月の下、ふたり


 月明かりの下で散策、と言えば聞こえは良いが、夏の盛りの都市部ともなれば深夜といえども喧騒は少なくなく、街明かりで月の光はかき消されそうだし、湿気が多くて不快指数は高い。風情も何もあったものではないのだった。
 観光客たる喜屋武汀はさして興味もなさそうに適当な視線をそこかしこに飛ばしていた。そのすぐ隣、就寝中に電話で叩き起こされて案内役を申し付けられた小山内梢子は不機嫌な表情でまっすぐ前を向いている。大会直後の疲れた身体は回復に遠かったし、何より、夜中に未成年だけで出歩くという行為が受け付けない故の不機嫌だった。
 「誘蛾灯みたい」街灯と、その下にいる人々を眺めながら落とされた汀の呟きに眉をひそめる。自分たちだって同じ穴の狢だろう、と思ったのだ。
「退屈そうね。ここをふらついているのもホテルにいるのも同じ退屈なら、もう戻ってもいいんじゃない?」
「まったく同じってわけでもないし」
「それはまあ、そうでしょうけど」
 少なくともホテルには酔いつぶれてうずくまる中年男性だとか、派手な格好をして誰彼構わず声をかけるお姉さんだとかはいない。そういったものが見えない方が良いと梢子は判断するけれど、彼女はそうでもないのかもしれない。だとしたら悪趣味だと評するよりないが。
「こういうとこが不健全なのはどこも同じか」
「私としては、不健全なところに長居したくないんだけれど」
 真面目で実直、性格を象徴化した図案は確実に一本線であるだろうという小山内梢子は不機嫌を通り越して怒りさえ見えそうな表情で言った。ややもすれば馬鹿騒ぎをしている集団に注意のひとつもしてやりたくなるが、それはそれで危険なので仕方なく誰とも目を合わせないように真っ直ぐ前を、中空を見据えて歩いている。それはつまり汀とも目を合わせないということだ。制御が利かなくなりそうだから。
 横目で梢子の表情をうかがった汀は、ふむと一瞬思案顔になって、それからにこりと笑った。
「それなら、健全なところに行きましょうか」
「え?」
 汀は目を細めたまま人差し指を立てた。空? 健全かどうか以前に身ひとつでは行けない場所だけど。
 首を傾げる梢子に、汀は
「オサの学校が見てみたい」
 これは名案とばかりにほがらかな口調で言ったのだった。
 
 
 
「た、確かに場所は健全かもしれないけどね……」
 がっちり閉められた門扉を前に、梢子は苦虫を噛み潰したような顔で呟く。深夜なのである。当然ながら学校は全体的に閉鎖されている。そんなのは考えなくても判るもので、だから梢子は汀の提案を「学校がどんな場所にあって、どんな外観をしているのか見てみたい」と解釈したのだ。一本線はそれ以外の可能性なんて考えなかった。
「まーまー。さ、オサも早く」
 門の向こう側では汀が手招きをしている。止める間もなく軽々と門を飛び越えた彼女に後ろめたさはない。
「どう見ても不法侵入よね、これ」
「オサは平気じゃないの? 見つかっても忘れ物を取りに来ましたとか言ってごまかしちゃえば大丈夫でしょ」
「こんな夜中にわざわざ忍び込んで忘れ物を取りに来る生徒っていないと思うけれど……」
 夏休みとはいえ、教師の一人や二人出勤しているだろう。本当に忘れ物をしたのなら昼間に連絡を入れて堂々と行けば良い。そんな言い訳が通用するとは思えなかった。
 汀はぐずぐずしている梢子をひやりと見据えた。笑う。嘲笑に似ている。
「優等生の良い子ちゃんな小山内梢子さんにはハードル高すぎたかな? ま、いいや。それじゃ、あたしは好きに見物してくるから、オサはもう帰っていいわよ」
 別れの合図に片手を上げて梢子に背を向ける。迷わない背中だった。どんどん遠くなっていく。
 ムカムカした。こっちが正しいはずなのに、なぜそんなヘタレチキン扱いされなければならないのだ。夜遊びとか学校に忍び込むとか、そんなものが武勇伝としてもてはやされるのは中学生までだ。この年代では不良行為とも言われないただの堕落である。
 ムカムカする。
 汀の姿が遠い。
 フルネームで呼ぶな。
 門の上部へ手をかけて一気に飛び越えた。ひらり、とまではいかないが、わりあい綺麗に着地をした。すたっ、くらいは出来ただろうか。
