progressive


 初音ミクがリビングに入ると、ソファを占領する何物かが存在していた。
 「者」ではなく「物」と認識するあたり、ミクの失礼千万な思考が見えようというものだが、当人は気づく由もなくソファに寝転がり続けている。
「マスター、邪魔ー」
 うんざり口調で言いながらミクがマスタの上着を引っ張った。ソファから転がり落ちた彼は小さく呻いて身体を起こす。
「……もう少し優しく起こせないのかな」
「よく寝てたから、揺すったくらいじゃ起きないかと思って」
「僕がソファなんていう場所で熟睡してたのは、君のレコーディングが長引いたせいでマスタアップもずれ込んで、結果徹夜作業になったせいなんだけど、それは判ってる?」
 恨みがましい、というかまさに恨み節炸裂なマスタの言葉に、ミクは「もちろん」と笑って頷いた。爽やかに。
 マスタは床へ座り込み、体積が半分になるほど大きくうなだれた。
「君に制作者を労るっていう気持ちはないのか……」
「制作者以外を労る気持ちなら、海より深いものを持ってるよ。そう作ったのマスタだし」
「反論できないっ」
 崩れ落ち、拳でダンダンと床を叩くマスタだった。
 その通りなのだ。ミクにマスタへの忠誠心的なものを一切合切まるきり搭載しなかったのは彼の判断である。
 自分に縛られず、自由に毎日を過ごしてほしいという願いのもとに下した判断だったが、まさかここまでフリーダムに育つとは思わなかった。そういえば彼女は昔から言うことは聞かないわベシベシ叩いてくるわ(最近はさすがに減った。ルカが怒るから)、はたまたこっちが約束をうっかり忘れたりすると夕飯抜きとか言ってくるわ、マスタに対してだけひどい扱いをしてくる。
 まあ、そうは言っても、それが彼女の決めたポジショニングであるわけだし、今更変えさせようとは思わないのだけれど。
 白も黒もない、グレーゾーンにて、初音ミクは歌い、生きる。
 しかし以降のボーカロイドについては、ほんの少しだけ白に近いルーチンを取り入れた。さすがに。
 マスタを押し退けてソファを奪い取ったミクは、悠々と爪の手入れなんぞを始めている。
「お姉ちゃん、遅いなー」
 それは独り言だったけれど、マスタは律儀に拾い上げた。
「今日は打ち合わせだけだからもうすぐ帰ると思うよ。ああそうだ、ルカが帰ったらスケジュールを聞いておかないとな」
 ええと、依頼メールはどのくらい来てたっけ。ソファの脇に置いていたノートPCを取り上げて、サーバにつなぐ。保存されているメールを確認していると、当のルカが帰ってきた。
「お姉ちゃん、お帰りー!!」
 いつもの三倍くらいの処理速度を発揮してミクがルカに飛びつく。襲いかかられた(という表現が最も似合う)方は予測していたのか慌てることもなく少女の身体を受け止めた。
「ただいま。マスター、戻りました」
「うん、お帰り。打ち合わせはどうだった? 初めてのクライアントだったけど、緊張しなかったかな?」
「ええ、特には。良い人でしたよ」
「お姉ちゃんお姉ちゃん、早くお部屋行こうよ。変な邪魔がいないところでゆっくりしよ?」
「制作者を変な邪魔者呼ばわりだ!」
 ついに敬称すら使ってくれなくなった。
「じゃあ、意味の判らない変ことで叱ってくる人、略して変叱者」
「語感も意味も悪すぎる!」
 べったりと張り付いているミクに苦笑しながら、それでもなんとかなだめようと試みるルカ。
「ミク、これが私たちの仕事なのだし、おざなりにはできないわ。少しだけ待っていてくれない?」
「えー」
 不満たらたらだった。どうも彼女は日を追うごとにワガママ度が増している気がする。
 ここでリンやレンがいたらまた違っていたのかもしれないが、あいにくと二人は外へ遊びに出てしまっている。ここにはミクと、彼女がこれ以上なくワガママをぶつける相手と、彼女がこれ以上なく相手にしない存在。つまりミクにとって今ここは二人きりにほぼ等しい。
 「ほぼ」であるので完全な二人きりではない。ミクにとってはそれが不満なのだ。九十九パーセント二人きりでは嫌なのである。
 いつだって百パーセントが良い。
 磁石みたいにピッタリくっついて離れたくない。
 そんな少女の純情だが、マスタにしてみたらいい迷惑である。
「ミク、五分でいいから僕に時間をくれ」
 とうとう下手に出る制作者だった。
 ミクはしばしの間、むーんと唸っていたが、こうしてごねている時間が長くなればなるだけルカと二人きりで過ごす時間が短くなると気づいたか、渋々ルカから離れた。
「しょうがないなぁ。五分だけだよ」
「ありがとう……」
 マスタが胃のあたりを押さえながら呻くように礼を言う。「プライドが折れそうだ……」むしろ折れていないのかと言いたくなるほど情けない姿である。
 ミクを脇に寄せて、ルカが打ち合わせで使用された書類をマスタへ手渡した。マスタはそれを順繰りにめくりながら、向こうの要求を確認していく。
「追加要求はほとんどないね。これなら最初に積んだ日程でいけそうだ」
「はい。先方もその前提で要件をまとめられたようです」
「ふぅむ」
 不意に、マスタが意地悪く微笑む。
「というわけでミク。君に残念なお知らせだ」
「え?」
 急に話を振られて、ふてくされていたミクが顔を上げた。
 マスタは先ほどのミクばりに爽やかな笑みを浮かべている。
 対して、ルカは少々沈んでいるような、気遣わしげな表情をミクに向けていた。
 ここまで状況がお膳立てされていたら、そりゃあ不安にもなるというもの。ミクの視線が動揺でわずかに浮いた。
「な、なに?」
「明後日から一週間、ルカはクライアントのところでレコーディングと撮影をするから。あ、当然だけど君は留守番だよ」
「えええぇぇえ!!」
 ミクが世界の終わりみたいな顔をした。
 
 
 
