Take That You Fiend!


 ひどく暑い。直射日光を全身に浴びながら、守天正武は顎から雨だれのように汗を落としている。うっとうしくて剥き出しの腕で乱暴に額から頬にかけてを拭った。その程度で収まるはずもなく、また額にいくつも汗が浮かぶ。
「毎年のこととはいえ、参るな、まったく……」
 それでも自宅へ入れば陰と風が涼を運んでくれる。ふぅ、と一息をついて、廊下を進む。とりあえず汗を拭きたい。湯を浴びても良いな、と考える。いやその後に稽古があるから無駄になってしまうか。
「親父は道場か?」
 帰宅の挨拶をせねばなるまい、と正武は学生鞄を置くと道場に足を向けた。
 人影が廊下の向こうから近づいてくる。壮年に差し掛かった男と、小さな子どもだった。
「おお、若。今お帰りですか?」
 人の良さそうな笑みで声をかけてきた男に正武が頷きかける。男子高校生の平均を大きく上回る長身の正武と向かい合った男は、彼自身けして小さくはないのにこちらを見上げてきている。男に手を引かれている子どもなど、そびえ立つ山と対峙しているがごとくだ。
 つと、正武は視線をその子どもに移した。遠目では少年かと思ったが、どうやら女の子のようである。男の娘だろう。どこか無表情な瞳で正武を下から見ている。観察も感激もない視線だった。五歳かそこらだろうに褪めた眼だ。
「喜屋武さん、この子は?」
「私の娘ですよ。汀といいます。汀、若にご挨拶なさい」
 子どもはぼそぼそと、自分の名前だけを呟いて、目をそらしただけとも見えるような礼をした。
「これ、もっとちゃんとしなさい。申し訳ありません、少し人見知りをしているようで」
「構いませんよ。こんなにでかい図体のが相手じゃあ恐がりもするでしょう」
 言いながら空々しいなと自分で思った。汀は別に己を恐がってなどいないし、人見知りをしているわけでもない。ただ興味がないだけだ。
 正武はその場にしゃがみ込むと汀の頭に右手を乗せて、そらされていた視線を自分の方へ向けさせた。
「守天正武だ。よろしくな、汀」
「……若じゃないの?」
「そいつはあだ名みたいなもんだな。お前さんもそう呼びたいなら呼んでも構わんが?」
 慌てたのは父親だった。「このような子どもに、滅相もないことです」始めの礼儀が肝心だと主張する男に、正武は苦笑交じりで首を振った。「今のところ、俺はただの高校生ですよ。知り合いのガキにどう呼ばれたって構わんでしょう」
 男はまだ渋っている。
「しかし、年ごろから考えて、汀が現場入りする頃には若が守天の鬼切り役を襲名されているではありませんか。そのような間柄となる者に軽々な態度を取られては喜屋武の沽券に関わります」
「そう堅く考えずともいいでしょう。どう呼ぼうと力があれば重用しますし、逆も然り。なあ、汀」
 汀が胡乱な眼付きで正武を見つめてくる。
「お前さん、強くなる予定はあるか」
「強いよ」
「そうか。じゃあ『若』でいい」
 はあぁっと深い溜め息をついて、父親が片手で顔面を覆った。
 
 
 
