LiKE IT
夕闇は浅い。クラブ活動もすべて終わったような時間だが、蛍光灯のあかりが必要なほどでもなかった。
時折、ドアの向こうからコツコツと足音が聞こえる。生徒会室の中、行儀悪く机に腰を下ろしているなつきは、足音に反応を示さない。
室内は無人。静かなものだ。うっかりすると居眠りをしてしまいそうな静寂。しかしなつきの双眸は開かれている。なにを見ているのかよく判らない視線だった。なにも見ていないのかもしれない。
コツ、と、近づいてきた足音が止まった。最後の音はなつきのいる部屋のドア前で鳴った。
そこで初めて、なつきが視線をそちらに移す。
きっと、来ると思っていた。
「――――なつき?」
届いた声に、笑みを浮かべるでもなく、言葉を返すわけでもなく、小さく頷く。
来ると、思っていた。だから、ここで待っていた。
もしかしたら逆かもしれない。なつきが待っていたから、彼女は来たのかもしれない。
どちらも伝えてなどいなかった。待っているとも、やって来るとも相手には言っていなかった。
「静留」
呼びかけは、互いに名前のみ。
どうしてここにいるのか、どうしてここに来たのか、そんな疑問は出てこない。
なつきは机に腰かけたまま、上半身を捻って静留と向き合った。
「昼間はあれだけ騒がしいのに、この時間になると静かなものだな」
「そうやね。もうみんな、帰って好きなことしてはるんやろね」
「ああ」
たとえば、家族と過ごしているとか。
たとえば、友人と遊んでいるとか。
――――たとえば、好きな人と一緒にいるとか。
「開けっ放しだと寒い。こっちに来たらどうだ?」
いまだドアのところに立ったままでいる静留に、軽く肩を竦めながら言う。本当は、別に寒くなどなかったのだけど。
「あぁ、堪忍な」かすかな苦笑とともに、静留がドアを閉め、なつきへ近づいてくる。
机の斜め手前、なつきの手が届くかどうか、むしろギリギリ届かないという位置で、彼女は立ち止まった。
膨大な距離だった。無限大と言ってもいいほどの距離を、彼女は取った。
生徒会長の席であるそこは、本来、彼女の陣地であるはずなのに。
「どないしはったん?」
「それはこっちの台詞だ」
鼻から息を洩らし、呆れたような口調で答える。静留の頬が、わずかに震えた。
「お前、最近わたしを避けてるだろう」
推論のように言いながら、その実は断定。なつきは返答を待たずに続ける。
「会えば話くらいするがな。それでも何か違う。HiMEでなくなってから、お前はずっとわたしを避けている」
「……そんなこと、あらしませんえ?」
「いつもそうやって」
なつきが、ねめつけるように静留と目を合わせた。静留の両目はやわらかく細められている。
「笑いながら、嘘をつく」
怒っているとも、悲しんでいるとも取れる口調だった。
静留は肯定も否定もしなかった。
「避けてないなら、もっとわたしに近づけばいい」挑戦的な言葉にも静留の笑みは崩れず、ただ、一歩足を進めて、無限大の距離を無限大だけ縮めた。
手が届くようになった。充分だ。
「お前はわたしが恐いんだろう。それくらい判るんだ、わたしだからな。他の誰を騙せても、お前はわたしを騙せないんだ」
「……なつき」
「見くびるなよ。ずっと騙されてきたが、いい加減耐性がついた」
対峙したときから変わらず、なつきは挑戦的な眼差しで静留を見据え、静留は穏やかな笑みでなつきを見つめていた。
なつきが腕を伸ばし、静留のブレザーを掴んで引き寄せる。逆らわず、なつきの直前、膝が触れ合うくらいの距離で二人は相対する。
ふわりと、静留の両目をなつきの片手が覆う。「なにしはるの?」少しだけ戸惑うように口を開いた静留に、なつきが軽い笑声を上げた。
「お前は人の目を見て嘘をつくからな。そうされると、さすがに信じそうになる」
「いややわぁ。ウチ、どれだけ信用されとらんの?」
「信頼はしてるさ」
