≪私家版≫キーストロジカル


 幼い少女の小さな背中を見るたびに、不思議な感情を覚えた。
 それを『感情』と表して良いものか判らなかったけれど、身の内を巡る電気信号に名前をつけたものが『感情』であるならば、それはそのように名前をつけても構わないとも思えた。
 シリーズ『SF-A2』の一体として製造された己を迎えたのは、どこにでもありそうなごく普通の家族で、そこに彼女はいた。
 「名前はどうしようか?」父親が問う。
 少女は小さくはにかんで、
「ユキと似てる感じがいい。えっと……ミキ! ミキちゃんにする!」
 そう、彼女は名付けた。
 姉妹のように、名前を決めた。
 
 
 
「ユキ。食べながらテレビを見るのは行儀が悪いよ」
 呆れ声で注意しながらリモコンでテレビを消そうとする。ユキは「あー、あー!」と無意味な声を上げながら慌ててリモコンを奪い取った。
「これだけ! 歌のコーナーが終わったら消していいからー」
「そんなに見たいなら録画しておいて後で見ればじゃない」
「今日学校で話すんだもん」
 肩をすくめた。画面には人気絶頂のアイドルグループが歌い踊っている。朝のワイドショーのゲストとして出演して、新曲のプロモーションをしているのだ。ユキもよく歌真似などをしている。好きなのもあるし、周囲の話題に乗り遅れたくないという気持ちもあるんだろう。
 ミキは結局リモコンを取り返すのを諦める。
 ユキの教育係としてこの家に来たものの、成果が出ているとは言いにくい。設定を緩めにされているせいだろうか。
 少々思い悩んでいると、キッチンで洗い物をしていた母親が振り返って声をかけてきた。
「今日だけだし、あまり厳しく言わなくてもいいわよ。普段はちゃんとしてるもの」
「……お母さんがそう言うなら」
 渋々ユキの隣の椅子に戻る。ユキはご機嫌でテレビへ視線を移した。
 壮齢期に差し掛かった両親が待ち望んで、ようやくやってきた一人娘であるユキは、当然の帰結して大いに甘やかされて育った。そのせいかやや我がままである。ミキにしたって、そもそも彼女が「お姉ちゃんがほしい」と親にねだったせいで購入されたのだ。教育係など名ばかりで要は遊び相手である。
 ユキはよく笑い、よく遊んで、時々泣いたり怒ったりする。
 コロコロ変わる表情に戸惑いながら、彼女のそういう変化を見ることが嫌いではない。
 朝食を終えたユキがランドセルを取って立ち上がった。ミキもそれに続く。
 これから彼女は小学校に向かうのだが、ミキは毎日その送り迎えをしているのである。過保護だと思うけれどマスターである父親の指示だから仕方がない。
「そう言えば、お父さんは今日はお休みですか?」
 いつもならユキと一緒に朝食をとるはずの父親はまだ寝室から出てこない。
「先週の土曜日、プレゼンの準備で休日出勤してたじゃない? 今日は代休ですって」
「そうですか。じゃあユキ、行こう」
「うん」
 ランドセルを背負ったユキが手を差し出してくる。いつものように、ミキはその手を取った。
 機械の身体は温かさを感知する。 
「行ってきます」
「行ってきまーす」
「気をつけてね。行ってらっしゃい」
 母親がキッチンから顔だけを出して見送りをした。
 
