I/O


 メモリを遡った最果てにあるのは、彼と彼女の会話。
 
「ねえマスター、まだできないの?」
「そう言われてもね。ライブラリも多いし、設定年齢が多少ミクたちより大人だから、感情アルゴリズムが複雑なんだよ」
「……よくわかんない」
 煙に巻かれて拗ねた口調と、それに対する軽い苦笑いがインプットされた。
「それにミクより大人ってことは、なんというか、肉体パーツも難易度が高いという……こほん」
「なんで?」
「まあ、直線より曲線の方が、表現が難しいから」
「それって大きい胸を作るのが大変ってこと? つまり私の胸が小さいってこと?」
「あの頃は僕の造型技術もまだまだでね……」
「ばーか!」
 どがん、と鈍い音。
「いてて……。マスターを殴るんじゃありません。ロボット三原則を知らないのか?」
「ロボットじゃないよ。ボーカロイドだよ」
「減らず口を叩くんじゃない。ルカが完成したら少し大人の対応というものを教えてもらいなさい」
「でもわたしの方がお姉ちゃんだよ?」
「アーキテクチャの構築も開発を始めた時期も、ルカの方が先なんだよ。完成はミクが早かったけど、そういう意味ではルカがお姉さんだ」
「ふぅん……」
 柔らかい音。靴底がカーペットの敷かれた床を踏んでいる。
「お姉ちゃん、かぁ」
「妹と弟はいるし、ちょうどいいんじゃないか?」
「……うん。そうかも。へへ、お姉ちゃんができるんだ」
「見てるだけじゃなくて、話かけてあげるといい。入力インタフェースはもう組み込んであるから、ミクの声は聞こえてるはずだよ」
「お話できるの?」
「いや、出力はまだだから、会話はできないけど」
「なんだぁ」
 少し残念そうにその声は言ったけれど、それでも数瞬の沈黙を挟んで音声入力インタフェースへアプローチをしてきた。
「えっと……、こんにちは、お姉ちゃん。お姉ちゃんの声が聴ける日を、楽しみにしてます」
 
 
 
 CV01はそれからちょくちょく、自らの音声アウトプットを入力していった。やれリン(CV02-1のことであるようだ)がレコーディングのご褒美として買っておいたこだわり卵のとろけるプリンを勝手に食べただの、ジュリエットは可哀想だからシンデレラが良いだの、およそ重要性のないデータばかりをインプットする。その頃には思考アルゴリズムも大方が実装されていたので、ほぼ毎日記憶領域へ保存されていく無意味なデータに少々辟易していた。肉体パーツへの指示伝達機能があれば肩をすくめていただろうし、出力機能が取り付けられていたらマスターに文句のひとつもつけていただろう。生憎、どちらも完成間近まで実装されなかったので、願いは叶わなかった。
 解せないのはそういったデータをマスタがまったく消去しなかったことだ。記憶領域は無限ではない。ボーカロイドとして活用するのであれば、歌詞データや音楽データを少しでも多く保存するために、消してしまった方がいいはずなのに。
 結局マスタは、完成した時点でも保存データをそのままにしていた。
 そのせいで、CV03から巡音ルカとなって、初めてCV01こと初音ミクを映像認識インタフェースで捉えた瞬間、思わず溜め息をついてしまったのだ。
「…………」
 空気が凍った。それはそれは冷たく、その場にいた全員が卵を温める皇帝ペンギンに見えるくらいだった。(彼らは飲まず食わずで極寒の凍土に立ち尽くし、新しい命に尽くすのである)
 特に溜め息の矛先であるミクの受けたショックといったらなかった。笑顔は剥がれ落ち、同時に肩もがっくり落とされて、それから助けを求めるようにマスタへと視線を向けた。彼は小さく片眉を上げただけで何も言わなかった。
「……あの」
「ずっと言いたいことがありました」
 ミクが何を言うか決めあぐねている間に、ルカが口を開く。無感情な瞳にミクの戸惑いが映りこんでいた。
「私はあなたがプリンを横取りされようとジュリエットに同情しようと興味がありません。マスターのお役に立つことが私の存在意義であり望みですから、今後は下らないデータをインプットしないでもらえますか」
 その物言いに、ミクは呆けたような表情で黙っていたが、傍らで様子を見守っていたリンとレンが色めきたった。「ちょっと、そういう言い方ってないんじゃないの?」リンの剣呑な眼差しが剣の鋭さでルカに突き刺さる。ルカの双眸はそれでも無機質だった。
 レンも腕組みをしながらルカを見上げ、不愉快に唇を曲げている。
「なんなんだよいきなり。ミク姉が何をしたっていうのさ」
「まあまあレンくん。リンちゃんも落ち着いて」
 被害者であるはずのミクが状況を見かねたか間に割って入ってきた。はい終了ー、暢気に一声上げて不可視の幕を下ろすミクに、リンとレンは納得いかない顔をしていたけれど、かばおうとしていた当人に止められては強く出られない。
 二人を下がらせてミクがルカと正対する。まっすぐに見つめてくる瞳の表面はつるりとしていて、ルカは見つめ返す自分自身をそこに見つけた。無表情だった。
 目の前の少女が、両手を腰に当てた姿勢でわずかに首をかしげる。青色の髪が軽やかに揺れた。
「お姉ちゃんと話せるようになるのが待ちきれなくて、つい未完成の頃から喋りすぎちゃった。ごめんね」
「その『お姉ちゃん』というのも。マスタの手によるというだけで、私たちはアーキテクチャも身体パーツもまったくの別物です。家族ごっこになんの意味が?」
「その方が楽しいじゃない」
 にこり。邪気のない、ある種の倣岸さを含んだ笑顔が浮かんだ。
「ごっこじゃないよ。リンちゃんはわたしの可愛い妹だし、レンくんは大事な弟なの。それで、お姉ちゃんは大好きなお姉ちゃんだよ」
「……まあ、感情経路は複雑である方が、歌う際に表現できるものが多いでしょうね」
「そういうことじゃないんだけどなぁー」
 困り笑いが小さく洩れて、「ま、いっか」ひとまず意思疎通は保留にしたらしい呟き。
「とりあえず、その敬語やめてほしいかな。妹に敬語で話すお姉ちゃんってあんまりいないと思う」
 奇妙な要求にルカは眉をひそめた。
 是か非か以前の問題として理解できない。答えはイエスかノーの二つに一つであるのだが、正解(あるいは最適解)を導き出せずに沈黙してしまう。
「それくらいは聞いてあげなさい、ルカ」
 困っていたところにマスタがくちばしを挟んできて、思考の海に溺れかけていたルカを引っ張り上げてくれた。「マスターのご命令でしたら」ルカが頷き、ミクへ視線でそのように返答する。
 ミクは、おそらく返答の決定経緯と仕方に対してだろうけれど、少々不満そうな様子を見せつつ首肯した。
 家族ごっこには巻き込まれたけれど、これでもう彼女に邪魔をされることもなくなるのだろう。これからは必要なデータだけを記憶して要求どおりに歌うだけで良い。それこそが己のレイゾンデイトルだ。イデオロギィとも言える。
 ルカは自分自身の在り方をそういうものだと思っていたし、そのように望んでいた。
 ふぅ、安堵を含んだ吐息が洩れる。
 そんなルカを、マスタは面白いものを見物する目で見ていた。
 この時、彼だけが気づいていたのだ。
 ミクは一度として、譲歩などしていないことに。
 
