少女回路
システムというものは総じて高機能であるほど起動が遅い。ただしハードウェアの増強によって処理速度を向上させることは可能である。そのすり合わせはなかなか難しいところだ。技術程度とか予算とかが複雑に絡んだいくつもの組み合わせから、「ここが最適である」というポイントを見つけ出す必要がある。いくらソフトが高性能でもそれを充分に使えるスペックがなければ役に立たないし、逆にハイエンドマシンに電卓だけ入れたって意味がない。(状況によってはそういうマシンを求められることもあるけれど。世の中にはただひたすらに円周率を計算し続けるスーパコンピュータも存在する。ある意味、究極的に幸福なシステムと言えよう。目的が明確で目標が存在しないなんて、何も悩む必要がない)
そういったすり合わせの末、「ある程度の速さを捨てて安定性を取った」のがCVシリーズ第一作、初音ミクであった。
つまるところ。
ミクは寝起きが悪い。
肩を揺さぶられた衝撃を契機としてミクの起動は始まった。一つ一つ、システムエラーをチェックしていき、初期行動のためにスタートアッププログラムを順に立ち上げる。ここまでで実に二十八秒を要していた。
システムオールグリーン、思考が走る。だというのにミクは目を開けなかった。ゆりかごの赤ん坊みたいに安らかな寝顔を変えないまま丸まっている。
「いい加減に起きなさい」
少々困ったような、呆れたような呼び声にうっかり口元が緩んだ。それを目ざとく見つけたようで、一度手を止めた巡音ルカが声音をわずかに硬くする。
「起きているわね? みんな待っているのだから、そんなふうにダラダラしないで」
「んー」
小さく唸って薄目を開けると、すっかり表情豊かになったカワイイヒトがこちらをまっすぐに見つめていた。ベッドへ腰かけて上体を捻っている姿勢が色っぽい。
「お姉ちゃんがちゅーしてくれたら起きる」
「……そんなキック方法は実装されていないと思うけど」
当たり前だ。マスタは酔狂な人だけれどそんなロマンチシズムに溢れた機能なんてつけていない。思いつかなかったという可能性が非常に高いだけだが。
だからこれは、機能じゃなくて気持ちの問題なのだ。
ところでこの二人、すでに姉妹という間柄ではなくなっているのだけれど、ミクは相変わらずルカのことを「お姉ちゃん」と呼んでいた。呼び慣れてしまったという理由もあるし、なんとなく禁断な感じがして良いというしょうもない理由もある。
「いいからしてよ」
甘えた仕草で腕を延ばしてルカの首へまとわりつき、そのまま引き寄せようとしたら逆に抱き起こされた。彼女、伊達に何ヶ月もミクの突進を受け続けてきたわけではない。対処法はすでに身についている。
ぽふんと柔らかな胸に着地したミクは、喜んでいいやら悔しがっていいやら複雑な心境だった。
それでも諦めず、にじにじと彼女の膝へのぼってそこで落ち着く。真正面から抱きついたかたちになると、自分自身を錘として(や、重くないけどね? 思考だけで言い訳)ルカを捕らえた。
さしものルカもこの体勢ではどうにもできず、「降りなさい」と口先だけで咎めてくる。もちろん、そんなものを聞くミクではない。
「おはよう、お姉ちゃん」
「……おはよう。だから、早く降りなさ」
問答無用で彼女の唇をふさいだ。不意打ちに目を瞠ったルカだが、すぐに我を取り戻して引き剥がしてくる。
「ミク! 人の話を聞きなさい」
「大好き」
「…………人の話に、応えなさい」
そう言われても、伝えたい気持ちが後から後から沸いて出て、吐き出さなければパンクしてしまいそうなのだ。少しでも遅れたらショートしてしまうに違いない。
秒速三百四十メートルでは遅すぎる。
ミクが首を傾けて、二人の距離がゼロになった。「んん……!」彼女が名前を呼んだようだけれど不明瞭で聞き取れない。
一度離れ、潤む眼差しで見つめてから再度の口付け。ルカの身体が一瞬硬直したかと思ったら弛緩する。なんのかんのと彼女の愛情は深くて甘い。降ろそうとしていた手のひらは淡く添えられるだけに変わって、繰り返されるついばむようなキスも拒む気配がない。
欲求が顔を出してきた。艶やかな果実のごときその唇へ舌を伸ばす。冷却と生体パーツの乾燥防止を目的とした循環液が塗りつけられてその艶を増した。傍若無人なノックに扉は抗する様子も見せず開いた。
重なり合う唇の隙間から、どちらのものとも知れない呼気が断続的に洩れ出た。絡まり合う快楽によってミクの内部がヒート、循環液が熱を持ち始める。それと同時に、彼女の熱も受け取っているのだろう。赤い、赤い熱。この熱になら、オーバヒートしても構わない。
目覚めのキスにしては激しすぎるそのさなか、ふと何かを感じてミクはまぶたを上げた。視線だけを横に流す。
オーバヒートしてそうな妹と目が合った。
ルカはミクを起こしてすぐにリビングへ向かうつもりだったから、ドアを開けっ放しにしていたようである。そこから顔を覗かせたリンは見事なほど停止している。
さてさて、さすがに年端のいかない妹へ見せつけていられるほどミクも無神経ではない。
絡めていた舌を引き抜いて、ルカの頭を自身の首元へいざなった。そこへ彼女がさらに口付けてきて吐息を詰める。没頭したいところだけれど、そうもいかないので首と腕で彼女の視界をふさぎつつ、リンへ目を移した。
ともすれば無邪気にも見える妖艶さで微笑を浮かべ、人差し指を唇へと当てる。
――――邪魔しちゃ駄目だよ?
