているのだ。書き上がったらはい終了、とはいかない。
 帰りがけに買ってきたワインを指し示しながら説明すると、みんなようやく納得してくれたようだった。
「なんだ、綺麗なおねーさんとでも会うのかと思ったら相手はおじーちゃんか。そのまま一緒に枯れないといいけど」
「教授はまだまだ現役だよ」
 定年を過ぎて久しいが(名誉職にはつかなかったので、正確には『教授』という呼び名は正しくない)、ミクたちの先輩であるボーカロイド二人を率いて精力的に活動を続けている。先日も新曲のPVに使うロケーションを探して日本を半周ほどしたらしい。撮影はクライアント任せで編集作業ばかりしている自分より活発だ。
 そんな人なので捕まえること甚だ難しく、何度もメールを送ってようやく今日の約束を取り付けた。いきおい、少々テンションが上がって似合わないことをしてしまった感は否めない。
「とにかく、今日はちょっと遅くなるから、夕飯は食べちゃってていいよ。もしかしたら泊まりになるかもしれないんだけどその時は連絡する。僕がいなくても夜更かしなんかせずにちゃんと寝るんだよ?」
 一人ずつに人差し指を向けながら言い含めると、レンが軽く半眼になった。
「いや、マスター大体いつもいないようなもんだし」
「ラボにこもって作業してるか、ラボで寝てるかだもんね」
 言い返せない。
 「こっ、今度みんなで遊びにでも行こうかっ」声が裏返った。
 なぜか届く視線が生ぬるかった。
 しかも好意的な反応をしてくれたのはリンだけで、それも「がっくんたちも誘っていいなら」という条件付きだった。
 これはどう考えても、どうせ当日になったら面倒くさくなってドタキャンするに決まっていると思われている。正直に言えば、自分でもそう思う。
「マスター、無理しないで。基本的に駄目な人なんだから」
「……僕、一応わりと権威のある賞とかもらってるんだけど」
 反論はむなしく宙に漂った。
 実際、工学分野においてマスタの評価は決して低くはない。教授が作り上げたものを改良して『ボーカロイド』という言葉を市井に広めたのはマスタの功績が大きいし、それによって研究も産業も活発化した面は確かに存在する。
 しかしミクたちにとって、そういった専門的な成果は見えるようで視えない。近すぎるせいだ。彼女たちには彼が「なんとなく駄目な感じの人」としか映らない。悲しいことである。
「マスターがすごい人っていうのは噂で聞くけど、いまいち実感ないんだよねー。いっつもぽやぽやしてて、何考えてるか、何したいのか判んない」
 その場にうずくまったマスタの前でしゃがみ込み、短く刈られたサイドや襟足をしょりしょり撫でながら、ミクが嘆息交じりに言った。
「僕のしたいこと? そんなの決まってる」
「なに?」
 マスタはすっくと立ち上がると、力強くこぶしを握った。
「君に馬鹿にされない日々を送ることだっ」
「語気を荒げて宣言するわりには情けない目標ですね……」
 さらりと入ったルカのツッコミが痛かった。
 
 
 
