秘熱


かわいそうだったね
この羊飼いの男の子は

「狼が来たぞ」なんて言わずに

「誰かそばにいて」って
叫べばよかったのに
(藍川さとる『ウィーカーセックス スピーカーセックス』)
 
 
 
 
 寝起きは良い方である。メールを受け取ってすぐに覚醒、ベッドを抜け出してリビングへ向かう。
 早朝まだ薄暗い室内は無人だった。両親も兄もまだ起きていないようだ。黙って出かけたら心配をかけてしまう。書き置きを残しておくためのメモにできそうな紙を探すが丁度良いものがない。仕方なく自室に戻って取ってこようとしたところで、ガチャリとドアが開いた。
「あれ、おはよう沙羅。今日は早いね」
 欠伸まじりにドアを開けた兄のホクトが沙羅を見つけて眉を上げる。「おはよう。お兄ちゃんもこんな時間に起きてくるのって珍しいんじゃない?」問いかけると、彼は小さく苦笑して肩をすくめた。
「ドアが開く音がしたから」
 ああ、なるほど。ドアの開閉音は軽く彼のトラウマだ。連れ去れた時の音、置いていってしまった時の音。どうしても敏感になってしまうのだろう。
「で、どうしたの? 休みなんだからゆっくり寝ていればいいじゃないか」
「なっきゅ先輩からメールが来たの。ちょっと行ってくる」
「優の家に? あ、じゃあぼくも行く」
「なんでお兄ちゃんも来るのよ」
 ムッとしたように言うと、ホクトは当然だろうという顔をした。
「だってぼくと優は結ばれる運命にあるんだから、優に何かあったならぼくが関わらないと」
 沙羅の口から深く重い溜め息が勢い良く落ちた。この兄、何かといえばすぐにこれだ。高次元の視点と同化していた時に何を見たのか知らないが、それは『今』とは違う時間の話である。運命だというなら『今』は『優と結ばれる結末ではない』運命の続きだ。
 両手を腰だめにして斜めにホクトをねめつける。妹にすごまれた兄はわずかに腰を引いた。
「あのね、なっきゅ先輩に呼ばれたのは私であってお兄ちゃんじゃないの。文字通り『お呼びじゃない』の。判る?」
「うぅ……。で、でも、ぼくも優に会いたい……」
 基本的に気弱な性分であるホクトは、沙羅の剣呑な視線に怯えつつ、それでも搾り出すように言い返してきた。
 ふう、またしても沙羅の唇が吐息を洩らす。自分たちの命の恩人であるわけだし、そこは感謝しているのだが、どうもこのなよなよした性分が癇に障る。兄として嫌いなわけではないのだけれど。
「とーにーかーく、今日は私だけで行くから。お兄ちゃんはお留守番。オーケイ?」
「……なんか、沙羅ってぼくが優に会うの嫌がるよね。LeMUじゃ優をぼくに任せてもいいって言ってたくせに」
「そんなこと言ったっけ?」
 はて記憶にないでござる。顎に手を添えてそらとぼける沙羅だった。「言ったよっ」ホクトが眉根を寄せて反駁する。
 あの時は追い詰められていた。状況を冷静に分析して、脱出は不可能だと沙羅は判断を下していた。そう思っていたから、最後の最後、自分ではどうにもならないことを、彼にゆだねたのだ。
 ああ、けれど。
 ホクトは忘れているようだけれど。あるいは判っていないのだろうけれど。
 その前に、ちゃんと言っているのに。
 ――――『本当は、嫌なんだよ。』
「ああもう、なっきゅ先輩待たせちゃう。じゃ、そういうことでっ」
 両手で適当な印を組み、ドロン、と消える真似をする。もちろん本当に消えるわけがないので沙羅はさっさと出かける準備を始めた。背中にホクトの恨みがましい視線が刺さってくる。
 着替えてから髪を二つにまとめていると、小さく足音が聞こえてきた。
「こらこら子どもたち、朝っぱらから何騒いでるんだ?」
 Tシャツにスウェットという気の抜け切った格好の父親が顔を出してきたので、二人は揃ってそちらを向いた。
「お父さん」
「おはようパパ」
「……やっぱり慣れんな、その呼び方」
 高校生の実の父親ながら心も身体も二十代な彼は、息子と娘に対して微妙な表情をしてみせた。
「沙羅はお出かけか?」
「うん。なっきゅ先輩のところに行ってくるでござる」
「ぼくも行きたいって言ってるのに、沙羅が駄目だって言うんだよ。お父さんからもなんとか言ってやってよ」
 男同士の連帯感でも期待したか、ホクトが武を味方に引き込もうと飛びつく。「あん?」起き抜けできちんと頭が回転していないらしく、「なんのこっちゃい」武は息子を受け止めて数瞬してから沙羅へ説明を求めた。
 手短に先ほどのやり取りを説明してやると、武は妙に品のない笑みを浮かべてホクトの頭をポンポン叩いた。
「そりゃお前、沙羅は大好きなお兄ちゃんを取られたくないんだよ。可愛い妹心じゃないか、判ってやれよ」
「はあぁぁ?」
 的外れにも程がある父親の言葉に、沙羅は思わず素っ頓狂な声を上げた。
 いや確かに兄として好きではあるけれど、それは理由でもなんでもなく本当の理由は別にある。
「はっはっは、照れるな娘よ」
「照れてないし全然違うっ。もうっ、いいから二人とも部屋に戻ってっ」
「ホクト、今日は引いてやれ。沙羅もそのうち兄離れするさ」
「違うってのに……っ」
 聞く耳を持たない父親に歯軋りしつつ、このまま反論していても埒が明かないと手早く準備の残りを済ませて家を飛び出す。「優と優によろしくなー」武がのんびりと声をかけてきた。異様に腹が立ったので無視する。
 