 いつからここは託児所になったんだろう、と、マスタは遠い目をして黙考する。
「あの、ミク、そろそろ出ないと待ち合わせに遅れてしまうから……」
 おろおろしつつミクを離そうとするルカと、
「やだやだやだ。お姉ちゃんと一週間も離れるなんて耐えられないっ」
 断崖絶壁の命綱でも、こうは力強く掴めまいというくらい、ルカにきつく抱きついてわめくミクと。
 予想はしていたが、ここまで予想通りだと、もう呆れるしかない。
 お母さん、もとい、ルカが困り果てた表情で駄々っ子の頭を撫でた。
「お願いだから少しだけ我慢して?」
「ううぅ〜……」
「ミク姉、あんまワガママばっか言ってると、ルカ姉に嫌われるよ」
 助け船のつもりでリンが横から口を挟んだけれど、ミクはまったく無視、もしかしたらヘッドフォンがルカ以外の声を遮断しているんじゃないのかと思わせるほど見事な聞こえないふりだった。
 ここで今までのリンだったら腹の一つも立てたところだが、色々と経験して成長した彼女は「やれやれ」という顔で肩をすくめただけだった。これではリンの方がよほど大人である。今この時に限って言えば。
 ミクが聞こえないふりをしたのは、つまりそんな可能性を露ほども考えていないという証左だった。
 ルカが寄せている絶対全幅の信頼と親愛。それを髪の毛一筋分ほども疑っていないからこその、可能性の排除だ。
「お姉ちゃ〜んっ。せめてあと一時間だけ」
「クライアントをお待たせしているのだから、そういうわけにもいかないわ」
「……ま、ここはあれかな。あまりスマートなやり方じゃないけど、これ以上遅れたら信用に関わってくるからね。レン」
 マスタがピッと親指を立てた。「合点承知」レンが古くさい台詞を吐きながらミクに躍りかかる。
「わっ! こら、レンくんどこさわってるの!」
「腕だよ腕掴んでるだけだよ! 誤解されるようなこと言うなよ!!」
 わーぎゃー騒ぐミクだったが、いかな年下といえどもレンの腕力にはかなわず、強引にルカから引き剥がされた。
「うあーん! お姉ちゃーん!」
「ルカ姉、俺たちのことは構わずに早く行ってくれ!」
 別にフラグが立つようなシチュエーションではないし、ルカはそういうボケにのってくれない。
「あ、あの、ミク。お土産買ってくるから」
「お土産とかいらないからお姉ちゃんが欲しいよ!」
「無意識だろうけどそういう発言しないでくれるかなミクさん!?」
 ともかく。
 三人がかりでミクを押さえつけ、ようやくルカは出発と相成った。
 「なんで見送りでこんなに体力使うんだ……」げっそり呟くマスタである。
 ルカの姿が見えなくなってしまえばミクもおとなしいもので、糸が切れたように床へへたりこんだまま動かなくなっている。マスタは内心、すぐさまルカを追いかけたりするんじゃないかと気が気でなかったのだが、そういう行動に出そうな気配もない。
「まったく……次からはこんなこと勘弁してくれよ? これから先、ルカが家を空けることも増えるんだから」
 実はこのようなケースは今回が初めてである。
 完成したばかりで細かい調整が必要だったり、少々情緒不安定な時期があった(つまり、初音ミクの存在と自己との関係が複雑だった時期だ)ために遠出を控えさせていたのだ。
 ミクはマスタの忠告を右から左に聞き流して、ふらりと立ち上がるとそのまま力ない足取りで自室へ向かった。
「ミク。そろそろ、そういうのは許されなくなるからね」
 背中に届いたマスタの声にも応えない。
 自室のベッドへダイブしたミクは、スプリングに跳ねる身体が落ち着くのも待たずに「もー!」と吠えた。
「しょうがないってことくらい判ってるもん! マスターはわたしを馬鹿にしすぎだよ」
 ぶちぶちと文句を垂れる。その表情は怒りにけぶっているけれど、悲哀じみたものはない。
 初音ミクはCVシリーズの最初期型である。
 だからそれだけ、他の同型機より経験を積んでいる。
 外見が変化しないから判りにくいのだが、自己成長型のアルゴリズムは日々進化を遂げているのだ。いつまでも世間知らずなわけではない。
 だから、ミクは現在、特に落ち込んではいない。
 ルカがいないのは寂しいし嫌だけれど、それで内にこもってしまうわけでもないのだ。先ほどの暴走はだから、彼女の甘えなのである。
 ルカと、そしてマスタへの。
「それにしても一週間かぁ。長いなあ……。もうストレスで神経回路が焼き切れそうだよ」
 わずか十五分の負荷に耐えられないCV01だった。
 そんなミクのピンチを察知したのかどうなのか、広域ネットワークを通じてミクにコールが届いた。ミクは電波の速さで相手を確認(当たり前だが)、すぐさま応じる。
「お姉ちゃん!」
『さっきはごめんなさい。急がないと出発に間に合わなくなってしまいそうだったから……』
 ルカの弱い語調に、ミクも強くは出られない。というか原因は彼女自身なのだから、これでまだ強気になるのなら神経回路はナイフで切ってもショートしまい。
「ううん。まあ一週間だけだもんね。それくらいすぐだよ」
 強く出られないミクの、いじらしい精一杯の強がりだった。「退屈だったらリンちゃんかレンくんと遊んだり、マスターで遊んだりしてるし」カラッとした笑い声を交えながらミクは言う。
『……さっき、少し表現のおかしなところがあったような気がするけど』
「そんなことないよ?」
『まあ、いいけれど……。それじゃあ、ミクはあまり寂しい思いをしなくて済むのかしら』
「んー、ま、そっかな」
『そう』
 ルカが安心したような、あるいは感心したような声音で相づちを打って、
『私は少し寂しいわ』
 試すように、ミクへ告げた。
 ぐぅ、と、ミクの内側が軋む。もどかしい。抱きつきたい。身代わりに枕を抱え込んでみるが全然足りない。
 『ミク?』黙り込んでしまったミクを訝ったか、ルカが何度か呼びかけてきた。
「……少し?」
『え?』
「少しだけじゃやだ。全部で寂しがって。心でも身体でも、わたしがいないことを寂しいって感じて」
『…………』
 無瞭の空間で、無綾の時が過ぎ、それを打ち破ったのはルカの小さな咳払いだった。
『もちろん、あなたに会えなくて寂しいわ』
「うん」
『そばにいたいし』
「うん」
『声を聴きたいし』
「くっついてたいし?」
 そうね、とルカは小さく同意する。
 概念的な意味で、彼女たちは二人きりである。ミクはまあいつものこととして、ルカの方も普段より物言いがストレートだ。
「今はお話だけで我慢するけど、帰ってきたらいっぱいぎゅってしてね」
『ええ、あなたがそう望むなら』
 せめて、と彼女の声を聞きながら、彼女の手のひらの感触を思い出す。それだけで抱きしめられているような気分になれるから不思議だ。
 ところで広域ネットワークとは、つまり開かれた場である。
 開かれた中で限られた者にのみ通信を許可する、という使い方はよくされるけれど、そのようなケースにおいて多くの者が犯す失敗とはなんだろうか。
 黄色い髪を振り乱しながら、リンとレンが部屋の中へなだれ込んできた。
「ミク姉ー! いやてゆーかルカ姉!」
「わっ、いきなりどうしたの? お姉ちゃんがいるわけないじゃない。二人ともお見送りしたんだから知ってるでしょ?」
『…………』
 ルカは沈黙している。
 しかしただの沈黙ではなかった。
 絶句、と表現した方がより的を射ているだろう。
 ミクも彼女の様子がおかしいのに気づいて首を傾げる。「お姉ちゃん? ごめんね、うるさかった?」
 ルカは反応しなかったが、リンがそこへ横やりを入れてきた。
「そういう会話を、グループ発信でしないでほしいんだけど、ルカ姉」
「え?」
 言われてようやく、ミクもオンラインメンバを確認する。しっかりリンとレンも入っていた。
 ということは、先ほどまでの甘ったるいやり取りを、弟妹たちは一音もらさず一切合切全部ひっくるめて聞かされていたのだ。
『設定……間違えたみたい』
「最初は俺たちにも言ってるのかと思ったからそのままにしてたんだけど」
「だんだん雲行きが怪しくなってきちゃうし、そこまで行ったらもう話しかけられる雰囲気じゃなかったし」
 そこで仕方なく、直接訴えにきたという顛末のようだ。通常ならネットワーク上の方が声が大きくなるものだが、家族相手のことだし、あの会話の中に「いやーどうもどうも」と割り込む方が、二人にはよほど難しかったのだろう。
 ふつん、リンとレンのログアウトがされる。「ほんと、気をつけてよ」捨て台詞を吐いて、二人はきびすを返した。
「あ、俺たちがっくん家に行ってるから」
「最近、二人ともがくぽさんのとこによく行ってるね。すっかり懐いちゃって、お姉さんちょっと寂しいなー」
「うそつけよ」
 そんな憎まれ口の後、レンは多少オーバに肩をすくめて見せた。
「別に俺はがっくんと遊ばなくてもいいんだけどさ、リンがどうしてもって言うから」
「い、言ってないよ! それならレンはうちにいればいいじゃん、あたし一人で遊びに行くから」
「あー、はいはい、悪かったよ。俺も行くってば」
 相変わらずの仲良しぶりを見せつけながら、弟妹たちはそろって部屋を出ていった。二人の姿、今のミクには眩しく映る。涙が出そうだ。
『……ミク?』
「ん、リンちゃんたち出かけたよ。今度こそ二人っきり」
 ヴァーチャルリアルな意味では完全に、リアルな意味では半分くらい。
 しかし、先ほどの空白がルカをクールダウンさせたようで、今一つ甘い会話にはならなかった。そのうちにレコーディングの開始時間になってしまったらしく、ルカとの通信も途切れる。
 ミクはその場にバッタリ倒れ込んだ。
「うう……、お姉ちゃん不足……」
 このままでは回路が切れてしまう。
 
