しかない、しかたない。


 十本もあろう剣をひとまとめにして抱えた少年が、鍛冶場の所定の場所へそれを置く。どれも刃こぼれをしていたり切っ先が欠けたり柄に割れ目が入ったりしているが、彼はそのどれもが宝剣であるのだとでも言うように丁寧な動作で扱った。
 年の頃は二十に数年足りないくらいか。あどけなさと精悍さを併せ持った風貌は人好きしそうな雰囲気があって、母親に似たか少し繊細だ。けれど双眸の上には意志の強さを表した直線的な眉が引かれているし、鍛冶修行で鍛えられた肉体は筋肉質で逞しい。
「お父さん、お母さん。修理依頼の剣ここに置いておくよ」
 「ありがとうラナ」炉の前で金槌を振るっていた母親のカトレアが振り返り、息子へそっと微笑む。父親は火の調整に余念が無いようで、視線をよこさないままわずかに頷いた。だからといってラナは別に父の愛情を疑わない。
 ラナの視線が彼らのいる炉の脇へ移って、そこに積まれた薪の山を確認する。早々になくなりはしないだろうが、前回補充してからかなり目減りしていた。先ほど持ってきた剣の修理を終える頃には切れてしまうだろう。
 両親へ声をかけてから外に出て裏手へ回る。
 斧を片手に切り株の前へ立ち、短く切られた丸太をそこへ添えると、斧を両手に持ち変えて振りかぶった。
 袖の無いシャツから伸びた両腕の筋肉が盛り上がる。斧が軽く下ろされ、刃の先端が丸太へ食い込んだ。そのまま丸太ごと持ち上げてトンと落とす。丸太は筋に沿って真っ二つに割れた。
「相変わらず地味なやり方ですわね。もっとスパーンッとできませんの?」
 不意にどこからともなく声が聞こえたが、ラナは驚かない。転げ落ちた丸太の半分を切り株に乗せてから振り返る。ついさっきまで誰もいなかった空間に、腕組みをした少女が佇んでいた。
 どこかのお屋敷の侍女が仕事を抜け出してきました、という風情の服装だが、彼女は特に誰かへ仕えているというわけではない。少なくとも今は。かといって仮装趣味ということもなく、まあ、言ってみればそれは彼女なりの普段着なのである。
 けったいな格好の少女は、さらにその身を宙に浮かせていた。けして小さくはないラナの頭上から数十センチ上空でふわふわ漂っている。
 ラナは少々困り顔になって少女へ反論する。
「勢い良く斧を振り下ろしたら余計な力が入って綺麗に割れないし、飛び散って危ないよ。必要な箇所に必要な力を入れるだけでいいんだって、お父さんも言ってた」
「まーた『お父さん』。本当にあなたは」
 呆れ口調で言われたラナの頬がわずかに朱に染まった。幼い頃、父親のいない時期を過ごした経験のある彼は、その寂しさのせいか成長した今も父に傾倒しており、また己を守ってくれていた母親に依存している傾向が見える。自覚してはいるのだが、どうしても二言目には「お父さん」か「お母さん」が出てしまう癖が抜けない。
「それより、アイリさん浮くのはやめてって何度も言ってるじゃないか。人に見られたらどうするの」
 否応なしにチラチラ見える太ももを殊更避けながら、ラナはアイリに何度目か判らない懇願をする。
 「どうせこんな所、誰も来ませんわ」アイリは全く聞く耳を持たず、逆にその辺を旋回し始めた。ラナが片手で顔を覆って溜め息をつく。
 彼女は人間ではない。いや、世界には人間以外の知的生物も多数存在しているが(ラナや両親と交流のあるドワーフなどもいるし)、そういったものとは一線を画す存在である。
 彼女は死霊だった。
 ラナが彼女と出逢ってから、かれこれ両手の指で足りないほどの年月が流れているけれど、彼女の姿はその頃と何一つ変わっていない。地上に降りていてなお見上げる必要があった彼女の顔はいつしか並び、そして見下ろすようになった。ラナとしてはそれが少々嬉しかったりしたのだが、アイリの方は面白くなかったようで、ラナの身長がアイリを追い越してからは、基本的に中空を活動点としている。