 
 
 ドアチャイムを鳴らすと、げっそりやつれた先輩が現れたのでちょっと引いた。
「あー……、いらっしゃい」
「お、お邪魔します。どうしたんですか先輩、なんかものすごく疲れてるみたいですけど」
「マヨにメール送るちょっと前まで、徹夜でレポート仕上げてたのよ」
 「入って入って」手招きに応じて優の後に続く。家の中は静かだった。
「田中先生は出かけてるんですか?」
「一昨日くらいから研究所に詰めてる。こう言ったらなんだけど、キュレイウィルスの検体が増えたからね、解析に忙しいみたいよ」
 少し言いにくそうに優。その増えた検体は他ならぬ沙羅の両親である。そこは気も遣うだろう。そういえば母親もちょくちょく呼ばれているようだった。そういった話をすることはあまりないから気にしたこともなかったが。
 優の自室に招かれて、遊びに来た時いつも座っているクッションへ腰を下ろす。と、優が首を振ってきた。
「今日はこっち」
「は?」
 優の手がぽふぽふ叩いているのはベッドであった。疑問符を顔いっぱいに貼り付けた沙羅へ、優は疲労で半分閉じた目を向ける。
「徹夜で頭脳労働してものすごーく疲れてて一刻も早く寝たいのに、変に頭が冴えちゃって眠れないことってない?」
「ありませんね。そこまで頭を使ったことがないので」
「くっ、天才め……!」
 悔しそうに親指の爪を噛みながら苦々しく呟く。悔しがられても事実なのだからしょうがない。三十分ほどもらえれば鳩鳴館大学のホストマシンをハッキングして全学生のデータの末尾に「(笑)」をつけたうえ理事長の経歴に前科百犯を加えるくらいのことはできる頭脳の持ち主だ。
 まあ、別の意味で頭が悪い行為なのでしないが。
「私は天才じゃないからそうなるの。そこでマヨの出番なわけよ」
「強制的に睡眠状態にする薬でも用意しろっていうんですか? それなら薬局に行ってください。効果は弱いですけどそういう作用の薬がちゃんと売られてますから」
 なんなら買ってきますけど。立ち上がりかけた沙羅を優がタックルで止める。足をすくわれて沙羅がべちゃりと床に倒れこむ。
「そうじゃなくてぇ〜。LeMUでしたみたいに一緒に寝てってこと」
「……意味が判りません」
「マヨ、ふかふかであったかくて気持ちいいんだよねー」
「私は抱き枕ですか」
 早朝に人を起こしておいて、自分が眠る手助けをしろと言う。なんという自分勝手な願いだ。先輩でなかったら高等数学の公式を耳元で数時間囁いてやるところである。
 いや……。
 彼女でなかったら、かもしれない。
 それにしても、眠るだけか。一応服装とか髪型とか、それなりになんというか、努力をしてきたのだけれど。特にどこかへ出かけるわけでもなく、ただ一緒に眠るだけですか、そうですか。
 別に何かを期待していたわけではない。そうとも、ただの後輩が何を期待しろと言うのだ。
「ねーマヨー。お願いー」
「……判りましたよ」
 下らないことに付き合わせやがってという顔で頷く。「さすがマヨ。良い後輩持ったわ、ほんと」無邪気に笑う優が沙羅を引き起こした。
 ベッドに二人で潜り込むと、優は沙羅の胸元へうずまるようにすり寄ってきた。
 ああ、本当にLeMUでの思い出と重なる。あの時は硬い診察台で、刻一刻と迫る死の恐怖と戦いながら、だったけれど。
「あの時も、くっついてるとよく眠れたな」
「わりといつもよく寝てたと思いますけど」
「時間的にはね。でもやっぱり、起きた瞬間とか、自分のおかれてる状況を思い出したりして恐くなったりしたのよ。マヨがいてくれる時は、そういうのちょっと忘れられた」
 数日後には深海に飲み込まれる、助かりようがない状況。実際には仕組まれたものであって、安全は確保されていたけれど、そんなことを知る由も無かった当時は、誰もが……涼権以外の誰もが、水圧より前に、見えない重圧に押しつぶされそうになっていた。
 手遊びに優の髪を撫でながら、沙羅はかすかに口元をほころばせた。
「年下に縋らないでくださいよ」
「一応、あの時は頑張って先輩ぶってたわよ」
「……そうですね」
 震えて泣き叫びたいのを我慢して、思い出話や他愛ないジョークで精一杯沙羅を、沙羅の心を護ろうとしてくれた、名の通り優しい人だ。
 兄が惹かれたのも良く判る。
 優がまどろみ始めたので沙羅は口を閉じた。疲労しすぎて眠れなくなったことはないけれど、幼い頃、絶望で壊れそうな自分の手を兄がずっと握って引き止めてくれたことはある。
 誰かと触れるという行為が精神を安定させることは、医学的にも立証されている。だから優が誰かの肌を求めるのも不思議ではない。
 けれど。
 それが『誰か』ではなく、『沙羅』だったことは、医学的にどう証明されるのだろう。
 彼女は沙羅の代わりにホクトが来ても、同じようにしたのだろうか。
 