 どうやらあの日汀が連れてこられたのは、訓練を開始する際に現守天党党首である正武の父親に目通しするためだったらしい。そこでも彼女の態度は正武に対してとっていたものと大差なかったようで、それで余計に父親は気に病んだようだ。とはいえ、守天は代々豪快な性格をしているので、問題にはならなかった。
 正武としても、物怖じしない不敬な態度を面白がるばかりである。
「よう、汀。今日も稽古か? 精が出るな」
 道場の周辺を走っている汀に声をかけると、不機嫌そうな顔でこちらを見やってきた。一緒に走っている集団が足を止めて正武に礼をしてくるのに、汀だけがむっつりと口をへの字にして走り続ける。
 声をかける前にほんの間見物していたが、汀は速い。同年代ともう少し上の子どもたちと走っていたのに、彼女だけ数メートル先を走っていた。それでいて息を切らせた様子もない。有望だな、と正武は口元を緩める。
 道場の壁に背をつけて、そのまま子どもたちが走り終わるのを見ていた。何人かは訝しげな顔をしていたが、気にするな、と手を振ってやると、戸惑いながらも視線を戻した。
 汀は面白くないと思っている様子がありありと伝わってきて、こちらとしては見ていると面白かった。稽古を始めたばかりなのだから身体能力の差があって当たり前だが、もっと小さい頃から父親に鍛えられていたのだろうか。周回遅れの子を追い越した。差は縮まることなく汀が一番にゴールする。
 はっはと短く呼吸してクールダウンしている汀は、あれから一度も正武の方を見ない。他の誰の方も見ない。意識して見ないようにしているわけではない。誰のことも意識していないから見ない。
「協調性のない奴だな」
 思わず呆れ交じりに呟いた。
 他の子がまだ走っているのを幸いと、汀へ歩み寄って傍らで止まる。そうまでしてようやく、彼女はこちらへ眼をよこしてきた。
「速いな」
「速いと強いは違う」
「ま、そりゃそうだが。速いと色々便利だ」
「どういうふうに便利なの?」
「自分より強い鬼と遭った時に逃げやすくなる」
 正武の返答が汀は気に入らなかったようで、軽蔑したような色を瞳に浮かべると「あたしは逃げたりしない」吐き捨てるように言った。
「若は逃げるの?」
「どうだろうな。お前さんが後ろにいりゃあ、逃げんだろうが」
 ふん、と汀が鼻から息を洩らした。
「別にあたしがいたって逃げていいよ。その鬼、あたしがやっつけるから」
 勇ましい言い草ながら、『やっつける』という子どもらしい言葉のチョイスに思わず噴き出した。それを汀は馬鹿にされたと受け取り、むっと眉間にしわを寄せる。「怒るなよ」両手を胸の前に掲げてなだめる。
「なあ汀、お前さんは確かに他の子どもより出来るようだがな、まだ修行も始めたばかりの素人だ。俺はお前さんよりは強いから、守らねばならんと思うんだよ」
「じゃあ、あたしがもっと早く強くなる修行させてよ。毎日走ってばかりでつまらない」
「走り込みで体力つけるのも立派な修行だぞ」
「若は剣術とか他の稽古も色々やってるじゃない」
「そりゃあ、俺は……」
 言いさしたものの、何を言ったところで汀の機嫌が今より悪くなることは確実なので、つい語尾を濁した。
 好感度が下がりっぱなしである。こんなに小さな子どもを相手にする機会がこれまでなかったので、どうすればいいのかまるで判らない。
 どうしたものか、と頭をひねった挙句、無意識にポケットへ入れた手に何かが触れた。おお、ちょうど良い。正武が無骨な手でポケットの中のものを引っ張り出す。
「汀、ちょっとやってみるか?」
「……あやとり?」
 それはそれは判りやすく、顔中で正武を馬鹿にして、汀が差し出された毛糸と威容の高校生を見比べる。
「そんな顔をするな。守天の技でワイヤを使ったものがあってな。それの修練用なんだが、なかなか奥が深いぞ」
 言って、正武はひょいひょいと毛糸を操ると、橋を作って汀に示した。
「さあ取ってみろ」
「…………」
 ここで正武は初めて、汀が戸惑うさまを目にする。経験がないのだろう。両手がさまよって、指先は五指のどれもが恐る恐るといった様子を見せていた。間違えたら大事件だ。時限爆弾を解除するただ一本の導線を探るがごとく、汀は慎重に糸の流れを読もうとしていた。
 「……ここに親指をな」「黙って!」教えてやろうとしたら怒られた。
 汀が意を決したように指を引っかけて、正武から橋を奪い取った。どうするのかと思っていたらあちらこちらを引いたり捩ったり格闘した揚句に、毛糸は毛糸玉と化して、汀の表情が怒色に染まる。
「いや、汀、気にするな。初めてじゃできんのも仕方がない」
「…………」
「まあ、あれだ。こういう一見無関係なものでも、修行として成り立っているということを言いたかったんだがな……」
 「それ、やるから練習してみろ」そろそろ他の子たちの走り込みも終わりかけていたので、正武は取り繕うような風情で汀に毛糸を押し付けると、その場から退散した。
 それからちょくちょく、汀があやとりをしている様子を見かけた。熱中しているようで、見るたびに高度な形を作っていたが、そのせいもあってか汀はいつも一人だった。あやとりは二人でも遊ぶことが可能なのに、そういった様子も見えない。
 失敗したかな、と思う正武だった。
 
 
 