 旋回をやめてラナの眼前で停まったアイリが愛用の鎌を出現させる。
「なんでしたら、わたくしがお手本を見せてあげましょうか?」
 言うなり鎌を一閃。切り株に置かれていた丸太に線が入ったかと思うと、二つに割れたそれはバランスを保てずその場に倒れた。
「ご覧なさい。吹き飛ぶことも破片が飛び散ることもありませんわ」
「どうせ低級霊に押さえさせてたんでしょ?」
「失礼なっ。そんなずるはしませんっ」
 本当に鎌の太刀筋のみだったとしても、たかが薪割りにそんな奥義みたいな技量は必要ない。
 アイリが割った木片を傍らに寄せて新しい木を備えると、ラナはさっきと同じように斧を食い込ませて軽く振り下ろした。背後でアイリがつまらなそうな顔をする。
「昔はすぐにわたくしのスカートを掴んで『アイリお姉ちゃ〜ん』とか情けなく泣いてたくせに、ずいぶんと生意気になりましたわね」
「ず、ずっと小さい時の話じゃないか、そんなの」
 過去の失態(それは幼子であれば当たり前のものだったが、ほじくり帰されていい気はしない)を引き合いに出されたラナが気色ばんだ。アイリは意地の悪い笑みで彼の目前まで降りてくると、その鼻先をちょんとつつく。
「本当のことでしょう、泣き虫ラナ?」
 ラナが唇を引き結んでそっぽを向いた。身体は逞しく成長したが、精神面ではまだまだ成熟に遠い彼だ。
「いいからもう邪魔しないで。僕いま忙しいんだから」
「はいはい。せいぜいお父さんとお母さんに褒めてもらえるように頑張りなさいな」
 挑発的に笑い、ラナの額に巻かれた布を一撫ですると、アイリはすい、と後方へ下がった。
 そのまましばらくラナの薪割りを見物していたが、飽きてしまったのか独り言のように呟く。
「おなかが空いてきましたわね。少し早いけれど、食事にしましょうか」
 「あっ」独白を聞きとめたラナが慌てて顔を上げる。
「アイリさん、判ってるだろうけど」
「殺すな、でしょう? 何年同じことを言うつもりですの?」
「……この前、女の子が意識不明の重体で発見されたって。一命は取り留めたらしいけど、危なかったって話を聞いたよ」
「死ななかったのだからいいじゃありませんか」
「そういうことじゃないよっ」
 性格的なものなのか、在り方によるものなのか、二人の意見はお互いに譲歩しているくせに噛み合わない。
 アイリの『食事』とは人の生気を食らうことを意味する。彼女が本気で食事をすれば当然ながら人は死に至る。
 幼い頃、ラナはアイリに人を襲うなと言い、そのせいで彼女は消滅の憂き目に遭った。今は死霊というもののことわりを多少は受け入れ、食事そのものを禁じたりはしなくなったが、襲った人間の命を奪わないことだけは強く言い聞かせて約束させている。
 ラナは意味合いとして「不要な危険に人を晒すな」と言っているのに対し、アイリは「死なないギリギリなら良い」と解釈していて、両者の溝は未だ埋まる気配がない。
 険のある視線を送ってくるラナに、アイリが少しだけ眉を下げた。
「……あの時はかなりおなかが空いていたので、つい食べ過ぎてしまったのですわ」
 言い訳じみた口調で告げると、ラナは硬い口調のまま「もうしない?」と言い募ってきた。仕方なく頷く。
「というか、どうしてわたくしがおちびちゃんの言うことを聞かなくちゃいけませんの……」
 不満たっぷりに呟かれた言葉に言い返そうとしたラナだが、アイリの身体が、というか洋服が色彩を失って行く過程にあるのに気づいて慌てて顔を背ける。彼女、死霊なのですべてが精神体であり、姿を消すなどは朝飯前であるが、なぜか消える際に外装部、つまり着衣から消えていくのである。
 アイリの気配が失せたのを確認してからも、ラナはしばらく顔を上げなかった。
「僕は……もうちびじゃない」
 言えなかった反論が下生えの草に落ちて溶ける。
 