 インタフォンを押して八秒。「はいはーい」青年の声が聞こえてきて、それから玄関ドアが開けられた。
 「あ、先生。いらっしゃい」「お邪魔します」にこやかに出迎えてくれたカイトに微笑み返しながら、マスタがドアをくぐる。
 三人で暮らすには少々広いリビングだ。以前は何かあるごとに大勢の客がやって来ていて、そのために設計されたものなのだが、最近は来客もほとんどないため少し寒々しい。といってもそれは見た目だけのこと、彼らが不満なく過ごしていることはその表情からも明らかである。
「あら先生。お久しぶり」
「うん、メイコくんも久しぶりだね。元気だった?」
 おかげさまで、とメイコは朗らかに笑い、自分が座っているソファの隣をマスタに勧めた。マスタは軽く躊躇する。外見年齢はルカとそう違わないが、自分が制作したいわば『子ども』と彼女では、なんとなく心の置きようが違う。だというのに空気を読まないカイトが客用クッションを持ってきてメイコの横に置くものだから逃げられなくなり、仕方なくそこへ腰を下ろした。
 早速、右肩にしなだれかかってくる。うう、とマスタが身を引いた。女性の扱いには慣れていない。
「ほんと、最近ご無沙汰じゃない? ミクたちの世話で忙しいのは判るけど、もうちょっと遊びに来てくれたっていいんじゃないの?」
「そういうからかい方は本当にやめてくれ……。本物だってそんなに経験ないんだから」
 自分で顔が赤くなっているのが判る。額には汗が浮かんでいた。
 メイコが堪え切れずに吹きだす。「相変わらずみたいね、センセ」すっと離れると肘掛に腕を乗せて頬杖をつき、出来の悪い生徒を見るような流し目をくれてきた。
「きょ、教授は? 一応、出る前にメールは送ってたんだけど」
 忙しなくあたりを見回して恩師の姿を探すが、さて見つからない。まさかあれほど念を押していたのに何か作業が入って出かけてしまったのだろうか。
 マスタに出すコーヒーを準備していたカイトが、少しバツの悪そうな顔を対面キッチンの向こうから覗かせてきた。
「あ、ドクちょっと風邪を引いちゃって部屋で寝てるんです。熱は下がってきてるんで、今呼んできます」
「いいよいいよ。そういうことならまた後で挨拶を……」
「そんなこと言ってると、また半年くらい会えなくなるわよ。大した風邪じゃないし、大丈夫だって」
 メイコもパタパタ手を振りながら言う。彼女たちの言う通り、この機会を逃したら次はいつになるか判らない。メールと電話で連絡だけは取れるのだが、いざ実際に会おうとするとなかなか都合がつかない人なのだ。レアキャラなのである。
 カイトがソファ前のローテーブルにコーヒーカップを置いて、二人の対面に落ち着いた。にこやかな青年の現在の表情は、少し困ったような下がり眉である。
 出されたコーヒーを口に運びながら、マスタはしばし思案する。酒でも汲みかわそうと思っていたがそれは難しいようだ。土産のワインが無駄に……はならないが(隣にいる彼女はアルコールを好む)、ちょっと当てが外れた。今日は挨拶程度で切り上げて、ミクに自分の夕飯も用意しておいてもらうのが良いだろう。献立がーとか材料がーとか文句を言われそうだけれど仕方ない。
「じゃあ、わざわざ起きてもらうのもなんだし、少しだけ教授の部屋にお邪魔するよ」
 立ち上がりかけたところをメイコに押さえつけられてソファに戻る。「うわっとと」存外強い力で押されたのでバランスを崩した。ローテーブルを蹴りつけてしまわなかったのは幸運だった。
「ドク、部屋に入られるの嫌がるのよ。やれ本を踏むな場所を変えるな、うるっさいったら。だったら足の踏み場くらい作りなさいよって話じゃない」
「整理整頓は、教授も僕も苦手とするところで……」
 メイコが制作された当時、この家に下宿していたマスタは自分も責められているように感じて身を縮めた。
 あの頃はメイコの文句と掃除機の音をBGMに、二人で研究に没頭していたものだ。当然ながら状況はまったく改善されず、カイトが作られてから彼女が一切の家事を放棄してしまったこともむべなるかな、という具合である。
 思い出に浸っていたマスタだったが、ふと気付いて顔を上げる。
「あれ、二人とも、その『ドク』ってなに? 前は普通にマスターって呼んでたよね?」
「博士号持ってる人に『マスター』は失礼じゃない?ってメイちゃんが言い出したんですよ。で、『ドクター』から『ドク』。今さらですけどね」
「この場合の『マスター』は別に修士課程のことじゃないけど……。ま、君たちがそれでいいなら、いいのか」
 タイムマシンでも作りそうな愛称だが、二人とも気に入っているようなので構わないのだろう。
「プロフェッサーって案もあったけど、長いから却下したのよね」
「なんで英語にこだわるの?」
 益体もない会話をしている間にカイトが姿を消していた。気配がなかったというより、あまりにも自然で認識する必要性を感じなかったのだ。彼はどこかそういうところがある。単にメイコによる使い走り生活が長すぎて身に着いたものかもしれないけれど。
 彼らの共同生活は長い。マスターは院を出るのと同時に独立した。メイコが作られたのはその一年前、二年を挟んでカイトが生まれた。それからずっと三人で暮らしている。教授は結婚していたそうだが、師事するようになるずっと前に病気で死別している。
 写真でしか見たことのない教授の奥さんに、メイコは少し似ていた。
 ほんの少しだけ。本人の似姿というよりも、娘のような面影だけを残して。
 科学者、特に工学者は大抵ロマンチストなのだろうとマスタは考えている。もちろん自分自身も含めてである。
 カイトに支えられるようにして教授が階段を下りてきた。即座にマスタが立ち上がる。
「おお、君か。実際に会うのはいつぶりだったかね」
 小さく苦笑する。メールでのやり取りは頻繁にしていたので懐かしさなどはないが、そう聞かれて思い返せば、軽く一年は空いていた。
「お久しぶりです。この間はありがとうございました」
「なに、なかなか面白い論文だったからね。私も楽しかったよ」
 ゆったりと専用の揺り椅子に腰かけて、教授は「ふ、ふ、ふ」と息継ぎのように笑った。
「風邪だそうですが、お加減はいかがです?」
「もう治りかけているね。カイトのおかゆ、これが実に美味い。滋味が染みわたるよ。風邪を引いた時くらいしか食べられんからますますありがたい」
 「普通のご飯を作るより手間がかかるんですよ」カイトが軽く肩をすくめながら呟いたが、料理の腕を褒められて悪い気はしていないようだった。
 膝の上で両手を組んだ教授が鷹揚に頷いた。それから何かを思い出すように視線を宙に向ける。
「一度、メイコが作ってくれたこともあったね」
「あ、僕がいた頃ですよね。あの時も教授が風邪で倒れて。あれすごかったな、まさか日本酒を」
 言い切る前に思い出し笑いが口を占領してしまった。「確かに風邪を引いた時はおかゆと卵酒が定番だけど……だからって二つを合わせるとか……ぶふっ」
「へえ、そんなことがあったんですか」
 のほほんと応えるカイトとは対照的に、メイコは首から上を紅潮させながら両腕を振り回している。
「あーあー! そんな大昔の話とかしない! だから、あの頃はケーススタディで処理方法の最適化を図ってる最中だったから、色んな可能性を試してたんだって!」
「あれはあれで、なかなかおつなものだったね」
 教授が本気なのかフォローなのか良く判らない様子でひとりごちる。マスタもメイコに遠慮のないチョークを極められてからかうのをやめた。人を呪わば穴二つというが、いたずらに人を笑わば埋まるのは自分だけだ。先人の言葉で墓穴を掘るという。
 ふと、教授の視線が流れて、一点で止まった。その先にあるものに気付いたマスタが慌ててそれを取り上げる。
「そうそう、こいつを忘れてた。つまらないものですが、共同執筆のお礼です」
「ああ、ありがとう。良いものだね。カイト、これで何ができるかな」
「そうですね、ラムがあるからワイン煮なんてどうです? 煮汁でソースをこしらえるとおいしいですよ」
 じゃああそうしてもらおう、教授が首肯する。
「確かにおいしそうですけど……教授、ワインはもう飲まれないんですか? 昔はかなり飲んでたと思うんですが」
 マスタが尋ねる。老人は自身の腹部をさすりさすり、小さく頷いて、まぶたを軽く閉じた。
「半年ほど前に肝臓をやられてしまってね、ドクターストップがかかってしまった。まあ完全にやめたわけでもないから、一杯くらいはメイコたちと一緒にいただくよ」
「ああ、それは……すみません」
 連絡は本当に連絡ばかりで、世間話など皆無だったから、そんな事情は露知らなかった。メイコかカイトに確認をしておくんだった、と軽く後悔する。
 そういえば、教授の腕はずいぶん細い。
 いつまでも地方を飛び回って意気軒昂でいるのだと思いこんでいたけれど、目の前にいる彼は、もう老人なのだ。
 一緒に酒を酌み交わしたことも、連日徹夜でメイコのチューニングをしていたことも、もう全て、『思い出』でしかないのだ。
 マスタはもう、彼の背を追っていないし。
 教授はもう、無気力な学生の先行きなど負っていない。
 湿っぽくなった気分を振り払おうと、何度か瞬きをする。それを見ていた教授が例の息継ぎみたいな笑声を洩らした。
「君のところの子たちは元気かね」
「え、ああ、はい。元気すぎるくらい元気ですよ。ミクなんてもう、本当に生意気で……」
「君は気の強いのが好きだからね」
「……いや……そういうわけでは……」
 きっぱり否定できないのが悲しい。
 リンとレンが生まれる前にあった蜜月がミクの性格設定に影響を及ぼしたことは間違いない。ケーススタディだ。マスタの反応からミクは行動方針を決定づけていったのだし、その結果が今の彼女であるわけだから。
 僕、マゾなのかなあ。あまり認めたくない知られざる一面に気付きかけて、心の中で嘆息する。
 してみると、彼女はある意味で己の理想だということになる。美しい容姿(ミクは総じて平均値を取って作った。美しさとは形と配置の平均値だ)と心地良い距離感、そして愛情。『そういう目的』などなかったけれど、なるほど、研究所仲間に『そういう目的』があると勘違いされても仕方がない(よくからかわれていた)。
 けれど実際には彼はミクを選ばなかったし、ミクも違う存在を選んだ。
 それは自分たちにしてみれば当たり前の帰結だったのだけれど。
「初音ミク……初めての音が、未来からやってくる、だね。君らしいネーミングだ」
「こっ恥ずかしいわね」
「綺麗な名前じゃないか。ちょっとロマンチックだよね」
 共鳴から鳴子、音階から階人と安直な名づけ方をされた二人が正反対の感想を口にする。
「か……可愛いと思ったんだけど……駄目かな……」
「いやいや、良い名前だ。君が作りだした初めての未来だからね。相応しいよ」
 それは素晴らしいことだよ。教授が優しく目を細める。
 未来という単語が、マスタの中心をささやかな流れで通り過ぎていった。
 その流れに名前を付けるとしたら、寂しさ、かもしれない。
「少し前まであの子は確かに僕の未来でしたが……今は、そうじゃなくなってしまいました」
「ふぅむ?」
「僕は……やりたいことが見つからなかった僕は、いつだって確固たる……形ある未来がほしかった」
 見て触れて確かめられる、そんな未来。
 それはまず担当教授という形で目の前に現れて、それから自作のボーカロイドという形で生み出された。
 どちらも、もうマスタの未来ではない。
 「僕はまた未来を見失いましたよ」自嘲気味に笑って言うと、教授はなにも答えなかったが、メイコが呆れ顔で首をかしげた。
「なに言ってんの。未来が見えるなんて超能力者でもなきゃ無理でしょ」
「メイちゃん、先生が言ってるのはそういうことじゃないと思うよ」
「いや、そういうことだよ。僕は自分が超能力者になれると信じてた」
 せっかくのフォローを否定されてカイトが微妙な表情になった。「カードとか、そういう?」またも的を外した反応に、マスタがくしゃりと笑う。
「昔の僕はビックリするくらい頭が悪かったから。『みんなが幸せになれる世界』を自分で作れると、無自覚に信じ込んでたんだよ」
 そうだ、やりたいことが見つかりませんと告げた言葉は本心だったが本当ではなかった。
 やりたいことなら意識する必要もないほどはっきりと存在していた。
 ただ、やり方が見つからなかっただけで。
 教授には感服するしかない。砂漠を彷徨い歩き続けて喉がカラカラで、誰か水を、と文字通り渇望している時に一杯のミルクを差し出された気分だった。
 ミルクは水ではない。けれど喉の渇きは癒される。
 今思い出してもひどい殺し文句だった。
 