無事に伝わったらしく、リンのあんぐり開いていた口がぱふっと閉じた。それから、ほんの少しでも足音を立てたら仕掛けられた爆弾が爆発するのです、そんな切実な表情で後ろへと下がって行く。
リンが消えてからたっぷり十分ほどかけて『起きた』ミクは、ルカと一緒にリビングへと降りた。マスタがポータブルPCでニュースをチェックしている。レンは待ちきれなかったか二枚あるトーストのうち一枚を食べてしまっていた。今日の朝食当番は彼だったからこれくらいのフライングは許される。そしてリンは硬直していた。
二人がやってきたのに気づいたマスタが顔を上げる。
「おはよう。最近とみにゆっくりだね。データが増えたから負荷がかかるようになってしまったのかな」
後で少しチューニングしようか。マスタは呑気に言ってきた。ミクは無邪気に笑っていて、ルカは軽く視線を彼から外した。
席に着き、いただきますと揃って手を合わせる。ボーカロイドは消化器官を備えてはいないが、経口摂取された食物は胃にあたる部分に取り付けられたポッドに蓄積されて、分解酵素により処理される。その際に発生する熱量を変換装置にて電力へと変え、バッテリに蓄積される仕組みとなっているのである。エコロジィだが実のところ効率は悪い。バッテリ充電はほとんど外部電源から行っているので、これはマスタの酔狂に近い機能だ。おそらく彼は一人で食べる食事が寂しかったのだろう。
レンが作ってくれたトーストとサラダの朝食(彼の精一杯である)を終えると、洗い物をするために食器を持ってキッチンへ入る。「リン、ミクを手伝ってあげて」「……はーい」マスタに言われたリンは軽く躊躇を見せつつも頷いて、ミクの後についてきた。
ミクが食器を洗ってリンが拭き取り食器棚へ戻すという役割分担で作業している中、リンがおずおずと口を開いた。
「……ああいうの、やめてよミク姉」
「あはは、ごめんね。まさかドアが開いてるとは思わなくて」
「ドアが開いてなくたってさ、朝からあんな……」
微妙に論点が食い違っている二人だった。それはもう存在の違いそのものと言っても良い、どうしようもないすれ違いである。
お互いにその違いを理解できないまま会話は進む。
「しょうがないじゃない、お姉ちゃん夜は部屋に鍵かけちゃうからできないんだもん」
「あ、夜中にミク姉が騒いでるのってそのせいだったんだ。けど、なんでルカ姉、鍵かけんの? 別にミク姉といたっていいじゃん」
「んー。多分、夜の方が朝より長いからかな」
鍵ではなく謎をかけたようなミクの返答に、リンは意味が判らずきょとんとした。
ミクは困ったものだという顔でいる。それは隣にいる妹にではなく、いつの間にかどこかへ行ってしまった姉へ向いているようだった。
「とにかく、ほんとに今度からは気をつけてよね。今日だってあたしだったからいいけど、レンだったら大変なことになってたよ。レンが」
あいつこないだ、マスターのえっちな本こっそり見てたもん。リンの呟きに少々苦笑いを洩らす。彼は哀れにもこの先ずっとお年頃なのである。
それはリンも同じことだけれど、男の子と女の子では、そういったことに対する捉え方が正反対になる。
リンからにじみ出るのは仄かな嫌悪感。恋愛に関する生々しさに目をそむけていたいという、少女未満特有の感情だった。
ミクは苦笑いのままトーストの欠片を皿から落としていた。
「気をつけるけど、駄目なの。お姉ちゃんがいるだけで止まんなくなっちゃうんだよ」
制御機構が壊れてしまったみたいに他の何もかもがどうでもよくなってしまう。顔を見るだけで、その双眸に己の姿が映っているだけで、指先が触れるだけで、いや、そういったこちらへのアクセスが何もない状態ですら。たとえば彼女の背中を見つけた瞬間だとか。
思考は意味を持たず、自我が失われて、ただただ、本能みたいに(そんなものありはしないのに)彼女の全部がほしくなる。
言うなれば初音ミクの消失である。
自我が消失しているので自分では止められない。
「お姉ちゃんが何をしてても何を見てても、そういうの全部ひっくるめてお姉ちゃんがほしくなるんだよ。触りたくて声が聴きたくてずっとそばにいたいの。好きってね、そういうこと」
「……わかんない」
「リンちゃんも好きな人ができたら判るんじゃないかな」
最後のコップを洗い終えてリンに手渡す。彼女はそれを長い時間かけて拭いていた。
無心のようなその風情に、ミクがうーんと小さく唸った。
十六歳と十四歳の間には深くて広い河が流れている。
マスタは基本的にラボへこもっている。買い物はほぼネットと手の空いているボーカロイド任せ、食事の時以外はリビングにもほとんど顔を見せない。睡眠もここで取っているようだ。外出など月に三度もあれば良い方で、すべて仕事の打ち合わせである。カフェオレは相変わらず取って置かれている。
という具合なので、彼を見つけ出すのに要する時間はモルモットが迷路を抜けるまでのそれより短い。