 
 
「だっからさー、マスターにもう一人男性ボーカロイド作ってくれって頼んだんだけど駄目だって言うから、がっくんがうちの子になってよ」
 はあぁっと重いため息を落としたレンが、懇願じみた口調で言う。慌てたのはリンだ。
「ばっ、がっくんはここの人でしょ! がっくんのマスターとかグミが可哀想じゃない」
「ボクは別に構わないけど。正直、兄貴ってなに考えてるか判んなくて付き合いにくいんだよね」
 愛用のゴーグルをクリーナで拭きながらグミ。この中で一番の新参者だが、そんなものはどこ吹く風、飄々とした態度でいる。
 「うむ、拙者もグミがなにを考えているのか皆目判らん」腕組みをして深く首肯するがくぽだった。自分がけなされたことには気づいていないようだ。
 レンはカカッと笑って、得意げな顔をする。
「ほら、グミもいいってさ。リンだってがっくんがうちに来たら嬉しいだろ?」
「う、うう、嬉しくなんかないっ」
「……」
 リンのツンデレな発言について、真実に到達できるはずもない朴念仁がすごく悲しそうな顔をした。「拙者、やはりまだリン殿に心を開かれてはおらんのか……」
 耳と尻尾を垂れた大型犬みたいな様子の青年に、少女のなりたてがあわあわとうろたえる。
「ちが、あの、嫌ってわけじゃなくて……」
「向こうはもう四人もいるんだし、そのうえでかいのが増えたら狭くてしょうがないじゃん。まあ、兄貴はこっちでいいよ。高いとこにあるもの取ってくれるし」
 グミがフォローなのかなんなのかよく判らない言葉を差し挟んできて、がくぽの意識はそちらに移った。そんなものだろうか、と自身の顎を撫でる。
 ちょこんとゴーグルを頭に乗せて、グミはテーブルに置かれている気球の模型を取り上げた。彼女の作品だ。ゴンドラ部分に入れた固形燃料を使用して実際に飛ばすことができる優れものである。彼女はどういうわけか空を飛ぶものが好きなのだ。紙飛行機から始まって、この気球になり、いつかは宇宙船を作りたいらしい。ゴーグルはその希望(夢とは言わない、彼女にとってそれは夢ではない)の象徴である。設計のための演算能力が足りないのが不満だ。
 「あーあ」両手を頭の後ろで組んだレンが大きく反り返る。
「じゃ、がっくんのマスター、俺の弟作ってくれないかな」
「しばらくは新型を作る気はないと仰られていたが」
「ちぇー」
 レン殿の気持ちは判らなくもないがな、とがくぽは取りなすようになだめ調子で言う。「がっくんだけだよ、俺の気持ち判ってくれんの」ぽこん、レンの口からリンに対するアイロニィあふれた台詞が洩れた。
 茶請けに出された桜道明寺を頬張りつつ、リンは不理解の表情でレンを見やり、それからグミに視線を向けた。彼女も同じような調子で見つめ返す。たとえいつか彼女が宇宙船を作れたとして、そんなものでは彼らの気持ちには届かないだろう。
 男の子と女の子は、いつだって判り合えないし永遠に判り合えないのだ。
「まあ、拙者も勝手にここを出るわけにもいかんのでな。マスターのご命令があれば別であるが、そのようなお考えをお持ちではないだろう」
「うん。ボクもそんな話聞いてない」
「というわけで諦めてくれたまえよレンくん」
「なんでリンが勝ち誇ってんだよ」
 エアパイプを構えたリンに肩を叩かれ、レンはなんだかものすごい不条理を感じた。
 レンは実のところ、がくぽがうちに来たら本当にリンが喜ぶと思っていたのだ。暇を見つけては「がっくん家に遊びに行こう」と誘ってくるのだから、それなら、ずっとがくぽがうちにいてくれるようになったらリンが幸せだと思った。
 嬉しくないのかな。レンは内心で自問する。俺もがっくん好きだから、うちに来てくれたら嬉しいんだけど。ていうか、リンだってそうなったら嬉しいって思ってるのに、なんでおんなじくらい嬉しくないって思うんだろう。
 二人で一つの片割れだからこそ、リンのすべてが判ってしまって、それが逆にレンを混乱させていた。
 グミは手にした気球のかご部分に、マーカーでラインを引いている。なかなか芸術的なラインアートを施しながら、ちらりとレンを見やった。
「青いね、少年」
 見透かしたように呟かれたグミの言葉に、レンが眉を片方上げる。
「なにがだよ」
 