「汀っ」
 怒鳴りつけてやりたいのを堪えながらも、鋭い口調で彼女の名を呼ぶ。足を止めた汀は首の動きだけで振り向いてニヤニヤ笑った。
「置いてかれるのが嫌だった?」
「あなたが妙なことをしないように見張っておかないといけないでしょう」
「ふぅん」
 信用ないな。笑い混じりの独白。こんなことをする人間の、どこをどう信用しろというのだ。一年前はそこそこ信じていたような気もするけれど、今この瞬間ばかりは汀の信用度などゼロに近い。
 法律やら条令やらの規定により、学校の周辺は娯楽施設が存在しない。先ほどまでの喧騒が嘘のように静かで、明かりもほぼ月に頼る。今度こそ、イエス月明かりの下で散策。
 昇降口には鍵がかかっていた。当たり前である。まさかぶち破るわけにもいかず(忘れ物を取るために玄関ドアを破壊しました。反省文では済むまい)、二人はそこで立ち往生した。
「オサ、どこか鍵が壊れてて自由に出入りできる窓とかないの?」
「ないわよ。一応お嬢様学校だって言ったでしょう」
 セキュリティには力の入っている学校なのである。そんな場所があればすぐに修繕されるし、よしんばあったとしても梢子は知らない。
 汀はドアに手をついて、何度か角度を変えて内側を覗いていた。警報機の位置でも確認しているのだろうか。しばらくそうして侵入は無理と判断したか、手を離して小さく息をつく。
「都会の学校ってどこもこんな厳重なわけ? 心が狭いっていうか、都会の闇を垣間見た気分」
「そういう問題じゃないと思う」
 狭量だとか寛容だとか、そういうレベルの話ではない。
「うちの方じゃ、普通に兵隊さんが遊びに来たりしてるけど」
「チョコレートでもねだるの?」
「そうそう。馬鹿の一つ覚えみたいにぎぶみーちょこれーとって」
「……いつの時代よ」
「ま、嘘だけど」
 どこまでが嘘だったのか気になるところである。
 「入れないんじゃ仕方ないか」汀は両手を腰だめにして存外あっさりと諦め、あてどもなく(あてがあったらすごい)歩き始めた。梢子がやや慌ててそれを追う。
 校内には入れないが、敷地内は特に問題ない。敷地に入ったことがすでに問題であるということを無視すれば、だが。グラウンドだとか、体育館だとか、武道館だとか(こちらも当然施錠されているので中には入れない)を眺めて回る。月明かりだけなのにわりと平気で歩けるものだなと思った。暗順応というのはなかなか便利だ。
 人というのは順応する。
 いつしか、梢子は一年間まったく交流がなかったはずの彼女が隣にいることを不思議に思わなくなっていた。
 不意に懐かしさがこみ上げる。こうして二人帯同して、息を潜めて歩を進めた記憶。まあ、今回はいきなり奇妙な化物に襲われる心配などはないけれど、危険といえば危険な行動である。なんというか、社会的立場のようなものが。誰かに見つかったら何を言われるか。汀は郷里に帰ってしまえばそれで済むが、こちらはこの先半年以上、ここに通わなければならないのである。
 帰りたい。
 少々うんざりしてきた梢子の前方で汀が急に立ち止まった。すんでのところで激突を避けた梢子が訝しげに顔を彼女へ向ける。
「汀?」
「シッ」
 鋭い呼気と共に腰へ腕を回されて引き寄せられる。喉から出そうになる声を反射的に抑えた。それ以前に、口を汀の手で覆われていたので洩れ出ることはなかったろう。
 汀の呼吸音が消える。胸が上下しているので息を止めているわけではなさそうだ。なにかそういう技術なのだろう。つられるように梢子もできるだけ息を潜めた。
 アスファルトを擦る音が小さく聞こえてくる。そういえばこの辺りは道路に面している位置だ。誰かが通りがかったのだろう。汀がいち早くそれを察知して、物陰に隠れさせたのだ、と梢子はようやく気づく。
 のは、いいのだが。
 なんか近いんですけど。
 抱き寄せられて頭部を抱え込まれるようになっているので、妙な話、ひと気のないところで逢引をしているような姿勢に。汀の顔が外へ向いていることが救いか。
 音が遠くなって、汀の腕が緩んだ。ひゅう、と小さく口笛を吹く音が耳元を過ぎる。
「危なかったー」
 気楽な声が聞こえたけれど、梢子としては今もまだ危ない。
 ……危ない?