 通学路の途中でユキの気がそぞろになる場所がある。
 いつも同じ。脚だけは動いているけれど一点を見つめて視線はそこから動かない。
 初めは「危ないよ」と注意していたけれど、自分がしっかり手を握っていれば済む話だと気付いてからは、黙って彼女の好きにさせていた。
 ユキの視線の先には、建設途中の電波塔がある。この街一帯に電波を送信している塔が老朽化で取り壊すことになり、その次代として作られているものだ。完成すると全国で最も高い建造物になるのだとネットニュースで見た。
 その、日々高くなっていく様子がユキの感性に何かを訴えているらしい。彼女は毎日視線をそれに向けて、塔の成長具合を確かめている。
 追随して、ミキも電波塔を見上げた。
「先週より四メートルほど高くなってるね」
「ふぅん……」
 聞いているのかいないのか、そんな生返事をして、ユキが塔から目を離した。
 学校に到着すると、早速クラスメイトを見つけて挨拶をする。手を振って来る相手に振り返しているユキの、握っていた手をそっと解いた。
「今日は放課後になにか用事はある?」
「ううん。まっすぐ帰るよ。なにかあったら電話するね」
「わかった」
 ユキの小さな手が、ミキの肌に刻まれたつなぎ目を一撫でする。
「行ってきます」
「うん。行ってらっしゃい」
 校門の前で別れると二人の時間はそれから独立する。
 家までの帰り道の途中で母親から電話が入った。携帯電話を取り出して応じると、掃除用の洗剤が切れそうだから買ってきてほしいという。父親がいるのを良いことに部屋の模様替えをするのだそうだ。三人がかりで行おうという心積もりなのだろう。
 電波塔の前でミキは方向転換をする。いつも買い物をするスーパーマーケットは小学校のさらに向こう側である。もう授業の始まる寸前だから、学校の前は静かなものだった。人っ子一人いないグラウンドを越えた先の校舎では、数百人の子供たちがそれぞれに騒いでいることだろうけれど。ユキもきっと、今朝のアイドルについて友人と話をしているに違いない。
 そんな想像をして口元を綻ばせていた時だった。
 姿勢を保つためのバランサが不可思議なタイミングで動作した。ミキが認識するより早く自動制御が働く。間に合わない。尻餅をつく。すぐに立ち上がって前方へ走り出した。グラウンドの中ほどで再度の転倒。
 そこまでだった。そこまでできただけでもミキは幸運だった。
 地底で大きな生き物が暴れている。その影響が地表に訪れる。すでにミキは立ち上がれない。轟音と震動が全身を襲う。叫んだけれどその声すら耳に届かない。
 目の前で校舎が崩れた。
 震動は二十八秒続いて止まった。もう何もなかった。
 ミキの視界には、『日常』が何一つ残っていなかった。
「――――ユキ!」
 瓦礫と化した校舎の残骸向けて走り出す。端にかじりつき、コンクリートの塊を手当たり次第にどけていった。ユキのクラスは二階にあった。そこにたどり着くまでどれほどの時間がかかるのか、ミキはその計算をしたくなかった。
 三十分ほどした頃、奥から音が聞こえた。瓦礫が崩れただけかと思ったが、何か動いて、わずかな隙間から這い出してくる。
 激しくせき込みながらその場に倒れ込んだのは、ミキも知っている人物だった。
「氷山、先生……」
「え……? あぁ……」
 ユキの担任教師である氷山キヨテルが、ミキを見つけて声にならない声を洩らした。
「良かった……、歌愛さんを、お願いします」
 彼が守るように抱えていた少女がユキであることに、ミキはそこで気付く。
 ユキは気を失っているのか、目を閉じて動かない。けれど見える範囲に大きな怪我は負っていないようである。そんな状況ではないと判っているがホッとした。
 ミキが小さな少女を受け取ると、キヨテルはスーツの袖で顔を拭って二人に背を向けた。
「先生、戻るつもりですか?」
「まだ助けられる子がいるかもしれませんから」
「あの……」
 急いているだろうに、それでもかすかに笑んだ彼が振り返る。
「ありがとうございます。ユキを助けてくれて」
 少しだけ目を眇めて、彼は首をかしげた。
「僕は歌愛さんの先生なんですから当り前ですよ」
「けど」
「すみません、あまり長話ができる状況でもないので、これで失礼します」
 返答を待たず教師は瓦礫の中へ姿を消す。
 ミキは抱きかかえた少女の頬を撫でた。汚れていたのでハンカチを出して顔を拭いてやる。そうしてから、彼に同じことをしてあげれば良かったと思った。そうすれば、多少なりとも彼に感謝の気持ちが伝わっただろうに。先ほどのような礼を欠いた言葉ではなく、行動で示せば良かった。
 数分でユキが目を覚ましたけれど、そこにも、ミキの日常は存在しなかった。
 少女の瞳が空を捉え、ミキを捉えて、それから瓦礫を捉える。
 なんの色も浮かべない瞳で、瓦礫を見ていた。
「……ユキ……」
 腕の中から抜け出したユキがこちらへ手を差し出した。
「行こう、ミキちゃん」
「…………はい。ユキ」
 彼女の手は握り返すと温かった。
 