 稽古のために道場へ赴いたら、たまたま汀とはち合わせた。年配の鬼切り相手に手合わせをしてもらっている。相手は正武も見覚えのある顔だった。熟練の、守天党の中でもかなりの手だれだ。当然ながら汀はいいようにあしらわれていて、悔しさを顔いっぱいに表しながら、何度も挑みかかっている。
 ふむと口の中だけで呟き、正武はそちらへ歩を進めた。
「ははは、汀、こてんぱんだな」
「…………」
 自分でも今の一言はまずいと思った。「ああ……、うむ、そうだ汀」
「どうだ、俺と一手合わせてみるか」
「……いいよ」
 汀はまだ十を数えたばかりのはずだ。立派な青年に成長した正武が相手では結果は見えている。
 それでも彼女はぐっと唇を引き締めて全力で向かってきた。稽古で胸を借りるというつもりではなく、本気で勝ちにきていた。正武も遊び半分のつもりだったがやめた。
 力量差は歴然。飛びかかってきた汀を身を沈めながらかわし、勢いを殺して後方へ投げ飛ばす。二メートルを越える男に投げ飛ばされた汀は受け身も取れずに床へ叩きつけられた。
「っ、若! やりすぎです! 汀はまだ小学生ですよ!?」
 先ほどまで彼女と手合わせをしていた鬼切りが非難の声を上げたが、正武は緩く首を振ってそれに答えた。
「こいつが本気で向かってきたから、俺も本気で応えたまでです」
 それから左手で何かを払うような仕草をする。「若……?」「汀のやつ、俺の首を落そうとしてきやがった」正武の喉が笑声で震えた。その振動で巻きついていた極細のワイヤがほどける。
「投げられる前の一瞬で一巻きか。もう少し速けりゃ糸を引けたんだがな。惜しかったじゃないか、汀」
 「それと、これもな」床から十センチ程度の高さに張られた糸を弾いてみせると、倒れ込んだまま罠を発動させる機会をうかがっていた汀が諦め顔になった。「気づかないでコケたら面白かったのに」「面白みのない男ですまんな」
 ワイヤをすべて回収させて、汀の身体を抱え上げる。
「わあ! なにしてんの若!」
「思いきり投げちまったからな。頭でも打ってたら大変だろう。ちょっと診てもらえ」
「なんともなってないよ! いいから下ろしてってば!」
「ははは、お前さん軽いなぁ」
「人の話を聞けええぇ!!」
 じたじた暴れる汀を悠々と抱えながら、正武は党の息がかかった診療所へと向う。
「ワイヤを使うようになったんだな」
「……しょ、性に合ってるみたいだったから。父さんも鬼がいっぱいいる時は有用だって言ってたし」
「そうだなあ。力の強い鬼相手じゃ難しいだろうが、魍魎あたりが大量に出たりしたら役立つ技術だ。最近はろくな術者もいないから魍魎が大挙して押し寄せてくる事態なんざそうそうないかもしれんが、まあ覚えておいて損はないだろう」
 それに、さっきの罠みたいに敵を足止めするにも有効だ。そう考えたものの、汀はそういう使い方を好まないのだろうと、正武は口に出さなかった。
「守天の文献にもな、そいつを使った技が載ってるのがある。それとも自分で考えてみるか?」
「んー……。いいのが浮かんだら若に試してみる」
「おう。そうしろ」
 正武は肩にかかる子どもの軽さをなんとも思わずにいる。
 
 
 