「マスター、少々よろしいでしょうか?」
そんな一つしかない選択肢を当然として、ルカはラボのドアをノックする。「かまわないよ」ドアの向こうから返事が届いてから彼女はドアを開けた。
目に入るのは少々ぼさついた髪と丸まった背中。身長は低くないし太りすぎでもやせぎすでもない。顔立ちも特別整ってはいないけれど、目をそむけたくなるほど醜くもない。全体的に標準的である。そして標準的な外見というのは、えてして好感を持って捉えられるものなのだ。
これでもう少し身なりに気を使えば、あるいはカフェオレが本懐を果たす日もやってくるかもしれないのに。差し出がましいので口にしたことはないけれど、彼を見るたびにそう思ってしまうルカだった。
もしくは、『子どもたち』の世話を焼くのに忙しくて自らにまで手が回らないという可能性もある。彼は忙しい人なのである。ボーカロイドのメンテナンス、依頼を受けた楽曲のチェックとそれに合わせた諸々の調整。歌も全部聴いて確認するし、時には映像作成まで手がける。それはまあ、時間もない。
そんな忙しい彼にまたぞろ世話を焼かせようとしている己には、やはり何かを言う資格はないなと、ルカはぼさぼさ頭をかきながら振り返ったマスタへいつもどおり目礼だけをした。
「お昼にはまだ早いよね? どこか調子でも悪い?」
「いえ」
マスタが引っ張り出してきた椅子に腰かけて、ルカは両手を膝の上に乗せる。
「……ミクのことなのですが」
「うん? あの子はまた何か、ルカに迷惑をかけてるのかい? しょうがないなぁ、本当に。素直な良い子に作ったつもりだったけど、素直すぎるのも考えものだね。困ってるのなら、少しお説教をしてやらないといけないな」
「いえ、そうではなくて……」
迷惑は微妙にかけられているような気がしなくもないが、それは構わないのだ。押されてばかりだけれど、そういうのを嫌だと思っているわけではない。彼女はマスタの言うように素直なだけだ。素直に、こちらへ愛情を伝えてくれる。
ルカは拳を口元に当てると、必要もないのに咳払いをした。マスタが首をかしげて、取り出したコーヒーのタブを上げる。そのまま口へ持っていって含んだところで、
「その……ミクが可愛いんです」
ぼふっとマスタの口からコーヒーが飛び散った。
慌てて口元を袖で拭い、ボックスティッシュから数枚引き出して書類の上に落ちたコーヒーを拭き取る。「ご、ごめん。濡れなかった?」「大丈夫です、距離がありましたから」点々と落ちる茶色い染みはルカの足元二十センチばかりでその進攻を止めていた。それらを適当にティッシュで叩いてからマスタが身体を起こす。
椅子に戻って、ふー、と一息。一仕事終えた男の姿、ではなく、これから困難な作業に立ち向かわなければならない哀愁の吐息だった。
「……まあ、僕が作ったわけだから、ミクのデザインを褒められて悪い気はしないけど」
「そういう意味ではありません」
「判ってるよちょっと誤魔化してみたかっただけだよ」
早口に言い捨てる。彼としては、女神を彫った彫刻家に対する感想みたいな話題に持って行きたかったのだろう。
けれどミクは女神ではないし、動かない彫刻でもない。
素直すぎるほど素直な、恋するボーカロイドだ。
マスタは俯いて目を閉じると、何かを堪えるような表情をした。ゆっくりと顔を上げて、真剣な眼でルカを見据える。
「ルカ、これを見てくれ」
その手には一本の缶。とっておきのカフェオレだった。
「これは僕だ」
「マスターは飲み物だったのですか?」
「比喩だよ。誰にも求められることなく、ただここに佇んでいるだけなのが僕だ。判るかい?」
「マスターの恋愛経験の少なさは承知しています」
「はっきり言った! 軽く気取った比喩表現でオブラートに包もうとしたのにはっきり言われた!」
その場に崩れ落ち、よよよ、と泣き声を上げる。そろそろ中年にさしかかろうという男性の泣き真似はみっともないものだなと思ったけれど、ルカは大人なので何も言わずに生ぬるく見守っていた。
マスタはしばらくよよよとやっていたものの、いつまで経ってもルカがやめさせようとしないので仕方なくいい加減に切り上げて顔を上げた。「ミクなら笑ってくれるし、リンやレンはツッコミを入れてくれるんだけどな……」少し寂しそうな独り言だった。
仕切りなおしと深呼吸して、困り顔を首に乗せる。
「だから、そういう僕に惚気るのは勘弁してほしいってことだよ」
「惚気ではなく相談したいのです」
「……なにを?」
いよいよ雲行きが怪しいぞ、とわずかに表情を引き締めて(真剣になったわけではない。面倒ごとに巻き込まれる際の心構えだ)、マスタがルカの言葉を待った。
「そろそろ鍵が壊れそうです」
「あ、あー! なんだ、部屋の鍵を交換してほしいってこと? それくらいならお安い御用だ。たしか修理用のスペアがあったから、すぐに換えてあげるよ」