  
 
 非常に珍しいことだが、ルカはレコーディングの最中だというのに上の空だった。
 ヘッドフォンから流れていたメロディが途切れる。信号の消失にルカが我に返った。「ちょっと休憩しようか」気遣わしげなクライアントの声で己の失態を悟る。「いえ」慌ててかぶりを振った。
「申し訳ありません。大丈夫ですから続けてください」
「そう……? 調子が悪いならスケジュールを組み直してもいいけど」
 こっちもまだ慣れてないし。クライアントである青年が苦笑う。彼はずっと生身のボーカリストを相手に仕事をしていたので、ボーカロイドによるレコーディングは初体験だ。色々と勝手が違っていて、ルカと二人、手探りでの作業が続いている。そのせいでルカに負担がかかっているのだと思ったようだ。
 それは確かにルカへ負荷をかけてきているが、しかし問題視するほどのものでもない。充分に予測域内だったし、ルカの能力なら余裕でカバーできる程度のものだ。
 だから、ルカの不調は彼のせいではない。
 誰のせいでもない。
「お気遣いありがとうございます。けれど大したことはありませんから、続けていただいてけっこうですよ」
 ブースの向こうで彼は少し逡巡した。それでも結局はルカの意志を尊重して頷きかける。
 良いクライアントだ、とルカは判断する。クライアントとして良いというよりは、人が良い。(良いクライアントというのは、時間と金をかけてくれる人物に他ならない)
「それじゃあ、前のところからもう一回……っと、ごめん、ちょっと待ってて」
 青年は軽く後ろを振り返ると、ルカにそう告げてドアへ歩きだした。来客のようだ。ここは彼のプライベートスタジオなので、友人でも遊びに来たのだろうか。
 自身のこめかみを緩く揉む。
 どうも、イデオロギィが揺らいでいる。レイゾンデイトルが不確定になったとも言える。『これ』が己の本分でありコアのはずなのに。
 はあ、と、ルカの口からため息が洩れた。その呼気はひどく……ひどく、色づいていた。
 ガラスに隔てられたブースの向こう側では、青年が訪れた女性となにか話をしている。軽くじゃれ合っているようだ。機材のところへ戻ろうとする青年を、女性が両手を広げてとおせんぼしている。青年は困り笑いで彼女の頭を小突いた。
 なんとはなしにその光景を見物していたルカは、思い至って「ああ」と小さく呟いた。
 女性が部屋を出て、戻ってきたクライアントに微笑みかける。
「先ほどの方は恋人ですか?」
 いきなり核心を突いた質問をされ、彼はややたじろぎつつも頷いた。
「再来月、式を挙げるんだ。実を言うと今歌ってもらってるのは彼女に贈る曲でね。その式で流してもらおうと……」
 面映ゆそうに言う彼の語尾が、羞恥で尻つぼみになっていく。
 ああ、道理で上の空になるわけだ。愛しい人への愛しい想いを歌ったそれが、今のルカに影響しないはずがない。
 ルカの指先が、そっと唇をなぞる。
 とはいえ、そうと判れば感情移入をするわけにはいかない。
 ルカが歌うのであっても、ルカの想いを込めて歌うべき曲ではないのだ。
「良いものを、作りましょう」
「うん。よろしく頼むよ」
 ルカはCV03として職務を果たす。
 
 
 