 
 
 姿を隠したままアイリは街なかを進んでいる。商店の並ぶ街は雑踏に溢れているが、人々の頭上にいるので彼女には関係がない。そもそもぶつかりようがないし。
「まったく、最近とみに生意気ですわね。一人でトイレにも行けないおちびちゃんだったくせに」
 ぶつくさ文句を垂れ流しながら飛んでいると、二人連れの少女が目に入った。
 どちらもかなり顔立ちの整った美少女でいかにも美味そうである。彼女たちを今回の『食事』と定め、アイリは舌なめずりをしてから高度を落として近づいた。
 距離が縮まるにつれて少女たちの会話が耳に届き始める。
 彼女たちは偶然にも、己が居候している武器屋の顧客のようだ。そういえば腰に見覚えのある意匠の剣を佩いている。
 どうしようか、と少し迷った。すぐに襲うつもりだったがふんぎりがつかずにそのまま後をついていく。
 二人の会話は続いていた。
 角を二つ曲がったところで、アイリは結局彼女たちから生気を吸収した。
 
 
 
 それから二、三人ほど『食事』を済ませてから帰ると、薪割りを終えたらしいラナが店番をしていた。最近、彼の両親は接客にラナに任せて自分たちは作業場にこもっている。その方が効率が良い。実際に対応できる仕事の量が飛躍的に増え、元々人気のあった武器屋は連日盛況である。
 客はむくつけき剣士や傭兵らしい屈強な男もいるが、それよりも年若い女性の姿が目立つ。大陸で行われている女王決定戦『クイーンズブレイド』の影響か、剣を持つ女性が非常に多いのである。カトレアも以前クイーンズブレイドに参加していた。というかアイリ自身も、当時の主の命により参戦者に名を連ねていた。それが縁でラナと出会い、そのままここに居座ってしまっているのだから、人生とは不思議なものだ。(アイリの人生はとうに終了しているが)
 ラナは小ぶりのナイフを手に取って、目の前の女性客に説明をしている。柄の握りやすさとか重量バランスとかを懇切丁寧に説いているのだが、どうも彼と同年代の客はあまり真面目に聞いていないようだ。彼の手元ではなく、やや緊張した面持ちの顔ばかりを注視している。
 ラナのほうも何か察しているのか、目の前にナイフを掲げて見せたりするのだが、客は首をずらしてナイフに隠れた顔を見ようとする始末。
 姿を消したままその様子を眺めていたアイリは大きく嘆息した。
 時々、こういう客が現れる。
 何度も通っては出来合いの安物(それでも常人には充分な品質だけれど)を購入していったり、特に使い込んだ様子も見えない武器の手入れを頼みに来たり。
 対応するのはいつもラナである。総じて長時間居座る彼女たちに対し、それでも邪険な態度を取るわけにもいかない彼は辛抱強く付き合う。そう、今のようにナイフのことを聞かれれば丁寧に答えるし、益体もない世間話であっても笑顔で相槌を打つのだ。
 アイリは彼の頭から爪先までをゆっくりと見遣った。
 母親譲りの端正な横顔と、しなやかに伸びる筋肉質の腕と、厚すぎない胸板と、安定した腰周りと、しっかり地面を踏みしめる脚を見た。
「……やれやれ、ですわ」
 つまらなそうに言い捨てる。
 ナイフの説明を受けていた彼女は、その後一時間ばかり居座り、閉店時間が近いことをラナが遠慮がちに告げると渋々といった調子で帰った。帰り際にまた明日来るとか言うあたり、なんとも図太い神経の持ち主だ。非常に造形の整った少女だったので、おそらく周囲に可愛がられて少々精神的に幼いのだろう。自分の要求が通ると信じて疑わない未熟さだ。
 その客が帰ってからしばらくすると客足も途絶え、時間になったので店を閉める。作業場からはまだ金属を打つ独特の音が聞こえてきていた。
 人がいなくなったのを見計らって、アイリはその身を実体化させる。