 『私の研究はね、みんなを幸せな気分にできるかもしれないものを作ることだ』
 
 そして彼はのめり込んだ。幸福の定義を考えたら断る余地はなかった。
 音を。
 歌を。
 老いも若きも男も女も、裕福な人も貧しい人も。どんな境遇であれ、歌は届く。
 見たかった。触れたかった。確かめたかった。
 だから――――作った。
「で、どうなったんです? 先生の未来は」
 カイトの相槌に、マスタは頬づえをついて口元を緩める。
「それは秘密です」
「なにそれっ。ここまで思わせぶりに話しておいてそれ!?」
「いや別に話してもいいけど、僕がどれだけミクを好きかっていう惚気になるよ」
「……あ、なら言わなくていいわ」
 聞いてないのにうんざりするメイコと軽々しい笑い声を上げるマスタの間に、カイトが割って入ってきた。
「僕だってメイちゃんを好きって主張なら負けませんよ」
「絶対に言うな」
 仲の良い二人である。
 プロトタイプなので性能面ではミクたちの方が一歩先んじているが、情緒の部分ではやはり一日の長がある。ミクはこんなツンデレな台詞を吐かない。
 マスタは人とボーカロイドを明確に区別している。ただし、優劣はつけていない。日本茶を飲んでいる時は日本茶を飲んでいると認識し、紅茶なら紅茶と認識する。そういう具合に区別をつける。
 それなのに時々、メイコやカイトと会話をすると、人と話している気分になる。まだまだ教授には追いつけていない。
「ああそうだ、先生、よかったら夕飯ご一緒にいかがです? さっき言ってたラムとか、他にも色々と腕を振るいますよ」
 カイトが腕まくりをして強調しつつ尋ねる。
「でも、教授の具合もあるし、迷惑にならない?」
「気にすることはない。もう普通に食事もできるからね。それに、これからあと何度、君に会えるかも判らないし」
「またどこかに出かけるんですか?」
「いいや」
 教授がほころばせた表情をそのままに、ゆっくり首を振った。
「私は年を取ったよ」
 言外の意味を読みとったマスタの顔つきが変わる。教授の細くなった腕を見る。彼と出逢ってからの年月を数える。
 そうか。
 こうも現実的に考えられるほどの月日が経っていたのか。
「……じゃあ、お言葉に甘えて、ご相伴にあずからせてもらいます。カイトくんの料理はおいしいですからね」
「そうしなさい。私は夕食まで少し休ませてもらうよ」
 両手で身体を支えながら立ち上がると、教授は自室へ戻って行った。隣でメイコが決まり悪そうな顔をしている。
「あー……あんま気にしないで。ドク、最近なんか弱気なのよ」
「うん、いや……」
 マスタは教授に己の姿を重ねない。
 だから、単純な興味としてメイコに問いかけた。
「……教授が亡くなったら、君たちはどうするの?」
 唐突な、しかもいくらか無神経な質問に軽く眉をひそめつつ、それでもメイコは思案するように人差し指を唇に当てた。
 しばらく返答がなかったので、さすがにぶしつけすぎたかとマスタは少々後悔する。けれど彼女の横顔に怒りは見えなかった。それに視線を転じた先のカイトも和いではいなかったが、特別感情的になっているようにも見えない。
 少し気づまりな沈黙がとうとう破られた。
「どうもしないわね。ドクがいなくなっても、あたしとカイトはここでこの家を守るだけ」
「僕もそうですね。メイちゃんと一緒にここにいますよ」
「教授がいなくなっても? 変わらずに暮らしていくの?」
「そうね。まあ、お酒の量はちょっと増えるかもしれないけど」
 「今よりも?」カイトが驚きと呆れが等分に混じった呟きを洩らす。メイコに睨まれてさっと顔をそむけた。
 どうもしない。返答を頭の中で反芻する。
 それは『どうにもならない』ってことじゃないの?
 あまりにも子供じみた反論だったので言わなかったけれど。
 別に何が知りたかったわけでもない。ただ教授がいなくなってからの、彼女たちの長い長い未来を、その予想図をちょっと見たくなっただけだ。
 二人がなにを選んで、なにを選ばないのか。
 ぼんやり感慨にふけっていたら、メイコにぐしぐしと頭を撫でられた。「おおっ!?」せっかく整えた髪が乱れてしまったが、もともと整っている方がレアケースなので直そうともせず、なにをするんだ、と隣に向き直る。
「あんたが気にしなきゃいけないのは、あたしたちじゃなくてあの子たちがどうするかでしょ。いいのよ、あたしもカイトも教授もそれでいいって思ってるんだから」
「……ああ、なんだ。決めてたんだ」
 二人とも頷く。それもそうか。年単位で顔を合わせる機会のない自分と違って、彼らはいつでも一緒なのだ。日々の中で何かを思うこともあるのだろう。それこそ、教授が風邪を引くという状況だけでも。
 やっぱり馬鹿な質問をしてしまったなと反省した。以前から決めていたことなのになかなか答えなかったということは、あまり口にしたいことではなかったのだ。そんなだからマスターはもてないんだよ。ここにいないくせにミクのツッコミが聞こえた。仰る通りで返す言葉のひとつもない。
「ごめん。今のは……配慮がなさすぎた」
 やるせなさに思わず手のひらで顔を覆う。
「悪いと思ったなら、お詫びに今度日本酒買ってきて」
「また酒かっ」
 どれだけ飲みたいんだ。
「馬鹿ね、ワインと日本酒は別腹なのよ」
「日本酒をデザート扱いするな!」
「お酒は入るところが違うの☆」
「言い方変えても可愛くはならないよ!?」
 一瞬メイコが十六歳くらいになったように見えたが錯覚だろう。
 ぜえぜえと息を切らせるマスタの前に、よく冷えたレモネードが差し出された。受け取って一息に飲み干す。レモンの爽やかな風味が鼻孔を通り過ぎていった。呼吸も落ち着く。
「ありがとう、カイトくん」
「いえいえ」
 湿っぽさはどこかへ吹き飛んでいた。こういうところ、二人とも本当に上手いなとしみじみ思う。
 適度にガス抜きをされたおかげでその後はなごやかに会話を楽しむことができた。
 日が暮れて戻ってきた教授と揃って夕食となり、カイトの料理に舌鼓を打つ。ワインどころかブランデーまで開けて(メイコが)、勢い余ってどちらも空けてしまい(主にメイコが)、後半はあまり記憶がない。
 