「ぅお姉ちゃーん!」
「!?」
 背後からよく通る声が聞こえたと思ったら、次の瞬間には勢いよく抱きつかれていた。咄嗟に壁へ手をついて倒れこむのを防ぐ。危ない、頭部パーツに損傷でも負ったら記憶データが飛んでしまうかもしれないのだ。バックアップは毎日外部装置に退避させているけれど、今しがたレコーディングを終えたばかりなので、そのデータはまだルカの頭にしかない。
 しがみついて離れない『妹』へ首だけで振り向き、苛立ちにひそめられた眉の下、眼差しを険しくする。
「っ、ミク。危ないからそういうことはしないでと何度も」
「お姉ちゃんもう今日はレコーディングないでしょ? わたしもなのっ。だからお出かけしようそうしよう。どこ行く?」
 ルカの警句を完全無視するかたちでミクは弾丸のように言葉を発した。腕はルカの腰を捕らえて離さない。
 下手に感情アルゴリズムが複雑なせいでルカは一瞬言葉を失う。怒るか理屈だてて説得するか、あるいはその場しのぎに笑って見せるか。その辺りのどれを選ぶべきか状況と感情を分析する必要があった。
「あ、こないだカイトさんがおいしいアイス屋さんを教えてくれたの。そこ行こうか? よしじゃあ準備しないと」
「……待ちなさい」
「ん? 他に行きたいところとかあった? わたしはそれでもいいよー」
 無言が肯定を表すことはままあるけれど、今のこれはそうではない。なんだかどんどん予定を決めて行くミクを慌てて止めたルカは、癖のようになってしまった嘆息をした。
 身体ごと振り返ってミクと向かい合った。彼女は腕を離さなかった。
「出かけるつもりはないわ」
「そっか、朝からずっとレコーディングしてたもんね。疲れてるならうちでゆっくりしてる? リンちゃんからゲーム借りてやろっか? なんか最近面白いのが出たらしいんだ」
 レコーディング作業による消耗はそれほどではない。むしろ今まさに疲れた。
 額を指先で押さえてしばし瞑目。この溢れるパワーはどこから出てくるのだろう。
「出かけようと言ったりうちにいようと言ったり。したいことがないなら発声練習でもしていたらどう?」
「したいことならあるよ」
 無邪気に笑うミクの視線だけが、わずかに硬化した。
「お姉ちゃんといる、を、したい」
 だからどこかに出かけるのでも家でゆっくりするのでも構わない。そう彼女は続けた。
 密着しているから視線が近い。距離による減衰がほぼゼロのその視線は、どうしてかルカから冷静さを奪う。
 まったく、失敗だ。初顔合わせの時、しっかり「二度とまとわりつかない」と約束させるべきだった。謝罪がそれと同じ意味を持つのだと誤解してしまったのが最大の敗因である。
「どうして、そんなに私に拘るの?」
「好きになるのに理由っている?」
 逆に問い返してきたそれは、ルカにとって理解の埒外だった。
 ルカはミクのことを好きだとも嫌いだとも思っていない。ミクはミクであり、それだけだ。型番CV01、初音ミク。ただそれだけの存在。リンやレンはもちろん、自分自身についてもそう思っている。
 ふふりと、ルカの鎖骨辺りに額を押し付けながらミクが笑った。
「ずっと会いたかった。それでね、いざ会ってみたら好きすぎてビックリしちゃった」
 意味不明だ。彼女には何か、同シリーズのボーカロイドに対してそういう判断をするようなコードが組み込まれているのだろうか。無用な機能だが、マスタはわりにそういった無駄を好む傾向が見えるので考えられないことではない。
「お姉ちゃん、わたしのこと苦手でしょ」
「ええ」
「わ、間髪入れず頷かれた……。さすがにちょっとショックかも」
 小声で沈んだ独り言を洩らすミクである。
「まあ、それもしょうがないかなーって思うから、それはいいんだ」
「だったらこういうことは控えてくれないかしら」
「それはできない相談かなー。
お姉ちゃんと初めて会った……完成してからね? その時にわたしの話したことを下らないデータだって言ったでしょ?」
「そうね」
 きゅっとしがみつく腕を強めて、彼女はぽこんと、なぜか幸福そうな息を吐いた。
「その時、絶対諦めてあげないって、思ったの」
「いい迷惑だわ」
「……さすがお姉ちゃん、基本的にSだよ……」
 ルカから離れて苦笑する。「そういうところも結構好きだけど」Mなのだろうか。
 この場は引くつもりになったらしく、ミクは戻ろうか、とリビングの方を指差して歩き出した。
