LOVE.BELiEVE IT


「静留、どこ行くんだ?」
 立ち上がりかけた静留の背中に、どこか焦ったような気配さえ覗く声が届く。
 腰を完全に上げてから身体ごと振り返り(顔だけを向けるなど彼女にできようか?)、小さく目を細めた。
「どこにも行かへんよ。飲み物取ってこよ思て」
「そ、そうか。……ならいいんだ」
 なつきは気恥ずかしげに眼を伏せ、傍らに置かれていた雑誌を手に取った。
 かすかに、静留の唇から嘆息が洩れる。
 卒業式を終え、春休みに入ったあたりから、なつきの様子がどうもおかしい。
 毎日のように静留が暮らす家へ遊びに来るし、こんなふうに静留が少しでもそばを離れようとすると、まるで飼い主に見捨てられた犬みたいな眼をして見つめてくる。
 それを彼女の恋だと勘違いできたらまだ幸福だったろうが、あいにく、静留はそこまで色恋沙汰にうとくない。というか、まあ、色々と人並み以上に持ち合わせている。
 以前、自分が卒業してしまうのが寂しいだろうとからかったことはあれ、実際に卒業した今、そんな感傷に彼女が浸り続けているとも思えない。
 だから静留には、なつきの変化がわからない。
「お茶でええ?」
「ああ、うん。あまり渋くないのがいいな。いや、静留が淹れてくれるお茶はいつもすごく美味しいから、うん、大丈夫だ」
 なにが大丈夫なんだろうか。
 後半は独り言のようになっていたが、静留は律儀に「おおきに」と返して、キッチンへ向かった。
 
 まるで嘘のような安寧。大切なひとの命を賭けて戦った日々も、本来なら知ることすらなかっただろう組織と真正面から打ち合った日々も、生きながらに死を見た日々も。
 なにもなかったような、平穏。
 