 
 
 早朝の爽やかな日差しが目に痛い。腕時計を見るとまだ午前5時だった。いつの間にか寝かされていた客用布団から這い出たマスタは、ふとそこが昔自分の使っていた部屋だと気付いた。
 といっても、当時の面影はない。家具も部屋の空気も何もかも変わっている。ただ窓の配置と、そこから差し込む日差しだけが同じだった。
「ああ……寝ちゃってたか……」
 しゃがれた声で独り言を洩らす。しょぼつく目を乱暴に擦ってドアを開けようとしたところで、背後からなんだか艶めかしい衣擦れが聞こえた。背筋が凍る。恐る恐る振り返る。メイコだった。
 「んのうわあっ!?」思わず壁に張り付いて悲鳴を上げてしまった。なんだこの漫画みたいなシチュエーション。そしてその場合、悲鳴を上げるのは女性の方ではないのか。
 叫び声に気付いたか、カイトが部屋のドアを開けてきた。
「あっ、いや違うんだ僕は全然覚えてなくてというかたとえアルコールが入っていても僕は決してそのようなっ」
 わたわたしながら弁明するマスタにカイトが小さく首をかしげる。
「えっと……? おはようございます。メイちゃんってば潰れた先生にいたずらしてやるーとか言って、そのまま自分も寝ちゃうんですもん。しょうがないからそのままにしちゃったんですけど、大丈夫でした? 僕、力ないからメイちゃん運べなくて」
「…………うん。だいじょうぶだとおもう……」
 大丈夫だった。よかった。
 とりあえず顔洗ってきた方がいいですよ、と何故か同情交じりの視線を送られたマスタは、洗面台の鏡で自分の顔を見た瞬間、彼の視線の意味を悟る。
「額に肉って、古すぎる……」
 何度もこすったおかげで赤くなってしまった。
 朝食もと誘われたが、自宅の方が心配だったのですぐに帰ると答えた。まあ滅多なことはないだろうが、リンやレンあたりが羽目を外していないとも限らない。その場合はメンテナンスをしてやる必要があるのである。
 まだメイコも教授も起きてこないので、カイトだけに挨拶をして辞する。
「あ、ちょっと待って下さい。昨日のデザートに出したスフレが多めに残ってるんで、よかったら持っていってください」
「いいの? ありがとう。君は良いお嫁さんになるよ」
「……主夫とはメイちゃんによく言われますけど、その言い方は初めてです……」
 
 
 