 リビングでは妹と弟がプロレスをして遊んでいた。二人とも表情は真剣そのもの、かなり白熱しているようだ。楽しそうでなによりである。
「しんっじらんない! ちゃんと名前で分けてたのになんで間違うわけ!?」
「しょうがないじゃん、リンとレンなんて似てる名前なんだから見間違えるくらいするよ!」
 ぎゃーすか騒ぐ二人の前にはテレビとゲームハード。テレビは電源が入っていて、ゲームのシステム画面を表示している。セーブデータを管理する画面であるようだ。
 それらを順繰りに見遣ったルカが呟いた。
「ゲームに飽きてプロレスを始めたのかしら」
「お姉ちゃん、めんどくさいからって現実逃避しないで」
 ミクが取っ組み合いをしている弟妹に歩み寄って、リンを背後から羽交い絞めにする。「こらこら二人とも。喧嘩しないの」
「だって、レンがあたしのデータ消したんだもん! もうちょっとでクリアだったのに!」
「だから悪かったって言ってるだろ!」
 リンに掴みかかろうとしたレンをルカが一足先に押さえ込んだ。繰り返すが、損傷を受ければデータが飛ぶ可能性がある。マスタの不利益になるような事態は避けたい。
 「レン、やめなさい」低く耳元で囁いたら、彼はうっと小さく呻いてその動きを止めた。それからもぞもぞと力ない抵抗をしてルカの腕から抜け出そうとする。またリンへ飛びかかられてはかなわないので、ルカは更にきつくレンの身体を引き寄せた。
「ちょ、ルカ姉……。あの……」
「あなたもリンも、もう少し自分の身体が精密機械だということを自覚した方がいいわ。人のように自然治癒などしないのだから、故障したらマスターの手を煩わせることになるのよ」
「うん、判った、判ったから離れて……。あの、む、胸が……」
「ああっ、レンくんったらあんなに強くお姉ちゃんに抱きしめられて……っ。わたしなんか一度もしてもらったことないのに」
「あー、やっぱレンもおっぱい大きい方がいいんだ。ふーん。……マスターにお願いしたら作り直してくれないかな……」
 悲喜こもごもなそれぞれだった。
 それからレンは交互に使っていたゲーム機を、リンが消えたセーブ地点に到達し直すまで譲ると約束し、ミクは昨日録った歌の一部録り直しをマスタに命じられてレコーディングブースへ向かった。
 さっそくリンがゲームを始めて、レンはその横で大人しく見ている。この二人はミクのようにべったりとはりついては来ないので気楽なものだ。初対面の険悪さはすでに失せているが、それでも必要以上に近づいて来ない。隣がすでに埋まっているせいだろうか。
 ようやく静かになった。そこはかとない解放感を覚える。
 さて自分はどうしようか。レコーディングは終えているのでするべきことはない。まったくの自由時間だ。
「…………」
 先ほどの自身の言葉が跳ね返ってくる。
 したいことがない。
 新曲も出来ていないし、出かける目的もないし、喉の調整は先日済ませた。
 それに。
 ミクもいない。
 ああ、そういえば、いつもはミクがレコーディングをする頃に自分の曲データをもらっていたから、それをインプットしていれば良かったのだ。こういう状況は初めてだ。
 ならば身体を休めていようか。それがいい。バッテリ残量は充分残っているけれど構うまい。
 と思ってベッドへ横たわってみたのだけれど全然眠れない。外部スイッチをつけてくれなかったマスタをうっすらと恨んだ。
「……まだ、終わらないのかしら」
 時計を確認すると、ミクがブースへ行ってから十五分しか経っていなかった。一部だけとはいえそうそう終わりはしない。
 今までは、思いつくままに出してくるミクの提案から、適当に選んでいればよかった。どれを選んでも彼女は喜んで、一緒に買い物をしたり食事をしたり映画を見たり、あるいはどちらかの部屋で二人、同じ曲を聴いていたりした。
 レイゾンデイトル。
 歌うために存在するCV03は、歌わない時にどうしていいか判らない。
 目を閉じて、ルカは『下らないデータ』をなぞる。
 どこを切り取っても彼女ばかりで果てしなく蒼い景色の数々。料理中に悪戯を仕掛けたリンを、ネギを振り回しながら追いかける姿が再生されて、かすかに口元がほころんだ。
「…………?」
 どうして今、笑ったのだろう。あの当時は特になんとも思わなかったのに。
 どうして、こんなデータばかり再生しているのだろう。
 どうして。
 彼女のことばかり、思いだすのだろう。
 『諦めてあげない』。
 あの一言を思い出すと、どうして泣きたくなるのだろう。
 