 あまりにも平穏すぎて、以前のそれらと比べたら小指の先ほどもない揺らぎが、静留の心をざわめかせる。
 見せてはならない。彼女がどんな態度を取っても、己だけは変わらずにいようと決めている。それが許してくれた彼女への償いだった。受け入れてくれた彼女に対する、愛だった。
 胸の内には、今でも、あの頃と同じ熱情が、渦を巻いていたのだけれど。
 ふぅ、と溜息ひとつ。それで湧き上がりかけた熱情を吹き払って、静留は湯飲みを乗せた盆を両手で捧げ持つ。
「お待ちどうさん。熱いから気ぃつけてな」
 コトリと、上品さを失わない程度の音を立て、なつきの前に湯飲みを置く。
「うん。ありがとう静留」
 半ば礼儀なのだろう、なつきはまだ熱いそれを指先でつまむように持ち上げて、少しだけ口をつけた。
「いつも思うけど、静留が淹れるお茶は甘いな。紅茶みたいだ」
「いい茶葉を丁寧に入れるとそうなるんよ」
「そうか。センセイだもんな」
 感心したように言われて静留が苦笑する。静留自身にしてみれば、それは別に褒められるようなことでも、偉ぶれることでもない。それなのに、なつきはどこまでも純粋に感心していて、謙遜すらできない純真で。
 なつきはお茶を一口飲んで、テーブルに戻した。熱いのだろう。
 静留はその傍らに腰を下ろして手紙のたぐいを片付け始めた。彼女が関わっている手習い事の連絡とか、生徒からのお礼状などである。
 部屋は広い。今は二人きりだ。いつもは静留一人だった。いや、ここ一週間くらいは毎日なつきが来ているし、泊まっていくことも珍しくないので、二人でいる方が「いつも」なのかもしれない。どちらにしても、静留には同じことだった。
 二人きりでいても、すぐそばに寝ていても、なつきは警戒するそぶりなど髪の毛一筋ほども見せない。
 それは信頼だろうか。彼女が持っていると言った信頼が、そうさせているのだろうか。
 信頼しているのなら、そんなふうに無防備をさらしたりはしないと、思うのだけど。
 そんな、試すようなことを、しないと思うのだけど。
「……なつき、行儀悪いどすえ?」
 いつの間にか身体が傾き始め、雑誌を持ったままソファに寝転がっていたなつきを、静留が呆れたように諌める。「ん……」自分でもだらけすぎていると思ったのか、なつきは己を恥じているような表情で頷いて、身体を起こした。
「眠いんやったら、膝枕しましょか? なんやったら子守唄もつけますけど」
「……いらん。どうしてお前はそう、わたしを子ども扱いするんだ」
 そういう事を言う顔こそが子どもで、静留はからかいのひとつもしたくなるのだが、やりすぎるとなつきが本気で怒るから我慢する。
「それやったら、ちゃんとしときよし。猫背ほど見苦しいもんあらへんよ」
「わかってる! しつこいんだ静留は!」
 せっかく我慢したのに、なつきの方はさっきの一言で臨界点ギリギリだったらしい。
 苛々と声を荒げたなつきは、静留が笑みを絶やさず、それでも困ったように眉を下げたのを見つけて、「あっ……」と弱々しい呟きを洩らした。
「すまない、そんな、怒るようなことじゃなかったな。今のは……わたしが悪い」
「気にせんでええんよ。うちはなつきが好きやさかい、そんな細かいことかましません」
「……うん」
 その時の、「好き」という言葉を聞いた時のなつきが浮かべていたのは。
 安堵で。
 安定で。
 安心で。
 どうしてだろう。
 嬉しいはずなのに。
 どうしてこんなにも、心がさざめくのだろう。
「お茶、冷めてしもうたんやないの? 淹れなおしましょか?」
 静留はそれをごまかすために、常である微笑みを深くする。
「いや、これくらいで丁度いい。大丈夫だよ」
 湯飲みを手に取り、なつきは半分くらいを一気に飲んでみせる。静留は軽く頷いた。
 なつきが湯飲みを置いたのと同じタイミングで、玄関のインタフォンが鳴った。「あら、誰やろ」訝しげに呟いて、静留が立ち上がる。今日はなつき以外、特に来客の予定はない。宅配便とかだろうか。しかし、なにか届けものがあるなら、家の者は宅配便など使わず使いに届けさせるし、それでなくとも、連絡のひとつもありそうなものだ。
 訪問販売のたぐいなら面倒だと思いながら、二度目のインタフォンが鳴らされたので、仕方なく玄関へ向かう。
 ドアを開けた先にいたのは、訪問販売ではなかったが、招かれざる客であることに違いはなかった。
 一言もなく、静留はドアを閉めようとする。「ちょっと、せっかく来てやったのに、なによその態度!」来客は清楚な服装にそぐわない口調で叫びながらドアを押さえた。