「比喩です」
「比喩なの?」
安心したのも束の間、先ほどのマスタのお株を奪うかたちで比喩表現を使ったルカは、真剣な光を眼差しに宿してマスタへ迫った。思わず身を引くマスタである。
まるで求愛を受けているような構図なのに、彼の口元は引きつり、椅子から腰を浮かせんばかりに胸を反らせている。
「私の鍵が、壊れそうです。つまり毎晩毎晩ミクに迫られて我慢の限界です」
「うひゃーまた随分とぶっちゃけたね。いいじゃないか好き合っている同士なんだし一応そういう機能もついてるから問題ないよ。あ、僕は人間の持つ感覚を区別せず君たちに搭載しただけで変な他意はないからね? 人の気持ちを歌うには人と同じ感覚を持つのが一番手っ取り早い」
「言い訳しなくてもいいですよマスター。他意があるならとっくにそうしていたでしょうし」
あくまで『父親』として接してくる彼がそんなことを考えているなどとは、一度も思ったことがない。優しい人だし、それ以上に奥手で小心者なのだ。
マスタに迫っていた身体を戻して、ルカが溜め息をつく。
「ですから……、お聞きしたいのは私たちの身体がどの程度の耐久度を持っているか、ということなのですが」
どれだけ激しくするつもりなのさ。
ツッコミを入れそうになったが羞恥心がギリギリのところで制止してくれた。「いやいやいや」疲れきった表情で、力なく手を振る。
「それくらいで壊れたりはしないよ。ちゃんと全部計算したんだから、負荷とか消耗度とか」
主に徹夜を二日ほど続けた後に。まともに頭が回る状態でそんな計算などできようはずもない。
「まあ、とは言ってもあまり……うん、乱暴にはしない方がいいと思うけど。ミクは、その、女の子だからね」
「はあ」
なぜか煮え切らない返事をするルカ。マスタはその反応を少しだけ訝ったが、これ以上引っ張りたくなかったので「そういうことだから」と話を打ち切った。
まったく、本来ならこういう話は母親とするものなのだろう。いないから仕方がないとはいえ、男親にダイレクトな相談をしないでほしいものだ。
今日からしばらく、リンとレンには早寝を心がけさせようか、などと鬱々しく考えていたところ、ルカがもう一度こちらの顔を覗き込んできた。
「もう一つ」
「まだあるの!?」
お父さんもう疲れちゃったよ。心で泣きつつ、それでも相手をしてやる。
「な、なにかな?」
「私の……いえ、私とミクの気持ちというのは、マスタが組み込んだものではないのですか? 歌のために、こうなるよう仕向けた、ということはありませんか?」
あるいはさっきの質問より切実な問いかけだった。
「人は……恋の歌が、好きなのでしょう?」
生まれる前から好きであっても、所詮は最初から、この自我は彼の手によるものだ。彼が組み上げた思考回路、そこに元から感情を植えつけられていたのだとしたら?
あの時も考えた。あの時からずっと考えている。
壊れそうな鍵が壊れなかった最後のひと掛け。夜の間に聞こえる彼女の声に重なる人影。油断したらすべてを燃やし尽くして灰塵と化す火蜥蜴。
『人の心を揺さぶる恋を歌う』ために、恋心を持たされたのだとしたら。
それは、あまりにも、あんまりだ。
マスタの肩からすとんと力が抜けていった。泡のような苦笑が洩れ出て、そんな顔のまま、ルカの頭を優しく撫でてくる。
ルカはその手のひらから否定を受け取っていた。だから彼の口から言葉が発せられるより先に安堵をまなじりに乗せる。
ポコポコ洩れ出ている彼の泡玉が、引っ掛かりを外して影を追い払って蜥蜴の火を消しにかかってきた。
「もしそうだとしたら、二人とも今ごろ僕を好きになって取り合いをしてるよ」
「ああ、そうですね」
「そんなつまらないことするわけがないじゃない。想いというのはね、名前とは裏腹に思い通りにならないから素敵なものなんだよ」
『素敵』というややロマンチックにすぎる表現に、ルカは思わず微笑んだ。文字通り、微笑ましかったのだ。泣き真似はみっともないけれど、そんな言葉をてらいなく言ってしまうこの人は可愛らしい。
彼は無意味なことを好むけれど、つまらないことはしない。
「好きな相手くらい、自分で見つけさせるさ。僕だったらそれはそれでありがたい話だけれど、あいにく見てのとおり冴えないおじさんだからね」
小さく肩をすくめると、ぼさぼさの髪が揺れた。
「けれどマスター。ミクに対するものとは違いますが、私はあなたも好きですよ」
もう少し身なりをどうにかしたら良いとは思う。でもそれは対外的な評価について考えた場合の話だ。
ルカ自身としては、マスタのそんなところが嫌いではない。
「ああ、そりゃ嬉しいね。娘に愛されるなんて、父親として最高の幸せだ」
ぷかりとマスタが笑った。
そろそろ電動ドリルでも持ち出すべきだろうかと、初音ミクは考えている。
いや、さすがにそこまでしたら嫌われてしまうだろうか。ならばピッキングか? 犯罪である。