 なにが?
 身の内に起こった危機感については訳が判らないながら、そそくさと汀から離れた。彼女の方も、特に逆らわずに腕を解く。
「あ、ありがと」
「え?」
「え、って。見つかると私が叱られるからかばってくれたんじゃないの?」
 おお、というふうに汀が頷いた。「そういえばそうね」なんとなくずれた反応に、梢子が眉を上げる。
「いや、単にクセっていうか。ほら、あたし人目につかない方がいいことしてるから」
 鬼切りのことだろう。普段から人目を避けて行動しているから、ついその習慣が出てしまったのだ、と彼女はからりと笑いながら言った。
「でもまあ、結果的にあたしはオサを助けたわけだし、好きなだけ感謝していいわよ」
「……絶対、しない」
 礼を言って損した。
 うなじから背中へ汗が伝った。暑い。汀にくっつかれたせいだ。まったく、やはり彼女はろくなことをしない。こんなふうにベタベタ触ってくるくせに、概念的な意味ではいつだって一枚なにかをはさんだみたいに触れ合わない。こちらの熱が、伝わらない。
「……暑い」
「なら、ちょっと涼みに行く?」
「え?」
「さっき見つけちゃったのよねー」
 んふふん、と悪戯に笑い、汀がある方向を指し示す。あの辺には、確か……。
「あなたカナヅチじゃないの?」
「や、別に水恐怖症なわけじゃないから」
 まあ、本人がそう言うなら大丈夫なのだろう。
 サクサクと向かった先にはプールがあった。水がいっぱいに湛えられたそこに月が映り込んでいる。月光を反射して美しく模様が浮かんでいた。
 校門と同じように、汀はひらりと柵を飛び越え、梢子はすたっと着地した。ここまで来ると後ろめたさもほとんどない。人の順応力というのは恐ろしいものだ。
 水の気化冷却によるものか、プールサイドは心なしか涼しい。
 汀がしゃがみこみ、涼を求めて片手を水へ沈めた。小さな波紋が水面に広がる。パシャリと手を跳ね上げると水滴が飛んで、波紋がいくつも浮かんでは相殺される。
 梢子もその横に腰を下ろして同じように手を入れた。冷たい。クルクル回すとまとわりついてくる水が渦巻いた。反射している光も煌く。
 「悪くない」汀がひそやかに呟いたので、梢子は「ええ」と応えた。
 などとほんわか気分になっていたところを突かれた。
「どーん!!」
「っ!?」
 いきなり背中を押された。しゃがんでいたので非常にバランスの悪かった身体は体勢を立て直せずにそのままプールへ飛び込む。大きく水しぶきが上がって、視界が真っ暗になる。無思考のまま、梢子は大急ぎで水面から顔を出した。
「ちょ、ちょっと汀! なにをするの!」
「オサに涼んでもらおうという優しさです」
「馬鹿!」
 汀はこちらを見下ろしながらケラケラと笑っている。しまった、あのなんとなく叙情的な表情に騙された。
 仕返しに彼女も引き込んでやろうと狙うも、腹の立つことに汀はすでに安全距離まで退いている。手を伸ばしても届かない距離だ。
 プールの床を蹴って近づく。はりついた服に動きを制限されながらもプールサイドに上がると、梢子はなぜか身構えている汀へ一歩分歩み寄った。汀は同じ程度下がる。