 汀は年を経るごとに明るく快活になっていった。友人もそこそこできて、良く笑うようになった。
 けれど、正武の目には、あの一人であやとりをしていた彼女が本質的に変化したようには見えなかった。ただそつなくこなすことを覚えただけだ。その方が面倒がないから。
 近頃は正武に跡目の話が持ち上がってきて、実戦に投入される頻度も増えた。そういう役目を負って生まれてきたのだから、それについて文句はないが、少し、気が滅入る。
 汀と顔を合わせる機会もずいぶん減った。彼女はまだ修行中の身なので現場には来ないし、正武の方も鬼切りの任務で出掛けている時以外は守天党の雑務をこなさなければならないので、道場に足を向ける暇がないのだ。
 だから、任務へ出る際、久しぶりに汀と居合わせて、彼女が制服姿だったことに驚いた。
「あ、お久しぶりです、若」
「……ああ。そうか、お前さん中学生になったのか」
「ええ? 何言ってるんですか、もう三ヶ月も経ってますよ」
 「そうだったな」前に会ったのは冬だった。そう思い出しながら、正武は夏の日差しを実感する。
 いつの間にか汀は正武に対して敬語を使うようになっていた。親しげに笑いかけてはくるけれど距離が縮まった気配はない。
 それどころか逆だ。
 いつの間にか、二人の間にはどうしようもない距離が生まれている。
 いつからだろう。
「お前さん、でかくなったな」
「成長期ですから。もっと伸びますよー」
 しゃがみ込まなければ並ばなかった目線は、正武が椅子に座れば合う程度になっている。こちらがかなりの長身であるのにそうなのだから、汀の成長は著しいと言えよう。
「そのまま行くと七十に届くかもしれんな」
 頭を撫でようとしたら避けられた。中空に浮かんだ手が止まる。「ははっ」汀は快活に笑った。
「やめてくださいよ。若の怪力で押さえ込まれたら、せっかくここまで伸びたのに縮んじゃうじゃないですか」
「いくらなんでもそこまでじゃないだろう」
「てゆーか、女の子に軽々しく触るもんじゃないですって」
「お前さんが……」
 女か? 冗談を言いかけた正武の視線は汀の制服を捉えて、喉が閉まる。
 少年と見間違えるほど詰まっていた身体は、首も腕も足も長く伸びて、輪郭は曲線、うっすらとしか焼けていない肌は絹の細やかさ。夏の日差しに照らされた額に小さな汗粒が浮かぶ。果実の表面を露が伝うようだ。
 そうか。
 女か。
 だから俺との間に、距離ができたのか。
 守天正武は眩しいものを見る目で喜屋武汀を見る。
 喜屋武汀は貧しいものを見る目で守天正武を見ている。
 どうして判らない? どうして、『その程度の想像力すら持たない』? そういう目で、正武を見ている。
「……汀」
「なんですか?」
「お前さん、友人はいるか?」
「ま、それなりに」
「男もか?」
「ええまあ」
 そいつらに対しても、そういう目をするのか?
 訊ねたい衝動をぐっと堪えた。中学生相手になにをむきになっているんだ、と自身に呆れる気持ちもあったし、訊ねてしまえば負けのような気がした。
「……友人が多いのは、良いことだな」
「そうですね」
 無表情な声で汀は肯んじて、双眸を三日月にして、やはり、一人であやとりをしているような笑顔になった。
 誘惑するな、と言えたら良かっただろうか。
 そうしたら、彼女はこんなふうに笑わなかったろうか。
「今日は暑いな」
「はい」
 探り探りの会話はそんな当たり障りのない話題しか表に出せず、正武の脳の中央は熱がこもっているのに手が冷たい。
「氷でも食いに行きたいところだ」
「お務め帰りにでも寄ってきたらどうです? 鬼斬りがそろってかき氷食べてるところとか、想像すると面白いけど」
「いかつい男集団が肩を並べてか? そりゃ確かに面白いな。しかもその場合、一番目立つのは間違いなく俺だ」
 日本人ではそうそういないほどの巨躯をそびやかし、そんな恥ずかしい思いをするのはごめんだと苦笑う。
 「お前さんでもいれば、少しは格好がつくが」「あー、あたしこれから稽古なんで」すげなく断られた正武の口元が軽くゆがむ。
 どうやらこの程度では許されないらしい。
 そして正武は、それ以上踏み込むつもりはなかった。
「もうじき、俺はお役目を継ぐことになる」
「そうなんですか? おめでとうございます」
「お前さんも同じ頃に召し上げる予定だ」
 汀の表情にかすかな喜色が浮かんだ。
 「ま、喜屋武さんに相談する必要があるがな」釘をさすつもりで言い重ねたが、あまり効果はなかったようである。彼女の瞳に色づいたものはなくなって、早く己の技量を試したいという期待感だけが浮かび上がる。
 正武は腕を組んで厳めしい顔つきを作ると、なおも言い含めるように告げた。
「現場入りするといっても初めのうちは斥候とか、先行部隊としてだぞ。いきなり前線で闘うわけじゃないからな」
「わかってますって。ちゃんと下っ端の本分は守りますからご安心を」
 妙に不安感をあおる物言いだった。
 
 
 