「……奈緒さん、どないしましたん?」
 意外と強い抵抗に、ドアを閉めることを諦め、静留は嫌そうな顔を隠そうともせず言った。目の前の彼女には色々と思うものがある。いいものも、悪いものも。
「あんたに用なんかないよ。玖我、来てんでしょ?」
「なつきになんの用やの? お祈りなら間に合っとると思いますけど?」
 シスターの服装である奈緒を揶揄した言葉だったが、彼女はその程度の軽口にはもう慣れているのか、特に反応を見せることもなく肩を竦めた。
「補習。まだ一教科残ってんだって。いるんでしょ、さっさと呼んできてよ。
ったく、なんであたしがこんなパシリみたいなことしなきゃいけないワケぇ?」
「あら、まだ残ってたんやねえ」
 奈緒の説明でようやく納得した。毎日遊びに来ているから、てっきりもう終わったのだと思っていたが、どうやらそうではないらしい。
 おそらく奈緒は迫水教師にでも見つかって、丁稚を命じられたのだろう。不満そうな表情を全面に押し出して、しかも静留と絶対に眼をあわせようとしない。彼女は無鉄砲だが、危険を察知する能力には秀でている。賢明な判断と言えよう。
 ふむ。顎にひとさし指を当てて考える。
 なつきのことを考えれば補習に行かせるのが当然だが、わざわざ顔を見せに来てくれたのに、茶の一杯で帰してしまうのは忍びない。呼びに来たのが他の誰か(女子生徒限定。可愛ければなお良し)なら、なつきが帰った後に時間潰しもできたものの、いかんせん奈緒だ。誘ってみたところで逃げられるに決まっている。
「うぅん……なつきなぁ」
「なに? 来てないの?」
「来てはるけど。なんや、ちょっと様子がおかしいんよ。情緒不安定、いうか」
「ふぅん」
 奈緒は小さく首を傾げて、「生理中なんじゃない?」と少女らしい返答をした。
「そうやろか。あと一週間はあるはずやけど」
「なんで知ってんのかは聞かないであげるわ。じゃあ、迷える子羊の苦痛を取り除くために祈ってあげようか? アーメン」
 適当に十字を切り、適当に祈る奈緒へ、静留は軽く片目を細めて笑う。
「静留? どうしたんだ?」
 なかなか戻ってこない静留を不審がったのか、なつきがリビングから出てきた。玄関先で対峙している二人を見つけて、おや、というふうに眉が片方上がる。
「なんだ、珍しいじゃないか。そうかお前たち仲直りしたのか。よかったよかった」
 はっはっは、と快活に笑うなつきの腕を、憤怒の形相で上がりこんだ奈緒が掴み上げる。「なにをする、痛い、痛いぞ奈緒」逆手に関節を決められたなつきが情けなく泣いた。
「バカ言ってないでさっさと補習行ってよ! あたしはこんなとこ、もう一秒でもいたくないんだよ!」
「痛い痛い、なに怒ってるんだ」
「元はといえばあんたが……!」
「奈緒さん」
 静かに、その名の通り、静けさを留めた声で呼びかける。
 ピタリと、奈緒の動きが止まった。
「それ以上なつきにおいたしたら……判ってはりますやろ?」
 危機察知に長けた物分りのいい14歳、おとなしくなつきの腕を離す。
 疲れた息を吐き、静留はなつきと目を合わせながら、その頭を撫でた。
「なつき、学校行って、ちゃーんと補習受けて。うちに来るのはそれからどす」
「……む、むぅ……」
 なつきは眉尻を下げながら低くうなった。ちょっと見には補習を嫌がっているだけのように見えるが、静留にだけは、その他になにかがあると判る。
 それがなんなのかは、判らないのだけど。
「し、しかしな……」
「ちょっと、もうあたし帰っていい?」
「ああ、おおきに。なつきがウチが連れていくさかい」
 「あっそ」奈緒はお役御免となった開放感からか、大きく伸びをして、クルリと二人に背を向けた。
「――――あ、そうだ藤乃」
 顔だけで振り向いて(こいつにはそれで充分だと思ってるのかもしれない)、奈緒は本当に、もののついでという感じで言った。
「ママ、先週意識が戻ったの。あんたはまだムカつくけど、許しといてあげるわ」
「……そう。よかったどすなぁ。おめでとうさん」
「やっぱムカつくよ、あんた」
 不敵に笑い、今度こそ、奈緒は帰って行く。
 彼女の笑みも言葉の意味も理解できたから、静留はその態度に何も思わなかった。
 心のこもっていない思いやりほど、腹の立つものもない。
「さて、なつき」
「……む」
「補習、行かんとあきまへんえ?」
 なつきはむすっと膨れて、静留から目を逸らした。
 目を合わせないまま、なつきが小さく、それでも静留へ向けて、呟く。
 