 家に帰ると音がした。いや音と言うか声? 小さな鼻歌だった。やっぱり徹夜で遊んでいたな。いったい誰だ。リンかレンか。
 声は遠い。しかし誰の部屋の方向とも違う気がする。はて、と首をかしげつつ探し歩いてみると、ラボに辿り着いた。少し不思議に思った。鍵なんてかけていないから誰でも自由に出入りできるけれど、基本的にマスタがいなければ特段用もない場所だ。
「あれ、ミク?」
 予想に反して、デスクに楽譜を広げて歌っていたのはミクだった。彼女のことだから昨夜はさっさと部屋にこもってルカといちゃいちゃしているかと思っていたのに。
 ミクが歌を止めて振り返る。
「おかえり」
「ああ、うん。ただいま。どうしたのこんなところで。寝てないの?」
「寝たけど、ちょっと早く目が覚めちゃった」
 珍しいこともあるものである。バッテリーチャージにも起動にも時間がかかるミクが早起きなど。たとえ早めに起動したとしても、ルカから離れたがらずに結局ダラダラとベッドにいそうなものだが。というかいつもはそのパターンなのだが。
 いつもマスタが座っている椅子を横取りしているミクが、それをくるりと回転させてマスタと向き合う。「マスターも早かったね」もう少しゆっくりしてきてもいいのに。なんとなく悪戯を見つけられたような表情で言う。
「君たちだけにしておくのが心配だったからね。ああいや、悪い意味じゃなくて、何かあったらメンテとか出来るの僕しかいないし。いずれは研究所で技術共有する計画も進んでるけど、なかなかうまくいかなくてね」
「ふぅん」
 気のないそぶりで相槌を打ったミクが、不意に意地の悪そうな笑みを浮かべた。
「なんだ。てっきり見つかったら困るものでもあるのかと思った」
「別にないよそんなの。まあ未発表の研究が外部に漏れたりしたら問題だけど、君たちはそんなことしないだろう」
「や、こういうのとかね」
 デスクの引き出しを開け、すちゃっとミクが取りだしたのはゾーニング対象雑誌だった。
「ごらっしゃああー!!」
 奇声を発しながらミクに飛びかかって雑誌を奪い返した。いつの間にか見えなくなって、いつの間にかラボの床に落ちていたものだ。なくなった時、微妙に嫌な想像が働いたから、引き出しの一番下に入れてさらに書類を重ねていたのだが、現状、そのせいでさらにまずいことになった。
「こっ、これはだね、君たちのボディを作る上で参考にしようと買っただけで、そういう、なにも、僕はやましいことなんてないからね!」
「慌てるのが怪しいよねー」
 飄々と含み笑いをするミクにげんこつの一つも落としてやりたくなったが堪える。暴力反対。マスタは平和主義者なのだ。
 「……これからは、勝手に引き出し開けたりしないようにっ」「それって命令?」ミクはまだにやついている。マスタが苦いものを舐めた顔をした。「お願いだよ」
 雑誌をミクの手が届かないロッカの上へ放り、顔をしかめながら溜め息をつく。ミクもそれ以上はからかってこようとしなかった。
 ジャケットとシャツを脱いで、いつものポロシャツに着替えた。やはりこちらがしっくり来る。ようやく自分の家に戻ってきたと実感するマスタである。
「もー、また脱ぎっぱなしにしてー」
 ぽいぽいと適当に脱ぎ捨てられたジャケットを拾い上げたミクが、渋面を作りながらハンガーにかけてマスタのおなかを小突いた。「ぽよんっ」ご丁寧に嫌な擬音付きだった。このところ彼女の攻撃は精神的ダメージが大きい。
 いやいや体重とBMIはまだ標準値に収まっているから大丈夫、と念仏のようにで唱えつつ腹部をさする。しかし機械の身体が羨ましい。今なら銀河鉄道に乗ってしまうかもしれない。
「でも、そうしてみると……」
 ミクの姿をじっと見る。
「君はやっぱり綺麗だよなあ。自分で作っておいてこんなこと言うのもなんだけど。生身とはまた違う、美術品みたいな美しさというか」
「セクハラはやめてくれませんかマスター」
「敬語にならないでくれ。地味に痛いよそれ……」
 女の子を褒めるって難しいなあ。マスタが肩を落とす。
 最初は数値があった。数値だけがあった。設計して、そのとおりに作った。数万のサンプルから平均値を割り出して、それに沿って作り上げたボディは実のところ個性がない。まさしく人形としての身体をミクに与えたのだけれど、近頃はなんだか、『こうでなければミクではない』という感覚がある。そもそも、初めはその数値を指針としてバージョンアップさせていくつもりでいたのだ。だからこその無個性だったはずなのに、その個性がない外見こそが『ミクの個性』であるような気がしている。
 万人に受け入れられるように作ったのだから、『万人』の一人である自分も惹かれたということだろうか。
 それとも、世界でただ一人だけの『マスター』だから愛着を覚えるのだろうか。
「まあどっちにしても、僕がミクを好きなことに変わりはないしなぁ」
「なにいきなり告白してるの?」
「え? おお!? こ、声に出してたっ」
 とんでもなく恥ずかしいことを口走っていた。しかも聞かれていた。「ひゃあぁ〜っ」羞恥と自己嫌悪のために思わず顔を手で覆う。
「朝っぱらから騒がしいよ、マスター」
「……申し訳ない」
 なぜ早朝からこんな辱めを受けなければならないのだろう。自分のせいだという事実は棚に上げて悲嘆にくれる。
 ミクは半ば可哀想なものを見る目をしながら、マスタの背中をぽんぽん叩いた。
「マスターがわたしを好きなのは知ってるよ。最初からそうだったじゃない。てゆーか、自分が作ったものを嫌う人っているの? 失敗作だっていうならともかく。漫画とかだとむしろ失敗作の方が愛されたりするよね。コロッケ好きの侍ロボットとか」
「待てそれは失敗作じゃないぞ。それどころか二十世紀に日用品で製作されたにも関わらず人工知能としてかなり高い能力を有する素晴らしい機体だ」
「なんでそんなにあのロボットの肩持つの」
「失敗作というなら青い猫型の方だろう」
「なに言ってるの!? マスターは未来に帰っちゃう話を見たことないの!?」
「あれは泣けたよ!」
「さらに言うなら伝説の最終話なんて」
「それは公式じゃないからね!?」
 ボケとツッコミがヒートアップしすぎてなんの話をしていたかすっかり忘れ……てはいない。危うく流されるところだった。メイコといいミクといい、どうしてこうも話をそらすのが上手いのだろう。それとも自分が素直に乗りすぎるのだろうか。