 正武が鬼切り役を襲名し、汀の制服が変わった。二人は党首と部下になって、戯れの手合わせもしなくなって、けれど親しく口をきく。
 あの日、正武が気付いてしまったから、二人の距離は縮まらなかった。
 汀も正式に鬼斬りとなって、そこそこ成果を上げていた。稽古にも励んでいるようである。
 新しい任務のために呼び出すと、彼女は自然にリラックスした様子で正武の前に坐した。
「概要は今言ったとおりだ。質問は?」
「いえ、特には」
 いくつかの情報と指示を与えればそれで終了、「さがれ」と一言告げれば終わるはずの面会を、けれど正武は気まぐれで延ばす。
「なかなか良い仕事をしているようじゃないか」
「おかげさまで。手を抜くわけにもいきませんしね」
「しかし、学校の方にはあまり行けていないだろう。俺もそのへんは考慮してやりたいが、いかんせん人手不足でな。お前さんにはすまんと思っているんだが、なかなか上手い手が見つからん」
 汀が小さく肩をすくめる。
「守天党だけじゃなく、鬼切り部はたいていそんな感じでしょう? 別に若が気にするようなことでもないと思いますけど」
「ふむ」
 顎を撫でつつ思案顔をする。正武自身、高校を卒業できたのが奇跡と言われるくらいだったから、下の者にはもう少し楽をさせてやりたいのだが、どうにもうまくいかない。
「ちょっとした休暇でも取らせてやれたらいいんだがな。お前さんだって友人と遊びに出たりはしたいだろう?」
「や、集団行動とか苦手ですんで。特に困ってはいませんよ」
「……それも、ちょいと問題だな」
 出会ってからずっと、彼女は独りだ。そういうポジションを望んで、そういう言動を取って、望んだ場所にいる。
 誰か見つかればいいと思う。
 多い方が良いけれど、一人だけでも良い、彼女が執着するような誰かと出会ってくれたら。
 そうすれば。
 あの視線から逃げずに済む。
「そういえばお前さん、新しい技を開発中だそうだな」
「うわ、誰に聞いたんですか? 若には内緒にしておきたかったのに」
「この前ちょっと世間話でな。別に俺に隠す必要なんぞないだろう。なんだったら見てやってもいいが」
「駄目ですよ。完成してから若に仕掛けてやるつもりなんですから」
 悪戯を目論む子どものような目で笑い、汀が首を振る。「なんだ、いつかの意趣返しか?」冗談のつもりで尋ねたら頷かれた。投げ飛ばしたのはもう何年も前の話だというのに、執念深いことだ。
「一度でいいから若を倒してみたいんですよ」
「お前さんもずいぶん強くなったが、俺を負かすほどじゃないな。第一、鬼切り役が新人に倒されちゃ示しがつかん」
 不遜な物言いに苦笑しながら応じると、彼女はふいに視線を変えた。正武は内心で動揺する。それは今この場でするべき目ではなかった。けれど、今この場でなければすることのできない目でもあった。「それでも、若を倒せたら気持ちいいだろうなと思うんですよね」色めいた視線のまま、彼女は言った。
 正武の胸中が痛む。
 ああ、頼むから、気づかせてくれるな。
 目をそらし、息をつく。
「まだ、無理だな」
 悲劇的な気分になりながら、喜劇的な台詞を吐く。まだ選ぶなと忠告する。まだ俺を選ぶな。
 汀はくつ、と一度だけ喉を鳴らして目を閉じた。呪縛が解ける。正武は気まぐれを起こしたことを後悔する。
 韜晦に満ちた視線は消えて、後には猫の眼だけがそこにあった。闇夜で光る狩猟者ではなく、日なたでくつろぐ穏やかな眼。
 霧の中を抜け出せた正武がほっと息を吐いた。
 情けないことだが、年々彼女のしてやられるケースが増えている。こういった判りやすい罠だけでなく、日常の、ちょっとした仕草ひとつにさえ見えない糸が仕掛けられていて、油断すると足をすくわれそうになった。正武でなければとっくに仕留められていただろう。足止められる程度で済んでいるのは正武が余人より慎重だっただけにすぎない。つまり自制心が驚異的なまでに強かった、ということだけれど。
 二人とも気付いているのに、二人は通じているのに、それでも選ばせるわけにはいかなかったのだ。
「引きとめてすまなかったな。もう下がっていい」
「はっ」
 汀が辞してから、正武は目をつぶって顔を天井に向けた。そこに正解がないことは判っているから瞼は上げない。
 