 マスタ謹製の鳩時計が十五回鳴いた。
 陽光穏やかな午後三時。おやつ時である。
 しかしながら、この家におやつの習慣はない。特に時間を決めず、リンとレンがゲームをしながらお菓子をつまんだり、ミクがコンビニで買ってきた新商品をルカと食べたり、そういったことはあるけれど、午後三時には必ず全員そろっておやつを食べるのだ、などという不文律は存在しない。
 だからマスタは現在時刻が午後三時であることを認識してはいたものの、ラボから出ようとはしなかった。CVシリーズに関する論文をまとめる作業にいそしんでいる。
「情緒面をどう書くかだよなぁ……。あまり人と同一視しすぎるのもまずいし、だからって機械的には書きたくないし……」
 天井を見上げて唸る。うなされると表現しても良い。
「そもそもミクの成長って、もうほとんど頭打ちなんだから、これ以上進捗の書きようが……」
 が、「これまでと変わりません、以上」では論文にならない。序破急の序で終わってしまう。
「うう、なにか、なにか現状を打破するきっかけがあれば……」
 「マスターお散歩に行こう!」乱暴にドアを開けはなったミクがなんの脈絡もなく叫ぶ。思考の無間回廊に迷い込んでいたマスタは突然の雷鳴に心臓を直撃された。ショックで止まらなかったのは幸運だった。
「は、はあ?」
「外はいい天気だよ。絶好のお散歩日和」
「嫌だよ散歩なんて面倒くさい。それより僕は論文に詰まってて大変なんだから、しばらく放っておいてくれないか」
 椅子ごと向き直って言うがミクは「いいからいいから」と全く取り合わない。意見は取り合わないが手を取り合って散歩に行こうと誘ってくる少女へ、創造主は困り顔になった。
「ルカがいなくて退屈なのは判るけど、僕を暇つぶしに巻き込まないでくれないかな。カイトくんたちと遊べばいいじゃないか」
「二人とも今忙しいんだって。あのねマスター、マスターは消去法で最後に残ってるの。もういないの。そこのところ覚えてね?」
「ひどい言われようだ……」
 このわがままなお姫様、世界が自分のものとはさすがに思っていないだろうが、少なくとも創造主を自由にできる権利は有していると思っているらしい。
 結婚するなら細かい心配りのできる優しい人がいい。心の中でそっと嘆きつつ、マスタは仕方なく重い腰を上げた。
 手と手を取っての並木道である。嘘だった。別に手はつないでいない。
「日光浴っていうか、森林浴っていうか。人ってそういうの必要なんでしょ?」
「ま、日光に当たらないとビタミンDが生成されないから、必要といえば必要かもしれない。森林浴はよく判らないけどね」
 マイナスイオンとか、眉唾な話はあるけど。だるそうな口調で答える。
 「眩しい……溶けそうだ……」「マスターって吸血鬼?」まだ散策をはじめて二十分も経っていないのに、マスタはすでにグロッキー気味である。
 つと、視線を感じてマスタが顔を上げた。気配を追った先には数人のグループがいる。チラチラとこちらを気にしているようだ。
 マスタははてと首を傾げながら、
「ボーカロイドが珍しいのかな。仕事が増えたっていっても、やっぱりまだ局地的なものだからなぁ」
「さあねー」
 やにわにミクが悪戯い笑みを浮かべてマスタの隣へ回り込む。「ん?」訝るひまもあらばこそ、延びてきた両腕に片腕を包まれた。
 ミクと腕を組んだかたちになったマスタが気味悪そうな表情をする。
「なに?」
「こうしてると、恋人同士に見えたりして?」
 からかい口調で言われた。
 そこでマスタ、ハッと気づく。
 彼らの視線の意味、あれはボーカロイドを珍しがっているものではなかったのだ。
「ミミミミク、離れなさいっ」
「えー、いいじゃない、たまには」
「君、判っててやってるね!?」
 とうのたった男性と、十代も半ばの少女が腕を組んで歩いている構図を、微笑ましいものとして捉える人物がどれだけいるだろう。
 あるいは顔立ちが似ているとかなら、まだ親子や兄妹だと言い訳も立つだろうが、平均値を元にしてゼロからデザインされたミクにマスタの面影などあろうはずもない。
 マスタが力ずくでミクの腕を引き剥がした。「あーっ」ちょっと不満そうなミク。
「まま、まったく君は、どうしてそう僕を困らせるんだっ」
「だってマスターの慌ててる顔が可愛いんだもん」
「どこを取っても嬉しくない褒め言葉だなっ」
 ちなみにミクの言葉は本心である。だからこそ始末が悪いとも言えるが。
 マスタが重苦しいため息をついた。
「僕はまあ、君のそういうところ判ってるけどね。誰にでもそうしていると、いつか痛い目を見るよ」
「? やだな、マスターにしかしてないじゃない」
「……まあ、いつか判るさ」
 ふん、と鼻から息を洩らしたマスタは、どこか憂い顔でミクから視線を外した。
 頭打ちだなあ、と胸中で呟く。
 
 リンが帰ってくるなりマスタに迫った。
「マスター。ミク姉、どっか行っちゃうの?」
「へ?」
 訳の判らない問いかけだった。特に外出の予定はないし、仕事のスケジュールも入っていない。
「出かけたりはしないと思うけど?」
「じゃなくてえぇっ。他のうちの子になっちゃうの!?」
 マスタの上着を掴んで乱暴に揺すりながら、駄々っ子のようにリン。さて判らない。そんな話、こっちこそ青天の霹靂だ。
「いやいやいや、そんなの何も聞いてないよ。誰が言ってたの?」
「帰る途中、知らないお兄さんたちに聞かれた……。パトロンにもらわれるのかって。ねえ、パトロンさんって人のとこにミク姉行っちゃうの?」
「うわお」
 棒読みで驚くマスタだった。
 考えてみれば、局地的とはいえその歌声や姿を公にさらしているミクよりも、まったく表に出ない(文字通りだ!)己の方が認知度が低いに決まっている。そこにきてあんなやり取りでは、よもや彼がミクのマスタだなどとは思うまい。
 リンに昼の出来事をかいつまんで説明し(もちろん、パトロンの意味は教えなかった)、ミクはどこにも行かないから安心して良いとその肩を叩く。彼女は己の心配が杞憂に終わったことでホッと息をついたけれど、すぐに眉根を寄せて呟いた。
「それにしても、マスターはミク姉に甘すぎるよ。迷惑なんだったらガツンと言ってやればいいじゃん」
「ははは。まあ一応怒ってはいるだろ?」
「そんなの、ミク姉聞いてないじゃん」
 「まあねえ」相づちを打ったマスタは、苦笑の浮かんだ目元を指先で擦った。
「性格が悪いわけじゃないから、頭ごなしに怒るのもなんだしねえ。なかなか難しいよ。なにせそっち方面に関して、僕の才能は皆無だから」
 ルカが帰ってきたら落ち着くんじゃないかな。楽観的に言うマスタだった。リンはその横顔がちょっと可愛らしかったのでそれ以上の追及をやめる。
 猫みたいにダラッと伸びながらマスタの膝に仰向けると、彼はやっぱり猫を撫でるように顎をくすぐってきた。
 
 
 