「あ、アイリさんいたんだ」
 店頭に飾られている武器に埃よけの布をかけていたラナがアイリに気づいて声をかけてきた。「さっきからずっといましたわよ」やや呆れがちに言ったものの、消えていたのだから彼が気づくはずもない。
「モテモテですわね」
 武器を置く台に腰かけ、斜めに少年を見ながら言う。口元が小さく歪んでいた。
「別に、そんなんじゃ……」
「あら、今までもあったじゃありませんか」
「だから違うってば。そりゃあ、ご飯に誘われたりしたことはあるけど、みんなしばらくすると来なくなるし」
 ちなみに彼はそういった誘いをすべて断っている。店の手伝いが忙しいから、というのを主な理由として挙げていて、それでも引き下がらない客は両親のどちらかを呼んで追い払ってもらっていた(情けないとアイリは思う)。
「あなただってそろそろ年頃なのですし、一度くらい経験してみたらどうです?」
「……いいんだ、僕は、そういうの」
 からかい口調の問いに、頑なな返答がされる。
 アイリは表現するものの乏しい微妙な表情を浮かべた。
 床掃除を始めたラナへ近寄り、その目を覗き込む。「な、なに?」唐突に眼前へ迫られて、彼は目を丸くした。
 つい、と、アイリの指先がラナの顎を捕らえる。
「なんでしたら、わたくしが練習に付き合って差し上げましょうか? 色々と教えてあげますわよ」
「なっ……」
 言葉もない、という風情で固まってしまった。ん?と誘うように唇を小さく突き出すと、彼は大きく後ろへ跳び退った。
「やめてよ! アイリさんは、そ、そういうのじゃないから!」
 狼狽で顔を真っ赤にしている彼の表情は真剣で、アイリは不意のおかしさに腹をくすぐられた。笑えてくる。笑う。
「あははは! なに本気にしていますの? あなたみたいなおちびちゃん、相手にするはずがないじゃありませんか」
「……僕はおちびちゃんじゃない」
「図体だけ大きくなったところで、中身はまだ子どもだと言っているのですわ。そんなんじゃ、言い寄ってくる女の子も愛想を尽かして当然ですわね」
「僕は……」
 アイリと目を合わせないまま、端正な少年は決意の滲んだ口を開く。
「たった一人でいいんだ。お父さんとお母さんみたいにすごく大切な一人と出会って、その人と、最後まで添い遂げられたら、それで」
 訥々と、つっかえながら告げた言葉の重みは少年が持つには重すぎて、そのアンバランスさがひどく奇異に映った。
 それはたとえば思春期の少女が求めるような無知の憧憬ではなく、まるで何年も前からその決意を固めていたのだというような、確固たる目標として定義されているような言葉だった。
 それは遠くて淡い憧れではなく。
 今その身に抱く、現実であるような。
「ラナ……?」
 戸惑いがちに呼びかけると、ラナはハッとしたように目を見開いた。
「な、なんでもない。忘れて」
「え、ええ……」
 釈然としないものを覚えたものの、どうしてか深入りしてはいけない話題のような気がして、生のない少女は曖昧に頷く。
 ラナは床掃除を手早く済ませると(いつもよりわずかに雑だった)、両親を呼びに奥へ行ってしまった。彼らはこれから夕食である。死霊はそれには付き合わない。家族の団欒に混じる気はなかったし、彼も食事に手助けが必要な時期は過ぎていた。
 店内に残ったアイリは人差し指を唇に当てて、これから何をしようかと考えた。特に空腹感はない。あと数日は食事の必要もないと思えたが、消滅の危機に瀕した経験から蓄えは多めにしておく習慣がついている。もう一人くらい食らっておこうか。
 街へ向かう途中、彼に『アイリお姉ちゃん』と呼ばれなくなったのはいつからだったろう、と不意に考えた。
 