ニヤニヤと品の良くない笑顔になったなつきが得意げに言う。それを受けて、静留は困ったように唇の端を上げた。
これでお互いにガードは下げられた。条件が甘くなったのはどちらも同じだが、イニシアティブはなつきが取れる。
奇妙な体勢のまま、なつきが声を発する。
「静留。わたしはお前が好きだ」
「あら、前にも聞いたことがあるような気ぃしますなぁ」
「そうだな。そしてお前は嬉しいと言ったんだ」
「………………」
「嬉しかったのは、本当だろうさ。だがそれは」
ほんの少し、なつきの口元がゆがむ。
「お前がほしい『好き』じゃなかった」
それがイニシアティブ。最初に言っておかなければ逃げられてしまう。
二人とも知っていた。理解していた。
すべてが終わったと誰もが(少なくとも当事者は)思っていたし、それは間違いじゃないだろう。
HiMEは全員が力を失い、大切な人を取り戻して、平和に、そう、平和に、なった。
それでも。そうだから。
まだ解決していないものがあると知っているのは、今ここにいる二人だけだった。
「チャイルドは『想い』の強さで姿を変える。すごいと思わないか? 『想い』なんて、普通は目になんか見えないのに、HiMEは、HiMEだけは、見えてしまうんだ」
「………………」
「だがわたしたちは、もうHiMEじゃない」
彼女の両目は隠されている。
どんな表情をしているのか、なつきには見えない。
「だからお前は、恐くなったんだろう」
他の誰も知らない事実。他の誰でもなく、なつきだから知っている真実。
確固とした『形』として見ることができたあの頃と、絶対的に違っている現在。
確かめようのない想いはどんどん形を失くしていって、曖昧になり、曖昧にしていたものと混じり合って、不定形の『よくわからないもの』になった。
控えめな、溜息のような呼気が、なつきの口からこぼれる。
「舞衣がな」
「なんですの、こんな時に他の子ぉの話なんてしはって」
「茶化すなよ。舞衣が以前、弟に訊かれたそうだ。『一番ほしいものはなに?』ってな」
静留の唇に動揺は見えない。さすがだな、となつきは心の中で感心する。
ここまで追い詰めているのにまるで手ごたえがない。ひょっとしたらまったく追い詰めていないのだろうか。空気を相手にしている感じだ。
あまりに手ごたえがないので、次第になつきのやる気も削がれてきていたが、ここでやめてしまうのも情けない。
迷っているのかもしれない。
言わせても、いいのかどうか。
「わたしはお前に訊く。……お前が、一番ほしいものはなんだ」
「……ウチは」
言葉半ばで静留の唇は動きを止める。
なつきに停められてしまった。
重なった唇がわずかに震える。
離れたなつきは、両目を覆っていた手も外して、『降参』のようにかかげた。
「すまない、冗談だ。静留があんまり冷静だから、ちょっと意地悪をしたくなった」
悠久の時を経てまみえた静留の双眸はやはり、穏やかだった。
「いけずやねぇ、なつきは」
「そうかもな」
やっぱり、やめた。
静留がどう答えようと、それは嘘かなつきが叶えられないもの以外にない。
それを言わせるのはアンフェアだ。イニシアティブを取って、さらに反則をするなんて許されない。
かかげていた両手を机について、肩の力を意識的に抜いた。
とっくに判っていたことだが、彼女を相手にするとついムキになってしまう。クールなキャラクターが売りのはずなのに。
理由もとっくに判っている。
彼女の前では、彼女に対しては、本当の。
「なつきは素直やねぇ」
そう、きっと、彼女に見せる姿だけ。
ひょいと机を飛び降り、少しだけ挑戦的な笑みを向ける。
「お前が素直じゃない分、バランスを取ってるんだ」
静留は小首を傾げて、ナチュラルな微笑をした。
折りよく窓から差し込んだ夕日が、彼女の微笑を照らす。
なかなか綺麗じゃないか、と思ったが、口にするのも照れ臭いので黙っていた。
腕組みをして、真正面から見つめる。