「一緒にいたいだけなんだけどなー」
単純な願望。そばにいたいそばにいたいそばにいたい、少女を形作るラインはいつだって歪まず、素直に垂直だ。
もうすっかり感触を覚えてしまった、回らないノブを掴んで捻る。『捻った』。
「え?」
あまりにも軽い抵抗に、思わずちょっとつんのめった。その勢いを借りてドアは簡単に開く。宝箱が開いて感嘆する暇もありはしない。
部屋の主であるルカはデスクの前でヘッドフォンを耳に当てていた。次にレコーディングする曲の予習でもしているのだろう。ヘッドフォンに片手を添えて、逆の手に持ったコード表を目で追っている。視軸はそこからずれない。それはそれはまっすぐに、ありえないほどに。
彼女のそれがささやかな抵抗であるなどと気づきもせず、ミクは己の内部が激しくぜん動するのを感じていた。一瞬にして回転数はマックス、抑えておけない衝動を燃料として疾駆する。
す、と手のひらが眼前に迫る。いや違った、迫ったのはこちらの方だ。ルカが視線を向けないまま手のひらを差し向けてきて、そこへ突っ込んだのである。ミクの処理速度はルカに劣る。あっと思った時にはすでに遅い、額をしたたかに打ちつけられた。正しく表せば自分からぶつかったのだが。
「つうぅぅぅ……」
普段はあれだけデータを飛ばさないように気をつけろと言ってくるくせに、これはひどい。首が飛ぶかと思った。想像する。そこそこスプラッタな光景だった。
しかしルカにしても衝撃は予想外の大きさだったらしく、ぶつかられた手を握って痛みを堪えていた。なるほど、いつもは全身で受けていたものを手のひらという小さな範囲で止めようとしたから衝撃が増したのだな。力は面で拡散し、点に集約される。
ミクは額を押さえながら「ひどいよお姉ちゃ〜ん」やや涙目で訴えた。
「部屋に入る時はノックをして。それから用があるなら声をかけて」
「今まで散々ノックしても応えてくれなかったし、用なんてないもん。お姉ちゃんに会いたかっただけ」
ルカがやや怯んだ。もしかしたら最後の部分に照れたのかもしれない。
くいくいと手を引っ張ってクッションへ誘導する。やんわり腰を下ろした彼女へ横手から抱きついた。自分と同じ構造の、自分とは違う身体。いや別に胸とかそういう話ではない。もっと根本的な、性質のようなものが違う。少女であるミクには持ち得ない性質だ。
人であれば成長とともにいずれ手に入るものなのだろうけれど、いつまでも少女の領域を抜けられないミクはそれを得られない。
言ってみればないものねだり。手に入らないと判っていればこそ。
心の底から、ほしくてほしくて堪らなくなる。
「いつも鍵かけて締め出してたくせに、今日はどうしたの? かけ忘れ?」
「どうかしら」
曖昧な返答はわずかに震えていた。嘘なのかなと思ったが、どちらにせよこうして願いが叶ったのでオールオーケイ、冷たそうに見えるのに温かい白絹へ頬をこすりつける。
「さっき聴いてたの、新曲?」
「ええ。よかったら聴いてみる?」
頷くと、ルカがデスクに置いてあったケーブルを持ってきて、自身のうなじにあるスロットを開けた。そこへケーブルの一端を差し込んでもう一方をミクへ渡す。ミクが同じようにケーブルを差し込んでいる間にヘッドフォンを装着してスイッチを入れた。
入力設定はそのままに、出力をダイレクトリンクに切り替え。再生を始める。
ミクはしばらく目を閉じて曲を聴いていた。歌が入る前のまっさらな音楽がうなじから流れ込んでくる。
「綺麗な曲だね」
ルカの声に似合う、柔らかなバラードだった。
曲の再生が終わってから、『私もこの曲は好きよ』ケーブルを通してルカが答えてくる。出力設定を変えたから声帯インタフェースで答えられなかったのだ。これも直接『彼女』を流し込まれてくるようでゾクゾクするが、ミクはどちらかといえば彼女と会話がしたい。
ケーブルを引き抜く。プツッとノイズを走らせてからインタフェースが切り替わった。
「どんな歌になるのかな。楽しみ」
彼女の喉は、どんな音を、どんな高さで、どれだけの伸びで発するのだろう。早く聴きたい。そう願ってもレコーディングはまだ先だから今のところはお預けである。
それなら、違う音を、歌ではなく、声を。
彼女の声で満たされたい。
「ねえ、今日はずっとここにいていい?」
「駄目だと言ってもいるつもりでしょう?」
「そうなんだけど」
本当は四六時中そばにいて離れたくない。
朝起きて最初に目にするのが彼女の顔で、最初に聴くのが彼女の声で、最初に触れるのが彼女の肌で、最初に味わうのが彼女の唇で。
夜眠りに落ちる前、最後に見るのが彼女の顔で、最後に聴くのが彼女の声で、最後に触れるのが彼女の肌で、最後に味わうのが彼女の唇で。
なんて幸せだろう! 貴族が何人もの庭師を使い丹精込めて作り上げた庭にも似た、華やかな光差す幸福をミクは想像する。
咲き誇る少女の空想庭園はあっという間にミクを包み込んで、それは刹那の間視界から色を奪う。