 いつの間にか自分も眠ってしまっていたらしい。ふと目を覚まして、時計を確認するとあれから五時間が経過していた。優は逃がすものかと言わんばかりにしっかり沙羅を捕らえている。その寝顔に、肺の容量が突然半分になってしまったかのような息苦しさを覚えて、沙羅は大きく口を開けて酸素を求めた。
 無邪気で、無防備で、天衣無縫なその寝姿。
 頬に落ちた髪を指先で払うと柔らかな感触が伝わってきた。
 沙羅は眉根を寄せながら硬く目を閉じた。
 薄く開いた唇から、切なく吐息が洩れる。
 このひとが。
 溢れそうになった想いを咄嗟に奥歯で噛み潰した。
 この想いは、誰にも言えない。
「なーっきゅ先輩。そろそろ起きてくださいよ」
 ぺしぺしと優の肩を叩いて覚醒を促す。優はぼんやり目を開けてなおもまとわりついてきた。
「もうちょっと〜」
「もう午後ですよ。このまま一日つぶされるのはごめんですからね?」
「むー」
 優が仕方なく身体を起こし、そのまま大きく伸びをする。「うわ、結構寝たねー」時計を見遣って感心したように呟いた。そのまま起き上がるのかと思ったらこちらに倒れこんできた。抱きつかれて沙羅の心拍数が上昇する。罪作りな人である。
「なっきゅ先輩っ。起きるんじゃないんですか」
「起きるけど、もうちょっとマヨとくっついてたい」
 これは罪にしても良いと思う。
「べ、べたべたしないで下さいってばっ」
「おっ、なによその『私はオトナだからそんな子どもっぽいことはしませんよ』みたいな態度。彼氏もいないお子ちゃまのくせに」
 好きな人ならいる、と言いかけて口をつぐむ。「関係ないじゃないですか」理のない反発は優のいなすような笑みに吹き飛ばされた。
「いいからいいから。先輩との心温まるスキンシップを楽しみなさい」
 温まるどころか熱くて仕方がない。熱が高まりすぎて爆発しそうだった。どうしてこの人はこう、無自覚にこちらを困らせることをするんだ。
 きゅむっと抱きすくめられて自由を奪われる。幼い頃の拘束は絶望と恐怖しかなかったけれど、今のこれはそうじゃないものしかなくて、だから余計に苦しい。優の肩に額を押しつけて両腕を背にまわした。優は沙羅が乗ってきたのだと勘違いをする。
 駄目だ。言いたい。言えない。言わない。言いたい。駄目だ。
「ありがと。マヨがいてくれてよかった」
 耳元に置かれた言葉は、優しくて、無邪気で、純粋で。
 すうっと、沙羅の全身から熱が引いた。
 そうか。自分はこの人の役に立てたのか。いてよかったのか。
 じゃあ……それでいいや。
 腕の力を抜いて、くぐるように優の双眸を見据える。
「貸しひとつですから」
「あはは。お礼はなにがいい?」
 見下ろしてくる瞳は三日月をしていて、沙羅の内側で逆巻いていた熱になど気づきもしない。
 沙羅は柔らかなベッドに横たわり、悪戯に目を細めた。
「キ……」
「キ?」
 復唱した優が小首を傾げて、それから少し焦ったような表情になった。「え、マヨ、ちょっと」
「キグルミを着て過ごす母親に、どう接したらいいか教えてもらえますか」
「は?」
「どうしました、先輩? もしかして違うことでも考えたんですか?」
「え、いやいや。そんなことないけどね? うん、そうね、キグルミ、難しいわよね」
 優がベッドの上で正座をして、わざとらしいしかめ面を作ると考えるポーズを取った。そのしどろもどろな様子に沙羅が喉を鳴らす。
 じっとりとした視線を送られた。
「……マヨ、あんた先輩をからかったでしょう」
「これがけっこう真剣に悩んでいるのでござるよ。ニンニン」
「真剣さがこれっぽっちも感じられない」
 呆れた嘆息をこぼし、ピンと額を弾いてくる。「そもそも、そういう意味じゃないし」「え、じゃあどういう意味だったんですか?」なおもからかってやると、彼女は苦虫を噛み潰したような表情をして、今度は頬を引っ張ってきた。
「生意気なことを言うのはこの口かっ」
「いあぁっ、なっひゅへんはい」
 やめてください、と懇願する前に指が離れた。崩れた造型を直すように自分の手で頬を揉みながら沙羅は小さく唸る。
 まったく、年上のくせにずいぶん幼稚な人である。それともこちらの精神年齢が高すぎるのだろうか。IQとEQは直接的に関係するわけではないが、IQの高さゆえ常人では得がたい経験を(主に負の方向に)重ねてきたおかげで、同年代の少年少女より沙羅はずっと大人に近い。
 そんなだから、想いを押し込めてしまう。双子の兄みたいに想いを素直に表へ出せない。
 このままでは本当に、彼が横からかっさらってしまうかもしれない。嫌な想像だけれど何が何でも阻止したいとは思えない沙羅だった。状況判断は感情とベクトルを合わせない。
 知能が高いのも考え物だ。
「まったく、なっきゅ先輩には振り回されてばかりですよ」
「そんなことないわよ。先輩として正しく後輩を扱ってるだけじゃない」
「なっきゅ先輩の先輩像は横暴すぎです」
 ある意味では間違っていないかもしれないが。
 無事に睡眠も取れたので、もう仕事は果たしただろうと、沙羅はベッドから降りて乱れた髪を直す。
「今はいいですけど、そのうち彼氏できたら、もうなっきゅ先輩の我侭になんか付き合いませんからね」
 