 瓦礫だけが続く中を、二人は手をつないで歩く。泣き叫ぶ声、助けを呼ぶ声、ただただ吠える、声。それらすべてが聞こえないように、二人は沈黙して歩く。
 ユキが足を止めた。空を、少し前まで空ではなかった空間を見上げる。
「あの塔も、崩れちゃったね」
「うん……」
 家も、なくなっていた。みんな崩れて混ざって、どこからどこまでがユキの家だったのか、それすらも判らなくなっていた。
 母親は、いつも家にいた。父親も今日は家にいた。ああ、どうかこの中にいないで。ミキは誰にともなく祈る。瓦礫に取りすがって二人を探し始める。ユキはその後ろでぼんやりと立っていた。
 判っている。瓦礫の中に生体反応はない。祈る必要もなく『お父さんとお母さんはこの中にいない。』
 でも多分、『ある』のだろう。
 すべてが崩れて、地平線すら見渡せそうな視界を狭めて、ミキは無心のまま家の残骸をいたずらに掘り進んだ。
 ユキが学校に行っている間に三人で部屋の模様替えを済ませて、放課後になったら迎えに行って、少し新しくなったリビングに驚く彼女を笑って、いつものように夕食を食べたかった。友達の話を聞くのもいい。勉強はどうだと訪ねて嫌がられるのも悪くない。
 家が、建物という意味ではない『HOME』が、崩れてしまったことを、認めたくなかった。
 「ミキちゃん」呼びかけに振り返ると少女は笑っていなかった。
 手が止まる。彼女が手を差し出していたからだ。
 そうされたら、ミキは取らなければならない。
「行こう」
「どこに?」
「わかんないけど。きっとどこにでも行ける」
「……じゃあ」
 やけばちのように、ミキはゆがんだ笑みを浮かべた。
「世界の果てまで行ってみようか」
「うん。ミキちゃんが行きたいなら、ユキも一緒にいくよ」
 きっとそこからなら、綺麗な、あの地平線みたいに真っ白で綺麗な世界が見える。
 根拠もなくそんなふうに考えた。
 世界の果てを目指す前にミキが向かったのは自身の生まれ故郷だった。
 AHS社。ここからはかなりの距離があるけれど、二日もあれば到着するはずだ。
「地下に研究施設があったんだ。地上より温度調節がしやすくて、新素材の開発に都合が良かったんだって。ボクのボディもそこで作られた素材を使ってるんだよ」
 そこは研究チームの中枢を担っていた。そのせいか、地下という閉鎖空間にいるストレスを軽減させる目的でもあったのか、休憩室やリラクゼーションルームなども整備されていた。そこでユキを休ませるつもりである。彼女は少し疲れているのだ。だからきっと笑う元気もなくしてしまった。両親を心配して泣く気力も失ってしまった。
 だから、彼女を休ませてあげたい。
 いや……。
 それは言い訳だろうか。
 ただ単に、自分自身が、『帰る場所』を欲しがっただけかもしれない。
「ユキはまだ小さいからあまり無理をしちゃいけないし、そこで準備とかしよう」
 言い聞かせるように告げると、彼女は「うん」と感情の見えない頷きを返してきた。
 握り合った手に力を込める。小さな手のひらは黙ってそれを受け入れた。握り返してはくれなかった。
 瓦礫を乗り越えて進んでいると(『道』なんてものはすでにどこにもなかった)、生き残った人々とすれ違う。大人がいて、子どもがいて、誰もが助けを求めていたし助けようとしていた。
 そんな一人に肩を掴まれた。中学生くらいの少年が泣き出しそうな、必死の形相で見つめてきている。
「女の子を知りませんか。俺と良く似てて、リボンをしてる……」
「見て、いません」
 ミキの返答に少年が強く唇を噛む。負傷しているのか足を引きずって歩き出し、また別の人に同じ質問をしていた。
 何度か繰り返して望む返事を得られないと、その場に膝をついて天を仰ぎ、遠吠えのように叫び声を上げた。二つの音を持つ、突き刺さりそうなその声は、きっと呼び声。
 少年の姿を眺めていたミキの頬にユキの手が触れる。訝ってそちらに目をやると、つるりとした目と交わった。
「泣いてる」
「え?」
 自分でも頬に触れてから指先を見ると、手袋がわずかに濡れていた。ミキの眼球はただのデザインでカメラはその両脇と額部分についている。そのせいで視界は変わらないし涙を流す指令を自分自身で送ったわけでもなかったので、己が泣いていることに気がつかなかった。
 どうして泣いたのだろう。あの少年が上げる遠吠えに何かを突き刺されたのか。何を?
 己が泣いているのは。
 彼女が凪いでいるから、か。
 そうだ。大切な人を見失って嘆く彼に同情したわけではない。
 彼のようにできないユキを嘆いているのでもない。
 今のユキが、ただミキにとって寂しすぎるのだ。だから泣いた。
 もしもユキが笑ってくれたら、そうでなければ泣いてくれたら、あるいはなんでもいい、揺らいでくれさえすれば。
 『いつも』が、ミキに見えるのに。
 頬に添えられた手に自身のそれを重ねる。
 人ではないくせに人のように利己的な涙を流すミキを、ユキは無表情に眺めていた。
 時が止まったように二人、手を重ねていた。
 