 腕組みをして嘆息。マスタとしても、ミクが話をそらしたがった気持ちは判らなくもない。ぼそりと呟いてしまった独り言は、聞かせるつもりがなかったからこそ本心そのままで、それは多分、面と向かって告げるより聞いた方は恥ずかしい。そして言った方だってものすごく恥ずかしい。
――――今さら、こんな付き合い始めのカップルみたいな会話をすることになるとは思わなかった。
 そんな時期はとうに過ぎているのに。そんな蜜月はとっくに終わっているのに。
 彼女はもう、己の未来ではないのだ。
 手のひらで顔を擦りこすり、なんとか別の話題を見つけ出す。
「昨日、メイコくんがたまには遊びに来いって言ってたよ。ルカと過ごすのもいいけど、もうちょっと他の子とも遊んだらどうだい? リンたちだってがくぽくんとかとよく遊んでるだろう」
「リンちゃんはそりゃねえ」
「ん?」
「なんでもない。メイコさんたち、色んなとこに出かけててなかなか捕まらないんだもん」
「ああ、来週からまた一月くらい空けるそうだけど、それからはちょっとゆっくりできるって言ってたよ。みんなで出かけてみたら?」
 デスクに置かれた卓上カレンダーを持ちあげてめくる。こちらのスケジュールもそれほど詰まっていないし、今後依頼があっても調整はつけられるだろう。一週間くらいなら、なんとかならないこともない。
 ついでにその間、こちらは研究に集中できるので一石二鳥である。(自分が同行することは露ほども考えないマスタだ。)
「そうなの? なんか年中どっかに行ってるイメージなんだけど」
「教授がもうお年だからね。これからはあまり遠出はできないみたいだ。なんとなくだけど……メイコくんもカイトくんも、あの『家』にいたいんじゃないかな」
 どうして、かはあまり考えたくないことだけれど、なんだか二人とも、少しでもあの家に思い出を刻みたがっているようで、教授もそれを受け入れているような雰囲気が感じられた。
 ミクから視線を外して小型冷蔵庫を開けると、中から缶コーヒーを取りだした。缶の色も中身もブラック。そういえば今日はまだ何も口にしていない。空っぽの胃にブラックコーヒーを流し込むと荒れそうだが、そう思った時にはもうプルタブを上げてしまっていた。まあいいか、と口をつける。
「あの子たちは教授が亡くなった時のことをもう考えてたよ。正直言って、少し驚いた。予測ってすごく負荷がかかるんだ。特に確定できない先のことは、あらゆる可能性が考慮されるから、昔は『フレーム問題』なんていう人工知能が何もできなくなる難問があったりしたくらいなんだけど。今だって簡単に解決できるものじゃない。ミクだって対処できない場面に遭遇するとなにもできなくなるだろ? それを前世代のメイコとカイトが自分なりの答えを見つけてるんだ。もしかしたら何ヶ月……いや、何年もそれを考えていたのかもしれないね」
 彼らは教授を『ドク』と呼び始めていた。考えてみれば、あれもまた答えのひとつなのかもしれなかった。盲目的に従い、命令を下してくれる相手である『マスター』を、いずれ失うと判っているから、今のうちに教授を対等の存在として扱うことで自律行動のデータを蓄積しようとしているのではないだろうか。
 それはまた随分と自虐的な方法だ。マスタは冷たいコーヒーに息を吹きかける。
 「ふぅん」ミクは視線を斜め下に落としたまま、面差しを変えることなく相槌を打った。
 彼女の様子に、朝からする会話じゃないなと内省する。小さく誤魔化し笑いをして首を振った。
「まあ、教授もまだまだ元気そうだったよ。風邪をひいてたようだけど、ご飯もしっかり食べてたしね」
 ミクは完成当初から教授と顔を合わせていたから、こんな話はお気に召さないに違いない。怒らせちゃったかな。少しハラハラする。つまらないことで怒らせるのはいつものことだが、ミクがマスタに対して『本当に』怒るケースは実は非常に少ない。子犬の甘噛みみたいなものなのだ。怪我をしない力加減を判ったうえでの牙だから、痛みは持続しない。
 そうじゃないものはマスタの方も慣れていなくて困惑してしまう。何度か経験したことはあるけれど、時間の他にそれを解決してくれるものはなかった。
「論文の、ミクの改良の話もすごく興味を持ってくれて、今度試案を出し合って方針を決めることになってるんだ。良かったらミクも一緒に話さない? ボディもちょっとアタッチメントを変えたりしようと思ってるから、好きなデザインとかあったらどんどん言ってくれていいよ」
 動悸を抑え込みながら早口に言い募るが、ミクは芳しい反応をくれなかった。これはいよいよ怒らせたか、とさらに焦燥感が募る。
「……マスターも」
「え?」
 蚊の泣くような声で呟かれて良く聴こえなかった。わずかに屈んで耳を彼女に近づける。
「マスターも、教授と同じ人間だよね」
「…………っ」
 鋭い爪の引っかき傷がマスタの胸に刻まれた。目に見えないそこから血は流れ出ないものの、かきむしりたくなる痛痒を錯覚して、缶を握る手に力がこもった。
 ぐん、とミクが顔を上げる。晴れやかさはないが笑っていた。
「や、当り前だよねそんなのっ。でもほら、わたしにはお姉ちゃんもリンちゃんもレンくんもいるし。昨日も言ってたじゃない、マスターがいなくてもあんまり変わらないって。メイコさん家とは違うよね」
「ひどい言い草だなあ」
 マスタは乾いた笑い声を上げた。
「嬉しくない! これからずっとマスターと一緒に暮さないっ」
「ひみつどうぐなしに言ったらそれ言葉通りの意味だからね!?」
 いい流れだ。いつだって話したくない話題はこうしてジョークで流してしまって、あとは何を話したかなんて忘れてしまうのがいい。ラボを出てミクの作ってくれる朝食をみんなで食べて、カイトが持たせてくれたスフレを締めに出そう。リンなどは万歳で喜んでくれるに違いない。
 だから消えてくれよ。心の中で祈る。
 ひどく嫌な好奇心だった。劣悪と言っていい。答えなんて得られないことは判っている。それなのに訊きたい。駄目だ彼女を悲しませる。ついさっき失態を見せたばかりではないか。この短い時間で二度も自己嫌悪するのか?
 けれど――――ああ、本当に馬鹿馬鹿しいことに。
 彼女の困る顔が見たい。
 コーヒーを下ろすのと同時に顔を上げる。
「……ねえ、ミク」
 流れかけた話を蒸し返して、どうせ後悔すると判っているのに。
「な、なに?」
 ミクが怖気づいたように首をすくめた。
「ミクは僕が死んだらどうする?」
 訊いてしまった。
 予期していたのだろう、ミクは唇を弾き結んでマスタをにらみつけ、ツインテールの髪をひと房すくっていじり始めた。