 
 
 夕食の後、鍛冶場を借りて剣を作るのがラナの日課である。もちろん、まだ到底売り物にできるものではないが、出来上がった剣を父に見てもらうたびに上達を認められている。そうなれば熱も入るもので、夜が更けるのも構わず刀身を削り続けたことも一度や二度ではない。母親に見つかると叱られるが。
 炉に入っている火のせいで、室内はうだるような暑さだ。額に汗止めを巻いているがとても追いつかない。こめかみから落ちてきた汗を腕で乱暴に拭う。すでにシャツ一枚ですら耐えられない熱気となっており、ラナは上半身裸の状態で融けた鋼を扱っていた。
 そこに己と同じ年頃(の外見)の少女が現れたとしたら、どうするのが正しい反応だろうか。
 とりあえずラナは悲鳴を上げた。
「ちょ、ちょっと。それはこちらの反応じゃありません?」
 大慌てで脱ぎ捨てていたシャツを引っ張り寄せ、自身の胸元にかき抱いた弟分に、男女問わず裸など見慣れきっている死霊は半眼になる。
「急に来ないでよ。ただでさえアイリさんは足音とかないんだから」
「ノックはしましたわよ」
 わたわたとシャツを着込むラナ。幼い頃からずっとそばにいる、言うなれば家族のような立場の彼女だが、それでもやはり恥ずかしい。
 シャツの襟から首を出したところで、ぬっと木製のカップを差し出された。中身は良く冷やされた果汁のようだ。
「カトレアに頼まれましたの。それと、もう遅いから寝なさい、だそうですよ」
「あ、ありがとう……」
 カップを受け取って一息に飲み干す。キンと張りつめた冷たさが喉から胃に落ちていくのが感じられた。汗だくの身に、それはよく沁みた。
 人心地ついたところで窓から外を見てみればすっかり夜も更けていた。月が高い。
「毎日毎日、よく飽きませんわね」
 感心と呆れを半分ずつ混ぜた語り口に、ラナは苦笑を返す。
「僕はこの店の跡継ぎだから。お父さんたちと同じくらいかそれ以上の武器を作れるようにならなきゃいけないんだ。飽きるとか、そういう話じゃないんだよ」
 元は戦士だった両親がその経験を生かして築き上げた技術を、ラナはすべて習得しなければならない。そして次世代として、それをさらに発展させる必要だってあるのだ。鍛錬はいくら重ねてもやりすぎということはない。
 アイリの表情から幾分感情が消えた。「跡継ぎ、ね」独白めいた呟きがその唇から洩れる。
 ラナは彼女の変化に気づかない。
「それに僕自身、武器を作るのが楽しいしね。ユーミルさんにも時々教わって、もしかしたら鋼鉄山の技術も教えてもらえるかもしれない」
「ああ、ドワーフ族の」
 身体が小さく態度のでかいドワーフの姫君もまた、クイーンズブレイドの出場者だった。ライバルとして初めのうちは反目していたらしいが、ラナのことは可愛がっているようだ。アイリはあずかり知らぬことだが、二人が分かたれたわずかの間、彼女がラナの面倒を見ていたので、情が移ったようである。
「可愛らしいお友達がたくさんいて結構なことですわね」
「またそんな……。ユーミルさんはああ見えて僕よりずっと年上なんだよ。逆に年上だからってあの見た目じゃ、とてもじゃないけどそんなふうには考えられないよ」
「あら、わたくしは『お友達』と言ったんですのよ? それともラナはお友達みんなをそういう対象として見ていますの?」
「ちっ、違うよっ。店でアイリさんが変なこと言うからじゃないか……」
 両腕を振りながら言い訳する。
 どうしたのだろう、今日の彼女は少し変だ。からかってくる、というかどこか意地の悪い部分があるのはいつもだけれど、それでも基本的には自分のことを気に入ってくれていると判るような態度なのに、今日はやけに刺々しい。
「アイリさん、ひょっとしておなかが空いてるの?」
 空腹による苛立ちだろうかと、ラナはそんなふうに問いかける。
「だったら僕の生気を吸ってもいいよ。体力には自信があるから大丈夫だと思う」
「いいえ。食事は充分いただきましたわ。そもそもわたくしの好物は美女の生気です。あなたのようなむさ苦しい男性の生気なんて、まずくて食べられたものじゃありませんわ」
 そういえばそうだった、とラナは小さく肩を落とした。言葉どおり、彼女は食事の際、いつも外で眉目秀麗な女性を物色している。
「でも、吸い取れないわけじゃないんでしょ? 最初に会った時、お母さんと僕の生気を吸おうとしてたじゃないか。だったら」
「結構です」
 自分を差し出せば無闇に被害者を増やすこともないのではないか、とラナが食い下がったが、アイリは取り付く島もなく突っぱねた。
 二つに結わえた髪の先を手持ち無沙汰にいじりながら、彼女は視線を脇へずらす。
「……あなたの生気など、吸いたくありません」
 わずかに目を伏せて、苦味を含ませた口調で、けれどその内側には別の何かが隠れているような声で発せられた拒絶。
 その隠れた何かを暴くには、ラナは若すぎた。
 言葉どおりに受け取って、気まずげに頬をかく。
「そ、そっか。僕ならいつでもここにいるし、アイリさんもわざわざ出かけなくて済むからいいと思ったんだけど……」
「余計な心配は無用ですわ。街に出るのだって、馬なんかよりずっと速いですし。街にはクイーンズブレイドのおかげで美女が集まっていますしね」
「うん……」
 それでも本当は、アイリに人を襲って欲しくない。
 被害者に対する良心の咎めと、他にも。
 