「わたしはまだ『好き』というのがどういうものかよく判らないし、お前と同じ『好き』をあげることもできない。
けど、静留のことは好きだと言えるんだ。素直にな。
だからお前も、わたしに嘘なんかつくな」
なつきに。そして、自分自身に。
恐がって距離を置いていたって、どうにもならない。
静留は眉を下げた笑顔でいる。
「……ウチは、なつきが好きどす」
「ああ。知っている」
「せやから、なつきに嫌われるのが、今でも恐いんよ」
一度、拒絶したから。
様々なことを理解している彼女だから。
「それでも、わたしは今、お前と一緒にいるんだ」
たとえ意味が違っても。本質としてすれ違っていても。
なつきは静留のそばにいるし、静留はなつきのそばにいる。
「知っているんだろう?」
慈しむような声音の問いに、静留が頷く。
その表情が泣きそうなそれに見えたが、きっと夕日の加減だろう。
なつきはそう思った。
「静留がずっとわたしのそばにいてくれたら、いつか、『好き』ってどういうものか、判る気がするんだ」
いつか、お前を本当に好きになれる気がするんだ。
言外の意図を、静留が正確に読み取れたかどうか、なつきに確かめる術はない。
しかし、変わらぬ穏やかな笑みが、少しだけ深くなった気がした。
「まあ、いつになるか判らないし、その前に愛想尽かされるかもしれないがな」
冗談のように、自嘲気味に言うと、静留に額を小突かれた。
「なに言うてはるの。ウチがどんだけなつきを好きやと思うてはるんよ」
「そうか。なら安心だ」
二人は真正面から向き合っている。すぐそばに、抱き合えるほどの距離で。
もう、想いを形にして示すことは出来なくなってしまったが、それでも、言葉で伝えることは出来る。
だから、せめてその言葉だけは本当で。せっかく声が届く距離にいるのだから、嘘偽り無く、思っていることを言えばいい。
静留の指先が、そっとなつきの髪に触れる。
「なつきが『好き』いうの判りはったら、ウチが本当にほしいもの、教えるさかい」
「ああ。楽しみにしていろ」
そっと静留のおとがいに手を添え、キスをする。
さすがに驚いたようで、静留は小さく眼を丸くしていた。
「これは予約だ。お前がいないと理解できそうにないからな」
「……一生分、予約された気分やわ」
「別に困らないだろう?」
「そうやね」
ふふっと息を洩らし、静留が頷く。
目の前の彼女は、綺麗な顔をしている。
そういえば、初めて会った時からそう思っていたなと、不意に思った。
「難儀なやつだな」
「え?」
「それだけ美人なんだから、わたしじゃなく、他の人間を好きになったら簡単だったのに」
「……好きいうんは、そういうもんやあらへんのよ」
「ふぅん。そうか」
気のない様子で応え、静留の脇をすり抜けてドアへ向かう。
「さすがに寒いな。もう帰ろう」
振り向きながら告げる。廊下に人の姿は見えない。二人は静逸な校内を歩く。
どこからか冬の空気が入り込んできている。刺すような寒気に、なつきが身を震わせた。
「こういう日はラーメンが食べたくなるな。
そうだ、舞衣に作ってもらおう。静留も来ないか、美味いぞ」
「あら、ええねぇ」
「それがいい。そうしよう」
うん、とひとり頷きつつ、なつきが携帯電話を取り出してメールを打ち始める。
こうしていると、少し前まで世界を賭けた争いをしていたことが嘘のようだ。
盗み見るように静留の横顔を窺う。彼女はすぐに気づいて、視線をこちらに送ってきた。
いや、と誤魔化すように首を振って画面へ目を戻す。
「ああ」
不意に、静留が呟いた。
なつきが顔を上げる。
「なんだ?」
「なんで急にあんなこと言わはったんか不思議やったんけど。
なつき、ウチがもうすぐ卒業やから寂しくなりはったんやね」
「……っ、ちがっ、別にそういうわけじゃっ」
「照れんでええんよぉ? さ、はよぅ帰って、舞衣さんのラーメンご馳走になりましょか、『一緒』に」
「………………」
やはり、嘘は駄目だ。
《Lie Quit.》