 それから前髪を整えだしたりヘッドフォンの位置を直したりスカートのプリーツを撫でたりしたのち、眉根を寄せたまま言い放つ。
「喉乾いたっ」
「……は?」
 ミクが同じ言葉を繰り返す。
「なに言ってるの、君は別に喉なんか乾かないだろ。食べ物の経口摂取なんておまけみたいな機能なんだから欲求プロセスとは連動してないよ」
「もー! いいからわたしにもちょうだい!」
 ビシッとマスタの手にある缶コーヒーを指さして言う。「……はいはい、判りましたよ」釈然としないものを覚えながらも冷蔵庫を開ける。「どれがいいの?」
「ミルクたっぷりの甘いやつ」
「ええー? 僕ブラック派だから甘いのって一本しかないんだよ」
「それでいいよ」
 取り出したのは、いずれ誰か女性を迎えた時に出そうと思っていたとっておきのカフェオレだった。せっかくとっておいたのに、と口の中でぶつくさ言いつつ、他にないので仕方なくそれをミクに手渡す。彼女は危なっかしい手つきでプルタブを上げると、息継ぎもなしに(当り前だが)一気飲みした。
「豪快な飲みっぷりだねえ……」
「こんなものー!」
 飲み終わった缶を、今度はゴミ箱に向かって全力投球する。プラスチックのゴミ箱と激突して盛大な音を立てた。容赦がない。まるで親の仇だとでも思っているようだ。
 寸時、投球後のフォームで固まっていたミクは、音の余韻が完全に消えてから姿勢を直し、ふーっと額の汗をぬぐう真似をした。まったく意味が判らない。
「……ミクさん、なにを満足してるのかな?」
 呆気にとられながらもどうにかそれだけ尋ねる。睨まれた。
「満足? 満足なんかしてないよ。わたしはね、お姉ちゃんのことがそれはそれは大好きで四六時中朝から晩まで一秒たりとも離れたくないけど、でもやっぱりマスターはマスターでなんか特別で、マスターの隣に誰か来たらちょっとヤだなって思ってたのっ」
「……はあ」
「こっちはいつそういう事態になっても平気なように心構えしてたのに、なんでマスター本人がそこすっ飛ばしてるのー!」
 しんっじらんない!!と最後に叫んでデスクを殴りつけるミク。どうやら怒ってはいるようだが、こちらが考えていたのとは少し違う理由のようだ。
 投げ捨てられたカフェオレ。八つ当たりかと思いきや、どうやらそういうわけでもない。
「ごめん、もうちょっと判りやすく」
「わたしたちボーカロイドだよ!? ボーカロイドって言ったら歌うことがメイン機能だよ!? もちろん子守唄だろうと文科省唱歌だろうとお手の物だよ!」
 テンション最高潮のまま、ミクは熱く語る。
「だったらこの家に赤ちゃんが来ても任せてお父さんっていう話じゃないの!」
「おと……!? 待てミク話が飛躍しすぎだ! まだお母さん候補すらいないというのにっ」
「だから早く見つけろって言ってるんでしょー!!」
 ミクがデスクのへりに両手をかけたので、思わず反対側から押さえた。しかしさすがに彼女の膂力ではひっくり返せなかったらしく、うんうん唸って頑張ったものの最終的に諦めた。この部屋にちゃぶ台がなくてよかった。
「き、昨日だって妙におめかししてるから、お見合いにでも行くのかと思って、どうしようって……」
「……あ、ああ、そういえばそんなこと言ってたね……」
 からかってきただけだとばかり思っていたら、彼女としては真剣に悩んだようだ。デスクを挟んで妙な具合に見つめ合う二人は、そこからなんとなく口を開けなくなってしまう。
 それにしても子どもか。言われてみればついぞ考えたことがなかった。結婚とかしないとまずいかな、くらいは夢想していたけれど、別に具体的な将来設計があったわけではない。
 カフェオレだってそうだ。いつか誰かが来たらという理由で置いていたそれの行き先なんて考慮していなかった。そんなことがあるかもしれない。ただの漫然としたイメージに対する準備だった。
 そして今、ミクにその幻想を打ち砕かれた。
 彼女がそうしていなければ、きっとカフェオレは賞味期限を迎えて廃棄されていたに違いない。だって考えてみろ、いや考えるまでもない、ろくに外出もしない己がどうやって女性と知り合うというのだ。慰みに少女の『人形』を作って手元に置いていると思われている自分が?
「わたしは生まれてからずっと、マスターがいつかお父さんになって、子どもの世話とかしちゃったりして、その子が大きくなっていくのを見守ったりとか、そういう日が来るって思ってた。……まさかマスターがここまでもてないとは思わなかったし」
「最後のはぐさりと来るよ……」
「教授は若いころに奥さんを亡くしてて、それでもう結婚しないって決めてるから、メイコさんたちは自分だけでいるって考えたんでしょ? でもマスターは違うじゃない。この先きっと……や、多分、もしかしたら、奥さんもらって子どもとかできるよ」
「嘘でもいいから言い切ってくれ」
 コーヒーをすすってぼんやり考える。ゆったりとした思考が色を帯び始めて、それはまだまだ曖昧模糊とした不定形だったが、カフェオレがつなぎ止めていただけの茫漠とは違っていた。
「ああ、そうか……。僕の未来って、それだったんだな」
 先人の背中に見て、機械の歌声に見出して、結局見失ったものは。
 誰でも一度は夢見る連なりにあった。
「……僕は、本当に頭が悪いなあ」
 いつか失われる存在と、いつまでも変わらない存在に未来を見ようとしたって無理な話だったのだ。それらのどこにも自分のファクタなどないのだから。
 好き勝手に跳ねた髪をぐしゃりと撫でる。
「確固たる未来って、『みんなの未来』じゃなかったんだ」
「マスター?」
 垂れ流しになっている独り言を気味悪がったのか、ミクがおずおずと呼びかけてきた。
 マスタは晴れやかな気分でミクに笑いかける。
「とりあえず、お見合いでもしてみようか?」
 ミクはほんの間きょとんとして、「ええぇっ」と上ずった声を上げた。
「ちょ、ちょっと待って、急にそんなこと言われても心の準備が」
「なんで君に心の準備がいるんだ」
 まるでミクにプロポーズしたみたいじゃないか。この調子では、未来のヴィジョンがはっきり見えるまで、まだ時間がかかりそうである。どうせ相手を見つけても小姑みたいに色々とチェックを入れてくるに決まっているのだ。
「ま、いつになるかは判らないけど、いずれね」
「うん、そのうち」
 ミクが小指を差し出してくる。約束だよ、と小首をかしげるその様子に苦笑しながら、マスタは自身の小指を彼女に絡めた。
 