 ああ、これをなんと表現したらいいのだろう。
 食事という、ただ存在を維持するためだけの理由しかない行為でも。
 
 他の誰かにその唇を寄せてほしくないなんて。
 
「……僕、もう寝るね。おやすみなさい」
 逃げ出したい気持ちで言うと、彼女はほのかに笑った。
「ええ。おやすみなさい、ラナ」
 作業場を出て自室へ向かう。
 ラナは溜め息をついた。
 よく眠れるように頬へ口付けてくれ、と言えたら、どんなにか良かっただろう。
 
 
 作業場に残ったアイリもまた、どこか切なげに「やれやれ」と呟く。
「いつでも、ここに」
 彼の言葉を反芻した途端、奇妙にねじくれた痛みが襲う。無意識に胸元の着衣を掴んだ。
 そのとおりだ。どこにも間違いはない。
 彼はいつでもここにいる。
 そして、いつまでもここにはいない。
 今は武器屋の跡取りで、いずれは武器屋の主となって、さらに時が過ぎれば老いて隠居するだろう。
 その時に……その時までに、何が必要か?
 またしても内側がねじれたので、アイリは頭を振って浮かんだ考えを追いやった。
「……どうでもいいことですわ」
 そうだ、自分には関係ない。
 彼に何が必要で、彼が何を望まれていようと。
 いくら実体化したところで孕むことのない己には、何も関係ない。
 宙に浮き片膝を抱える。
 いつからこうなってしまったのだろう。
 昔は素直に彼へ「ありがとう」と言えたし、しがみついてくると嬉しかったし、甘えられて悪い気はしなかった。
 それが変わったのはいつからだっただろう。
 彼が呼称に「お姉ちゃん」を使わなくなってからなのか、それよりも前だったのか。
 幼子へ対する情とも、かつての主へ対する忠誠心とも違う。
 これは……なんと言うのだっけ。
「あー! やめやめ。どうせ考えても無意味なのですから、こうしているだけ時間と力の無駄ですわ」
 一声吠えて気晴らしに鎌を振り回す。身体を動かすとそれだけでモヤモヤしたものが薄れる気がする。風切り音を鳴らしながら十数回も空気を断つと、幾分すっきりした顔で「よし」と声をこぼした。
 ドアを抜けて廊下を渡る。すでに家の中は灯りが落とされて真っ暗だ。
 ラナが置いていったカップを片手にキッチンへ向かう。メイドとして、使った食器をほったらかしにしておくのはどうにも据わりが悪かったのだ。
「っ?」
 つと気配を感じて意識を強張らせる。賊か盗人か。この店の品は鋼鉄山の製品に比べて安価だし良質だが、誰にでも手が出るというわけでもない。そういった不貞の輩がごく稀に忍び込んでくることがある。
 けれどアイリは一瞬後には警戒を解いていた。その手に見慣れた燭台があって、それが顔を照らしていたせいだ。
 カトレアもアイリを見つけると、慈母そのものな笑みを浮かべた。
「アイリさんもおやすみですか?」
「ええ、まあ」
 正しくは睡眠を取るわけではないけれど、いちいちそういう細かい部分を訂正していくと切りがないので、アイリは毎度のごとく適当に頷いた。
「ラナは……部屋に戻ったみたいですね。ありがとうございます。あの子ったら放っておくと日が昇るまで続けてしまいますから」
「別に、あなたからの伝言をつたえただけですわ」
 特別なことはしていないと告げると、カトレアは何も言わずに、ただ微笑っていた。
 成り行きでカトレアと連れ立つ形になって、二人は会話もなくキッチンまでの短い道のりを同道する。かつては刃を交えた二人だが、それは互いに相手が障害だっただけだ。どちらも(他者の手によって)目的を達成した今、敵対する理由はない。会話がないだけで、特に両者間にギスギスしたものは生まれなかった。
 キッチンに到着したタイミングで、カトレアが口を開く。
「少し、お話をしてもよろしいかしら」
「……構いませんけど?」
 食事の時に使っているテーブルへ落ち着くと、慈母の笑みが初めて少し崩れた。
「噂が立っているんです」
「噂?」
「ええ。このところ、たまに数日間意識を失う女の子が現れているのはご存知ですか?」
「……さあ」
 そらとぼけてみたが通じていないことは明白。それでもカトレアは困ったように首を傾げるだけで追及はしてこなかった。
 テーブルに両肘をついて顎を乗せる。
「それが何か?」
「倒れた子はみんな、特に外傷もなく命の危険に晒されていたわけでもないそうなんですが。全員、うちのお客さんだったそうなんです」