 なんとかミクも回路を焼き切らずに済んで、ルカが帰ってくるその当日を迎えられた。日に日に言動がおかしくなっていくミクに肝を冷やす日々ももう終わりだ。レンの笑顔がやけに晴れやかである。(青き少年には少々刺激の強すぎる発言も混じっていた)
 ただいまのたも聞こえないうちに、ミクが弾丸となってかっ飛んだ。
「ぅおね……」
「っ、待った!」
 処理速度の差をいかんなく発揮したルカが見事な体裁きでミクをいなす。両肩を押さえながら「お客様が」小声で告げられた警句に顔を上げてみれば、知らない青年がルカの後方にたたずんでいるではないか。
 おそらく今回のクライアントだろう。渋々離れて姿勢を正す。
「いらっしゃいませ」
「こんにちは。ずっとメールでのやり取りばかりだったので、ご挨拶をと思って。急に来てしまってすみません」
「いえ。すぐにマスターを呼んできますね」
 タスクの切り替えはお手のものだ。たぶん。大丈夫だ。おそらく。
 身体がブリキになった気分を味わいながら(魔法の国の王様は、いつになったら『マイ・ハート』をくれるんだろう?)ミクはラボのマスタを呼びつけた。
 身なりを整えてもいないマスタの髪を手で梳いてやりながら、抗議の表れとしてわずかに唇をとがらせる。
「お客さんが来るなら前もって教えといてよ」
「言ったよ三回は君に直接言ったよ。聞いてなかっただけじゃないか」
 マスタがミクに負けじと口をへの字にした。
 来客中ではルカにベタベタするわけにもいかない。ミクは彼女の隣に腰を下ろし、人当たりの良い笑顔を張り付けていた。青年がルカを賞賛するのを、誇らしい気持ちと妬ましい気持ちの両方を抱えながら聞いている。
 いっそ無理やりに彼女を連れだしてしまいたいが、この場における主役が誰なのかは火を見るより明らかである。そこまで空気の読めない行動に出るのはインプットされた対人プログラムが許さない。
 この苦痛、永遠に続く地獄の業火に焼かれる罰と比肩しうるに違いない。
「では、こちらの方で最終調整をさせていただきます」
「よろしくお願いします」
 一礼を交わし合い、クライアントが玄関を後にする。
 さあ解放だ! 自由だ! ミクが可及的速やかにルカへと抱きつき、その首もとに頬ずりをした。うわわ、とされた方が軽く鼻白んだ。
「お姉ちゃん、おかえりー」
 まさに至福、という表情で告げてくるミクに、ルカも雌伏の様子で小さく笑う。「ただいま」愛の告白よりも甘やかな声とともに髪を撫でられて、ミクはますます表情をとろけさせた。
 このままずっとくっついていたい。むずむずと沸き上がる衝動が全身を這い回っている。大好きってこういうことなんだな、ミクは声なく呟くと、さらに白い肌へすり寄った。
 と思ったら襟首を誰かに掴まれた。そのまま引っ張られてミクは思わずたたらを踏む。バランサの性能がもう少し低ければ尻餅をついていたところだ。
「そういうのはもう少し待っててくれないか。ルカにはレポートと音源をもらわないといけないんだからね」
「えええぇ!?」
 非情すぎるマスタの言葉がミクを打ちのめす。非道とか無情とか言っても良い。
「そんなの後でもいいじゃないっ」
「スケジュールに余裕がないんだよ。今から取りかかったってけっこうギリギリなんだ。リテイクはないけど、クライアントとの会話で出た意見とかはルカの頭の中にしかないから、直接聞かないと判らないだろう」
 ミクも自分が外に出た際にはいつもしている作業だ。他愛ない会話の中に隠れている、ユーザの潜在的ニーズを見つけだすのに、それはとても有効な方法だった。ミクだってそれくらいは判っている。
「すぐに終わるから、少しだけ待っていて」
 ルカもマスタの援護に出たが、ミクはなかなか頷けない。
 彼の意見は理解できる。
 けれど、しかし、一週間ぶりなのだ。一週間、つまり六十万と八千四百秒の長きにわたって離ればなれだったのだ。そのなゆたの別離を味わわせておいて、さらに引き延ばそうというのか。
 視界が色を失う。グレーゾーンだ。生まれてから一度も抜け出たことのない世界。初音ミクはそれを正常であると判断する。白と黒を知らない少女は灰の混沌がよく見えないことに気づかない。
 消失する。
「お仕事なんてどうでもいいよ。わたしはお姉ちゃんといたいのっ」
 う、とレンが喉の奥で低く唸った。リンは声こそ洩らさなかったが、固いものを飲み込んだような表情で硬直する。
「ミク」
 温度のない声だった。
 いつもと違う呼び声にミクの中で何かが軋んだ。振り向いて、彼女が笑っていないのを見て、けれどその視線に確かな感情が浮かんでいるのを見て、それは初めて言葉を交わした時よりも冷たい感情だと気付いて、しがみついていた腕の力が抜ける。
「いい加減にして」
 ひどく……酷い叱咤だった。
 声を荒げるでもない、命令形ですらない、ただただ静かな、侮蔑だった。
 ミクはクライアントが曲に込めた想いを知らない。ルカがそれに同調したことも知らない。
 だから、自分が『誰かの想い』を踏みにじってしまったことも、知らない。
「お……お姉ちゃ……」
「マスター、準備をしてきます。ラボでお待ちください」
 もうミクがそこにいることすら認めていない風情でルカは言う。「うん」左眉だけをひそめた微妙な表情で、マスタが頷く。
 一人きり、取り残されたミクは、呆然とその場にたたずんだ。
 なんだろう今の。どうして彼女はあんな表情をしていたんだろう。
 どうしてあんな眼で、こちらを見たんだろう。
「……だから言っただろう。いつか痛い目を見るって」
 同情を滲ませた口調はミクを責めるものではなかったのに、受け取った計算回路はミクに望まない感情を生む。
「リン、レン。部屋に戻っていなさい」
「……はぁい」
 後ろ髪を引かれていたようだが、二人は大人しくその場を離れて、後にはよく似た二人が残った。
「こうなった責任の一端は僕にもあるから、僕が君を怒るわけにはいかないんだよね」
 独り言みたいにこぼしたマスタがポンと手のひらをミクの頭に置いた。ミクは反応しない。その感触に気付いてすらいないようだ。構わずに、彼はミクの頭を撫でた。
 辛抱強く撫でてくれる手に、ようやくミクの思考が歩き出す。
「なん、で……? お姉ちゃん、わたしのこと好きって、好きって言ってくれるのに」
「そうだね」
 僕と同じように。マスタが静謐に語る。
「僕が君を好きなことを君は知っているから、君を好きなルカが僕と同じように全部許してくれると思ってたんだろう? モデルケースが僕しかいなかったんだもんな。データが少なければ分析の精度が下がるのは当り前だよ。
だから、これは僕のせいだ」
 短い期間だったけれど、過去、彼と彼女は二人きりだった。
 今よりもずっと密接に結びついて、今よりもずっと分かちがたい、親子でも、神様と信者でもない期間があった。
 お互いに相手を見ていない、けれど意識よりも深い無意識が常に相手を捉えているような。
 想いとしての恋はなかったけれど。
 その裏側に、もっと深くて清廉な結びつきが存在した。
 彼らはきっと、裏表がひっくり返った恋人同士だった。
 マスタの手がそっとミクの頬を包み込む。
「ルカは僕より真面目だからね。仕事をないがしろにしたら、それは怒るよ」
 ね、と小さな子どもに笑いかけるような調子で言う。ミクは黙り込んで、ただ彼が頬をさする手触りだけ感じていた。
「でも君がそうなるのも仕方ないんだ。そうなるって判ってて、僕は君にかけたプロテクトを解かなかった。僕は……君が好きだから」
「……どういうこと……?」
 ミクの問いかけには答えず、マスタはそっと手のひらを滑らせた。
 「これ以上は僕の我儘だ」頬を滑り降りた手、その指先がミクのうなじにあるスロットを開ける。
 小さな小さなチップがそこには嵌め込まれている。ミクは、そこにそれがあることを知らなかった。
 パチッと音を立ててチップが取り外される。何か変化があるのかと身構えていたが、知覚できるようなものは何もなかった。「……?」問いかけるように視線をマスタに送ると、彼はどこか照れくさそうに笑った。
「これが君の自由だ。君が手に入れた、初めての『AUTO』だよ」
「なに……?」
「君が、『僕の未来』から『君の未来』になったってところかな」
 ルカが、二人の似ている部分だと言った詩的な言い回し。詩的すぎて意味が判らなかった。一秒前の己と今の己に差異は発見できない。処理能力も身体機能もまったく同一だ。あの小さなチップが持つ役割はなんなのだろう。
「少し休みなさい。さすがに今は、ルカも許してくれないだろうからね。二人とも冷却期間をおいた方がいい。ついでに僕は仕事を進めたい」
「……ん」
 あれだけひどい侮蔑を受けて、なおそばに行きたいと思えるほど、十六歳の少女は強くなかった。
 重い足取りで自室に戻り、倒れ込むようにベッドへ横たわる。
 ルカに触れたかった。抱きしめてほしかった。
 彼女は、自分を嫌いになっただろうか。
 離れることなんてないと思っていたあの引力は、消えてしまったのだろうか。
 