「……わたしは、静留と一緒にいたいんだ」
 
 
 
 不意に。
 あっさりと。
 あっけなく。
 理解できてしまった。
 ああ、その言葉。
 
 なんと――――安っぽい。
 
 
 
 彼女は自分が何を言ったか、判っているのだろうか?
 まさしくたった今、それと同じことを、静留が奈緒にしたというのに。
 判らないのか?
 そんな安っぽい、幼児でも思いつくような、「相手が喜ぶ言葉」を、口にしてしまった意味を。
 
「……なつき」
 その先は、言葉にならなかった。できなかった。
 
 ――――あんたは、
 ウチをそういう意味で好きやないくせに、
 ウチがあんたをそういう意味で好きやなくなるんが、
 我慢できひんのやね。
 
 だからこその執着で不安で、静留が許すことへの、安堵か。
 愛することを知らないくせに、愛されたいとは願うのか。
 
「な、なんだ静留、そんな恐い顔して。そんなに怒ることないだろう。
わかったよ、ちゃんと補習は受けるから」
 慌てた早口でなつきが言う。
 静留はいつもの表情を忘れていたことに気づいて、なつきに悟られないよう、自然な速度で微笑んだ。
「そうどす。なつき、このままやと命ちゃんと同級生になってしまいますえ?」
「いや、いくらなんでもそこまでは……」
 口の端を引きつらせるなつきに、静留は菩薩のごとき笑みで首を振る。
「どうなるか、わからしませんえ。再来年も一年生でいるかもしれんよ?」
「お、おどかすな。大丈夫だ、補習には行く。あと一教科なんだ、それくらい余裕だ」
 ふん、とそっぽを向くなつき。静留はその仕草に苦笑する。
 そっと腰を絡めとり、自身の方へ引き寄せる。「静留?」戸惑いがちな視線が至近距離に。口付けをするのかと思えるほどの距離で。
 静留は囁く。
「未来なんて、どうなるかわかりまへん。
けど、ウチがなつきを置いてどっかに行ってしまうなんて未来は、どこにもあらしまへん。
……それだけは、信じといて」
「静留……」
 見つめている瞳が揺れる。どちらの? どちらも。
「信じてない、わけじゃないんだ」
 手繰り寄せられた格好のまま、なつきの指先が、静留の頬に触れた。
「ただ、わたしは」
 ゆっくりと撫でられる。傷跡だらけのザラザラした指先。戦いの証。
「あの時みたいに、お前が消えてしまうのが、恐くて」
 静留が頬を撫でる指をつかんで、口付ける。
「……愛してます」
 過去も、未来も、そしてもちろん、現在も。
 丸ごとすべて包み込んで、彼女が愛しい。
 二人分の命すら投げ出す強さも、嫌われないように顔色を窺う、その弱さまでも、何もかもが愛しかった。
「……すまない、静留」
「ええんよ。ウチはなつきが」
 好きやから、と続けようとした口を、なつきの両手が塞いだ。
「それはもう聞き飽きた。……というか、やっぱりちょっと、照れるんだ。
あまり言わないでくれ」
 そう言う彼女の顔は、わずかに朱が差している。
 思わず笑声が洩れて、なつきが拗ねた表情を浮かべた。
「また子どもだとか思ってるだろう」
「そないなことあらしません。――――そうやねえ、せやったら」
 頬に軽くキスをして、そのまま唇を耳元に寄せる。
「ウチは、なつきを信じてますさかい。いつかウチを好きになってくれるいうの」
 未来なんて判らない。将来など誰にも判らない。
 だからこそ、信じたい。
「……うん。待っててくれ」
「はい」
 ようやくなつきの腰を離す。なつきはリビングへ荷物を取りに向かい、上着とバッグを抱えてすぐに静留のいる玄関へ舞い戻ってきた。
 靴を履いて、ドアノブへ手をかけた姿勢で振り返る。
「じゃあ、行ってきます」
「行ってらっしゃい。なんや、新婚さんみたいやねえ。ちょっぴり嬉しいわ」
「……バカを言うな」
 さすがにげんなりとしながら、なつきは溜息をついた。
 
 
 
 なつきが出て行ってから、静留はひとりリビングに戻り、すっかり冷めてしまったお茶を飲み干した。
 
「……熱すぎるんは、火傷さしてしまうさかい」
 
 きっと、冷たいくらいが丁度いい。
 だから、あの一瞬の怒りは、信じてもらえなかった憤りは、きっと死ぬまで表に出さない。
 
「信じるものは救われる。……なあ、奈緒さん?」
 
 ふふ、と笑うと、静留の瞳に刹那の間浮かんだ炎は、見る影もなくかき消えた。
 
 それは、静留の中にある激しさと穏やかさの契合。
 変わりつつある自己の内面と、変わる気配のない自己の本質をどちらも自覚しながら、静留はゆっくりとなつきが座っていたソファへ身体を横たえた。



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