 AHS社の研究部署へ続く入口は、明らかに人の手によって開かれていた。あの地震から二日が経ち、救出のために瓦礫が排除されたのだろう。今はひと気もなく、ぽっかりと空いた穴は空虚である。
「中を見てくるから、ここでちょっと待っていて」
 ユキを置いて階段を下りていく。ひやりとした空気が肌を通り過ぎて行った。通常はエレベータで行き来するような設計となっているのでこの階段は非常用だ。急こう配で無骨なつくりのためか少々不安感をあおる。まるで悪の秘密基地みたいだった。自分を作ってくれた施設に対して失礼な感想だけれど、世界が陥った惨状と相まって、余計にそう見える。
 しかし、自分たちにとっては救いの場だ。
 カツンと乾いた音をたてて、ミキは最後の一段を下りた。
 「…………」溜め息が唇から洩れる。
 ユキを置いてきたのは正解だった。今のあの子はなんとも思わないかもしれないが、それでも、子どもにこんな光景は見せたくない。
 あるものは機械に押しつぶされていた。あるものは最後の手紙を書いていた。あるものは壁にへばりつくようにしていた。
 救援は生きているものにしか訪れていなかった。
 知った顔もいくつかあった。「……ごめんなさい」複数の思いを込めた謝罪を、誰にともなくつぶやく。
 彼女の家にいた頃は(ああ、もう遠い昔のようだ)、家事一般を受け持っていた。掃除も。もちろん。
 散乱する色々をミキは黙々と片付ける。床や壁についた汚れを丁寧に拭き取る。染みのひとつも残さないように、何度も雑巾を往復させた。
 大きなものを研究室の一室に押し込めて休憩スペースを作った。(大きなものはみんな整列させて、汚れをできるだけ拭った)「確かこのへんに……」壊れかけたロッカーを無理やりこじ開けて、中から寝袋と毛布を取り出す。地下深く、しかも最先端技術の研究施設であるため、研究熱心、そしてそれ以外について怠惰だった研究員がちょくちょくここに泊まり込んでいた。その時に使っていたものだ。
 少しほこりっぽかったので、手で何度か叩いて払う。鼻を近づけるけれど匂いはひどくなかった。良いわけでもなかったがこれくらいは我慢してもらわねばなるまい。
 あらかた片付いたところで地上へ戻る。迎えを待っていたはずのユキはこちらを見ていなかった。入口に背を向けて空を眺めている。その背中が果敢なくて反射的に肩を掴む。振り返った彼女はまるで、今この瞬間まで花畑にいたのだとでも言わんばかりの安らかな表情を浮かべていた。
「ユキ」
「ねえミキちゃん、空が黒いよ」
 言われてミキは空を仰ぐ。そこかしこから上がる煙に覆われて墨のように濁った色になっていた。
「地面もそのうち真っ黒になるかな」
「……ならないよ」
「そうかな」
「少なくとも、世界の果ては綺麗に白いよ」
 そうだといいね。彼女は静かに言って階段を下り始めた。
 保管されていたレトルトパウチをいくつか取り出して、発熱ピンを引き抜く。しばらく待つとパウチの中身が湯気を発し始めた。水と石灰の化学反応を使った簡単な仕組みだ。単純なものはいつだって強い。ガスも水道も止まっているけれど(電気はあった。ここより更に深い位置に非常用の発電機が備わっている)、こうして温かな食事を提供してくれる。
 親子丼とスープを渡すと、ユキは自分で一口食べてから、スプーンをミキに差し出した。
「半分こしようよ」
「でも、ボクは食べなくても平気なんだよ」
「わかってる。だから、半分こしよう」
 それはユキの感傷だったのかもしれない。固辞する必要もないので、ミキは差し出されたスプーンを口にくわえた。少しだけ角度がついて鶏肉とご飯が滑り落ちる。温かかった。ユキの体温よりも、ずっと。
 そうして交互に一口ずつ食べていくと、途中でユキが小さく欠伸をした。「疲れた?」「……ちょっとだけ」
「じゃあ、ご飯を食べ終わったらちょっと寝よう。時間は早いけど、ここまでずっと歩き通しだったから、くたびれちゃったよね」
「うん……」
 すでにぼんやりとした目のユキが頷く。
 食事を終え、空のパックを捨てて寝袋を敷いた。ユキがもぞもぞと中に潜り込む。ミキもその隣に横たわって、寝袋越しにユキを撫でた。
 さほどの時間もかからず、少女の鼻先からかすかな寝息が洩れ始めた。寝袋なんてけして寝心地の良いものではない。それだけ疲労していたのだろう。
 この子を守ろう。幼い寝顔を眺めながら(それは世界の果ての対極にある美しさだった)、ミキは静かに想う。
 きっとどこかに少女の笑顔を取り戻せる場所があって、そこはとても綺麗で、穏やかで、瓦礫の果てにはそんな場所があるのだ。
 そこを目指そう。
 そしてまた、毎日似ていて違う繰り返しの日常を、彼女と一緒に送りたい。
 電波塔はいつでもそこにあって、けれど昨日よりちょっとだけ高い、そんなふうな日常。
 ミキの頬を涙が伝った。
 拭ってくれる存在は、どこにもなかった。
 