 
 
 
 砕けた気持ちをかき集めてミクはルカの部屋へ赴く。マスタが外したチップの役割はまだ判らない。
 食事もとらなかったので、あれからルカには会っていない。あんなにもそばにいたかったのに、今は、彼女のそばに行くのが少し恐かった。
 彼女の反応が恐いのではない。
 あれだけの失望を受けてなお、彼女が己を拒む光景が思い浮かばないのが、恐い。
「お、お姉ちゃん、入っていい?」
 初めて、ドアを開ける前に問いかけた。「……どうぞ」逡巡を見せながらもルカが答える。
 当り前だけれど中には彼女がいて、それを認識したミクは泣きたくなるような昂りを覚えて、しかしそれをアクセラレータとして動き出せもしなくて、中途半端に停まった。
 ふぅ、とルカが小さく嘆息する。痛ましげな視線がミクへ届いている。
 するり、彼女の腕がのびてきて、背中を包まれた。
「ごめんなさい、少し言いすぎたわ」
 ルカが伝えた失望はただ一言。だがその一言は、あまりに重すぎた。十六歳の少女が潰れてしまうくらいに。
 そっと抱き返して首を振る。
「わたしこそごめんなさい」
 「喧嘩両成敗ね」ルカは笑声まじりに囁くと、ミクの頬に手をあてがって顔を上げさせた。
 その眼差しに確かな愛情を感じ取る。
 ああ、良かった。
 『己の予測が間違っていなくて』、良かった。ミクはそう思う。
 一筋の不安すら抱かせない彼女が確かにそこにいた。それなら今までと同じように甘えられる。
 唇を寄せる。彼女はわずかに首を下ろしてそれに応えた。柔らかく、温かく、かすかに乾いている。潤いを求めて深く潜り込んだ。寂しかったよと舌先で告げる。同意が彼女の同じ部位から伝わってくる。
 微細な違和感があった。彼女の姿を目に留めて、彼女に触れているのに、百パーセントの充足が訪れない。
 戸惑いながら、唇を離した。
「お姉ちゃん。もっといちゃいちゃしたい」
 ルカがわずかに照れた。
 ベッドに入りこんでキスを交わす。髪を撫でて指先を絡めて大好きと囁いた。終わりの見えない交感が言葉から文脈を奪っていく。単語のみを放つ羅列は心地よい。
 それでも訪れない充足。「……ミク?」ルカが訝しげに目を覗き込んできた。
「どうしたの?」
「え?」
「少し……いつもと違うようだけれど」
「えっと……久し振りだから、かなぁ?」
 自分でもよく判っていないので返答はいかにも曖昧で、当然ルカに伝わるはずもなく、彼女はなだめるように髪を撫でてきた。
「調子が悪いの?」
「ううん。でもなんか、ちょっとおかしいかも」
 でも、全然嫌じゃないんだよ。ミクが戸惑いながらも続ける。
 不安なわけでも、何か不快感があるわけでもない。ただ、何か『おかしい』。綺麗なものを手に入れるためにあと一歩だけ足りない、そんな感じだった。ただその一歩をどうやって踏み出したらいいか判らないのだ。そういうもどかしさ。
 ルカはミクの下で軽く首をかしげた。普段ならこうしていれば幸せいっぱい胸いっぱいな表情をしてくれるミクが、どこか茫洋とした不満を抱いている。その正体を探り切れない。
「あの、ね?」
「なに?」
 初音ミクは少女である。
 少女ゆえの純真さで、彼女はストレートに告げた。
「なんか……もっと奥にほしいかも」
 噴いた。
 「お姉ちゃん?」ルカの大きすぎる反応に驚いたのか、ミクがわずかに身体をのけ反らせてまじまじとルカを見つめる。
 なんでもないと誤魔化しつつ、ルカはさりげなさを装って彼女の首筋へ触れた。手探りでスロットを見つけ出し、そこにあるはずのものがないことを確かめる。
 大急ぎでマスタへメッセージを送った。
 
――――マ、マスター!
――――なんだい?
――――ミクのモラルチップが外れているのですがっ。
――――うん。僕が外したからね。仕方ないだろう、これ以上つけたままにしてたら、ミクがどんどん歪んじゃうし。本当ならあの子が君を好きになった時点で外すべきだったんだけどねえ。
 
 ほやんとした語り口調に脱力しながら、ルカはなおもマスタへ噛みつく。神へたてつく。
 
――――しかし、ミクにはまだ早いのでは……。
――――ボーカロイドに早いとか遅いとかないと思うけど。というか僕は君の忍耐強さにビックリだよ。チップのこと教えてからずいぶん経つよね?
 