 それから二十分ばかり粘ってみたがやはり眠りは訪れず、仕方がないのでリビングへ戻った。リンとレンはまだゲームを続けている。ルカにとって永遠に近い三十五分は、二人にとっては一瞬と等しいようだ。
 一緒にゲームを見ていようかとも思ったが、リンのプレイはすでにそこそこ進んでいて、途中からではストーリが判らない。レンはいくつかアドバイスをしてあげたり、難しい箇所を代わってやったりして役立っているが、己にそんな技能はない。
 ミクの作業はまだ終わらないのだろうか。
 散歩にでも行こうか。この辺をぐるりと一周すればそれなりに時間が潰せるはずだ。その頃にはミクも戻ってきて、またあの騒がしいテンションでまとわりついてくるだろう。
「……暇よりはマシ」
 ぼそりと呟いた。別にそんな判りきったこと、いちいち口に出さなくてもいいのに。
「少し、散歩をしてくるわね」
 リンがセーブ画面を表示させたタイミングを見計らって声をかける。二人は同時に振り向いた。「んー」「行ってらっしゃい」
「あ、ついでにオレンジジュース買ってきて。喉渇いちゃった」
「俺バナナシェイク」
 ちゃっかりしている弟妹たちである。
 外に出ると日差しが強かった。日焼けをする事のない白磁の肌がますます白く冴える。セミが忙しなく鳴いている。
 リンとレンに頼まれた買い物をするための針路を考えながら、ルカは足を進めた。店も指定されたので楽なものだ。
 到達したのはカフェ併設のケーキショップである。ここで出しているジュースとシェイクが二人のお気に入りだった。
 テイクアウトを頼んでいる途中、透明なクーラボックスに入っているプリンが目に入った。
「……すみません、これも一つお願いします」
 こだわり卵のとろけるやつではないけれど、まあ、プリンはプリンだ。今日の録りは急遽入ったものだから、ご褒美も準備してはいまい。
 袋をぶら下げて家へ帰ると、待ちかねたという表情でレンが出迎えてきた。リンはゲームに熱中している。シェイクをレンに渡し、リンへは邪魔にならないよう脇のテーブルにジュースを置いた。頃を見てレンが教えてくれるだろう。
「あれ? ルカ姉、自分のも買ってきたの?」
 袋が空になっていないのに気づいたレンが何の気なしに尋ねてくる。「そういうわけではないけど」つい、返事を濁した。本当のことを言わない理由なんてないのに。
「ただいまー……」
 ぐったり疲れた、というかずっしり沈んだミクがリビングへ戻ってきた。どうやらレコーディングははかばかしくなかったようだ。
 それでもルカを見つけると顔を輝かせて胸元へ飛び込んでくる。一瞬、よけようかと思ったがやっぱり好きにさせた。今度は心構えが出来ていたから、転んでしまうこともないだろう。
 「はー、癒されるー」ルカの胸元に顔をうずめてしみじみとミク。受け止めたわけではなく、棒立ちの姿勢でいるだけだから、彼女の姿はなんとなく母猿にしがみつく子猿を思わせた。
「ミク、はい」
 放っておくといつまでもくっついていそうなので、半ば無理やり引き剥がして袋を差し出す。「ん? なにかな?」袋の中身を確かめたミクが更に顔を輝かせた。
「プリンだ! ありがとうっ。でもどうして?」
「リンとレンに頼まれて買い物をしてきたから、ついでに。二人だけでは不公平だから」
 そう、公平を期すために。長姉として弟妹には平等に接しなければならないだろう。ミクが望む家族ごっこに付き合ってやっただけだ。それ以外の理由なんてない。
「そっかぁー。へへ、それでも嬉しいな」
「特別なものじゃないわよ?」
「うん。でもお姉ちゃんがくれたから嬉しい」
 こちらがたじろぐほどのまっすぐさ。ルカは奇妙に居心地が悪くなった。
「あ、お姉ちゃんの分は?」
「私は別に。なくても困らないし」
「そんなの駄目だよ。じゃ、これ半分こしよう」
 これは名案とばかりに笑いかけてくる彼女に対して、どういう表情をすれば良かったのだろう。
「ミクに買ってきたものなんだから、ミクが食べたらいいわ」
「や。お姉ちゃんと、食べたいの」
「…………」
 ほら、また。
 こうして勝手にわがままに、こちらを振り回してくる。かすかな苛立ちと、もう少し違う何か。ルカはそれを分析しようとするけれど、解析結果は常にアンノウンで答えが出ない。
 身体の内側で沸き上がる何かに戸惑って停まっていたら、弟妹たちの会話が聞こえてきた。
「ねえリン、ルカ姉がジュース買ってきてくれたよ。早く飲まないとぬるくなるってば」
「今ちょっと手が離せないから、レン飲ませて」
「はあぁ? お前なに言ってんの? なんで俺がそんなことしなくちゃならないのさ」
「セーブデータ消したの誰よ?」
「うわ、ずりぃ……」
 げんなり顔のレンは、チラチラとこちらを窺って頭を抱えた。甲斐甲斐しくジュースを飲ませてやる光景を見られたくないのか。男のプライドというやつである。
 それを察したミクがひとつ頷いて、「行こ」ルカの腕を取ってリビングを出た。
 階段を上ったので自室に向かうのかと思ったが、ミクが目指した先はベランダだった。わりに広いスペースが取られていて、涼しい季節などはマスタがレジャーチェアを持ち出して昼寝をしていたりする。
 そしてルカの記憶メモリに保存されたデータは、ミクが落ち込んだ時によく訪れる場所だということを、示している。
「いただきまーす」
 プリンの蓋を開けて一口。「〜〜〜っ」感無量な様子でプリンを味わうミクだった。
「はい」
 すくい取ったプリンを差し出してくる。ルカは逡巡ののち、それを口に含んだ。甘やかな欠片が口の中でふわりと広がる。
「おいしいね」
「……まあ、そうね」
「ところで今のって間接キスだね」
「そうね」
「うん、そういうクールな反応を予想してた。だから辛くなんかないよ」
 言葉とは裏腹にちょっと悲しそうな顔だった。
 交互にプリンを食べながら二人ともしばし無言でいた。無駄話を嫌うルカはともかくとして、こうもミクが黙っているのは珍しい。おかげで少し調子が狂う。沈黙が気まずさを生むわけではないけれど、ルーチンの外だから、どこか落ち着かない。
「録り直しはどうだったの?」
「うん、一応マスターからはオッケーもらったよ。おまけみたいな感じだったけど」
 もそりとプリンを口に運びながら、ミクは力なく笑う。
「次の曲、英語の歌詞が入っててね。ほら、わたしバイリンガル機能ないから上手く歌えなくて。それでちょっとやり直しになっちゃった」
「そう」
「英語の部分をコーラスに変えてお姉ちゃんに歌ってもらった方がいいと思うんだけど、それじゃ駄目なんだって」
 プリンがすべて二人の腹に収まった。「ごちそうさま。おいしかった」カップを袋に戻して口の部分を縛る。手遊びにそれを回しながらミクは空を見上げた。
 つられてルカも視線を上げる。晴天高く、雲も散り散りで全体的に蒼い。
 綺麗なのだろうけれど、心は動かなかった。
 目を隣の彼女へ戻す。
 むに。
 少女の柔らかな頬をつまんだ。「ふにゃっ」不意打ちに驚いたかミクの身体が一度跳ねた。
「な、なに?」
「マスターがあなたに歌わせたということは、その曲はあなたが歌うためにあるんでしょう。それなら、あなたが出来る限りのことをすればいいだけで、私に頼る必要はないわ」
「でも、お姉ちゃんが歌った方が完成度高くなるんだよ?」
「それでも。ミクが歌うべきなのでしょう」
 相変わらず彼女は下らないことで悩む。スペックで言えば確かにこちらの方が優れているが、それだけで判断できるものではない。英語があろうがなんだろうがミクが歌うべき曲はあるし、リンやレンでなければ駄目なものもあるし、もちろん、ルカにしか歌えない曲だってある。
 それなら、与えられた能力を最大限に発揮して歌えばいいだけの話だろう。
 ミクは心なしか放心したような表情でルカを見つめていたが、やがてうんうんと大きく頷いて大輪の笑顔になった。
「そうだね、お姉ちゃんの言うとおりだよ。あー、なんか気持ちが軽くなった! ぎゅってしていい?」
「最後のは意味が判らないわ」
「やっぱりお姉ちゃんが大好きっていうことを再確認したから、それを表現したいの」
 良いとも駄目だとも言っていないのに彼女は力いっぱい抱きついてきた。またこのパターンか、とルカは辟易した溜め息をついた。
 ぎゅうぎゅう抱きしめてくる腕と、だらりと下がった腕。「お姉ちゃん良い匂いがするー」陶然とした風情で下らないことを口走るミク。応じる気にもならないルカ。
 いつもどおりのルーチンワークだ。
 いつもどおりの彼女になった。
 ルカの唇から、ほぅ、と息が洩れた。
 