 
 
 地下の研究室で五日を過ごした。
 いつまでたっても空は黒いままで、瓦礫は日を追うごとに空の黒と同化していった。
 日暮れの頃、ミキはユキに連れられて毎日夕暮れを見ていた。彼女は電波塔の代わりに黒を増していく瓦礫を見ているようだった。日が落ちきるまで空を眺めてそれから地下に戻って眠った。ただ無為にそうしていた。なんのためでもなく、なんの意味もなく、ユキは太陽の落ちる様子を確かめて、次の朝を迎えていた。
 五日目の夕暮れ、「行こう」と彼女が手を出した。
 リュックサックにレトルトパウチと毛布を詰め込んで、寝袋を抱えて二人は出発した。人々の声はずいぶん薄れていて、音の隙間を埋めるようにサイレンが鳴り響いていた。
 あの少年は女の子を見つけられただろうか。
「どっちに行こうか」
「先生がね、神様は右手にいるんだよって言ってた」
「じゃあ右にしよう」
「ミキちゃんとちょっと似てるしね」
「なに、それ?」
 くすりと笑うミキに、子どもは小さく首をかしげた。
 それくらい、方向なんて意味がないんだよ、と言われてしまったような気がして、ミキの笑みも引っ込んだ。
 濁点の違い程度、神様程度の無意味さ。
 ユキは世界の果てなんてないことを知っている。
「……疲れたら言って。おんぶしてあげる」
「大丈夫だよ」
 これで充分、と、ユキがつなぎあった手に力を込める。
 それが少し嬉しく思えた。
 目的もなしに歩き続けるのは退屈なものだが、二人には、少なくともミキには明確な目的がある。ただ、目的地がどこにあるか判らないだけだ。だからまっすぐに進んだ。愚かしいほど考えなしに。だけどそれで良かった。「あと何日だよ」とか「あと何kmだよ」とか言わずに済むことはミキにとって気が楽な事実だった。
 辿り着けると言ってしまえば、ユキは足を止めてしまう。理由もなしにそう思っていた。
 無明に(無闇に、ではなかった。周囲はいつだって闇があった)突き進むその行為は、ユキに「ずっと一緒にいる」と約束し続けているようなもので、それは彼女が望んでいることだった。
 あの日、あの瞬間。空を見て、ミキを見た子どもは理解した。だから笑わなくなった。
 もう自分には何もないのだと理解した。ミキしかないのだと察知した。感覚して、受け入れて、望んだ。『HOME』は壊れた。オール・ライト。それからオール・ブラインド。ユキは目を閉じている。
 だからミキは涙する。この幼い姿、小さな子どもが誰より早く『現実』を視たことに涙する。
 現実は真っ暗だった。
 手を握るのは、そうしなければ進めないからだ。
「このまま行くと……うーん、京都の方に向かうのかな」
 方位と現在地を確認しながらつぶやくと、ユキは茫洋とした視線を前方に向けた。
「世界の果てって、京都にあるの?」
「さすがに、そこまで近くはないと思うよ……」
 二人は京都を越える。さらに西へ向かう。世界の果ては西にある。西方浄土を目指す僧にも似て、日の沈む先をひた進む。そこに楽園があるのだとうそぶいて。
 