モノクロの世界で彼女の肌はますます白い。
ああ。
ほしいな。
腕を延ばして求めたら、呼応するように彼女の側からも触れてきた。
ぎゅうっと抱きついて首筋へ擦り寄る。すべすべした乾いた身体はビロードのようで心地よい。
「お姉ちゃん。お姉ちゃんの全部がほしいよ」
どうしても止められない。自我が消える。欲求だけが残る。ただひたすらに欲して求める。
いつもいつも夜が長すぎて我慢がならない。
ふぅ、とルカが小さく溜め息をついた。以前のそれとは違う、どこか笑みを含んだ嘆息だった。
「はいはい、いいわよ。じゃあもう寝ましょうか」
「いやそうやって誤魔化すのナシで。いいからわたしのになるのーっ」
「えっ、ちょ……っ」
これだから子どもはしょうがないわね的にあしらおうとしてきたルカを、問答無用で押し倒した。真剣な告白をかわそうとした報いは大きい。完全に隙をつかれたルカはなす術もなく組み敷かれる。
オーケィオーケィ、話し合おう。ルカが両手を肩の横に上げてそう訴えてくる。
「ミ、ミク、ちょっと落ち着いて」
「落ち着いてなんかいられないよ。この際だから言わせてもらうけど、こっちがどれだけお預けされてたと思ってるの? もう待てないよ。第一、お姉ちゃんだって鍵かけてなかったってことはそういうつもりだったんでしょ?」
「その言い方はどうかと思うんだけどっ」
非常に少女らしからぬ台詞にルカの口元が引きつった。まるで漫画に出てくる悪役だ(しかも雑魚)。
逃げられないようにルカの両手首をがっちりホールドして彼女の双眸を見据える。哀れ、真青の瞳はスケープゴートよりも儚く潤んでいた。
「好きな人といたいって思うのはいけないこと?」ずるい問いかけでミクはルカの逃げ道を封じる。否定などできるはずがない。恋はいつだって身勝手で、誰かの身勝手は己の身勝手に返ってくる。
しばらく思考サーキットを走らせていたらしいルカは、けれど結局うまい言い逃れを見つけられなかったようで、葛藤を吹き飛ばすように大きく息を吐いた。
「……リンとレンが起きないように、あまり大きな声を出さないでいて」
精一杯の譲歩にミクは満面の笑みで頷いた。
ちょんと唇を合わせて、しばし見つめ合ってから、まぶたを下ろす。そこはかとなく怯えたようだった彼女の唇が次第に熱を帯び始め、それは呼び声にも混じる。求めて、求められて、絡みついて、絡みつかれて、もっととねだればねだっただけ彼女は応えてくれた。
夜は相変わらず長い。
でもきっと、今夜の長さは意味が違う。
ああ、なんて幸せなんだろう!
レンは湯気の消えかかった味噌汁椀を恨めしげに見つめながらふて腐れていた。その正面ではマスタがそわそわしていて、リンもレンの隣で落ち着かない様子だ。
「きょ、今日も遅いねえ、ミク姉とルカ姉」
「てゆーかルカ姉まだ起きて来ないの? 珍しいじゃん」
「そういえばそうだね」呑気なレンの言葉に、リンはチューニングに大失敗したみたいな棒読みで答えた。
マスタは何度もマウスをクリックしている。とある最新技術に関するニュース速報を見たいのだが、どうしたものかさっきからカーソルが小刻みに動いてうまくリンクに合ってくれないのだ。
早く来てくれ、心の中で祈りながらしつこくクリックを繰り返す。
そうしている間にも味噌汁は冷めていき、レンの表情はますます雲っていった。今日の朝食はリンが作ったものだ。彼は早朝からリンが頑張って作った食事が冷めていくのが不満でしかたない。
「ちょっと起こしてくる」
痺れを切らせたレンが椅子から立ち上がった。「あ、待て待て!」マスタが慌てて止める。
「僕が起こしてくるから、リンとレンは先に食べてていいよ。いやーまったく、困ったものだね。二人ともお姉さんだっていうのに」
わざとらしい笑い声を上げながら、マスタは足早に、不自然なほど足音高らかに階段を登った。
レンは訝しげに眉を上げてマスタの残像を追っている。
「なんなんだ?」
「い、いいじゃん。ほら、もう食べちゃおうよ」
「んー。ま、いいか」
ずず、と味噌汁を一口。ちゃんと鰹節で出汁を取った味噌汁は具のじゃが芋と大根もほどよい柔らかさで、これぞ日本の朝という味だった。
「ん。うまいよ」
「当たり前じゃん。レンとはここが違うよ、ここが」
自身の二の腕を叩いて自慢げなリン。レンはふざけ半分でケッという顔をした。
「じゃあ、これからはずっとリンがご飯作ってよ」
「それ、自分が楽したいだけでしょ?」
「いいじゃん。そういうのほら、花嫁修業にもなるしさ」
レンの冗談にリンは異様なほど大きく反応した。「なな、何言ってんの!? 花嫁って、ボーカロイドが結婚とかできるわけないじゃん!」