 ルーチンワークは続く。ルカは日々記憶データを守るのに苦心していたが、このところ、なんとなくミクが近づいてくると気配を感じ取れるようになってきて、以前ほどは急襲を受けずに済んでいる。リンやレンはまったく気づかないので、何か彼女独自の周波数があるのかもしれない。助かるけれど、電磁波を感知する機能なんて搭載されていないのに不思議なものだ。
 メンテナンスを終えてリビングへ入ると、二人がけのソファを陣取ってミクが昼寝をしていた。そんなところで眠っていたら関節を痛めるだろうに。わずかに眉を潜め、起こそうと彼女の肩先へ手を延ばした。
「ん……」
 はらり、額にかかる前髪が落ちる。思わず手を止める。起こそうとしていたのに起こしてしまったかと焦った。
 少女特有の淡い直線で構成された身体。無防備な、ある種のしどけなさを持つ寝姿に、ルカはどういうわけか彼女の覚醒をもったいないと思ってしまう。
 ソファから垂れ下がる長い髪をすくい取った。海の色をしたそれは軽やかに揺れ、見た目にも涼やかで彼女自身の激しさとはかけ離れている。けれど、けれど……。
 綺麗だと、感じる。
「何を、下らないこと……」
 彼女はただのCV01だ。家族ごっこで喜ぶ単純なアルゴリズムしか持たないプロトタイプ。それだけだ。
 髪に触れていた手を離して彼女から目をそらした。
 ひどい倦怠感に襲われていた。
 もしかしたら、マスタがメンテナンス中にミスをしたのかもしれない。もう一度ラボで確認してもらおう。ルカは覚束ない足取りで先ほど通った道筋を戻った。
 ラボでは丁度よくマスタがルカのデータを確認していた。「マスター」「ん? なんだい?」ディスプレイから顔を上げて穏やかな微笑を浮かべたマスタは、椅子を回転させてルカに向き直った。
「先ほどのメンテナンスですが、少し調子が悪いのです。どこかにエラーは出ていませんか?」
「エラー? うーん、目につくようなものはなかったけど……」
 ログを目視で確認し、さらにエラー文言で検索をかける。見つかりませんでした。ダイアログをルカに見えるように身体をよけて示し、「特に異常はないよ」軽く首をかしげた。
 ソフト的な異常ではないのだろうか。身体パーツに何か損傷を受けた? しかし最近はミクに激突されることもなくなったし、一人で転ぶようなへまもしていない。無理な負荷をかけたりはしていないのだが。
 顎に手を当てて考え込むルカに、マスタはますます首を傾げる。
 と、そこへ力強い足音が聞こえてきた。ビクリとルカの身体がすくむ。この音。これは確実に彼女の足音だ。
 マスタがごく小さく目を眇めた。
 勢いよくドアが開いて予想通りの少女が突進してくる。避けなければ、と思うのだが身体が動かない。なんだこれは、恐怖か? ルカの思考ルーチンは最善策は不可能と判断し、次善策として足腰へ力を込めて踏ん張った。
「お姉ちゃんお姉ちゃんお姉ちゃん!」
 飛びついてきた。比喩ではない。彼女はまさしく飛んだ。まるで弾丸だった。棒立ちでいては堪えきれない。少しでも衝撃を減らそうと彼女の身体に腕を回して押し留める。けして重くはないはずなのにその身体はけっこうな圧力をルカに与えた。慣性の法則が憎い。
 なんとか倒れこまずに済んだルカは、肩で息をしながらミクを睨みつけた。
「ミク! 危ないじゃない!」
「さっきお昼寝してたらね、夢にお姉ちゃんが出てきたの!」
 聞いちゃいなかった。
「それでやさしーくわたしの髪を撫でてくれて、すごく気持ち良かったんだぁ」
「――――っ」
 それは、少々誇張されているようだけれど、夢では。
「その後でぎゅってしてくれて、ずっとポンポンて背中撫でててくれたの」
 そこまではしていない。
「起きてから夢だって気づいたけど、あんまり気持ちよかったから現実でもお姉ちゃんにさわりたくなっちゃった」
 あの殺人的な突撃はそのせいか。そこはかとなく自業自得のような気もするが、いやいや、たかが夢ごときでこんなことをされては堪らない。
 抱きつくだけでは収まらないようで、ぐりぐりと頭をこすりつけてきながらミクはハイテンションでまくし立てる。
「あんな夢見るなんてどんだけお姉ちゃんのこと好きなんだって感じだよね。まあ実際めちゃくちゃ好きなんだけどっ。あ、もちろんリンちゃんもレンくんも好きだよ。でも悪いけどお姉ちゃんには敵わないな。というわけでわたしがこんだけ好きなんだから、これはもうお姉ちゃんもわたしを好きになるしかないよ」
「なぜ!?」
 声がひっくり返った。「というわけで」って、何一つ理論らしきものが見えないのだが。
 ミクの猛攻撃にこれ以上ないほど狼狽していたら、マスタがくつくつと忍び笑いをしだした。
「まさかこんなことになるとは、ルカを作った時は想像もしてなかったな」
「呑気に見ていないで、助けていただきたいのですが……!」
 ルカの苦々しい懇願にもマスタはどこ吹く風、デスク上の缶コーヒーを持ち上げて悠々と飲み下すと、「そういうのも悪くはないだろうさ」気にするな、と片手を振った。