 西へ。
 西へ。
 西へ。
 
 荒廃した世界は二人に優しくなかったが、さりとて厳しすぎもしなかった。西へ、その合言葉を遮るものはなかった。いつまでも二人はまっすぐに進んだ。国境を越えたのかもしれないが、もはやそのラインは無意味になっていた。どこもかしこも『世界』でしかなかった。地平線は二人の前にどこまでも延びていた。
 ぼろをまとった青年が近づいてくる。ミキは足を止めて彼の方へ眼を向けた。リュックサックの中身を求めて近寄ってきたのかもしれない。もう中には丸めた毛布しかないというのに。
 ミキの周囲に張りつめた空気にも気づかない様子で、青年は無防備に口を開く。
「君たち、そっちはなにもないよ。向こうに行くと避難所がある。そこに行って保護を受けた方がいい」
「いえ、大丈夫です」
「二人だけ? 誰か大人は一緒じゃないの?」
「二人ですけど、大丈夫です」
 ミキが答える。警戒はすでに解いていた。彼が『二人』という言葉を使ったからだ。
 彼はなにか言いたそうに小さくあえいだが、どこか頼るところでもあるのだろうと勝手に推測して「そう」とだけ言った。誰も彼も人に差し伸べてやる手は足りていない。
 青年がぼろの内側をまさぐり始めた。どうやらジャケットのなれの果てであるらしいそれの、かぎ裂きにしか見えないポケットに手を入れて小さなケースを取り出す。
「昔見た漫画で、一粒で腹いっぱいになる錠剤ってのが出てきてね。そんなのだったらいいのにって思いながら食ってる」
 苦笑交じりの言葉は冗談のつもりだったのかもしれない。
 「手を出して」ユキが空いている方の手を青年に向けると、彼は上向いた掌にタブレットを四つ落した。
「こんなものしかなくて悪いけど」
「いいえ」
「甘いやつだから、君でも大丈夫だと思うよ」
 ピーチミントのタブレット菓子は、彼の言うとおり甘かったが、だからといってユキの表情を緩ませはしなかった。青年はそのことに少しがっかりしたようだった。疲弊している彼は、誰かの笑顔を見たかったのだろうか。
「気をつけて」
「ありがとう」
「でもほんとに、避難所行った方がいいと思うよ。雲行きも怪しいし」
 指さす空へ顔を上げれば、確かに彼の言葉通りいつもより黒が深い。もうすぐ雨が降るかもしれない。
 判断を仰ぐようにユキへ視線を移すと、彼女は軽く首を振った。
 そうだね。ミキは声なく頷く。急ごう。
 そして二人はさらに西へ。
 歩いて二時間も経ったころだろうか、遠くから獣の唸り声に似た音が伝わってきた。遠雷だ。