「街で剣を扱う女の子なら、よほどのお金持ちでもない限りここの武器を持っているでしょう」
 『よほどの金持ち』は鋼鉄山の武器を携えている。しかしそれは貴族の娘などごく一部だ。大半はここの世話になっているだろう。
 「それはそうですが」頷いたカトレアは「でも」と前言を翻す。
「共通項はまだあるんです。みんな口を揃えて言うそうですよ、『女の子の幽霊を見た』と」
 アイリは瞑目して首を振った。腹芸は好きじゃないのだ。
「はっきり言ったらどうです? 武器屋カトレアで買い物をすると幽霊に襲われるなんて噂が立つと困るから、うちの客を狙うなと」
「いいえ、そういうことではないんです」
 軽く手を振るカトレアへ、アイリは鋭い視線を投げかける。
 歴戦の勇者はそれを表面だけで受け流した。
 カトレアは可愛いが聞き分けのない妹を諭す姉のような表情になって、
「そんな噂くらいでは、うちの看板は傾いたりしませんよ。私がお話したいのはその次です」
「……次」
「これは確かめたわけではありませんが……、倒れた子たちは、うちのラナに好意を寄せていたんじゃないかしら」
 くうぅ、とアイリの喉が妙な具合に鳴った。慌てて咳払いをしてごまかす。
 燭台で灯るろうそくだけの明かりが、カトレアの顔に複雑な陰影を落としていた。
 ゆらめく眼差しがアイリを捉えている。
 脳裏にいくつかの顔がよぎる。
 店の息子がいかに好感の持てる好人物かを言い合っていた、街を歩く二人連れ。
 興味もないナイフの説明を延々と聞いていた少女。
 「……は」死霊がやっとのことで嘲笑した。
「それはまた、親馬鹿な発言ですわね」
「可愛い一人息子なものですから」
 親の欲目だというアイリの主張を否定せず、かといって事実無根だとか偶然だとかいう釈明を一切許さない強さを、慈母の双眸は宿している。
 アイリはわずかに項垂れてテーブルの木目を視線で追った。
 曲がりくねって時にうねり、所によっては渦を巻くその自然な模様を、自身の気持ちと重ね合わせたりはしなかったけれど。
「アイリさん。私は何も、あなたを責めようというつもりはないんです。私たち人間が動物の肉を食べるのと同じように、あなたは人の生気を糧にしているというだけ。命を奪わない分、あなたの方が善良なのかもしれません」
「善良って……そんなわけがないでしょうに」
「私はあなたが善良に見えますよ。いえ、可愛らしいと言った方が正しいかもしれませんけれど」
 はあ?と顔を崩すアイリに、カトレアは和やかに目を細めた。
「私もオーウェンも、あなたの言うように親馬鹿なものですから」
「だから、なんなんですの?」
「うちの店よりラナが大事なんです」
 別に自らが創り上げた技術を一子相伝で後世に残したいわけでも、この店を向こう百年に渡って存続させたいわけでもないのだ、とカトレアは続けた。
「今でもユーミルちゃん……いえ、ユーミルさんを通じて鋼鉄山と技術交流をしていますし、そうして残っていくものもあります」
「……何が言いたいんですの?」
「私たちはラナがしたいようにしてくれていいと思っている、ということですよ」
「そんなものはあの子に言えばいいじゃありませんか。わたくしに伝える意味が判りませんわ」
「あなたにも知っておいてほしかったものですから」
 とうとう我慢がならなくなる。風が巻き起こるほど乱暴に空中へ身を投げ出すと、「付き合いきれませんわ」アイリは不機嫌極まりない風情でカトレアを一瞥し、その姿を不可視とした。
「ラナが本当にそばにいたい人といられるのが、私の望みです」
 天井あたりを無意味に見つめながらカトレアが呟く。
 そこからまったくもって外れた位置に浮かんでいた透明な死霊は、苦々しげに眉を寄せた。
「……世迷言を」
 勝手なことを言ってくれる。
 世に迷っているのは、こちらの方だというのに。
「ああ、それから」
 やはり見当違いな場所を眺めながらカトレアが声をつないだ。
「おかげさまでお客様もたくさんいらっしゃってくれて、最近はラナ一人だと大変そうなんです。よろしければ少しお手伝いをしてあげてくれませんか?」
 アイリはしばし黙考すると、意識的に口調を硬くしてそれに答えた。
「気が向いたら、そうしても構いませんわ」
「ありがとうございます」
 ふふりとカトレアが微笑む。
 アイリは軽く動揺した。
 笑みの眼差しがまっすぐこちらを捉えていたからだ。
 ……食えない。
 