「まーまー、そう怒らないでよ。この暑さなら、服もすぐに乾くって」
「…………」
 近づく。離れる。
「ほら、やっぱりあの状況で落とすのはお約束じゃない? ミギーさんのちょっぴりお茶目なジョークってことで、許してほしいなーなんて」
 近づく。離れる。
 全身に水がはりついている。おかげで随分と頭が冷えた。だから、梢子は別に怒ってはいない。
 前髪をかき上げながら水面へ目を移した。波紋はもう消えている。水面はどこまでも静か、月がくっきりと映っていた。
 近づく。離れる。
 逃げ水みたいだ。そこに見えるのに、届かない、触れることもできない幻の水。
 そんなのは嫌だった。
 足を止める。とん、と軽やかに跳躍して水の中へ。さっきみたいに無様な水しぶきは上がらず、するりと梢子の身体は吸い込まれる。
「オサ?」
 追いかけっこが唐突に終わったので、汀が訝しげに呼んできた。梢子は応えずに月を目指してゆっくりと進む。水は冷たくて気持ちが良い。
 幻の水ならいらない。
 背後で水の跳ねる音がした。首の動きだけで振り向くと、どこか不機嫌そうな顔の汀が近づいてくるのが見えた。
 ふふり、梢子が笑う。
「置いてかれるのが嫌だったの?」
「オサが溺れないように見張ってないといけないから」
 不満ありありな表情で言い返してくる汀を見ていたら、なんだか無性に笑えてきた。喉を鳴らしながら両手で水をすくって汀に浴びせる。回避行動が間に合わなかったのか、避けるつもりがなかったのか(その場合、あるいは謝罪の意味が込められていたのかもしれない)、汀は真正面から水をかぶった。水滴の滴り落ちる前髪を後ろへ撫でつける。秀でた額があらわになって、そこを水滴が伝う。
「足がつく深さでよかった……」
 いかんせん深夜、月明かりは水面に反射して底が見通せない。梢子の状況を見て目算はしていたのだろうが、それでも不安はあった。
「まあ、ミイラ取りがミイラになる心配はないわね」
 汀が軽く頷いて、水面に指を絡ませて弄んだ。
「ま、こうなったらしょうがないか。気持ちいいし」
「そうね」
 水の際までしか行けないはずの彼女は、しかしひどく水と親しげに戯れた。操るように、ダンスをするように水を従えて遊ぶ。光の糸を手繰っていると錯覚しそうな流麗さだった。水滴が一粒、彼女の唇に当たってはじけた。そのまま内側へ吸い込まれて消える。
「……綺麗ね」
「ん?」
 思わず口をついて出た言葉に、水遊びの手を止めた汀がこちらを見やってくる。その視線にドギマギしてしまって、梢子は「いや、その」目をそらしながら、んん、と空咳をした。
「……汀、が」
「いやー、それほどでもあるけど。見蕩れた? 惚れた?」
「…………」
 梢子の口から呆れた嘆息。どうしてこうも自信に溢れているのだろう。いや、溢れてはいないから自信満々といったところなのか。
 彼女の自信は多すぎない。
 いや待て、そうすると先ほどの言葉に間違いがないことになってしまう。見蕩れたことを否定はしないけれど、しかし、いや。
 ん?
 あれ?