 話題が話題のためか、マスタは「そういうことだから、あとはお好きなように」と早々に通信を切った。ルカは何度か再度メッセージを送ってみたが、彼は応えてくれなかった。
 ミクを抱きしめた体勢のまま、心の中で深々と溜め息をつく。
 彼女に嵌め込まれたチップの存在をマスタから告げられたのは、彼女への想いを自覚してすぐの頃だ。ミク自身は知らないから、外すべき時がきたら外しなさいと言われた。あのチップはある種のフィルタリングプログラムである。つまり、言ってしまえば性的な方面に関しての。
 元々は少女としての純粋性を守るために取り付けられたものらしい。それによってミクはどれだけの時を過ごしても少女たりえた。純粋無垢に、神の傍付きたる天使のごとき存在でいられた。
 けれど……今の彼女はもう、神の一番近くにはいない。
 それを寂しがった神様は自分の手でその枷を外せなくて、彼女を本当の意味では自由にはできなくて、一度はルカに鍵を押し付けた。
 神の予想外だったのは、ルカもルカでそんな純粋性をいとおしがっていたことだ。天使のようで天使でない、穢れなき性質を穢してしまうことへの後ろめたさが、今までチップをそのままにしていた。
「お姉ちゃん、どうしたの、ぼーっとしちゃって」
 傍目にはぼんやりしているだけのルカに、ミクが不満そうな様子で声をかけた。「ご、ごめんなさい。なんでもないわ」慌てて意識をミクに戻した。
 ミクはむすっとむくれて彼女の唇に噛みついた。せっかく一緒にいるのに、二人きりなのに彼女がこちらを見ないのは気に入らない。ただでさえお預けを食らっていて、ようやくいちゃいちゃできたのに。
 ルカの煩悶など気づくはずもないミクは、無邪気にもっととせがむ。どういうわけかルカは急にあわあわしだして、なんだか気もそぞろだった。なんなの、とさらに機嫌を損ねると、彼女の視線が逸らされた。
「ミ、ミク。あのね?」
「ん?」
 まさか今日はここまでとか言いだすんじゃ。気色ばんだのに気づいたか、ルカが違う違うと首を振った。だったらなんなんだろう。
 彼女は、それこそ少女のように頬を赤らめている。「その……したいと思ったことが、ないわけではなくて……」ごにょごにょ呟いているが、言葉の意味は判らなかった。
「……嫌だったら、言ってくれていいのよ?」
「だから何を?」
 「よく判んないからはっきり言ってよ」天性の無邪気さで残酷な要求をする初音ミクだった。
 当然ながらルカがはっきり言えるはずはなく、彼女は無言でベッドのヘッドボードに作りつけられた引出しを開けると、中から一本のケーブルを取り出した。コネクタの形状に見覚えはない。ミクが首をかしげた。
「ちょっと、目を閉じていて」
「……いいけど」
 言われた通りに目をつぶる。うなじにかかった髪がかきあげられて、ケーブルが差し込まれる感触があった。マスタが謎のチップを外したあのスロットだ。チップの奥にはケーブルを差し込むためのコネクタがあったらしい。
「これ、なに?」
「……すぐ判るから」
 瞬間、ダイレクトな衝撃が走った。「ひゃんっ」思わず声が上がる。
「え、ちょっ、これ……っ」
 インタフェースを介したダイレクトリンクとはまったく違う、それよりももっと『直接的』な感覚。知らず知らず、ルカにきつくしがみついた。支えるようにその身を抱き返しながら、ルカは再度ダイブする。
 ミクの最深部にある『それ』に、指先を這わせて唇で触れて舌を押し付ける。そのたびにミクの全身が躍動した。洩れ出る声。時折背中に爪を立てられるが、痛みを感じない。
 モラルプロテクトを外されてアクセス可能になった領域へ、ルカは優しく激しく踏み込む。
 ハードウェアは必要なかった。
 それは邪魔なだけだった。
 人がどう頑張っても踏み込めない領域で、ボーカロイドである彼女と彼女はつながり合う。
 感覚器がすべて異常を訴えているみたいだった。普通じゃない。全部が全部おかしい。
 それなのにアラートはどこにも出ていない。
 ミクも、この状態に対する不快感はどこにもない。それどころか反対だ。
 堪らない。
「な、に……。お姉ちゃぁん……」
 初めて味わう感覚にミクの双眸が潤み、その喉から甘やかな声を出させる。
 ずれていく。
 崩れていく。
 灰色だった世界が様々な色に塗り替えられて、初音ミクの持っていた純粋が崩れた。
 
 
 
 ベッドの中、二人は絡めた指先で睦み合う。
「……へへ」
 ミクが嬉しそうに、百パーセントの笑みを浮かべて。
「…………」
 ルカは少し後ろめたそうに、けれど幸せそうに笑っていた。
 
 
 
 歌い終えたミクが「どう?」と聞いてきたので、マスタは満足げに頷いて見せた。
「すごく良いね。今までより歌い方の幅が広がったかな」
「ほんと?」
「うん。もう少し調整が必要だけど、これならもっと君の歌える曲が増えそうだ」
 ふふんと鼻高々なミクに苦笑しつつ、それもまあ仕方がないと肩をすくめる。
 それから何度か歌い直してオーケィを出し、雑談しながらの作業となった。
「ねえマスター」
「なんだい?」
「わたしのこと好き?」
「ルカの気持ちとは違う意味で、好きだよ」
「知ってる」
 マスタが自分を好きなことを知っているのか、それがルカとは違う種類のものだと知っているのか。おそらく両方の意味で、ミクが頷いた。
「でね、わたしもマスターのこと好きなんだよ」
「知ってるよ」
 過去、裏表の恋人同士だった二人は、ジョークのように言い合った。
 ドアが開いて、ルカが顔を見せる。「お姉ちゃん!」ミクが例によって一足飛びに抱きついた。
「レコーディングはもう終わったの?」
「うん! だから今日はずっと一緒にいられるよ」
「そう」
 むぎゅっと抱きついているミクを、子猫を抱く優しさで包みながら、ルカはほのかに笑う。
 なんのかんの言っても、初音ミクは初音ミクだ。抱きついてくる腕の強さも、愛しい気持ちの表現方法も、今までとなんら変わらない。
 と思っていたら、悪戯に彼女が唇を耳元に寄せてきた。
「で、夜になったら一緒に寝ようね?」
 その、言葉だけなら今までと変わらない誘い文句に、色めいたものを嗅ぎ取ってしまうのは単なる勘ぐりだろうか。
 思わず目を逸らしたらマスタと目が合った。
 「ああ……コホン」芝居がかった仕草で咳払いをするマスタだった。なんとなく申し訳なさが立ってしまい、ルカの首から上が紅潮する。
 というか、考えてみればマスタの目の前で抱き合っているこの状況からして失礼な話である。
 今さらながらミクを手放し、その手を取る。
「じゃ、じゃあ、行きましょうか」
「ん。じゃあねマスター、お疲れさまー」
「お疲れさま」
 苦笑と共に応じたマスタは、その表情を変えないままデスクに向き合った。
「あれはまあ……そういうことなんだろうなぁ」
 ほんのり寂しさを味わうマスタだった。
「けど、結果オーライか」
 データを見ても、以前とはミクの安定度が桁違いだ。この状態なら彼女の改良も見込めそうである。
 時間はかかるだろうが、一つの手として考えておくに越したことはない。
 マスタは文書作成ツールを立ち上げると、その一行目に手早く文章を打ち込んだ。
 
 ――――『初音ミクAppendの可能性について』。



HOME