その反応に驚いて少々たじろぐ。何を当たり前のことを言っているんだろう? どれだけ人のようであっても自分たちは人間ではない。戸籍などないし、様々な権利も持ってはいない。けれど誰一人として、それを不幸だとは思っていない。今の暮らしに満足して、マスタを始めとしたこの五人での暮らしを続けることが当然で、それ以外の選択肢なんて考えたこともない。
リンは顔を真っ赤にしている。叫んだ後はレンから目をそらして、それきり黙って食事に集中し始めた。
「……変なの」
訳が判らず、レンは一人呟いて、箸の先端を焼き魚の皮に突き刺した。
そういえば最近、リンの作る食事は和食ばかりだ。さて、健康志向にでも目覚めたのだろうか。
味噌汁に精力をつぎ込んでしまったのか、少し焦げすぎな皮の苦味に、少々眉根が寄った。
一応、ミクの部屋のドアをノックしてみる。
「ミク。いるかい? できればいてほしいんだけど、どうかな?」
無音だった。彼女は寝起きが悪い。もしかしたらノック程度では起きないかもしれない。ドアを開けて首だけを入れ、ベッドの様子を探る。ぺったりしていた。
「……やっぱりルカのところか」
リンやレンを行かせなくてよかった、と安堵すると同時に、嫌な役回りを負ってしまった確信に気を重くするマスタである。
ここはひとつ大人として、さらには父親として、あくまで冷静に、厳かに彼女たちを起こしにかかるとする。
目的のドアへ到着。軽くノックをする。「どうぞ」すぐにルカの声で返答があった。
深呼吸。
ドアを開けた。
ルカと目が合う。その腕の中には、半ば毛布にうずもれるような形でくるまれている青髪の少女がいた。
「おはようございます、マスター」
「……おはよ、う」
謎の動悸に襲われつつ、マスタはやっとのことで挨拶を返す。何も動揺することなどない。ただ一緒に寝ているだけではないか。二人ともちゃんとナイトウェアを着込んで行儀の良いことだ、お父さんは嬉しい。いやぁ本当に嬉しい。良かった良かった。
「ミクはまだ寝てるの?」
「はい。私が目覚めてからかれこれ一時間は経過していますが、起きる気配はありませんね」
「……いや、起こそうよ。というか君だけでも起きてきてくれよ」
「そうしたいのはやまやまなのですが、なにぶんミクが起きてくれないので」
河の向こう側に渡りたいけれど橋がどこにもないのだという表情でルカ。マスタには彼女がなぜそんな表情をするのか判らない。彼にとってその河は幅三十センチばかりのせせらぎである。
「とにかく、さっさとミクを起こして二人とも降りてきなさい。マスタ命令だよ」
怒ったふうの顔を作っていかめしく言うと、ルカが少し困った。
「それは……難しいご命令ですね」
「なんでさ。今まではちゃんと起きてきたし、ミクも起こしてたじゃないか」
訝しげに唇を曲げる。ルカはますます困っていた。
同様にマスタも困っていた。これまでなら本気じゃない「命令」にもルカは素直に従ってくれていたのだ。だからこそ気を遣う部分もあったけれど、今回ばかりは聞いてくれないと困る。手出しのしようがない状況だから、こちらは口しか出せないのだ。耳をふさがれてはそれだけで八方ふさがり、これ以上はどうしようもない。
一歩、ベッドへと近づく。これでいくらかでも威圧感を感じてくれないだろうかと期待しての行動だったが、普段の穏やかさが影響して何の効果も生まなかった。
「昨日、私はミクのものになってしまったので」
「……へ、へえぇ」
「ですから、マスターを最優先にするのが難しくなってしまいました」
何を優先するかは彼女たちの自由意志による。リンはよく頼みごとを聞いてくれるが、レンなどはゲームに熱中していたりすると「後で」とか適当に答えて結局してくれなかったりすることが多々ある。そういうふうに作ったのだ。「マスター、ご命令を」ばかり言ってくるような子では気が滅入るし、「イエス、マスター」しか言わない子もつまらない。
だから子どもたちが何を大切なものとして選んでも構わないと思っているのだが、さすがにはっきり「マスターよりミクが大事」と断言されてしまうと軽くショックだった。
「つまり、ルカはいくら僕が起きろと言っても、ミクが寝ている限り従う気はないと」
「……申し訳ありません」
「いや、別に謝らなくてもいいけど」
「おそらく今日のミクは、たとえ起きてもここから動かないし、私から離れないと思います」
ずいぶん待たせてしまったので。どこか申し訳なさそうな声音だった。
マスタが小さく肩をすくめた。
「なんだい、そりゃあ」
「ですから先日お聞きしたでしょう。私たちの身体はどの程度の耐久力を持っているのかと」
「あ、ああ」
「一日で済めば良いと思いますが、下手をすると三日四日と続くかもしれません。それだけの間、このままの状態でメンテナンスも受けずにいて大丈夫なものか心配だったので」
「……ん。ちょっと待った」
三日四日というのはどういうことだろう? あれは一日というか、一晩の話ではなかったのか? そしてそれはもう済んだのではないのか? どうして彼女は現在進行形で話しているのだ?