「っと、オサ、こっち」
 手を引かれて、思考を分断される。飛び込み台のすぐ下、外からは死角になる位置まで誘導されて、さらに姿を隠すように眼前へ立ちはだかられた。耳を澄ますと複数人の話し声と足音。さっきと同様に誰かが通りがかったようだ。プールは道路よりずいぶん高くなっているから、静かにしていれば見つかることもないだろうが、念には念を入れて、ということだろう。
 密着はしていないけれど、彼女との距離がひどく近い。首筋を落ちる水滴の動きすら視認できる。
「み、汀、近い」
「そんなこと言ったって、今動いたら見つかるでしょ。ちょっと我慢してて」
 我慢するというか、我慢できなくなりそうというか。何がと具体的には言えないけれど。
 別にそんなことではないはずなのに、どういうわけか背徳感が腰から背中へと登ってきた。学校へ不法侵入したという後ろめたさではない何か。
 どこにいるか、ではなくて。
 誰といるか、が重要であるような、何か。
 汀は内心であたふたしている梢子の様子をどう思っているものか、軽く見下ろしながら薄い笑いを浮かべている。梢子は目をそらした。頭まで水に潜り込みたい気分だった。きっとよく冷えることだろう。冷やしたい。
 話し声が遠ざかっても、汀はその場を動こうとしなかった。
 閉じ込められている形なので、梢子もそこから動けない。
 月を背にして、汀の瞳は色を持たない。唇だけがかろうじて、笑みを形作っていると判る。
「ねえオサ、そろそろ気づかない?」
「……なにに?」
「月が綺麗だって」
 反射的に、梢子は汀の後方にある月へ目をやった。七割ほどが欠けた三日月だった。彼女の唇に似ている。
「……そうね。とても、綺麗だわ」
 なぜか汀ががっくり肩を落とした。ちゃんと応えたのにどうして残念がられるのか判らなかった梢子は、きょとんとした目を汀へ向ける。
 苦笑いになった彼女の手のひらが頬へ添えられる。どう反応するべきか迷っているうちに水滴が唇に触れて、次に、もっと温かいものが重なった。
 時間が停止したような気がしたが、そうでもなかったようで、鼓動は止まらずに何度も脈打っている。いつもより速く、ずっとずっと速く。
 ええとええと、こういう時はどうしたらいい? というかこれはなんだ? 汀の新しい悪戯だろうか? それとも、それとも……何?
 どうしたらいいのか答えを出せないまま、ぬくもりが消えた。
「これで気づかないとなると、ミギーさんとしてもお手上げなんだけど、どう?」
 だから何が。何に気づけというんだ。
 両手を捕まえられて、逃げられない。水に潜ってしまいたいのにそれを阻まれている。手のひらで頬を冷やすこともできない。
 溺れる。幻の水に閉じ込められて息が出来ない。
 しばらく様子を窺っていた汀がパッと手を離した。自由になった梢子はそのままずるずる崩れ落ちる。顔半分だけを水面から出した体勢で、目を閉じた。
「……わけが、わからない」
「ふぅん」
 含みを持った相槌に不満は見えなかった。鍵のかかった玄関を前にした時と同じように、あっさりとした諦めだけが覗いている。
「ま、いいでしょ。そろそろ帰りますか。優等生な小山内梢子さんを夜中に連れまわしたなんてバレたら大目玉食らいそうだし」
 だから、フルネームで呼ぶなというのに。
 びしょ濡れのままプールから出て、熱気にさらされながら校門を目指す。人通りはすっかり絶えているがそれでも誰かが通らないとも限らない。さっきとは違う意味でドキドキする梢子である。
 しかし夏の熱気とは大したもので、市街地に近づく頃にはあらかた乾いていた。髪が少々ぺったりしていることを除けば、通りしな視界に入る程度では判らないくらいだ。
「じゃあオサ、今日はありがと」
「どういたしまして。……今度からは、もう少し普通のことをしたいものだけれど」
「今度?」
 悪戯に尋ねられて、返事に詰まった。
 汀は返事を期待していなかったのか悪戯な笑顔のままでいる。
「うん、じゃ、また今度」
「……ええ」
 汀が手を差し出してきたのでそれを握り返した。握手、友好の証である。それに奇妙な違和感を覚える。
 別に汀のことが嫌いだから握手をしたくないと思ったわけではない。これは違う、という感覚がどこかから梢子に伝えてきている。じゃあ何をすれば正しいのか、それは判らなかったけれど。
 汀は今日何度か見せたのと同じ笑みで、梢子を見ている。
「いっこヒント」
「え?」
「千円札」
 貸せと?