――――『倒してやりたい』、か。
 
 思わず小さな笑みが浮かぶ。
 汀らしい告白だった。他人に興味を持てず、他人と関わりを結ぶことなく、他人とぶつかることがなかった彼女の、唯一の執着心の発露がそれだ。
 そういう相手がいつか見つかるといい。打ち負かして、打ち負かされて、身の内を任せて、身の内を打ち明かされる誰かが汀の前に現れたらいい。
 そうしたら彼女はきっとその誰かを慈しめるようになる。
 ぶつかるしかない自分とは違う。
 圧倒的に『汀より強い』自分では出来ない所業を、果たしてくれるに違いない。
 
 
 
 守天党全体を揺るがす大事件が収束して、けが人が多数出たものの事態は終結を見た。
 とはいえ、鬼切り部としての機能を取り戻すには遠く、正武は雑務に追われながらもある程度余裕のある日々を過ごしていた。鬼切り頭に詫びを入れに行かなければならないことが目下の頭痛の種である。
 そんな折、汀が療養もそこそこに竹刀を振り始めたという話を聞いてはてと首をひねった。剣道などルールと防具に守られたお遊びだという意識の持ち主だったと思うが、どういう心境の変化があったものだろう。
 丁度鬼切り部の先輩に手ほどきを受けると言うので、気分転換がてら見物に赴く。
 道場では確かに、剣道着と防具に身を包んだ汀が佇んでいた。練習相手を待っているようである。
「あれ、若?」
「お前さんが珍しいことを始めたと聞いたんで、ちょっと見物にな」
 汀が少し複雑そうな表情をした。
「どういうつもりだ? 今さら剣道など覚えたところで、鬼切りの役に立つわけでもないだろう」
「いや……ちょっと、向こうの土俵に上がってやろうかなと思って……」
 歯切れ悪く答える言葉は、正武には漠然としすぎていてよく判らなかった。
 汀の隣に腰を下ろしてその顔を覗き込む。彼女は大事な物の隠し場所を見つけられたみたいな不機嫌さをおもてに出した。
「卯良島で、あたしと一緒にいたのが剣道部の部長で、来年の大会に出るらしくて……」
「ああ、小山内さんといったか? お前さんと同い年だったな。とすると、次の大会が最後か」
「ま、そういうことで……。生意気だし、こっちの任務の邪魔ばっかされたから、仕返ししてやろうかと思って」
 もごもごと言い募るその意味を解釈する。
 正武の両目が見開かれた。
「は……はは! そうか、そのために剣道を始めたのか」
「な、なんですか若。そんなにおかしいんですか」
「いいや」
 晴れやかに首を振って、汀の髪をぐしぐしと撫でる。気安く触るなと過去に言った彼女は、驚きながらも正武の手を拒まなかった。
 汀の頭を撫でたまま双眸を細める。汀は手の下で面白くなさそうな顔をして、髪が乱れるのを嫌がるようなそぶりを見せて、そのくせされるがままになっている。
 女だな。手から離れたボールが落ちるのと同じ意味で正武が納得する。
 良い女だ。
「小山内さんは強いのか?」
「まあ、全国でもいいとこ行くんじゃないですか? 鳴海夏夜ほどじゃないですけど、良い筋してると思いますよ」
「そうか。ならお前さんも頑張らんといかんな」
「ルールさえ覚えたら大丈夫ですよ。むしろ向こうが決勝まで来られるかどうかが心配ですね」
 過剰にも見える自信は翻って、是が非でも彼女と剣を交えたいという願望を表わす。
 そんなふうに『どうしても倒してやりたい』と思える相手が汀にできたことが、正武はたまらなく嬉しい。
 あやとりは一人でも出来るけれど、剣道の試合は一人ではできないのだ。
「それにしても、花とか茶とかだったら、お前さんも少しはしとやかになったかもしれんのに、剣道か。どこまでも勇ましいな」
「文句はオサに言って下さいよ。てゆーか若、そういうのの方が好みですか?」
「いや」
 床に手をついて口端を上げる。
「その方が嫁の貰い手も増えるんじゃないかと思っただけだ」
「若に心配されるいわれはありませんよ」
 
 ずっと選ばせなかった負い目が消える。
 少年のようだった子どもは良い女になって、今、己の隣にいる。
 色づいた視線は色褪せないが他の色も混じって七色に煌めいている。単色の危うさはもうない。
 
 とうとう言える。
 
「ああ。他が駄目でも俺がもらってやれることだしな」
 正武の言葉に、汀が軽く眉をひそめて、それから笑った。
「若と? 御冗談を」
 そう言うと思っていた。 



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