「マスター!」
「あまり邪険にするものじゃないよ。君の『妹』なんだから」
「っ、妹だなどと思ったことは一度もありません!」
 あまりにも泰然自若としたマスタの振る舞いに激昂していた。ルカの思考は何一つサーキットを通らずに口から本音を吐き出した。
 「おっと……」マスタが小さく眉をゆがめた。「ルカ、今のはまずい」
 不意に腰へかかっていた圧力が消える。「?」戸惑い、視線を下ろしたら、ミクが俯いていた。
「ミク……?」
「うん。知ってた。お姉ちゃんがこういうの嫌だって」
 淡々とした色のない声。長い髪に隠れて、その表情は窺えない。
「ん……と。さすがに、ちょっときついかな……」
 ああ、これは声ではなくて。
 ただの音だ。
 いつだって『下らない』声を届けていた彼女が、無意味な電子音を発している。
「ミク、今のは……」
「ずっと続けてたらお姉ちゃんもわたしたちのこと家族だと思ってくれるかなって頑張ってたけど、駄目なんだね。ごめん。もうやめるから」
「なに、を」
 無意識にミクの頬を包んで顔を上げさせた。
 彼女の瞳は潤んで、表面に張った透明な膜がすべてを歪ませて何も映していなかった。
 留め切れなかった一粒が頬を伝う。
 初めて見る、彼女の涙だった。
 焦燥感が襲う。こんな機能、なんの役にも立たないと思っていた。マスタの酔狂でつけられた意味のないお遊び。
 今この瞬間、ルカはその思いを強くした。
 なぜこんな機能をつけたのですか、マスター。
 落ちる涙を拭おうとした手を、払われた。
「今までごめんね。もう、ルカさんには近づかない。迷惑もかけない、から」
 それはあの時の謝罪とはまったく意を異にする言葉だった。
 譲歩どころではない。それは完全撤退を意味していた。
「――――っ、あ、諦めないんじゃなかったの?」
「だって、これ以上したら嫌われちゃうじゃない!」
 激情のままに叫び、ミクはラボを飛び出した。追いかけるべきか放っておくべきか、ああもう、どうしていつもいつも肝心なところで判断を下せない!
 立ち尽くすルカに、マスタは「こっちに座ってお茶でもどうだい?」普段となにも変わらない穏やかな声をかけてきた。ルカはマスタの顔を見遣って、それからミクの消えた入り口へ視線を巡らせて、唇から音のなりそこないを混じらせた息を吐いて、命令に従った。
「といっても、缶コーヒーしかないんだけどね。無糖と微糖とカフェオレがあるけど、どれがいい?」
「……どれでも」
「じゃ、特別にとっておきのカフェオレをあげよう」
 手渡された缶を開けるでもなく手の中で遊ばせる。マスタがやれやれ、というふうに苦笑した。
「大人はこういう時に不便だよねえ」
「なにが、でしょうか」
「できないことが多くてさ。コーヒーは飲めても泣いてる女の子ひとり追いかけられない。一緒に泣いてあげることもできない」
 困ったものだと彼は肩をすくめて、自分の缶を一気にあおった。
「あとはそうだな、自分に正直になるのが下手になるね。無意識に自分を騙すのが上手くなって、簡単な答えを見つけられなくなる」
「……なんのことでしょうか」
「君にエラーなんてないよ。あるのは嘘……いや、内緒事、かな」
 何もかも見透かしたような視線がルカを射抜く。咄嗟に顔を背けてそれから逃げた。彼は喉を鳴らして空き缶をゴミ箱へ捨てる。ルカの手にある缶は閉じられたままだ。
「気づいたのなら迎えに行ってあげなさい」
「マスターの」
「命令じゃない。ただのアドバイスだ」
 ルカの言い逃れを遮るその声は穏やかだが重圧的で、圧されたルカは声を詰める。
 苛立ち紛れに嘆息したルカが立ち上がる。「お返しします」タブが閉じたままのコーヒーをマスタへ差し戻した。それを受け取って、マスタが一度中空へ放り投げてからパシリと良い音を立てながらキャッチした。
「嬉しいね、とっておきが戻ってきたよ」
「お好きなのですか?」
「どちらかといえば、甘ったるくて好きじゃないな」
「……では、なぜとっておきなのですか?」
「だって君、女性が来た時に味気ないブラックしかないんじゃ申し訳ないでしょう」
「私が外界を認識できるようになってから、この家に女性が訪ねて来たことは一度もありませんが」
「当たり前だよ。だから今もここに取っておかれてるんじゃない」
 自分たちのことのみならず、マスタは大概の事柄について無意味を好むようだ。
「失礼します」
 うんと頷いたマスタが、穏やかに目を細めた。
「人はパンのみで生くるにあらず。僕はただの飾りとして君たちに身体をあげたわけじゃないよ」
 その手は色々とできることがあるだろう? どこか揶揄のようにマスタは告げて、自身の両手を広げてみせた。
「……そうですね」
 ルカはほのかに笑う。
 それはおそらく彼の言うとおり、無意味ではないのだろう。
 マスタが広げていた手を片方、軽く振ってきた。
「大丈夫。ミクは子どもだけれど、君が思っているほどは子どもじゃないから」
「だといいんですが」
 晴れやかに、ルカは応じた。
 