 そんなわけはなく、汀の言葉はただの謎かけで、即座に解くこと叶わなかった梢子は自宅に着いてからも悶々と考えていて寝不足になった。
 
 
 
 数日経って、夏期講習のために赴いた学校で葵花子先生と顔を合わせた。副教科担当の彼女がいるのは珍しいが、顧問を務める剣道部の練習日だったために学校へ来ていたらしい。
 これ幸いと捕まえて、先日の汀の言葉について尋ねた。
「夏目漱石で? ええ、そういうエピソードがあるわよ」
 さすがである。そして梢子の推理も当たっていたというわけだ。まあ、千円札と言われて他になにを連想するのかという話でもあるので、あまり威張れたものでもないが。
 ひとしきり講釈を受けた梢子は、「ロマンチックよねえ」などと感じ入っている花子への礼もそこそこにその場を辞した。
 全身が暑い。
 水が。
 触れられない水を浴びせられた気分だ。
 逃げ水は梢子を冷やさない。
 
 月は水をひき寄せる。
 水は月にひかれる。
 婉曲的すぎる。
 気づけるか、馬鹿。
 
 
 
 夕食後のエアポケットのような時間帯、梢子は携帯電話を取り上げた。
 大会の後で交換した番号をメモリから呼び出して発信する。
 あまり待つこともなく、電話は繋がった。
『電話してきたってことは判った?』
「……判った」
 というか答えを教えられたわけだけれど。汀にも、花子にも。
 梢子の部屋の窓は全開になっている。空を見上げれば月がよく見えた。
 これまで何度、月を見たか判らないが、それらと今見ている月は同じものだ。なんら変哲のない景色である。
 それなのに、どこかが違う。
 いつもより、少しだけ眩しい。
「汀、今って外は見える?」
『見える見える。そりゃもうバッチリ』
「そう」
 なんというずるさだ。全部お膳立てされて、言うべき言葉まで準備されて、自分はそれを言うしかないなんて。
 送話口を押さえて、ひとつ溜め息。
 しかし、それもまた彼女の優しさであったのかもしれない。意地は悪いながら。
 月はいつでもそこにあると、教えてくれたのは彼女だ。
「じゃあ、ちょっと外見て」
『ん』
「どんな景色?」
『……え?』
 不意打ちを食らった気配を消しきれない、少々上ずった問い返し。梢子はふふりと小さく笑った。
「汀の目に、何がどんなふうに映っているの?」
『……うわー、そうきたか』
「なんのことかしら?」
 これくらいの仕返しは許されるだろう。アイスクリームみたいにべったり甘いやり取りなど自分たちには似合わない。意地を張り合って、どうにかして相手をやり込めてやろうと探り合って、それでも手の届く距離にいる、そんなのが良い。
『あたしとしては、オサの見てる景色を聞きたい』
 どうあってもこちらに言わせたいらしい。
 仕方がない。先手を取られたら負けというのは勝負の常套だ。
 梢子は目を閉じた。
「月が綺麗ね」
 ふわりと夏の匂いが鼻先を掠める。
『うん。とても』
 汀が遠い南の地から答えた。
 梢子は月を見上げた。
 きっと彼女もそうしている。
 そのまましばらく、二人は同じ月を見ていた。
 



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