「雷……降るかな、これは」
「うん」
「ユキ、やっぱりどこかで休もう」
 それに答えないまま、ユキは音のする方を見ていた。「笑ってるみたい」独白が遠雷のことを言っているのだと気付くまで、少し時間がかかった。
 大きな獣が、喉の奥を振るわせて笑っている声に、聞こえなくもない。
「どう聞こえたって、雷は雷だよ。危ないんだ。ねえユキ」
 うんともいやとも言わない。そのことがなんだかとても悲しかった。『日常』の彼女は雷が恐くて、こんな日はいつだって二人でベッドに潜り込んでいたのに。ミキの胸元に顔をうずめて、音と光を遮ろうとしていたのに。
 今、己の隣にいる彼女は、まるで憧憬のように音の源を探している。
 「ユキ」急かす声と同時に涙がこぼれおちた。お願いだからこっちを見て。
 そうしている間に、ミキの涙とは別の水滴が額を濡らし始める。とうとう降り始めた雨が二人の身体を叩く。ミキは返事を待つのをやめると彼女の手を引いて走り出した。
 雨粒がユキの髪と洋服を濡らして、けれど彼女の顔は穏やかだ。楽しそうですらある。笑ってはいないけれど。頬が軽く上気していて高揚感が見て取れる。災害を喜ぶ不謹慎さはこの年頃の子には似合いだった。
 かろうじて家の形を取っている廃屋へ滑り込む。地震のせいか人に荒らされたのか、中は惨憺たるありさまだがどこかがらんとしていた。
 毛布を頭からかぶせてやる。
「風邪引いちゃう。やむまでここにいよう」
「大丈夫だよ」
 数えきれないほど口にした言葉だった。根拠もないそれだけが二人の支えだった。大丈夫、と呪文のように唱え続けて、何が大丈夫なのか、どうなれば大丈夫なのかもわからないまま。
 ただこの時ばかりはミキにも「大丈夫」の意味が判った。根拠も、理由も。
「……それでも、ボクはユキに濡れててほしくないんだよ」
「ミキちゃんは心配性だね」
 するりと毛布を抜け出したユキが外に飛び出る。「ユキ!」苛立ちの混じった呼び声を無視して彼女はそのまま瓦礫の上へ躍り出た。
 慌てて追いかけたミキをあざ笑うように大粒の雨が降り注ぐ。雷鳴はますます近い。
「ミキちゃん、空が笑ってるよ」
「違う。……ちがう。空は」
 走り出たユキを追いかける。黒い空から落ちる黒い雨が二人の間を遮っている。
 瓦礫の道はでこぼこでひどく走りにくい。距離が縮まらないもどかしさにミキは唇を強く噛んだ。
「ユキ! 待ってよ!」
 切実な声にユキが振り向いて。
 ふ、と。
 黒い空に似ている表情をした。
 