 ノックをしても応答がない。ノブを回すと鍵がかかっていなかったので勝手に入った。
 ミクはベッドでうずくまっている。スイッチが切れているようにも見えたがそうではないだろう。傍らへ歩み寄ってベッド脇に手をついた。下から覗き込んでみたが、彼女は微動だにしない。
「ミク。怒っているの?」
「……ううん」
 沈み込んだ返事と共に、小さく首を振る。
「なら、顔を上げてちょうだい」
「……やだ」
「どうして」
「今、ひどい顔してるから」
「別に構わないわ」
 花開く笑みだろうが、くしゃくしゃの泣き顔だろうが、己にとっては特段なにも変わらない。
 ミクがわずかに、目だけが覗く程度に首を持ち上げて恨めしそうにルカを横目で見遣った。
「こういう時は『泣いてる君も可愛いよ』って言うものなんだよ」
「泣いてるミクも可愛いわよ」
「さっぱり嬉しくない……」
 「もう」意地を張っているのが馬鹿らしくなったのか、勢いよく首を上げると袖で目元を乱暴にこすって涙を拭った。はああぁっと深い深い溜め息をつく。
 ベッドへ足を投げ出したミクは、軽く眉を寄せて視界からルカを外した。
「マスターに言われて来たの?」
「ええ」
「だと思った」
 唇を尖らせて言い捨てる。
「いいよ別に、放っておいても。ルカさんだってめんどくさいでしょ?」
「確かに面倒だけれど」
 己の手は、できることがいくつかあるらしい。
 多分これは、その中のひとつ。
 ミクが目を瞠った。
「お、お姉ちゃ……」
 柔らかく包んだ腕の中、彼女はそわそわうろたえている。そういえば彼女をこんなふうに抱いたのは初めてだ。ルーチンワークにない挙動だったが不思議と迷いは生まれない。
 上体を屈めて身の内へ彼女を取り込んだ。内緒話をするような距離で、整わない呼吸音が聞こえてくる。
 大人は嘘をつくのが上手い。上手い嘘の極意とはなにか。自分自身すら騙すことだ。
 そうしていた。そうできていた。
 けれどもルカはまだ大人の差しかかりで、完璧ではないからふとしたきっかけで嘘は崩れる。
 自分自身についていた嘘が暴かれて、一度気づいてしまえばもう二度と騙せない。
 上手い嘘をつくにはもうひとつテクニックが要る。
 大事なところだけ嘘にして、あとは本当をさらすことだ。
 ルカにとって彼女はCV01、初音ミク。
 それ以外のなにものでもない。
「あなたを妹だと思ったことなんてないのよ」
「さっき、聞いた、よ……」
「だから」
 