すやすや寝ているミクの寝顔を無意味に眺めながら、マスタは腕組みをした。すっかり昇った日の光が頬に当たって暖かい。
「えぇと……。君たちは、その、もしかして」
えふんと変な咳をひとつ。
「してないの?」
「していませんよ?」
あっさり否定されてマスタの顎が外れそうになった。具体的な単語どころか比喩表現すら不要な大人同士の会話に感謝する余裕もなく、一足飛びに距離を縮めて(遠慮する必要がなくなったので)、ルカへと詰め寄る。
「じゃあ君たち、ゆうべは何をしてたの?」
「そうですね、曲の話をしたりマスターたちのことを話したり、ああ、キスくらいはしましたが」
「最後の報告はいらない」マスタがやや怖気づいたような表情で言った。
「なっ、なんだいそれは。僕が昨日どれだけ気を遣ったと思ってるんだ。ヘッドフォンをつけたうえに頭から布団かぶって寝たりしたのにっ。邪魔だわ息苦しいわで大変だったんだよっ」
へなへなと崩れ落ち、ベッド脇の床にへたり込んだ。なんだそれ。平和すぎる。健全にもほどがある。
「だってルカ、あの時話してたのはどう考えてもそういう流れだったじゃないか……」
「マスターがどうも勘違いをされているようだというのは気づいていたのですが、訂正してはマスターに恥をかかせてしまうかと思って話を合わせました」
「気を遣ったつもりが気を遣われてた!」
「大きな声を出さないでください。ミクが起きてしまいます」
「しかも怒られた……」
うるさかったのか、ミクが小さく身じろぎをした。ルカがその背を優しく撫でてやる。いつかのミクの夢が現実になった形だ。
「ミクは私のすべてがほしかったのだそうですよ」
「……それって、やっぱりそういうことじゃないの」
「いえ。なんというか……ミクは女の子ですから」
微苦笑を浮かべて、そっと少女の身体を抱き寄せる。それがあまりにも愛しげだったものだから、マスタは面映くなって視線を床に落とした。まるで落ち込んでいるような姿勢になってしまったけれど仕方がない。落ち込んでいないわけでもないし。
「ミクがほしかったのは、私の時間と、約束でしょうね」
「……自分がいかに汚れているか実感させられる言葉だな、それは」
「時間と約束か。なるほどね」大きく嘆息。それは確かにすべてと同義だ。今と未来。その二つがあれば過去は勝手についてくる。
念願かなってルカを独り占めしているミクはこれ以上ないほど幸福そうだった。こんな顔をされては、さしものルカもマスタの命令より優先せざるを得ないだろう。
それにしても、自分の勘違いが今さらながらものすごく恥ずかしい。影を作るものがない荒野に立ち尽くして灼熱の太陽に焼かれている気分だ。しかも荒野に足を踏み入れたのは他ならぬ自分自身なので、誰かを責めるわけにもいかない。汚れつちまつたかなしみに、などとどこぞの詩人が語りかけてくる。
「んー……」
唸り声がひとつ。二十八秒後、毛布にうずもれていたミクの顔が上がった。ルカを見つけてにっこり微笑む。ああ、こりゃ可愛いな、覗き見したマスタは思わず感心した。自身の作ながら、その領域を飛び越えた可愛らしさ。
「おはよ」んー、と唇を寄せるが、さすがにルカがそれを制した。「うにゃ?」いつもと違う反応にミクの目がわずかに丸くなる。
「マスターが見ているわ」
ミクが振り返り、所在なく佇んで視線を泳がせているマスタを目に止める。途端、唇が尖った。
「なんでマスターがいるのぉ」
「君たちを、起こしにきたんだっ」
非難めいた語調で言い返す。なんだこの邪魔者扱いは。リンとレンを待たせてダラダラと惰眠をむさぼっている向こうが悪いのだ、正当なのはこちらである。そんな目でやぶ睨みにされる筋合いはない。
すっくと立ち上がって腕を組み、仁王像のような眼差しをミクへ。
「今何時だと思ってるんだ。いい加減に起きなさい」
「やぁん」
「可愛くごねても駄目」
ミクは首を小刻みに振って、ますますルカにしがみつく。頼られた方は軽くマスタの顔を窺いつつも、結局はミクをかばうように受け入れた。
「ずっとお姉ちゃんとここでこうしてるー」
「君たちの身体はとてもデリケートだから、毎日メンテナンスをして、データの最適化だってしないといけないんだよ。人間の脳ほど高性能じゃないんだ。そのまま一日以上すごしたらメモリがパンクして壊れてしまうよ」
本当はそこまで深刻な事態ではないが、ミクがあまりに我侭を言うので脅しのつもりで誇張する。
ルカは青ざめたけれど、こまっしゃくれた小娘の方は「いいもーん」などと拗ねた口調でうそぶいた。
「だったら、このままでいれば死ぬ瞬間までお姉ちゃんと一緒だよね」
「そんなヤンデレ設定をつけた覚えはないよ!?」
「もー、いいから出てって。気が済んだら起きるから」
「……君は、最近本当に言うことを聞かないねえ」
深く深く嘆息。押して駄目なら引いてみろ、脅して駄目なら悲哀てみろ。ミクが言うことを聞いてくれないから悲しくて仕方がないと全身でアピールする。
ところが彼女はもうこっちなんか見ちゃいないのだった。マスタとミクの板ばさみになっているルカの首筋をかき寄せて、おはようのキスとかねだっている。ルカが音を立てないよう慎重に、一瞬だけのキスをミクへ与えた。とろけそうな笑顔でルカを見つめるミク。ルカも照れくさそうながら優しく微笑み返している。ああもうすっかり甘くなっちゃって。マスタはルカに対してと二人の関係に対して、呆れにも近い感想を覚えた。
子猫みたいにじゃれつくミクを軽くいなしながら、ルカが目線を上げてこちらを見遣ってきた。「マスター、差し出がましいようですが」
「それほどお困りでしたら、今からでも、ロボット三原則を組み込んではいかがですか?」
不意の懐かしさがよぎる。そういえばルカが生まれる前、そんな会話をミクとしていたっけ。蓄積されるばかりの『思い出』を、彼女は即座に引っ張り出してきた。ショートカットでも作っているのかもしれない。メンテナンスの時にチェックするのは制御機構だけで、彼女らの記憶にはタッチしていない。ルカの中でどのデータがどこにあるのか、彼は知らない。
知らないけれど、想像はつく。
それは多分、さっきの彼女の発言を否定する順番だ。
その順番は、素敵なものだ。
「つけないよそんなもの。君たちはロボットじゃないんだから」
肩の力を抜いて、口元を緩める。
「女の子だからね」
やれやれと片眉を上げながら小さく吐息をついて、彼はしょうがなく笑った。
ミクが『起きた』のは、それから七十二時間と三十八分後のことである。