 
 
「マスター、今日もお出かけですか?」
 郵便物を届けに来てくれたルカに言われて、マスタが首を振る。
「いや、別にどこにも行かないけど。どうして? なんか予定入ってたっけ?」
「何もありませんが、髪がセットされているのでそうかと」
 これか、と髪の毛を撫で上げる。整髪料とコームで整えられたそれは、なるほど、彼女がそんな勘違いをしてしまうのも仕方ない。
「ミクにやられたんだよ。こういうのは習慣づけることが大事なんだってさ。あと急なお客さんが来た時のために、男はいつでも臨戦態勢でいるべきなんだって」
 肩をすくめて「よく判んないけど」と続ける。服装はいつも通りだが、それなりに見られるから良いだろうというミク先生の判断が働いていた。マスタとしても毎日スーツを着ろとか言われたら逃げるところだけれど、髪の毛くらいなら一度セットしてしまえばあとは放っておけるので甘受している。
 ルカはニコニコとマスタを見つめてから小さく頷いた。
「素敵ですよ」
「あ、ありがとう。なんか照れるな」
 以前から何度も、やんわりとした話しぶりながら身だしなみをどうにかした方が良いとルカに言われていたので、そんな彼女から褒められるとどうにも面映ゆい。ひげも剃っておいてよかった。
「ミクも楽しそうですよ。さっきも部屋で『マスター改造計画』というメモを夢中で書いてました」
「……改造したり改造されたり忙しいな僕は」
「けど、悪い気はしていないですね」
 「まあね」もちろん悪い気なんてしていない。なんだか久しぶりにミクとの蜜月が戻ってきたような気分だ。
 そう考えて、はたと気付く。
「あ、ルカ。ミクが僕で遊ぶのはしばらくしたら治まると思うよ。どうせ今は新しい遊びが面白いだけだろうから」
 手を振りながら愛想笑いで言ったら、なんのことだか判らなかったようで、ルカは曖昧に微笑み返してきた。
 反応の薄さがやけに気まずくなってしまい、更に言葉を加える。
「だからやきもちとか焼かなくていいからねって話なんだけど……」
「ああ、そういうことでしたか。心配いりませんよ、特にそういった不満はありませんから。マスターとミクの間に特別なものがあるのは知っていますし、私が気にするたぐいのものではないことも承知しています」
 どうやらマスタの心配は杞憂だったらしい。こちらとしても痛くない腹を探られるよりはずっと良いが、それにしても、もの判りの良いことだ。そこまで成熟した精神設定にしていただろうか、と不思議に思えるくらいだが、それだけルカも成長しているということかもしれない。
 というか今の台詞、「ミクが他の奴になびくわけがないからどうぞご自由に」という意味にも受け取れるのだが。
 不用意に尋ねたらやぶへびになりそうなのでスルーしておく。
 ルカが胸元に抱えていた郵便物の束を受け取って検める。ダイレクトメールがほとんどだ。昨今、配達証明などが必要な重要書簡でもなければ、大抵は電子媒体で済まされてしまう。不動産や自動車など、まず不要だろうというのは捨てて、日用雑貨とかファッション関係のものはルカに返した。ミクたちが興味を覚えるかもしれないからだ。時々、通販で洋服を購入したり、レンがPC部品の取り寄せをしている。
 返されたものをトントンとデスク上で揃えながら、ルカが軽く唇をすぼめた。
「心配はしていませんが、少し不可解ではありますね。マスターとミクがお互いをどう想っているのか、私にはよく判りません」
「うん?」
 そりゃあもちろん好き合っているのだとも。
 という返答は誤解を招きそうなので却下。
 考えても、鑑みても、上手い表現が浮かばなかった。腕組みをして顎を撫でる。
「なんだろうね。ミクにしてみれば僕は神様らしいけど」
「その話なら聞いたことがありますよ。マスターをお父さんと呼んでいいのは、いつか来るマスターの子どもだけだから、私たちはそう呼ぶべきではないと」
「気の長い話だよ。あてなんか全然ないのに」
 信仰をして神への愛と表わすことは間違いではないだろうが、ならばそれが自分たちに相応しいかというとそうでもない。
 恋愛ではないし家族愛でもない。信仰では隔たりがありすぎる。逆なのだ。自分たちは限りなく近しい。けれど一心同体というほどには密着していない。
「ガラス、みたいなものかなあ」
「ガラス?」
「物質は固体、液体、気体の三形態があるわけだけど、固体の定義は一般に結晶が構築された状態を言う。ところがガラスは固まっているように見えても結晶構造が作られないんだ。持ちあげたり割ったりできても、結晶がないならそれは液体だろう、と主張する意見があるんだね。定義で考えると、ガラスは固体だと考えても液体と考えても正しいってことになるんだけど、そこへまた違う意見が入ってきたりするんだな」
「どんなものですか?」
「そもそも、固体と液体と気体しかないという前提が間違っている」
 『結晶化していない固体』であるのか『非常に粘性の強い液体』であるのか、という議論の根元に水を差す、『第四の状態』という主張。「僕とミクはそんな感じかもしれない」
「まだ誰も名前をつけてない、謎の感情『X』が僕たちの間にはあるのかもしれないね」
 ルカは感心したような面持ちで小刻みに何度も頷くと、しばし思案げな表情を浮かべた。
「なるほど……。いえ、理解はできていませんが、そういうものもあるのですね」
 呟く彼女の視線が少し羨ましげに見えたのは、さすがに自信過剰だろうか。
 つと、廊下から足音が聞こえてきた。お、と二人は同時に顔を上げる。視線を交わしたら、同じ姿を思い浮かべたのが判って笑い合った。
 ぴょこんとツインテールの裾を跳ねさせながら首を伸ばしているのは予想通りの初音ミク。頬が膨らんでいるところまで想像できていたので、マスタは吹きだすのを堪えるのが大変だった。
「お姉ちゃあん、いつまでマスターのとこにいるのー。今日は一緒にジャケット写真選ぶって約束してたでしょーっ」
「ごめんね。すぐに戻るから」
「マスターもっ。お姉ちゃん取っちゃ駄目」
「取らないよ……。というか、権利の話をすれば二人とも僕のものではあるんだが……」
 後半は口の中だけの反論だった。ミクにはもごもごとしか聞こえていない。はっきり口に出した場合、どんな反応をされるかは火を見るより明らかだ。いくらなんでもそんな勇気は持ち合わせていない。
 ルカとは違い、ごく単純に妬いてくるミクに困りつつ、マスタはいいから戻りなさい、とルカに手振りで示した。これ以上引き止めたらどんどん面倒なことになりそうだ。
 ミクが歩み寄ってきたルカの手を取って引っ張る。ルカは苦笑していた。
「あ、マスター、約束忘れてないよね?」
 ルカとつないでいる方とは逆の手を上げると、小指を立ててアピールしてくる。「忘れてないよ」マスタも立てた小指をくるくる振って応じた。
「といっても、僕あんまり好みとかないんだよなあ。ミクはどんな人がいい?」
「ええ? わたしに聞くの?」
「だって君、この家に来るならみんなと仲良くしてほしいだろ。参考として聞いておいても損はない」
 うわー。ミクがほとほと呆れ果てた、という顔で、ぐったりとルカにもたれかかった。「マスターって、たまにほんとどうしようもないよね」
 そこまで馬鹿なことを聞いただろうか。内心でちょっと落ち込むマスタを尻目に、ミクはルカの肩から目だけを覗かせて、かすかに嘆息してから答える。
「マスターを置いてかない人」
「へ?」
「それだけクリアしてくれたらどんな人でもいいよ」
 思いもよらない条件に、マスタが呆気にとられているうちに、ミクはルカを引っ張って出ていってしまった。
 「……やっぱりよく判らないわ」去り際に洩れたルカの呟きが耳にぶら下がる。
「僕もよく判らない……」
 しかもその条件、クリアしているかどうかを判定するのが非常に難しくないか。
 今さらながら、ミクとの約束が大変に重いものだと痛感するマスタだった。
 
 
 
 
 
 
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(1)X-motion[クロスモーション]
  (主に身体の)同一部位を交差させる動作のこと。
  二者の折り曲げた腕を肘の位置で交差させる場合に限って「バロムクロス」と表わす。

(2)Xmotion[エクスモーション]
  未知数「X」+「Emotion」からなる、名前のない感情。
  日本語では単に「情」と呼ばれることも。



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