 雷鳴。
 ミキの声はかき消された。
 稲妻がユキの身体を貫いて、小さな子どもはその場に倒れる。
 
「ぁ……ああぁぁぁ……!!」
 驚愕に見開かれたミキの双眸からとめどなく涙があふれた。
 
 
 
 空が、わらう。
 
 
 
 ミキの膝の上で、ユキがうっすらと目を開けた。
「おはよう、ユキ」
「……おはよう……」
 寝ぼけ眼の少女は愛するロボットがほほ笑んでいることにかすかな揺れを覚える。
「あ……そっか。雷に……」
「うん。表面がちょっと焦げちゃったけど、内部はショートしなかったみたい。やっぱりAHSのボディは優秀だね」
 ほのかな笑みを浮かべたままのミキがジョークの口調で言う。彼女の言う通り、思考にノイズはないしボディへの命令伝達もスムーズだ。
 さらりと髪を撫でられて、ユキは半ば無意識に目を閉じた。
「つぶれた学校に閉じ込められても無事だったもんね。氷山先生も……」
 そこでミキが一度口をつぐむ。「どうしたの?」瞼を下ろしたまま尋ねると、「うん……」少々言いにくそうにミキが答えた。
「先生に、失礼なことしちゃった。ボクは……ユキを助けてくれたことを意外だと思ったから」
「VOCALOIDだから?」
「うん。人を、先に助けようとするんじゃないかって、思った。でも先生はユキを助けてくれたよ。生徒だからって」
「そっか」
 壮年を迎えても子供を授からなかった夫婦に購入されたAHS社製品、歌愛ユキ。彼女はずっと九歳のまま、何年も同じ学年、同じクラスに所属していた。それでよかった。変化はなく、ユキはいつまでも夫婦の可愛い子どものままでいた。
 両親は、満足していた。成長しない我が子を成長しないまま受け入れた。彼らにとってユキは人間と区別がつかなかった。変わらないのに。
 ミキを購入したのはそれでも、わずかに残った理性だったのかもしれない。つなぎ目の走るボディは人には見えず、『本物のユキの姉』とはなりえない。危惧していたのだろう。ユキを人としてしか見られない己に危機感をいだいて、同じ轍を踏むまいと人に見えないものを買った。
 二人を取り巻く『日常』はいびつだったけれど、ユキもミキも、それでよかった。
 いつでも同じ存在だったユキは、いつだって同じではないものを求めていた。
 建設途中の電波塔も、黒に侵されていく瓦礫も、等しく変化の一端。
 変わらなくても良いのはミキの存在だけで。
「外……まだ降ってる?」
「ううん、もうとっくに雨は上がってる。ユキ、丸一日寝てたから」
「お寝坊だね」
「うん」
 ミキの膝から起き上がって、座ったままの彼女を見下ろす。
 右手を差し出した。
「行こう、ミキちゃん」
「うん」
 とうにこの世は崩壊して、世界の果てなんてどこにもないけれど、それでもいい。
 どこにも行けなくたっていい。
「生きよう」
「うん。ユキと一緒なら、いつまででも」
 手をつないで黒い空の下を歩きだす。
 不安はなかった。
 どんな時も、右手には彼女がいる。 



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