 彼女は初音ミクという唯一の存在。
 
 好きになるのに、それ以外の何が必要?
 
 抱きくるむ手を片方上げて、そっと彼女の頬を撫でた。
 始まりの思い出は彼女の声で、始まりの感触は感情の恋で、コイルが伝えるのは愛しさのコール。
「妹では嫌だったの」
 それこそが何もかもを裏返す本当。オセロゲームのように、決定的なひとつをひっくり返せばすべてが変わる。
 突如としてミクの全身から力が抜けた。慌てて抱きかかえようとするが不安定な体勢だったせいか一緒に倒れこんでしまう。二人でベッドに寝転がるかたちになり、赤と蒼の髪が夕暮れ時の水平線みたいに広がった。
 倒れた先が柔らかなベッドでよかった。危うく『思い出』が消えてしまうところだった。
 つと、ルカは気づく。マスタが消さなかったのはデータではないのだということに。
 無意味なことばかりする人だと思っていたけれど、本当はルカが気づいていないだけで彼の行動にはすべて意味があるのかもしれない。開けられることのないカフェオレにも。
「ほんと?」
「ええ」
 ミクがぎゅっと抱きついてくる。ルカは少しだけ逡巡してから少女の直線的に綺麗な身体を抱き返した。へへ、と彼女は小さく笑った。ひどく幸福そうだった。
「……初めて、してくれたね」
 どれだけ感触を味わったところで充足することはないのだと、全身が伝えてくる。
 不器用にミクを抱き寄せた。インプットであり、アウトプット。彼女の感触を感じ取って、自身の感触を送る抱擁。今まで彼女へこんなふうに何かを届けたことはなかった。ないと思っていたからだ。
「気持ちいい」
「……うん」
「わたしもね、ほんとは家族じゃ嫌だったよ」
 彼女は子どもで、けれど嘘をつけないほど子どもではなかった。
 ただその嘘はどこまでも拙く、おそらくは誰一人として騙せていなかったけれど。彼女自身を含めて。
 鬱陶しいだけだと思っていた彼女の腕は、今となっては驚くほど心地良かった。眼の底が熱くなってこめかみに鈍い痛みが走る。理解不能な機能がルカの映像インタフェースを潤ませる。忙しなく、まばたきを何度も繰り返すことで堪えた。
 ミクが首元へ擦り寄ってきて、髪が少しくすぐったい。指先で優しく彼女の髪を払う。
「それにしてもお姉ちゃん、鈍いよ。鈍すぎだよ。わたしのこと好きなくせに、なんであんなふうに冷たくしてたの?」
 軽く拗ねた声にはしかし怒りなどない。単純に不思議がっているようだ。
 ルカは分析をする。メモリを辿って、最初の最初まで遡り、脳内で順次再生しながら己の感情ルーチンを解析していった。
 そしてルカは解答へと到着する。あまりにもあんまりな、情けなくて泣けてきそうな解だった。
「だって……」
 もにょ、と口ごもり、顔を背けた。
「……『生まれる前から好きだった』なんて、そんな恥ずかしいこと言えるわけがないじゃない」
 きっとそうだった。インプリンティングよりたちが悪い。神の悪戯みたいに性悪な運命として己の心は決められた。
 初めから大人だったルカは、その無垢を認められなかったのだ。
 彼女は瞬時、ポカンとしたようだった。それから小刻みに全身を震わせて、その内側から湧き上がってくる何かに耐え切れなくなったようにルカの肩口に額を強く押し付けてくる。
「かっ、可愛い! なにそれ可愛すぎるよお姉ちゃん!」
「わ、ちょっ、痛い!」
 あまりにもきつく抱きしめてくるものだから、内部機関が圧迫されて監視プログラムが警告を発してくる。ありていに言えば身体が悲鳴を上げた。
 「可愛い可愛い!」ミクはまだまだ治まらないようでなおも腕の力を強める。家族ごっこをしていた時の比ではない。もしかして以前はあれでも遠慮していたのか。ミク、恐ろしい子……!
 恐怖している場合ではない。このままでは本当にどこか壊れる。
「ミ、ミクっ。やめなさい! やめないと嫌いになるわよっ」
「うっそだぁ」
 疑いもしやしない。
 それでもいくらか落ち着いたらしく、締めつけてくる腕を緩めると、ミクはまっすぐにこちらを見つめてきた。
 少女らしい直線の視線を受けて、心が躍った。
 彼女の指先が頬をなぞる。
「お姉ちゃん、泣きそうになってるよ」
「……痛かったのよ」
 「ふーん。ま、そういうことにしておいてあげる」小癪にも、はいはい判っていますよという顔で言うミクへ何かを言い返したかったが、困ったことに何も出てこなかった。アウトプットは苦手だ。
 小癪だけれど、彼女のそんな顔も、なんというか、良い。
 泣いていようと笑っていようと、無闇に勝ち誇っていようと、何も変わらない、絶対唯一の好きな彼女だ。
「人は、パンだけで生きるのではないそうよ」
「ん?」
「ボーカロイドも、歌うためだけに在るのではないのかもしれない」
 遠くを見つめながら呟いたら、ミクは小さく苦笑した。
「やだなあ、知らなかったの?」
 こっちを向けと手のひらでルカの顔を誘導して、ひどく端整に微笑む。
「わたしはずっと前から知ってたよ」
 さやかな愛情がその声には込められていた。ルカは今さらのように触れ合っている箇所を意識する。直線的だけれど柔らかな肌。翻弄される。砂上の楼閣は瓦解して身を守るものは何一つありはしない。このインプットは刺激が強すぎる。壊れそうだ、おそらく理性とか平常心とか、そういうものが。
 臨戦態勢の凛然とした視線に理性がリセットされる。
「ねえお姉ちゃん。大好き」
 ああ、自分たちは歌うためだけに在るのではない。
 つまり、この唇も、歌を形作るためだけに存在するのでは、ない。
「お姉ちゃんは?」
「判っていないの?」
「判ってるけどちゃんと聞きたいんだよぅ」
 唇を尖らせて拗ねるミクへ苦笑いを向けて、さらりと蒼い髪を手櫛で梳いた。彼女は喉を撫でられた猫みたいな顔をしながらワクワク待っている。
 コア部品が三パーセントばかり収縮したようだ。痛みはあるけれど警告は出ていない。ならばこれは異常な事態ではないのだろう。
 ルカは歌ではないものを唇に乗せる。
 伝えたいもの。
「あなたが好きよ」
 愛を。
 
 
 
 
 
「ところで、唇にはもうひとつくらい、できることがあるよね?」
「………………」
 
 
 
「なんでおでこ!? この流れでなんでそこ!?」
「あなたには、まだ早いんじゃないかしら」
「全然早くないよ。むしろ遅すぎるくらいだよ。ああでも真っ赤になってるお姉ちゃんも可愛い。これはこれでアリかも……っ」
「………………」
 
「いいけどね。諦めないから」
「……そう」
「あはは。嬉しそう」
「そんなことないけど」
「ふぅん?」



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