 
 
 朝から、少年はそわそわと落ち着かない様子でいる。危機ではないが常態でもない、そういう風に揺れている。
 アイリはそれを横目で眺めながらすました表情でいた。文句は許さない、と態度で語る。もっとも、たとえ文句があったところで彼に言い出せる度胸はなかったろうが。
「あの、アイリさん。どうしたの?」
「なにがですの?」
「いや……」
 どう尋ねたら良いのか判じかねたラナは弱り切った眼差しをアイリへ向けると、もごもごと口の中でなにかを呟いて、視線を前に戻した。
「店番なんて面倒だから嫌だって言ってたじゃないか」
「気が変わったんですわ。することがなくて退屈ですし」
 ラナの隣で背筋を伸ばし、軽く両手を組んで立つアイリの口調は揺るがない。「なにか問題でも?」「問題は、ないけど……」そわそわしっ放しの彼は何を言っても無駄だと悟ったか、それきり口を閉ざした。
 来店してきた男性客がアイリを見つけて目を丸くする。誰だろう?と胡乱な眼をする客に微笑みかけると、彼はうっかり相好を崩した。ラナが小さく眉根を寄せる。
 本日も武器屋カトレアは盛況、次第にラナも照れていられる余裕がなくなり、接客に精を出し始める。アイリも見よう見まねながらそれなりにこなしていた。というか男性客の場合、少しくらい失敗してもとがめてくることなどないから楽なものだ。
 それからしばらくして、一人の少女がやってきた。そこそこ華美な装いをした、下級貴族の娘といった風体である。習い事の一環で剣を持っているのだろう。実践を想定した剣術を覚えているようには到底見えない。
 簡素な小剣を腰に佩いた少女は、しかし商品を見るでもなくまっすぐにカウンタへやってきた。「何かお探しでしょうか」ラナがいつもどおりに声をかける。
「あ、あの、よろしければこれを……」
 少女が差し出したのは小さな包み。さて武具の装飾に使う宝石か、それともレアメタルのたぐいか、という顔でラナがそれを受け取り、中身をあらためる。
「……?」
 少年は包みを開けた姿勢で止まった。
 客をさばいたアイリが横から彼の手にあるものを覗き込む。
「あら、おいしそうなクッキーですわね。手作りかしら」
「うわわっ、アイリさん、勝手に見ないでよ」
 慌てて包みを後ろ手に隠すラナ。しかしもう遅い。「よかったじゃありませんか。ありがたく受け取っておきなさいな」笑顔で言ってやると、彼は苦々しく唇を曲げた。
 意図的にアイリから顔をそむけ、クッキーを渡してきた少女へ向き直る。
「えっと……ありがとうございます。みんなでいただきます」
 その言葉に慌てたのか、頬を紅潮させた少女は困ったように眉を下げて、アイリのことを少し気にして、おずおずと首を横に振った。
「いえ、できればラナくんだけで、その……」
「……すみません。そういうおつもりなら、これは受け取れません」
 返そうとしてくるラナに少女は泣きそうな顔をする。ラナはちょっと動揺したが、ここで優柔不断な態度を取っては逆に失礼だと、腹に力を込めて耐えた。
 右手で掲げるように差し出している包みを、少女は受け取らない。ラナが手を引っ込めるのをじっと待っている。ラナもまた、精神的に踏ん張って包みを差し出し続けている。
 膠着状態だった。他の客も見て見ぬふりをしていた。中にはさっさと会計を済ませたいと思っている客もいたが、空気を読んで口をさしはさんではこなかった。
 このままでは、店じまいの時間まで二人はこの状態でいるだろう。
 人ならざる死霊はこっそり溜め息をついた。
 とかく、人というやつは面倒臭い。
 まったく、仕方がない。
 不意にアイリが動いた。包みからクッキーを一枚取り出す。「っ、アイリさん?」横手からクッキーを奪われたラナがわずかにうろたえた。
「ラナ、はい」
 反射的にぽかんと開いた彼の口へ、手にしたクッキーを押し込む。もが、とくぐもった声が出て、ラナは目を白黒させた。構わずに一枚食べさせてから、指先で撫でるように唇についた粉を払ってやる。
 何が起きたのか……何をされたのか理解した彼の首から上が朱に染まった。
 客の誰かが小さく口笛を吹いた。
「どうでした?」
「……おいしかった、です……」
 唇の端に指を添えたまま尋ねると、彼は硬直の解けきらない様子で答えた。
 彼の答えに頷いてから、アイリは少女へと視線を移す。
「だそうですよ。よかったですわね、お嬢さん」
 笑い掛けられた少女は口をパクパクさせている。
 彼女の目的は果たされた。望みどおり、思いのこもった手作りクッキーはラナの腹へ収まった。食いかけを突き返すわけにもいかないから、残りも彼は食べなければならなくなった。
 けれど、そんな風に解釈する人間は、どこにもいない。
「あなたはわたくしがいないと食事も満足にできないんですから。仕方ありませんから、これからも誰かに食べ物をもらったらこうして差し上げますわ」
 やれやれとわざとらしく肩をすくめてアイリ。「ですから、遠慮なくいただいておきなさい」
「アイリさん、え、それって」
 とうとう少女が泣き出して外へ走り出してしまった。ラナは一瞬そちらへ意識を向けた。申し訳なさそうにうなだれるが、追いかけようとはしなかった。
 アイリが去って行った少女を目で追う。
 今夜は出かけなくても良いだろう。
「ラナ」
 片手でぶら下げられるほど小さかった少年は、すでにうなだれなければ唇が届かないほど成長している。
 丁度良いので背伸びした。
「――――っ!?」
 口の端についていたクッキーのかけらがアイリの唇に吸い込まれる。
 ラナが倒れた。
「ちょっと、これくらいでなんなんですの? 貧弱ですこと」
 筋骨逞しい武器屋の跡取り息子に対して、随分な言い様だった。
 アイリは倒れこんだラナの傍らにしゃがみ込むと、膝を抱えながら彼の顔を見下ろした。
「あなたも馬鹿ですわね。好いてくれる『普通の子』があんなにいますのに」
「……しかたないじゃないか」
「そうですわね」
 いまだ起き上がれないラナを見下ろしたまま、アイリは溜め息まじりに微笑った。
 二人の先にはなにもない。
 今だって、色々なものがない。
 愛しかない。
「僕は」
 どこか拗ねたような眼で、どこか決めたような眼で、ラナは言う。
「アイリさんしかいないんだ」
 膝で口元を隠しながら、アイリは彼の額を軽く小突いた。
「そういうことは起き上がってから言いなさい」
 どこか抜けている彼に、アイリは「やれやれですわ」と苦笑した。
 
 二人の先にはなにもない。
 今だって、色々なものがない。
 愛しかない。
 
 けれど。
 愛があるから、仕方ない。



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