 おおかみが、くるぞ。
 
「えー」
 優は不満げに唇を尖らせる。知らん振りして帰ろうとしたら、背後から腕がのびてきて柔らかく包まれた。
「なら、マヨは彼氏作っちゃ駄目」
 
 またあいつがほらをふいていやがる。
 
「な……なんですか、それ」
 わずかに掠れた声が喉をこすって痛かった。
 
 しょうねんのことばはだれにもとどかず。
 
「だって、こんなに抱き心地のいい子、他にいないもん。独り占めしたいじゃない」
「抱き枕扱いしないでくださいってば」
 
 ほんとうのことはいえない。
 
「なっきゅ先輩の方が彼氏作るのでもいいですよ」
「うーん、縁があったらね」
「うちのお兄ちゃん、先輩のこと好きですけど」
「知ってるよ、一回断ってるし。年下は好みじゃないかな」
「私も年下ですけど」
「どうしてマヨの年を気にしないといけないの?」
 
 そばにいて。
 
「私、頭いいんですよ」
「知ってる」
 じゃあどうして、そんなことを言うんだろう。
 本当のことを言わずに、そのうえで、嘘にならない嘘をつく。
 無邪気に、残酷なほど罪作りに。
 言いたい。言えない。言わない。聞きたい。
 
 狼が来るぞ、と、叫んでいるのはどちらだろう。



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